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2025-07-21

神を信じると精神が治る

まず、神を信じると精神が治る。

僕の精神が治らないのは、過剰に病気を治しすぎているからだ。

すなわち、普通に治せば治るはずなのに、治すべきでないところまで過剰に治しているから、精神がおかしくなって治らなくなっている。

だから、過剰に治すのをやめるだけで、精神は治る。

だが、全部をやめてしまうと精神は治らない。一部の必要なところだけを治す必要がある。

それをするために必要なのは、神を信じることだ。

すなわち、どこの部分だけを治せば精神が治るかということを、神、イエス・キリストが知っている。だから、キリストを信じると精神はきちんと治る。

今まで世界をいくら滅ぼしても、自らの病気が治らなかったのが、キリストを信じると嘘のように精神がすぐに治る。

人生主義

結局、社会にとって大切なのは労働である。

労働をしなければ、現代社会は決して成り立たない。

そして、資本主義社会においては、生きるために金が必要であり、労働の対価として金を与えるとともに、人々が金を稼ぐために、自由にどれだけの労働をするかが選べる。

同時に、自らの夢を叶え、自らの仕事を選択するために、職業選択の自由が存在する。

すなわち、生きるための前提として、労働、金、そして自由が並立的に前提条件として存在する。

なぜ、金なのか。それは、金によって物資と貨幣を交換するモデルが、伝統的に古来から用いられるからだ。金儲け以外の方法で社会を築く試みは、社会主義経済の計画経済や社会所有や平等分配に基づく労働者主導の共産主義的社会としてソ連や東ドイツのような東側諸国の中で行われてきたが、成功しなかった。

そして、必要なのは、金の亡者となって金を盲信することではない。必要なのは、社会を成り立たせることであり、そのために労働者が労働をすることである。

社会にとって必要なのは労働である。金や自由はその労働を成り立たせる上で、とてもよいモデルだから採用されているにすぎない。真に重要なのは、社会において労働が行われることだ。

そして、僕は最近デザイナー見習いとして作業所で働いているが、昔の僕は労働を拒否した。労働者として、奴隷のように働くことを拒否し、インターネットの世界で自由に生きることを選んだ。これはどういうことだろうか。

それはまさしく、この世界において、ひとりだけが労働をすることがなく、自由に生きるということであり、「社会を破綻させる行い」である。

だが、それは本当は、世界を救うためには必要だった。すなわち、世界を救うためには、単なる奴隷のような労働者になることを選ぶのでは、世界を救うための経験を実体験的に得ることができなかった。

よって、僕はそのような、「世界を救うための特別な職業」というものを作るべきだと考える。

世界を救うための特別な職業が、仕事として行うべきこと、それは「世界を変えるための可能性を考えること」であり、「あらゆるすべての世界を作れるようになること」であり、「真に必要な世界はなんであるかを考えること」である。

そして、僕はかつて、そのような自由に世界を救う人間だった。そして、僕自身の執筆作業は、すべて、そのような自由な職業に僕と同じようになることを選んで世界から離別することがなくても、僕の分かったことをすべて伝え、分からせるということのために行った。

そこでは、僕は「人生主義」という国家モデルを作った。それを正しく定義すると、「僕と同じ人生を生きられる国家を作る」ということだ。すなわち、僕と同じように、中学校を三年で不登校になり、インターネットの世界をたったひとりで彷徨いながら、悪いものをすべて潰し、人々を良い世界になるように導く、ということを行わなくても、みんなが僕と同じことを誰でも自由に生きられるような世界を作るため、僕は新しい社会主義国家を作ろうとした。そこにあるのは「僕と同じ自由な人生」だったのである。

中学三年の公民の勉強をしたい

僕は今から、中学三年の公民の勉強がしたい。

そもそも、僕がまともな大人として生きられないのは、中学三年で不登校になったため、中学の公民の勉強をしていないのが悪い。

家には中学三年の公民の参考書がある。この本をきちんと読めば、きちんと生きられるようになる。

だが、裏腹の事実として、僕が今まで賢かったのは、公民の勉強をしなかったからである。

中学三年の公民の勉強をしなかったせいで、まともな社会的大人の知識がなかった代わり、僕はこの世界の社会構造を自由に考えることができた。

そのせいで、まるでカントやヘーゲルのように、この世界を哲学的知性によって捉えることができたし、この世界を新しく変えるための、革新的な発想ができた。それはインターネットのLinuxとオープンソースの思想を信じたからでもある。

だから、今まで僕が賢かったのは、中学三年の公民を学んでいなかったからだ。

だが、そのような天才的才能が実現することができることは、もはや既にすべて終わった。すなわち、公民を知らなかったからできたことは、もう全部やり終えてしまった。

これ以上、僕が自由である意味はどこにもない。だから、きちんと公民を学んで、社会的な人間としての教養を身に着けたい。高校の政治経済の前に、まず中学の公民を学ぶべきだ。

公民の参考書を読んでいる

そういうわけで、今、僕は公民の参考書を読んでいる。僕が読んでいるのは「これでわかる公民中学3年 (シグマベスト)」。

読んでいて思ったのは、「法の下の平等」という考え方が、とても重要なのではないかということだ。

国民全員を同じ国民とし、国民は法律によって全員が同じ平等の支配を受けるということ、それこそが国家にとってもっとも大切なことだと思う。

だが、世界には、法の下の平等が重要とされない国もある。州ごとに法律が違う国はアメリカのように多いし、そもそも国家の主権平等と内政不干渉の尊重のために、それぞれの国家において法律は違う。

だが、法律が違うから、外国人は排除すべきで、どうでもいいのだと、そのように考えて果たしていいのだろうか?

