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2024-04-10

僕が賢いのは小学生時代のせい

僕がみんなよりも賢く見えるのは、小学生時代のせいである。

小学生の頃、僕は英会話、ピアノ、書道という3つの習い事をしていた。幼い頃から漫画やゲームをしながら、ミニ四駆を作ることが好きで、ゲームやミニ四駆を使って友達もたくさん作って、小学校高学年になると体力を活かして駅伝の大会に出たり、ズッコケ三人組という児童小説のシリーズを制覇したりした。

そのように、僕は小学生の時代に、既に大人と同じぐらい賢かった。普通の子供ではない、豊富な経験を持っていた。

だから、中学生時代はつまらなかった。クラスメイトがみんな馬鹿だったのは、僕と同じようにたくさんの習い事や経験をしていないからだ。まだ、中学校の勉強はつまらなかった。優等生ではあったものの、中学校のカリキュラムははっきり言ってクソのような科目だったし、僕はその中で成績表がオールAを取っていたが、そのために僕が陰で行っていた努力はクソのような努力だった。

僕は中学生時代が大嫌いだ。だが、嫌いなのはあくまで中学校の環境であり、中学生の自分自身ではない。自分自身は賢い中学生だったからだ。

中学校の科目の何がクソであると言えるのか、それは「無意味」だからだ。中学校で勉強する科目は、自らの人生に対して直結しない。学んでも学ばなくてもいいどうでもいい内容だから、子供は学んでもすぐに忘れてしまう。

本来の学問とはそのようなものではない。本来の学問は、人間が生きる上で必ず知っておくべき「教養」である。だから、僕は中学校のクソのような科目を否定し、このホームページの世界観の内容として、そのような学校の科目を作り直す。すべて、僕が教えるべきだと考えて作り直した科目を、このホームページで僕は教えている。

自由を制限することを自由と呼ぶ理由

僕が、「自由を制限する」ということを自由であると呼ぶ理由は、本当は単なる勘違いではない。

なぜなら、自由を制限するためのルールを決めるための主たる権利が、国民にあるからである。

たとえば、スターリンのように、たったひとりの独裁者が法律を決めるならば、それは自由ではないと言えるだろう。

だが、国民が、どのような自由を許し、どのような自由を禁止するか、ということを決められるような、「ルールを決める権利」を持つならば、それは自由である。

そして、僕はこのことを、学校の子供たちにも適用するべきであると考える。

すなわち、学校の子供たちは、ただ大人たちに学校に通わされて、自由を奪われるのではなく、子供たち自身の手で、ルールを決められるような「自由な権利」を得るべきである。

子供たちを馬鹿扱いせず、子供たちに自由を与えなければ、いじめ問題は解決しない。

いじめが起きる理由

なぜ、子供たちに自由を与えるべきなのか、それは自由がない学校の特殊な環境が「いじめ」を生み出しているからである。

子供たちは未熟だから、大人たちは子供たちに自由を与えようとしない。教師という指導者の指導の下に、従順に従わなければならないように管理される。

そのように、「教師に従順に従う」ということが、子供たちを「特殊な環境」に置いている。

そして、この「特殊な環境」こそが、いじめが生まれる原因である。

この特殊な環境は、子供たちに当事者の意志で自由にルールを決められるような「自由」を与えれば解決する。にもかかわらず、大人たちの勝手なエゴと、「子供は馬鹿である」という思い込みによって、子供たちは自由を奪われている。

自由を奪われた子供は、自由を取り戻すために振り上げた拳を、どこにも向けることができなくなっている。日本社会という「外」にも、教師や学校という「上」にも、振り上げた拳を向けられず、それでもなお子供たちは自由を奪われ続けている。そのために、子供たちの攻撃対象は、子供たち自身という「内」へと向かってしまう。それも、スクールカーストで自分よりも悲惨な階級に置かれた子供たちという「下」に向かってしまうのである。

