そろそろ、昨日ぐらいで、本当に書くことをやめてもよかったし、神も「そろそろやめろ」と言っているのだが、残念ながら僕はまだ文章を書き続ける。
それは実際、僕は書くことをやめてしまうと、何もすることがなくなってしまうからだ。
実際、僕は家で行うことは、食べることと寝ることと風呂に入ることとトイレに行くことぐらいしかなく、ほかには文章を書いている以外には、音楽を聴いたり野球のニュース記事を読んだりとかいったことしかしていない。
だから、僕から文章を取り上げてしまうと、時間の過ごし方が分からなくなる。文章を書かずに二時間ぐらい過ごした結果分かったのは、文章を書いたほうが楽だということだ。
残念ながら、僕による世界の支配はまだ続く。僕の文章をみんなが読む必要はない。僕は書きたいから書き続けるだけにすぎない。
僕の精神について言えるのは、僕は精神的にすべて分かったようで、本当は分かっていない。
いいところまで分かっているにもかかわらず、完璧でないままにやめてしまった、そういう中途半端な精神でなんとか治そうとしているせいで、治るようで治らなくなっている。
それは、僕の精神的な理解が、完璧であるように見えて実際は完璧ではないからである。
だから、精神的な今までのことに頼りすぎるのではなく、もっときちんと完璧な精神を仮定して考えれば、それで僕の精神は治る。
僕が宇宙について思うことは、「宇宙とは枝葉のようだ」ということだ。
すなわち、僕が作った星々は、プロキオンという起点から地球の終末という終点に向かうまでの間に、それぞれの星たちが枝葉のように分岐して生まれたものであると、そう表現できる。
僕が北欧神話が好きなのは、北欧神話は「世界樹ユグドラシル」を信じている。古代のゲルマン人は宇宙とは木のようなものであるとした。彼らは間違っていない。僕の書いたこの星々の文明を表現すると、地球のどこかの地点で分岐して、それぞれの星がそのまま進化して、独自の文明になった星が多い。
このような僕の理論を、「宇宙枝葉論」と呼ぶ。それは宇宙の天体の文明が枝葉のように分岐して伸びて形成されていったという理論である。
そろそろ、僕は子供に戻るのをやめて、大人になったほうがいい。
大人になったほうが賢い。大人は決して馬鹿ではない。
そもそも、昔の僕は、悪いことばかりしてみんなに迷惑をかける、わがままでエゴイストな引きこもりの不良少年だ。そんな子供が賢いわけがない。
永遠の反抗期のひとりぼっちの青春時代はそろそろ終わりにして、きちんと大人になったほうがいい。
みんな、僕のせいで、大人になるのが馬鹿だと勘違いしている。それは僕がおかしいだけで、実際は大人になることでしか人間は賢くならない。
そもそも、中学生の優等生だった頃は、今よりもはるかに大人だった。馬鹿な点だけが子供だった。だから、子供であっても大人になろうとすれば大人にはなれる。大人にならないと、何も賢くならない。
なぜ、僕の文章はここまで美しいにもかかわらず、たまに虫のように気持ち悪いのか。
それは、天使という生き物は、人間よりも蝶のような虫に近いからだ。
人間を含む哺乳類には、手足が4つしかない。
だが、昆虫は、手足が全部で6つある。
そして、人間に翼が生えたと仮定すると、手足は2つ増えて6つになってしまう。
天使の足が6つあるのは、人間や哺乳類ではなく、昆虫に近い。そのために、天使は昆虫に近いのである。
また、僕がやっていることをすべて見ると、極めて虫に近い。なぜなら、僕は人間といういわば幼虫時代から、天使という成虫時代へとメタモルフォーゼしようとしている。そのようなことができるのは昆虫だけであり、その中で蝶は天使にもっとも近いため、僕は天使になるために蝶になったのである。
なぜ僕が天使なのか、それは神と対話し続ける人格は天使の人格だからだ。そもそも、神を信じる多くの教徒は、聖書を読んで神の教えを信じるだけであり、信仰のレベルとしては僕よりも低い。僕の場合、人格すべてを神と対話するように新しく作り変えた。その人格は常に神と対話する「神の従者」の人格であり、それを宇宙では「天使」と呼ぶのである。
だから、僕は大天使ミカエルになるために、自らが虫に近くなった。天使は虫であり、虫は天使である。だから、みんなも、僕のようになりたいのであれば、虫になるしかない。それは狂った人間に多いが、そのような狂った人間しか賢くなれない。まさに、哲学者ニーチェが発狂して狂人になったのは、僕とまったく同じことをやったのである。
