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2024-01-17

キリストの言う通り

キリストの言う通りだ。

聖書において、イエス・キリストは、「良い人間は良い倉から良いものを出すが、悪い人間は悪い倉から悪いものを出す」と言っている。

まさに、その通りだ。悪い倉から悪いものを出すことをやめ、良い倉から良いものを出すだけで、悪い人間から良い人間になれる。

イエス・キリストは、「なぜ、わたしのことを『主よ』と呼びながら、わたしの言っていることを行わないのか」とか、「わたしの言葉を行うものはしっかりとした基礎の上に建てられた家であり、聞くだけで行わないものはしっかりとしていない基礎の上に建てられた家である」と言っている。

まさに、その通りだ。神を信じるだけではなく、神の教えを実行しなければならない。

イエス・キリストは、「裁くな」と言っている。それは裁くものは裁かれるからだ。裁くものは必ず裁かれる。裁かないものは裁かれることがない。同じように、神は「罪を赦せ」と言っている。罪を赦すものは罪を赦される。罪を赦さないものは罪を赦されない。

イエス・キリストは、他人の目からちりを取ろうとする前に、自分の目から梁を取ろうとせよと言う。盲人には盲人の手引きはできない。自分の目にある梁に気付くことなく、他人の目にあるちりを取り除くことはできない。

そして、見返りを求めることなく与えよ。自分を憎み、呪うもののために祈れ。自分に対して良いことをしないもののために良いことをせよ。望むものには見返りを求めずにすべて与え、奪い取るものから奪え返そうとするな。

飢えているもの、貧しいもの、憎まれるものは幸いだ。天の御国は彼らのためにある。食べ飽きているもの、富めるもの、褒め称えられているものは災いだ。なぜなら、食べ飽きているものは、必ずいつか飢えるようになるからだ。

僕の精神は治った

そろそろ、僕の精神は、完全に最後まで治った。

余計なことだと思っていることであっても、それをしないことが最善だとは限らない。余計なことのように見えることであっても、精神を治すためには必要だから維持されている。

単純に成功し、そして単純に失敗するようであれ。絶対に失敗することがないように、あの手この手で工作しているからこそその企みは失敗する。成功と失敗を単純にし、さまざまな方法ですぐに失敗することをやれ。その中のひとつに必ず成功する方法がある。

そして、精神を治すという行為が、たとえば子供が自転車に乗れるようになる練習や、鉄棒で逆上がりをできるようになる練習のように、少しの間頑張り続ければ、いつか必ずできるようになることであると信じよ。それだけで、「何も考えず繰り返し練習するだけで精神は治る」という真理を得ることができる。

このような結果、僕の精神は完全に治った。

芸術と生物学をせよ

芸術と生物学をせよ。

僕の今やっている、デザインとピアノと英会話の勉強は間違っていない。

まず、パソコンの勉強をやめよ。なぜなら、僕はすべて、パソコンの勉強のしすぎで馬鹿になっている。パソコン以外の、体や手や足を動かしてできることをやれば、僕の頭が馬鹿になっているのは治る。

そして、大学の勉強はもう終わるべきだ。なぜなら、大学の勉強をすると「普通の人間」になる。そして、そのような普通の人間こそ、真に間違っている。人間は、「普通でなくなる経験」をしなければ賢くならない。この世界に存在する、普通の人間はすべて馬鹿であり、大学の勉強をしても普通の人間にしかならない。

そして、まともな人間などは馬鹿である。なぜなら、まともな人間とは昔の僕と同じように何も分からない人間だからだ。何も分からない、ただ日々を無意味に無駄に生きている人間をまともな人間という。そのような人間になるな。そのような人間はまともに賢く色んなことが分かるが、僕の場合、そのようなことは過去の14~18歳の頃に誰よりもすべて完璧に分かっている。まともな人間は、確かにまともにこの世界で大人のように生きることができるが、馬鹿だ。逆に言えば、この世界で大人のようにまともに生きられる人間は、すべて馬鹿だ。

