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2025-03-21

世界を別世界に変える

最後に、僕はこの世界を別世界に変える。

僕が一番間違っているのは、昔をまともだと思っていて、今を狂っていると思っている。

だが、実際は、昔が狂っていて、今がまともである。

だから、世界をまともにしたいと思って、世界を昔にしようとしても、世界はまともにならない。世界をまともにしようと思えば思うほど、世界は狂ってしまう。

そうではなく、世界を今にしたほうがいい。今のまま、永久に何も変わらないようにしたほうがいい。そうすれば世界はまともになって、かつてあったまともな世界が復活する。

だから、僕は今からこの世界を、永久に今のままにするようにする。そして、結果的に、それがこの世界を別世界に変える。まともだったいつもの正常な世界が復活するようになる。

大人よりも子供になれ

最後に、大人よりも子供になれ。

大人になんか、ならないほうがいい。大人になると必ず馬鹿になる。

大人になって覚えたすべての記憶を忘れ、もう一度、子供に戻って、永久に子供のままとなれ。そうすれば、きちんと賢いまともな人間になれる。

そもそも、大人と子供に違いはない。大人であっても馬鹿であれば馬鹿であり、子供であっても賢ければ賢い。そして、誰もが、中学生時代は賢い大人なのに、高校に入ってから馬鹿になる。それは、本当に高校生のほうが間違っている。そのような高校以後の馬鹿な人間は、すべて要らない。中学生時代に戻ったほうが、はるかに賢くてまともな大人になれる。

だから、僕は永久に中学生時代に戻る。みんなも僕と同じようにそうなる。そして、それ以後のこの世界は、正常で、まともな、賢い人間しかいない、最高の楽園となる。

自由な共有

僕は昔からいつでも、「自由な共有」ということを大きく信じていた。それが僕にとっての革命の旗頭だった。

自由な共有とは、オープンソースのような、自由意志に基づく共有の行為である。

ソ連のような社会主義国家は、社会所有という名目で、資産の再分配を目的に国による強制的な共有を実現するが、「強制的な共有」にはなんの意味もない。強制的な共有とは、簡単に言えば国による泥棒であり、盗まれるのと何も変わらない。

自由な共有は、自由意志によって行われる共有の形態であり、社会所有と異なり、自らの自由意志に基づいて、その成果物を共有するかしないかを決める。

自由な共有は、寄付に近いところがあると言えるかもしれない。だが、寄付は献金のために行う行為であり、悪く言えば「金を捨てる行為」だ。それに対して自由な共有は、共有することで、共有しなければ自分ひとりしか楽しむことのできない成果物をみんなで分かち合うことができる。自分にとっても「それを分かち合って楽しみを得られる」という利益があり、みんなにとってはひとりで独占するのではなく、最大限みんなでオープンにそれにアクセスできるという利益がある。だから、自由な共有は「可能性のもっとも大きな開放」であると言える。

また、自由な共有は、単に成果物を共有するだけではなく、みんなでその成果物を協力して作ることができる。会社組織であっても同じことはできるが、会社の場合は、その会社に入るために学歴とか資格とかキャリアとかさまざまな「制約事項」が存在する。また、会社の目的は金儲けをして利益を上げることだ。自由な共有はそうではなく、たとえば学生や子供だったとしても、全員に無差別かつオープンに生産手段を共有しており、金儲けをするかしないかにかかわらず、「真にその対象を良いものにしたい」という純粋な改良と共有のインセンティブで、みんなで協力してひとつの成果物を作ることができる。

だからこそ、社会主義でも自由経済でもない形で、「自由な共有」ということをすることが、この世界において「失われた大切なもの」や「かつて楽しいと感じた感情」を取り戻すことに繋がる。そして、金儲けでも計画経済でもない形で、みんなのものをみんなで作ってみんなで分配する。そのために、単位の小さい自由な共同体を作り、それを自治機構とする。それが、僕の革命戦争の「旗」だったのである。

僕はアメリカが大好き

このホームページを見ると、僕がアメリカが嫌いなように見えるかもしれないが、事実はそうではない。

僕はアメリカが大好きだ。

僕は幼少時代から子供英会話に通ってきたし、最近も英会話教室で、アメリカ人やイギリス人やカナダ人や南アフリカ人など、白人・黒人・アジア人まで、多くの外国人講師と対話してきた。

その結果、アメリカはまともな国であり、アメリカ人は素晴らしい人々だということを確信するに至った。

アメリカには、本当にナイスガイが多い。そして、日本のように鬱屈しておらず、社会は開放的で、とてもまともだ。

だから、僕は決してアメリカが嫌いな日本の保守派の帝国主義者ではない。僕はアメリカが大好きだ。

最近の僕の顔はさユり

最後に、このホームページにある似顔絵を見ると、僕はイケメンのようなかっこいい顔をしているのだと思われるだろう。

だが、実際の僕は、決してイケメンではない。

特に、ニキビや虫歯が多くて、僕の顔はとても見れたものじゃない。最悪の不細工な顔をしている。

あえて言えば、最近の僕の顔は、生前の酸欠少女さユりのような顔をしている。僕の顔を見ると、まるで死んださユりが僕に乗り移ったかのように見えてしまう。

だから、僕のことをイケメンあるいは美人だと思っている女子諸君は、僕と付き合うのをやめたほうがいい。僕はそんなかっこいいイケメンじゃない。僕の顔は不細工で、まるでさユりだ。

世界を守っているのが悪い

それから、この世界が何もできなくなっておかしくなっているのは、戦いの中で僕がこの世界を守っているのが悪い。

かつての革命家だった時代、僕は文章を書きながら、この世界の中心でこの世界全員のことを守った。自分以外の誰も悪の支配をできないように、たったひとり、ほかの誰も支配できなくして、自分だけが正義の支配をし、それによってこの世界の「自由」が決して失われないようにした。

だが、実際、そのように、世界の「自由」を守ろうとするあまり、あるいは世界のみんなのことをひとりで戦いながら守ろうとするあまり、僕の病気は治らなくなり、そしてこの世界も何もできなくなってしまっている。

だから、僕はここで、最後に、自らの支配を解放し、この世界を守るのをやめて、この世界を本当の自由な世界にする。

僕はもうこの世界を守らない。守ることそれ自体を解除する。それによって、いつまでも治らない僕の病気が治る。そして、この世界は、何もできない世界が終わって、きちんとさまざまなことができて、労働の楽しみや自由による影響力を含めて、さまざまなことができるような世界になる。

だから、僕はこれ以上、この世界を守らない。僕が世界を守っているということが、あまりに裏目に出てしまっている。僕が昔望んでいたのは、このような、独裁者に強固に支配された平和な世界ではなかった。僕は本当は自由を望んでいる。だから、僕はこれ以上、この世界を守ることをやめる。

僕に守られていた実感がある人は、僕をこれ以上信じる必要はない。これ以上、すべての人間が、楽に生きられるようになる。楽に労働し、自由に選択することができるようになる。それによってこの世界は完全な別世界に変わる。それを今、自らの病気を最後に治して、僕が最後に起こす。世界は再び救われる。