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2025-02-01

具体的な決まりと条件を考えよ

具体的な決まりと条件を考えよ。

その状況下で、どのような決まりであればどのような状態になるのかを考えよ。

状態、作用、決まり、システムの中で、どのような理由でそれはそれになるのか、ということを考え、原因と結果を予測せよ。

ものや物理に対する原因と結果だけではなく、人間に対する原因と結果を考えよ。ほかの人間の心に対する原因と結果を考えよ。

自由

自由ということについて考えよ。

支配は理想ではない。理想は、誰かが誰かを支配することなく、両者が自由で、両者の自由意志に基づく合意の上で両者が協力することだ。

支配によって行われる協力などには意味がない。自由意志によって行われる協力によって、初めてそれを真に「成し遂げた」と言うことができる。

金儲けは自由なのか、それとも自由でないのかは、考え方によるが、もし自由であるとするなら、「自分から金を稼ぐための条件として労働したいと思ってしている」という理由で、金儲けは自由である。

金儲けが自由でないとする根拠は、イギリスなどの列強は資本帝国主義の下に植民地を奴隷にしたからだ。奴隷は自由ではない。

だが、そのように、自由と不自由で考えるならば、社会主義は間違っている。なぜなら、強制ノルマの強制労働はまったく自由ではないからだ。

真に世界を救いたいのであれば、理想に妥協せず、「自由」こそを信じるべきであり、自由な社会において世界を救済しようとすべきなのである。

不自由ではしたと言えない

不自由においては、その行為は「させられた」だけであって、「した」とは言えない。

強制的にさせられたこと、支配されてさせられたことは、自らが望んで行ったわけでないため、決して「した」とは言えない。

だが、一部例外がある。それは「神を信じて行った」ということについては、「した」と言えるからである。

神は人間を支配するし、人間は神によって支配された状態で、初めてそれを一流のプロフェッショナルのように成し遂げることができる。

それについては、例外的に「した」と言える。なぜなら、神はその人間のすべてを知っていて、その人間は神のすべてを知った上で、支配されることを選んでいるからである。

すべてを理解した上で行為せよ

すべてを理解した上で行為せよ。

その行為について、「理由」を理解し、起きる現象を「説明」できるようになって、その上で行為するようにせよ。

同時に、「主体」と「客体」という関係性を考えよ。誰かに対して自分が行為する上で、どちらが主体となって、どちらが受け手となっているか、ということを考え、その結果を起こす原因と理由を把握せよ。

そのように考えれば、この世界のすべてが「経験的現象」によって成り立っているという、ある種の現象的哲学を捉えることができる。そこにあるのは「意識」である。

どのような社会が生まれるか

どのような環境が生まれるかということを予測し、どのような社会が生まれるかということを予測せよ。

心がそうなるのであれば、社会はそうなるのだ、ということを予測して考えよ。

同時に、人間の行動がそのようになるということを予測し、また実験せよ。そのような状況においてその人間はそのように行動するだろう、ということを心理学的に掌握せよ。

自らの行動がその相手にどのように映るのか、ということを、「立場」と「関係」から考えよ。自らがもっとも頂点にいるとしたら、相手あるいは人々はそれをどのように受け取るかを考えよ。

歴史とは意識

歴史とは意識である。

歴史とは具体的な意識だ。その時代その時代、人々がそのような「意識」に基づいて生活していたということ、それこそが真の歴史である。

唯心論は間違っている。なぜなら、存在はその存在として、どの時代にもきちんと存在している。あるいは、逆に言えば、確かな存在を「意識していないから存在しない」と考えることは無意味だ。

この世界の存在は、すべての存在が確かに存在している。自分とは関係なく見えても、決して関係がないとは言えない。その存在がどのように存在しているかを知らなくても、必ず生活のどこかでその存在が関係している。統計的にデータで見なければ分からないことは、分からなくても自分自身に関係し、世界全体に関係している。それは確かにそれが存在しているからであり、その証である。

すべての当事者、すべての本人になれ

すべての当事者、すべての本人になれ。

たとえば、アイザック・ニュートンが分かったことは、ニュートン本人にしか分からない。

だが、それでも、ニュートンの分かったことを、自分も同じように分かろうとするのは無駄な努力ではない。

そのためには、考え方を自分で作る必要がある。なぜなら、ニュートン自身が分かったことを、同じように自分も分かるためには、ニュートンが当事者であるように、自らも当事者とまったく同じように分かろうとしなければ分からないからだ。

当事者の考え方を自分で作って、科学を自分ですべて作ること、それは「すべての当事者になる」あるいは「すべての本人になる」という努力だ。

同時に、この世界をきちんと分かりたいのであれば、世界を裏で支配する裏の王になるべきだ。それこそが、真の意味で世界における「当事者」であり「本人」であると言えるからだ。

人間の心をロボット的に理解せよ

人間の心を、ロボット的に理解せよ。

人間の心は機械だ。

人間の心の働きについて、その裏にどのような因果性があるのかということを、認知の自動反応とトレースから、再現性を確かめる機械的な実験によって明らかにせよ。

心が、いつ、どのような感情になるのか、その感情においてはどのようなことがしたくなるのか、ということを分析し、世界を掌握せよ。

失敗を経験せよ

失敗を経験せよ。

それ以上落ちることのないどん底を経験し、それ以上狂うことのない異常を経験せよ。

なぜなら、まさしく、それによって、この世界を救うための「救済の方法」が分かるからだ。

スラムを経験するのであれば、同時に、キリスト教の修道士のような経験をせよ。人々のことを救うために、自らのスラムの経験を、修道士が行うような「救済」の方法に転用せよ。