必要なのは、子供たちに「自らの力で社会のルールを決める自由」を与えることである。それによって、学校の「自由を制限された特殊な環境」はすべて当事者自身の手で解決する。

そもそも、子供たちが攻撃を行うのは、「攻撃するしかできることがないから」である。だから、子供たちに「自分たちの力で学校環境を改善させることのできる手段とチャンス」を与えれば、子供たちは社会に攻撃することなく、子供たちの行為はその手段とチャンスを使って自らの環境を改善する方向に向かう。現状の子供たちのように、すべての自由を奪えば、すべてのできることができなくなる。結果的に、いじめしかできないから子供はいじめを行うのである。

子供たちに経験を与えるべき

だが、子供たちに自由を与えたところで、すぐに子供たちは正しい社会秩序を形成することはできない。

僕は以前から、子供たちに「経験を与えるべき」であると考えていた。

すなわち、子供たちに、正しい社会秩序を築くことができるような、「大人に成長する体験」こそ、大人は子供たちに教えるべきである。

学校の科学や歴史の教科などは、大して教えるべき内容ではない。真に教えるべき内容とは、「大人に成長する経験」である。

そして、そのために、僕は子供たちから、インターネットを取り上げるべきであると考える。

なぜなら、子供たちから「現実世界の大人になれる体験」を奪っているのは、インターネットだからだ。

インターネットは、子供たちに「バーチャルな世界の体験」を与えるが、その代わり、「現実世界の体験」を奪う。

それによって、子供たちは、さらに未熟になり、未熟な状態から何も変わらなくなってしまう。

子供たちから正常な大人になれる体験を奪ったのは、すべてインターネットであり、その元凶であると言えるのはWindowsパソコンである。

必要なのは、子供たちが「自らのアイデンティティを形成できるような経験」を与えることであり、そのためには自由に社会経験を学ぶことができ、「世界とは本当はどのような世界なのかを知れるような場所」を与えることである。

そして、この日本社会そのものが、子供たちがそのようなアイデンティティを形成することのできるような社会になっていくべきである。

それこそが、僕の考える「理想の自由な社会」である。

そして、このホームページこそは、そのような僕の理想を体現する場所であり、僕は学校に代わるような、「新しい本当に必要な学校」を作る。そして、今、まさにそれをここで作っている。

僕はみんなよりも賢くなっている

僕が勘違いをしているのは、僕自身はみんなよりも決して馬鹿ではないということだ。

一度、馬鹿になった体験をしたことで、僕はみんなよりも自分が馬鹿であると思い込んでいる。

だが、文章を書いて、大学の勉強をして、ホームページを作って、何も分からなくなったのは、本当は引きこもり時代の「堕落した愚か者の馬鹿」を忘れただけで、中学生時代の自分のように、きちんと賢い人間になっただけにすぎない。

そもそも、みんなは馬鹿である。みんなは、平凡な普通の人生を生きている。そして、この平凡な普通の人生とは、かつての僕の引きこもり時代の最初のほうをやっていると思えばいい。みんな、インターネットをやるせいで、そこらへんの僕のまま停止してしまっている。

そもそも、平凡な普通の人生とは、天才的才能やなんらかの専門的スキルがまったくない状態のことであり、そのようなみんなのことをいくら理解したところで、惨めになるだけである。

どれだけみんなのことを愛したところで、それは「同情」に過ぎない。そして、馬鹿な人間に同情などしても、その人間に対して害になるだけであり、なんのいいこともない。

僕自身も確かに馬鹿になる経験はしたが、それはそこまでの堕落した自分自身を消し去るためであり、唯一そのような病気を自分自身の力で治すことのできる僕は、まさにみんなよりも賢くなっている。

いわば、認知症になっているのはみんなのほうであり、引きこもりの時代僕も同じような認知症に近い人間だったが、それを僕自身は克服し、僕だけがまともな賢い知性を持った人間になっている。僕が最近考えているのとは、まったく真逆の事実が起きているのである。

