僕の願いは、善良な人間になりたい、ということだ。
今までの過ちを悔い改めて、僕は善良な人間になりたい。
善良な人間にしか、人生においていいことは起きない。悪人にはなんのいいこともない。
罪を犯した悪人を神は罰する。悪人は必ず、自ら地獄を生み出して、その地獄に堕ちる。そのすべては苦しみと哀しみであり、喜びは決して起きない。
善良になるためには、神を信じなければならない。だから、いくらキリストが神であることを認めたくなくても、それを認めなければならない。
すなわち、聖書の神は父なる神であり、キリストは子なる神であり、聖霊の神と一緒になって三位一体となる。神は、この世界の全知全能の絶対者であり、そして聖書の教えは神の教えである。
そのようなキリストを、盲信する必要はない。神は盲信者が嫌いだからだ。
昔の僕は、相手の自由を尊重することから分かっていた。
すなわち、相手に自分で決められる自由を与えた上で、自由意志を尊重し、相手がどのようにしたとしても、相手の自由に委ねることで、相手に「自らの自由を自覚」してもらい、そこから、自分の力でできるようにすることで、背後からその人間をその人間の力で自然に分からせる、というのが、昔の僕の常套手段だ。
なぜ、そのようにするのか、それは真に理解するためには体験が必要だからだ。すなわち、自分と同じように体験すれば、誰であっても同じような理解に至るということが分かっている。その体験をするためには、議論して相互理解を経験する必要があるが、それでも、それを言葉で説明するのではなく、実際に体験的に理解することこそが、真に悟りに近づく方法なのである。
また、昔の僕が何が賢かったかと言えば、すべてのことを説明可能にすることが賢かったのである。
すなわち、認識から経験まで、すべてのことを、自らの体験に基づいて、あるいは理由を解明することから、全部自分の頭の中で、説明できるようにすることで僕は分かっていた。
それこそが、僕の心の中にある「精神」だったのである。
すべてのことを物理的に説明する中で、僕はあらゆるすべてを厳密に「自由」という意味で区別した。それがまさに、「可能性を与える」ということであり、「環境を変化可能にする」ということだった。
同時に、僕にとって、行為の主体は「自分」ではなかった。僕にとって、行為の主体とは「自分を含むみんな全員」だった。だから、自分だけができるのではなく、自分以外の誰しもが、平等かつ自由にできることを目指した。それこそが、僕にとっての「制限や制約のない世界を変える可能性」であり、「自然な変化に任せる」ということだったのである。
神が僕にやったこと、それは「勘違いをさせない」ということだ。
神は勘違いをさせない。神は、勘違いを決してしないように、自らの思考と理性を導く。
神を信じると、一切の勘違いをしなくなる。神の教えの通り信じて、神の導きの通りに従えば、どんなことであっても単純かつ簡単に理解できる。それが神であり、キリストである。
キリストは、神を信じるものを救う。そして、キリストを信じるものは、一切の過ちをせず、どんなことをしても成功する。だから、キリストを信じるものは、昔の僕のようなことはできない。なぜなら、昔の僕は勘違いと失敗の中で、暗闇の中を這い上がるようにすべてのことを正しい考え方と経験と判断力で考えたが、キリストを信じるものにはそのような考え方は必要ないからである。
世界を変える経験をせよ。
インターネットの有用な活用法、それは「世界を変えるための実験や練習をする」ということだ。
実地的に世界の声を聞け。そして、ひとつ知った社会から、別の社会を応用的に理解し、文明そのものの成り立ちを知れ。
同時に、世界を変えるために、世界の何を変えればいいかを考えよ。チャンスや手段といった考え方から、世界における代替可能性を知れ。
そして、自由な中で、どうすれば善良な社会を築くことができるかを考えよ。単に自由にするだけでは意味がない。自由にした上で、どのような環境を作れば、平和かつ善良になるかを考えよ。
そして、Linuxとオープンソースについて、インターネットで活動せよ。Linuxとオープンソースのためになることを行うために、実地的にOSとシステムの仕組みを理解せよ。