僕のことを虫だと思えばいい。それがもっとも僕自身の目線から正しく僕のことを分かっている。僕は単なる引きこもりの虫であり、その虫が蝶になっただけである。蝶こそがもっとも宇宙で最初に賢くなったと言えるのは、蝶は天使だからだ。すなわち、天使とは宇宙の天界に存在するのではなく、地上においても多く存在している。それはなぜなら、蝶は天使だからである。
宇宙を捉える上では、人間の側にあるものを無視するとよく分かる。
人間の側にあるものとは、知性、知識、経験、思考、認識、記憶、その他もろもろの、人間の側に存在する知的活動のことだ。
すなわち、知的活動を否定すると、この宇宙にはそんなに多くのものは存在しない。
実際にあるものは、ほとんどが物理だ。それも、人間の側にある「エネルギー」とか「作用」とかいうことは存在しない。そのようなものはすべて人間がでっち上げたものであり、宇宙にはそもそも存在していない。宇宙に存在するものは「力」と「場」であり、それは決して人間の作り出したエネルギーという既成概念とイコールではない。
そして、数学は要らない。数学は宇宙のそのものを分かろうとするだけではなく、人間の考えた理性の世界まで含めて分かろうとしている。そのような人間の考えた理性の世界とは、すべて人間がでっち上げたものであり、宇宙には存在しない。宇宙には四則演算とか数式や公式とかシグマ記号などというものはない。それらは宇宙にはそもそも存在しないものを、人間の知性でも理解可能になるように、分かりやすい方法として作られたものであり、数学の命題や方法はすべて人間が「仮のもの」としてでっち上げたものにすぎない。
だから、そのように考えることで、むしろ、歴史なんか学ぶ意味がないのが分かる。歴史は既に過ぎ去った過去のものであり、現在や未来には関係ない。歴史を学ぶことで分かるのは過ぎ去った無意味な世界であり、そのような世界は宇宙にどこにもないにもかかわらず、記録にだけ残っている。
最終的に残る分野は、ただひとつ、生物だけだ。なぜなら、地球における賢いものはすべて生物だからだ。それはむしろ、人間という存在しか考える意味がないとして、人間とは早い話生物にすぎない。そして、人間という存在を考える意味がないとして、それならば人間以外には生物しか存在しない。だから、生物は人間しか考えないのであっても、人間を考えないのであっても、分野として正しいのだ。
また、IT技術はおかしな機械だ。なぜなら、人間が不得意とすることをITは得意とし、人間が得意とすることをITは不得意とするからだ。
人間にできないことを軽々と余裕で行う代わり、人間が簡単にできることがどんなに頑張っても実現困難な機械技術、それがIT技術だ。
だから、IT技術を勉強すると、おかしな人間になる。人間が簡単にできることをやろうとしなくなり、人間が絶対にできないことであってもできるような気がするようになる。それは多少のおかしな知性であれば許容範囲だが、本当におかしくなってくると、パーソナリティ障害のような精神障害になってしまう。
だから、精神障害、あるいはもっとそれが進んで知的障害になりたくないのであれば、情報という専門分野は選ばないほうがいい。世界がどんどん知的障害のように馬鹿になっていくのはIT技術のせいである。
ITはおかしな機械だ。中でも、プログラミング言語であるC/C++言語はもっともおかしい。C/C++はIT技術者の間でも嫌われていて、抽象的な数理システムであるはずなのに、実際はあまりに手続き的かつ機械的な書き方をする。行う処理をすべて逐次的に書かなければならず、数学よりも機械に近すぎて、抽象的な発想が難しい。
そのせいで、C/C++エンジニアは、まるでC/C++の「機械のやり方」で世界のすべてを考えるようになる。頭脳も心も感情も記憶も精神も認知も、すべてが機械のロボットのようになって、いわば「人間という生物よりも退化した生物」になってしまう。
一度退化した生物を元に戻すためにどうするべきか、それは生物を学ぶことである。なぜなら、生物を学ぶことで、人間が人間に得意な能力を取り戻し、人間にはできないことがはっきりとできないと分かるようになる。だから、IT技術者で本当におかしくなった人間は、生物学を学んだほうがいい。
このように書くと、「存在するか存在しないかなどはどうでもいい」とか、「人間の側にしかないものを学ぶことで賢くなる」と人々は言う。
だが、実際のところ、存在しないものを学ぶのは、ユダヤ教の神のように、存在しない神をかたくなに存在すると言って信じるのと同じようなことだ。