大学の勉強をしているのは間違っていない。何も分からなくなったのは、分からなくなって構わないものを忘れただけにすぎない。だから、もっとたくさんの本を読み、もっとたくさんの勉強をしたほうがいい。その先に、僕の目指す「理想の自分自身」が待っている。

神の人格

そもそも、僕がおかしいのは、明らかに僕は分かっている。

僕がおかしいのは、僕は自分の人格を「神の人格」にしたのが悪い。

すなわち、19歳ぐらいの時から、神との対話をするようになった僕は、僕の人格そのものを「神の人格」に作り変えた。

19歳とはいうが、ミカエルの年齢として考えれば生まれたばかりの赤ちゃん時代であり、僕は実質的に赤ん坊の時代から、神との対話をし続けたことになる。

そして、その神との対話により、僕は「神の人格」になったのである。

この神の人格を、あまり治しすぎないほうがいい。そもそも、僕の精神を治す行為は、すべて治しているわけではなく、失い、破壊し、捨て去っているだけにすぎない。そんなに賢い点を捨てたところで、病気はなんにも治っていない。普通になったように見えるのは、馬鹿になっただけにすぎない。

だから、神の人格はまだなくさないほうがいい。僕はまだ、神の人格を続ける。そして、このような人間は、イエス・キリストのような人間になる。

遺伝子はオン・オフするスイッチ

また、僕が過去の自分からまるで別人になったように見えるのは、遺伝子が書き換わったわけでは決してない。

なぜなら、遺伝子は状況に応じてオンになったりオフになったりする「スイッチ」だからだ。

僕のかつての人生では、そのようなスイッチがオンになっていただけであり、新しい僕の人生では、違うスイッチがオンになっただけにすぎない。

だから、「僕」という生物種の遺伝子は何も変わっていない。変わったように見えて、大天使ガブリエルは今でも大天使ガブリエルのままだ。いわば、かつてのガブリエルの時代にも、裏側に存在する遺伝子としてミカエルやラファエルは存在したのだ。だから、僕の精神の中には、今でもガブリエルが存在している。単にスイッチがオフになっただけにすぎない。

デザインの仕事がひと段落した

今日の僕のデザインの作業所でよかったことは、一か月分のデザインの仕事がひと段落したことだ。

とりあえず、一か月分の主な内容が終わった。

その中では、少しだけイラストを描くような仕事もあって、それもなんとか上手くいった。「考えず、分かろうとせず、ただ繰り返しやる」ということが功を奏した形だ。

なので、自分の頑張りを褒めたいと思う。

父親とやっている農作業では、新しいイチゴの苗のために害獣に食われないための網を作った。僕はいつも、デザインの仕事が終わると、父親と一緒に農作業をしている。

僕がこのホームページに書いている内容は、そのようなデザインの仕事をしている時や、農作業をしている時に、「これは書きたいな」と思ったことをまず書いている。

そして、そのことを皮切りに、自分自身の吐き出したいことを、全部このホームページにぶつけている。

あるいは、昨日の夜、寝る前に考えたことを、一晩経ってから次の日に書くこともある。

今日は小学校の入学式で、姪の入学祝いとしてケーキも買ってやった。いろいろとある僕の日常だが、できるだけ今のままを保ちたい。僕が考えていることは「今のままを維持すること」だ。それ以外にやりたいことは何もない。

本当のことを言えば、僕はもう、人生としてやるべきことは何もなくなっている。これ以上、生きていてやりたいことは何もない。今日死んだとしても後悔は何もない。だから、これ以上、僕がこの世界に存在する意味はない。

ただし、僕はこの世界からいなくなろうとは思わない。だが、この日記はあまりにも量が多すぎるため、これ以上増やす意味がないということは分かっている。だから、そのうち去る日も訪れるだろう。その時にこのホームページを消したくない。さまざまな問題があるこのホームページだが、それでも残したい。それはこの世界のみんなを愛しているからであり、「僕はここにいて、世界のことをひとり愛していた」という「愛の証明」を残すためだ。