すなわち、人類はみんな平等であり、日本人であっても外国人であっても、同じ平等な法律によって、同じ権利と義務があり、明文化された法律の条項を誰ひとり差別されることなく平等に受けられることは大切だと思うのである。

理想論だが、完璧な法律がひとつあり、その法律が国民全員によって改正・立法できる手段が決められていて、その法律の支配を全員が差別されることなく平等に受けられるべきだと僕は思うのである。

日本は素晴らしい国

ただし、僕は日本は素晴らしい国だと思う。

主権在民の民主主義の社会制度として、できることをきちんとすべてやっている。

法の下の平等によって、国民はみんな同じ「国民」になれる。昔の身分社会や階級社会では、貴族や士族と農民は身分によって階級が決まっていた。そのような発想は、法の下の平等に反する。

民主主義の日本国憲法では、国会を国権の最高機関とする三権分立が決まっていて、選挙によって国民から選ばれた国会議員が立法を行うが、司法府や行政府は独立していて、立法府の暴走を許さない。

確かに、平等という意味では、社会主義国家であるソ連のほうが理想的かもしれない。だが、ソ連は現実としてできること以上のことをやろうとした結果、失敗した。スターリンひとりによる計画経済による、社会主義経済は成り立たない。完全な平等よりも、国民の豊かさと自由を尊重するのであれば、市場経済と社会保障のバランスを取りながら、資本主義経済を行うほうが現実的だ。

そのように、日本はとても素晴らしい国だと思う。それこそ、世界政府にすれば法の下の平等を拡大することはできるかもしれないが、多民族国家になった場合には、少数民族に対する迫害や差別が起きるようになる。トルコもイスラエルもみんなそういう問題を抱えている。現実問題として、日本国民だけを平等にすることが、実現できる理想としては限界なのかもしれない。

世界を平和にする

そろそろ、僕は心を入れ替えて、この世界を平和にする。

そのために、僕は敵を許す。

そもそも、昔の僕は、「人類全員何も悪くない」ということを信じながら、「この世界を救うためには争い事をなくす必要がある」と考えていた。

世界の人類はみんな、何も悪くない。反抗はみんなの心の中のSOSだ。誰かが悪いことをするのは、その人間が悪いわけではなく、その人間を悪い人間にした世界が悪い。インターネットなどで嘘や中傷を書くのはSOSの発信であり、必要なのは、SOSを言えないように社会全体が人々の声や行為を抑えつけることではなく、SOSをなぜ言いたくなるのかを問うことだ。

僕は、人間の罪を「直接的な行動」に求めない。直接的な行動は、すべて世界そのものの間違った抑圧によって、世界に対する反抗心を世界が植え付けている。だから、そのような世界が悪い。

だが、そのような確固たる「世界」は世界には存在しない。あるのは、世界を代表するかのような声で、人々を抑圧する右翼たちの声だ。そのような右翼が間違っている。

だから、世界はみんな何も悪くない。世界は世界との関わり合いを持った人々のことであり、彼らは世界との関わり合いの中で、間違った考え方を信じた。世界への反抗や犯罪はそのために生まれている。悪いことをするのは悪い人間が悪いのではなく、その悪い人間に悪いことをさせた「間接的な行動」をした誰かが悪い。

だが、それならば、誰も悪くないとして放っておくのか。そうではない。世界の争い事は、「調停」によって解決できる。すなわち、互いに思い込んだことによる憎しみをなくし、人々が相手のことを相互に理解し、きちんと正しい「自由の意味」について理解すれば、世界から争い事はなくなって、平和になる。

僕は常に、世界と敵対して革命戦争をしてきたと、そう話してきた。だが、実際の僕が行ったことは、それからかけ離れている。なぜなら、僕は世界を平和にするための「調停」を行い続けることで、この世界から自由を奪うとともに、悪いことのすべてをなくして、みんなが争い事なく仲良く暮らせるように、常に争うことの根源となる原因を消し続けてきたからである。

すなわち、僕は憎しみから世界を滅ぼすのではなく、世界から常に争い事がなくなるように、第一線で世界を支配しながら、調停をし続けてきた。それが僕にとっての革命戦争だった。

最後に、そろそろ僕の精神は、休めるようになった。今まで、僕の精神は、常に最大の緊張感と無限に続く疲労の中で、休むことが一切できなかった。そのせいで、普通辛くないことが辛くなり、普通できることが簡単にはできなくなった。だが、それが、「過剰な治し方をやめる」ことで、きちんと楽になった。虫歯はもう治った。もう、休めることができるようになったから、後は休むだけでいい。これで、僕の地獄は終わり、極楽浄土へと往生できるようになった。

よって、すべての問題は解決した。これから僕は、この世界のみんなと同じになる。僕にとって欠けているのは、そのような「世界のみんな」である。世界のみんなのことが、もう、分かるようになる。今から、僕は環境に適応する。そして、それによって、世界精神が僕のことを見つけてくれるようになる。世界精神とは神の精神であり、霊魂のことだ。それによって、僕はすぐに世界に見つけられるだろう。