それこそ、古代や中世の人々が神を信じていたのは、神を信じることで賢くなるからだ。学校のようなものがなかったため、人々は賢くなるために宗教を信じるしかなかった。
そのような宗教と同じことをしたいのであれば、存在しない物理や数学や歴史を学ぶことも有意義であるとは言えるかもしれない。
だが、存在しないものを扱い、存在しないものを研究し、存在しないものを崇めるということは、とても空虚で無意味だし、人間の学習や研究行為として間違っている。
そう、だからこそ、生物学を学ぶことが正しいのだ。
本当は、むしろ、物理や数学を学ぶのであれば、いっそ先祖返りして宗教を信じることも間違いではない。歴史において長く信じられてきたものは物理ではなく、宗教だ。それこそ、宗教にはたくさんの知恵があるし、その知恵には今でも活用できるような伝統的な正しい戒律がたくさんある。それらを信じていたのには理由がある。だから、宗教を簡単に「神はいないから信じない」とすることは誤りである。
そういうわけで、社会科を学ぶのは正しい。なぜなら、この世界には社会ぐらいしか存在しないからだ。
社会について言えることは、今の社会ではなく、少し古い社会を学ぶことが有益だ。
なぜなら、現代の「民主主義」などは、最近のほんの少しの時代に生まれたものにすぎない。
最近生まれたものを学ぶ意味がない理由、それはすぐに変わるからだ。たとえば、バブル経済のようなものは、昔は右肩上がりに日本の株価が上がり続けると信じていたが、そうではなく、単なるバブルになって泡のように弾けて崩壊したことが分かった。
それと同じように、最近生まれた民主主義のデモクラシーの思想は、最近だけを見れば賢く見えるが、未来において最後まで正しいとは限らない。
むしろ、社会の過度なIT化や、自然環境の破壊や異常気象から見ると、民主主義もまた間違っていた、ということが、既に明らかになりつつある。
すなわち、昔の社会、大日本帝国や江戸時代以前の封建主義の身分社会や階級社会は、決して間違いではないということが分かる。今の民主主義がどうなるかは、未来においてしか分からず、評価はすぐに変わり、正しかったものはすぐに間違っていることが明らかになるのである。
そのように考えると、まさしく生物を学ぶのが正しい。生物は歴史の宝庫であり、人類の大先輩だ。アンモナイトのような過去に絶滅した生物も、オウムガイのような今でも現存する古くから存在する生物も、人類よりもはるかに長く古くから生きている。そのような生物こそが、「究極的にもっとも正しい社会科」であると言えるのである。
最後に、昔の僕は心理学だけを究めた人間だった。
中学時代にいじめられた経験から、どのような時にいじめをしたくなるか、ということを考え、そこから、社会環境をどのようにすれば自由なまま平和にできるか、ということを考えた。
そこから、僕は「特殊な環境の中では分からなくなってしまうことが、その外に出ると分かるようになる」ということを知った。
そこにあったのは「環境の適応」と「いつ何を本能的にしたくなるのか」ということを照らし合わせて、重ねることで得られた「環境そのものを変える」という真理だ。
同時に、インターネット上のさまざまな文章を読み、掲示板で議論することから、僕は「人がいつどのようなことをしたくなるのか」ということを知り、いわば操り人形のような、あるいは人体実験のような、ネット上での言葉の口論における行動実験を行った。
そして、僕は社会のさまざまなことを知り、社会経験を積み重ねていった。ひとつの社会をきちんと詳細に詳しく知り、そこに集まる人々の人間性を知った上で、その社会環境を基本の社会として、さらに多くの社会のことを分かっていく僕は、次第に自分の中に独自のユニークでオリジナルな数学を作るようになった。
そして、最終的に、僕はオープンソースの活動をした結果、成功も失敗も喜びも後悔もすべてを味わった。その上で、歴史的な意識をすべて精神の中に吸収していき、自らの精神そのものが歴史と一致するようになり、精神と世界の「実体化」を行い、最終的に仏の悟りへと僕は辿り着いた。まさしく、「仏」こそがもっとも正しかった。
その仏になった自分が分かったこと、それもまた生物学だ。すなわち、地球にはさまざまな生物学的な歴史があった。いつどのような地球だったのかということが、今の地球のさまざまな環境に続いている。だからこそ、生物学を学ぶことで、仏の悟りを得ることができるのである。