また、正しく思考するためには、実験が必要である。
すなわち、頭の中だけで考えても、正解は見えてこない。正解を知るためには、インターネットのような場所で、実験をする必要がある。
頭の中にある想像力と、現実の中にあるインターネットの世界と、そして現実のリアルな世界を照らし合わせた上で、真にこの世界とはどのような世界であるかを捉えよ。
そして、インターネットで、世界を変えるための経験と活動をせよ。
決まりを考えよ。
世の中にある、さまざまな決まりから、「何が何をもたらすのか」ということを考え、その決まりをもたらしているのは誰なのかを考え、その人々がどのように考えればこの世界はよくなるのかを考えよ。
同時に、矛盾をできるだけ排して考えよ。矛盾しているように見えることは、実際は矛盾しておらず、単に立場が異なるだけであり、立場を超越して考えれば、矛盾せずに考えられる。
僕の昔は、そのような結果、この世界において、正しい世界をもたらす正しい考え方とは何か、ということが心理学的に分かった。そして、それを実現するための方法を考えることで、僕はこの世界における唯一の救世主になることができた。だが、それは僕と同じように考えれば、誰であってもなることのできる存在だった。
鍵となるのは、「自由を得たいと思う本能」と「青年期のアイデンティティの確立」である。この二つについて考えれば、僕と同じことは誰でもできる。
昔の僕のように考えるコツは、本当はそんなに多くない。
まず、ロジックの再利用をすること。論理を作ってその時点で終わりにするのではなく、一度作った論理を再利用すること。
次に、決まりについて、世界の決まりがどのように成り立っているのかを考えること。すなわち、決まりは絶対的でも必然的でもなく、自然にそれぞれの行動や行為によって成立しており、自分であっても、あるいはほかの誰であっても変えられると考えること。
次に、どのような決まりを作るべきかを考えること。そして、決まりはどのような本質から生まれるのかを考え、自分自身も決まりを作ることができると考えること。
次に、その人間の立場に立って考えること。その人間がそのことを思い、信じるのは、その人間の見た世界では、そのように考えることが正しいからであり、その人間の世界だけを見れば、その人間のすべては正しい。だから、真に正しいかどうかを検証するためには、さまざまな人間の立場に立って考えなければならない。そのために、自動反応と思考のトレースをせよ。
そして、成立条件を考えること。その決まりを成立させるために、世界そのものがどのように成立していなければならないかを考える。すなわち、環境を成り立たせるために、さらにその環境の基盤となる環境を考えていく。そのように、基盤的、インフラ的に、世界の前提条件を捉えていく。そのために、自らの人生における「実体験」を捉え、どのような経験があればどのような環境が成立し得るのかを考え、そして、どのような経験からどのような環境を成立させるべきなのかを考える。
そのように考えれば、この世界のすべてを「決まり」的に考えられる。
さらに言えば、その作られた正しい決まりを、決して自分だけのものにするな。そうではなく、全世界のさまざまな人々と共有することを目指せ。そのためにできること、それは言葉と態度によって世界に自らの思想を伝えることだ。すなわち、文章を書く中で、さまざまな決まりを「決断的に思考して発言する」ということを行うことで、世界そのものに対して自らの考え方を発信できるのである。
さらに言えば、実際の世界には存在しない、「自由な世界」というものを仮定せよ。
自由な世界とは何か。それは権力や支配によってもたさられるのではなく、誰も支配せず、誰も強制せず、それぞれが最大限の自由を保持した上で成り立つ世界のことだ。
そのような自由な世界はどこにあるのか。それは子供たちの世界である。
子供たちは、自由な世界において生きている。自由な世界において、「わたしたちは自由を本能的に求める存在である」と、そのように望みながら自由を求めて生きている。