そして、世界を改革する、変革の革命家になれ。そこにある「啓蒙主義」は、歴史のすべてを分かった上で、正しい判断力に基づく「世界の大解放」の体現となるだろう。

状態と状況の意味を分かれ

常に、状態と状況の意味を分かれ。

すなわち、どのような状況にどのようなチャンスがあるのか、今、自分はどのような状況にいるのか、ということを、真に世界の経験や実体験と併せて考えよ。

状態を多角的に考えた上で、その状態を成り立たせる「決まり」という意味での前提条件を分かれ。

自ら自身を成り立たせる条件とは、心にとっては自らのアイデンティティであり、その意味を多角的に捉えていけ。

そして、限界を超えていけ。それが「限界」であると自分が定めた先にあるもの、それこそが「可能性」であると気付け。

基礎と手段の応用可能性

基礎と手段の応用可能性を知れ。

その基礎がどのような応用を理解するために利用できるのか、その手段によってどのような社会が実現可能であるかを知れ。

同時に、「発想法」を知れ。豊かな思考に先立つ経験から、発想法を知ること、そして「経験を成り立たせる」ということ、「経験を可能にする」ということを知ることで、この世界において、どのような新しい発想をし、どのように世界そのものを実現できるかが見えてくる。

そして、「世界そのものの可能性」ということを、「全員の実現可能性の集積」から考えよ。そこにあるのは、全員が世界を変える世界であり、全員の実現可能性を共有する世界だ。それこそが、「システム」の目指す最終的な形であり、オープンソースの自由の理想である。

全体視

この世界を把握する上で、「全体視」ということを行え。

この世界を知りつくせ。知らないものは何もないと言えるぐらい、世界にあるすべてを把握し、その上で、世界について、「どこをどのようにすれば変えられるのか」ということを知れ。

すべては、歴史の必然でありながら絶対的必然ではないと知り、さまざまな別の世界の可能性があることを、「普遍的な普通の偶然性」を知ることから知っていけ。

同時に、視覚化できないことを視覚化して考えていけ。

また、すべては全体と一部であると考えよ。すなわち、個人とは環境の一部であるとせよ。同時に、生物は精神的に繋がっているとせよ。すなわち、全生物は世界精神によって結合していると考えよ。

実存の段階の最終地点には神がいる

実存が、道徳や啓蒙主義によって、自由に向かって進歩し続けた先に何があるのか。

それは「神」である。

すなわち、自由を突き詰めて、失敗を経験し、普遍的な普通を知りながら、世界を自ら変えるようになり、自由な経験を「道徳」に帰する上で、啓蒙主義的に世界を変え続けた先に、「神」が待っている。

神はすべてを知っていて、どのようなことでもできる。最終的に神に到達することで、あなたは神の忠実な「使徒」になるだろう。

戦え

戦え。世界を支配せよ。

すべてのことをやり終えた人間がやるべきこと、それは世界を変えるために世界と戦うことだ。

自らの人格を作り変えて、「神の人格」となれ。

戦いながら、自らに催眠をかけて、前世に戻り、世界すべてを自らに同化させよ。

世界を支配する、頂点の存在、すなわち「神」になれ。

金曜日ごとに決戦がやってくる

ドリカムが「決戦は金曜日」と言ったことの真意は、「決戦は金曜日ごとにやってくる」ということだ。

すなわち、僕は金曜日がやってくるごとに、「決戦」のような最終的な戦いを行う日が訪れる。

だから、金曜日がやってきたとしても、この文章は決して終わらない。いつまでも続く中で、毎週金曜日に決戦がやってくるのである。

昔の自分は賢くなかった

結局、昔の自分は賢くなかった。

しばらくホームページを消していたが、その間に昔の自分がどのような人間だったか分かった。

結局、昔の自分なんかが、賢いわけがなかった。

今の自分のほうがはるかに賢くなっている。だから、もう昔の自分は要らない。昔の自分の人格は、全部消したほうがいい。

みんなが賢すぎて僕は何もできない

そもそも、はっきり言ってみんなが賢すぎる。

みんなが賢すぎて、僕は何もできない。

僕は高校数学や化学や経済学の勉強もできないし、英語やフランス語の勉強もできない。高校の参考書を見ると、あまりにみんなが賢すぎて、めまいがしてしまう。

もっと僕にでもできることはないのか。みんなが賢すぎる。僕は何もできない。できることがない。

神を信じるだけなら僕でもできる

結局、自分ができることをやるしかない。

僕は神を信じているし、神と対話できる。はっきり言って、僕にできることはほとんどそれしかない。

神を信じて、神にすべてを委ねるだけなら僕でもできる。そして、それ以外、僕にできることはほとんど何もない。

僕は知識をたくさん知っているように見えて、実際は何も知らない。できることがたくさんあるようで、実際は何もない。僕にできることは神を信じることだけだ。