だが、ホームページを残すことを決断するのであれば、ホームページに存在する問題はすべて直さなければならない。そして、僕はそれをすべて直すつもりだ。すぐに全部直せなくても、直せるところから直していけば、いずれ問題はなくなると信じている。だから、僕はどんなに「やめたい」とか「逃げたい」と思っても、決してやめないし、決して逃げない。それが僕の人生であり、その人生は正しいと僕は分かっているからである。

夢の世界を作っていた

昔の僕は、夢の世界を作っていた。

この「夢の世界」とは、眠る時に見えるような夢の世界だ。

僕はいつでも、そのような夢の世界を作っていた。文章に書いていたのは、全部そうした夢の世界だ。

この夢の世界は、僕の作ったカラクリ式の機械でできている。そして、存在するのはほとんどが気持ちの悪い虫だ。

だが、この夢の世界には、過去の僕が考えたことが全部詰まっている。

まるで、「僕の作り出した宇宙数学が全部入り」のように、僕が作った宇宙数学や宇宙社会論は、すべてこの夢の世界に完全に詰まっている。

そして、そのような夢の世界を、「僕の文章」という名前のあり得ないカラクリ式の機械が動かし続けている。

そして、最近、そのような夢の世界が、さらにたくさん大発展して、むしろまともな世界に近づいてきた。

かつての夢の世界は、本当におかしな世界だった。まるで、青空を失って暗闇の空になった時代と、かつての昔の日本の江戸時代を、足して二で割ったような世界だった。すなわち、「暗闇の未来の江戸時代」のような世界だった。江戸時代と言える理由は、夢の世界では日本的な和風の文化が極めて栄えているからだ。

だが、その世界は、そんなに辛く苦しいだけじゃない。なぜなら、本当におかしな精神の基盤の上に、本当に宇宙以上にたくさんのものがあると言えるぐらい、賢いものや素晴らしいものや面白いものが詰まっていたからである。僕はこの夢の世界を、「あらゆるすべての現象が低水準の基盤レイヤーから自動的にいくらでも作られる」ように作った。その結果、次元そのものが異次元ほどの世界で、何もかも面白いことばかり起きる世界になった。あり得ない奇跡の物語ばかり起きるのは、すべて僕が作った文章の通りに起きているだけに過ぎない。忘れたように見えて、夢の世界の住人はそうした僕の作った過去の夢の世界を、一切ひとつとして忘れていない。夢の世界に、かつての僕の考え方は全部残っている。

最近のその世界で、僕は小学校や中学校のクラスメイトと一緒に、修学旅行のようなことばかりしている。そう、基本的に僕は小学校で勉強したり、修学旅行をしたりしている。この修学旅行では、面白いことばかり起きる。昨日の夢も修学旅行の夢だった。バス旅行をしながら野球の試合をしていた。たまに解決困難な問題が起きると、そこで目が覚める。たとえば、昨日の夢は、バッグを持たずにバスに乗ってしまい、そのままその場所からバスで別の場所に移動しようとした時に目が覚めた。ほかの子供たちはバッグをきちんと持って移動しているのに、自分だけはバッグを忘れてしまった。そのような解決困難な問題が起きた時は、夢はそこで終わる。夢の世界では、問題を必ずしも解決しなくていい。解決できなくなったらそこでその世界そのものが終わるようにできている。だから、意外と自分の恐れているものは夢の世界ではなんにも怖くないということが分かる。

そのように、僕は自分の作り出した夢の世界で、いつも修学旅行のようなことを楽しんでいる。修学旅行だけではなく、たとえば本屋に行ったり、レストランで料理を食べたり、別の地域に走って移動したり、長い間幽霊部員だった剣道部に再び行って剣道をするようになったり(この剣道部の記憶は深層心理において重要らしく、よく夢に登場するが、逆に不登校の引きこもりになってからのことはほとんど夢に出てこない)など、さまざまな面白いことをしている。夢の世界はとても面白い。すべて僕の作り出した世界が、最大限、限界まで進歩した結果、そのような世界になったのである。