最後に、僕は生物学を勉強する。その理由は、この世界のすべての学問的な常識をすべて知って言えることは、「生物学を勉強すべき」という真理だからだ。この世界に存在する、神羅万象のありとあらゆる学問の基礎をすべて知った人間は、生物学こそが真に正しい学問であると分かっている。生物学を勉強すれば、生物や人間の絵を描くこともできるし、食べ物や道具のほとんどが生物でできていることも分かるし、精神あるいは肉体の病気も治り、強靭な肉体を手に入れる方法も分かる。大人として生きるための方法はすべて生物学の中にある。僕にとってもっとも相応しい学問は生物学であり、法律学でも歴史学でもなければ、数学でも物理学でも情報工学でもない。

そのような理由で、僕が芸術、すなわちデザインとピアノをやっていることは間違いではない。芸術こそ、大人が学ぶべき分野であり、その中でもデザインとピアノをやっていることは極めて正しい。だが、言えることは、パソコンのデザインではなく、紙やキャンバスに絵を描くべきであるということ、そして、ピアノだけではなくさまざまな楽器を習得して、作曲や作詞を行うべきであるということだ。それをすれば、この人間の人生はさらに素晴らしく、さらに正しいものになる。

本当のことを言えば、大人のようにまともに生きられるようになりたいのであれば、何も分からなくなればいい。なぜなら、何も分からない人間がまともな人間であり、そのような人間が大人のようにまともに生きられるからだ。また、大人になって馬鹿になったからといって、子供に戻ろうとするな。なぜなら、本当に大人よりも子供のほうが馬鹿だからだ。認知症の老人よりも一般的な普通の子供は馬鹿だ。親になって子供を見れば分かる。この世界で一番馬鹿な種族は子供だ。そのような「子供になりたい」と望むものは、認知症の老人よりも馬鹿になる。

壁を乗り越える体験ができた

最近の僕がよかったのは、壁を乗り越える体験ができたということ。

正直言って、最近の僕は、朝起きれずに作業所を休んでしまうなど、デザインの仕事を続ける上で「葛藤」を経験していた。

すなわち、僕の今やっていることは間違っているのではないかということ、あるいは、既にこれくらいの経験でデザインの仕事でやりたいことはすべてできたから、これ以上続けたくない、ほかの自分にもっとできることがしたいということを、僕は最近感じてきた。そのためにデザインの作業所を休むことが多かった。

しばらく、そのような「デザインをやめたい」という葛藤を、数か月に渡って僕は感じ続けた。

だが、僕はその中でも、何日か休みながら底力の精神力を使って作業所に行き、デザインの仕事を諦めずに続けたことで、最近、そのような考え方を改めた。

なぜなら、デザインの仕事は「普通ではなくなる」ということを信じればできるということが分かったからだ。

すなわち、僕は「デザインをしたくない」という壁を乗り越えることで、「普通でなくなればデザインはできる」ということが分かった。

そして、僕にとって人生で真に必要な体験とは、そのような「壁を乗り越える」という体験だった。

中学時代に不登校になった時も、世界を救いながら自ら滅ぼした時も、すべての僕の間違いが、「壁を乗り越える経験をしたことがない」ということのせいだったと、今になって分かった。

だから、今、僕が「壁を乗り越える」という体験ができたことで、僕の人生はもう完成した。今までできなかったことが、すべてできるようになった。

まさに、これこそが「人生」であり、「正しい大人」というものだと分かった。だから、僕はもう、神の言葉すら必要ではなくなった。もう、執筆をやめることもできる。だが、逆に、死ぬまで永遠に執筆し続けることもできる。すべては神の与えた試練であり、その試練は「壁を乗り越える体験をするため」という意味があるものだった。

そして、僕はこれからきちんとしたデザイナーになる。デザイナーになるためのすべての経験の準備は既にできた。それを上手く使って、活用して、加工するだけで、もうデザインがきちんとできる。デザイナーになるために必要なことを、僕は既にすべて知っている。あとはその知っていることを、ただ実行に移すだけでいい。

Xより

THE BINARYの新曲「消えない」の、「君はそのままでいいよ」という言葉に勇気をもらいました。僕は今のままでいいんだと思えました。感謝いたします。 #BNRY
posted at 21:32:41

@BNRY_official 新曲の「消えない」大好きです!「右手に正しさを、左手に優しさを」「君の笑顔が嬉しくて嬉しくて嬉しくて消えない」など、本当に素晴らしい言葉だと思います。何十回も聴きます! #BNRY
posted at 21:05:53