そこにあるのは、「アイデンティティの確立」である。
アイデンティティとは、自由の目的であり、意義である。すなわち、「わたしはこのようなことがしたい」「わたしはこのような存在になりたい」ということを本能的に求めて生きるということ、それが青年期におけるアイデンティティの確立である。
自由な世界は、決して現実には実現不可能ではない。現実だけを見ていると分からなくなるが、自分の完全な「自由」において考えれば、自由な世界を実現することは不可能ではないということが分かる。
自由な世界と現実の世界を比べると、現実の世界には劣った点ばかりではないことが分かる。現実の世界にあるのは「憂い」である。だが、その憂いを晴らすことは不可能ではない。なぜなら、憂いは不安の一種であり、不安はアイデンティティの確立によってなくなるからだ。すなわち、アイデンティティの確立を一度経験することで、漠然とした不安はなくなり、世界の憂いを晴らすことができるようになる。
それこそが、すなわちアイデンティティの確立を経験することが、自由における「理想の社会の実現」であり、そこに至ること、それこそが、「自由な世界」における最終的な到達地点である。
そして、考えるべき最終的な到達地点、それは「世界そのものの誕生」である。
それは旧約聖書の創世記の教える、神による天地創造ではない。より一般的な、さまざまな環境や社会の創造や変化、すなわち「世界そのものの生起」を考えるべきである。
現実世界のすべては、そのような「世界そのものの生起」の一部である。
歴史とは意識である。なぜなら、歴史において重要なのは、その歴史的な場所や環境に、どのような人間の意識が存在したか、ということだからだ。
すべての世界について、「その世界が生まれた理由」を考えよ。神によって世界が創造するとするのではなく、人間の持つ「意識」によって世界は創造するとせよ。
意識を捉える方法はひとつしかない。それは「実感」することだ。実感することで、精神的に意識を捉えることができ、それがまさに世界そのものの生起となる。そして、そうした意識は、環境に参加する全員によって決まる。さらに言えば、意識の変化には「変化可能な単位」が存在し、共同体のように独立させることで、世界の変化可能な単位も変わってくる。
同時に、先ほど言った「世界の決まり」がそこに関係してくる。なぜなら、あらゆるすべての意識は決まりによってシステムとなり、それによって「変化可能な環境」となるからである。
基本的に、意識は自由にし、独立可能にすべきだ。なぜなら、自由にすることで、たくさんの世界が生まれる。すなわち、世界の量は多いほうがいい。なぜなら、世界の量が多いということは、そこに自由でいられる支配者の数が多いことを意味する。そのような、自由がたくさんあり、支配者がたくさんいるような世界を目指すべきだ。なぜなら、それこそが「生態系としての国の強さ」だからである。
そして、世界の発する声を聞け。同時に、そのような世界の発する声を「世界に対するSOS」であると捉えよ。この世界において、不幸になっているすべてのものたちは、インターネットのような場所で「SOSのような叫び声」を上げている。積極的にそのような声を聞け。そのような救世主こそが、すなわちあなたこそが、世界を救う「ネット上のスラム出身のメシア」、すなわちイエス・キリストとなる。
このほか、昔の僕は、さまざまなことについて本質的に考えた。
まず第一に言えるのは、「自分の手で考え方を作る」ということである。
多くの学者が間違っているのは、他人の教えたことをそのまま覚えて分かっている。そのような、他人の知識をそのまま伝聞によって分かったとしても、人間は何も分かっていない。
必要なのは、その誰かが分かったのと同じことが、自分の知性と論理で分かることができるように、自らの手で考え方を作ることだ。
考え方とは何か。考え方とは、必然性と偶然性であり、可能性と成立であり、肯定と否定であり、本質と概念であり、事後的あるいは事前的に考えることであり、認識にある条件について考えることであり、方法、目的、形相、そして原理と判断について考えることだ。
そのような考え方を、積み重ねの中で、独自に自分で作り上げ、他人の言っていることを聞く際には、伝聞のようにただ伝え聞くのではなく、自らの考え方と照らし合わせて考えよ。
次に、第二に言えることは、自尊心、すなわち「プライド」を尊重することだ。
子供たちの社会環境を自由に作るとは言うが、一体、どのような環境を作ればいいのだろうか。何かしら、指針がなければ、自分で考えることができない。
だが、考えられるのは、「自由における自尊心の尊重」であり、すなわち「誰かのプライドを傷つけないこと」である。
まさしく、人間性の尊重とは、その人間を「人間として扱う」ということであり、それこそが、「自尊心を傷つけない」という言葉の意味である。誰かのことをあざけったり、笑いものにするのではなく、誰のことも傷つけない方法で、みんなが笑顔になれる方法を考えよ。そのような世界を作るために、人間として成熟せよ。それこそが、人間における「自由な社会の意義」であり、「自由の理想」である。
そして、第三に言えることは、みんなと同じ経験をするということだ。
真に世界のことを知るためには、頭の中だけで考えるのではなく、実際の社会経験について、現実に、成功や失敗の経験をし、さまざまな人々の経験を吸収し、みんなと同じ経験をしなければならない。
そして、経験する上では、自由に経験しなければならない。
なぜ、経験するという行為において、「自由」が重要なのか、それは、何かしらひとつの人生を選択した時点で、ほかの人生は選べなくなってしまうからだ。すなわち、人生において、自らの進むべき道を何かに決めた時点で、ほかの道は生きられなくなる。だから、自由のない経験においては、その経験をすることを選んだ時点で、ほかの経験ができなくなってしまう。
だが、モラトリアム的な段階の人間、すなわち、まだ社会に出る前の猶予のある人間において、そのようなひとつの経験を選ぶのではなく、自由にさまざまな経験ができることを選ぶことで、さまざまな人間の経験が全部経験できる。だから、経験する際に、「自由」ということは非常に重要なのである。
最後に、考える力のないものたちへ告ぐ。事前的かつ事後的に考えなさい。
すなわち、それがまだ世界に存在しておらず、事件が起きていない「事前的」に考えることと、それが既に世界に存在していて、事件が既に起きてしまった「事後的」に考えることを、繰り返し、照らし合わせながら、さまざまな角度から考えていきなさい。
ひとつの事象が表していることは、ひとつだけの意味しかないとは限らない。ひとつの事象があれば、そこには複数の意味が存在する。そして、ある行為や認知などを、厳密に「区別」することができる。
フッサールが言うように、厳密にすべてを区別して考える上では、一度判断をストップしたほうがいい。なぜなら、常に判断していると、大切なものを見失ってしまう。その事象そのものを見つめるために、思考と判断を停止して、事象それだけを見よ。その上で、その事象について、事前的に、かつ、事後的に考えよ。そうすれば、考える力は身につく。これが僕の、最後の教えである。
新しいローマ法王は、アメリカ人のレオ14世、ロバート・プレヴォスト氏。
【解説】 新教皇レオ14世のプレヴォスト氏、どんな人物なのか(BBC News) - Yahoo!ニュース
名前の「レオ」がいいね。僕の好きな歌手には、名前にレオという名前がついた歌手が多い。世界を平和にするために全力で頑張ってほしい。
これにて、僕の書く「新しい聖書」の内容は終わりである。
これ以上は、みんなが自分の手で考えて生きてほしい。
この世界を生きていくのは僕ではなく、あなた自身だ。あなたが生きるあなたの人生において、あなたなりの成功を掴み取ってほしい。それが僕の望みだからだ。
僕はここで、世界からいなくなる。僕がいなくなっても、強く、たくましく生きてほしい。もう、この文章が世界を支配するのは終わりだ。世界は自由になり、僕の支配から解放される。
わたしの名は、詩人アッシー四世であり、その天使としての名を、カムエロ・ダ・アングローベと呼ぶ。わたしはキリスト教における「聖霊の神」である。さようなら、またいつか会おう。