別世界の可能性を信じよ。
この世界とはまったく異なる、新しい世界、あり得ない世界、まったく違う別世界の可能性を信じよ。
大人たちが「何も分からない」と思っているのは、そのような「別世界の可能性」が分かっていない。
大脳を使ってこの世界を捉えるためには、別世界の可能性を信じなければ、何も分からない。
ただし、悪い世界のほうが多い。
だから、悪い世界をたくさん経験したほうが、この世界を分かるためには近道だ。
ヘーゲルのような哲学者になるために必要なことは、悪い世界をたくさん経験することだ。
そして、そのような悪い世界がたくさんあって、その上に、今のこの世界、かけがえのないたったひとつの現実世界は存在するのだ。
今までの人生で培われた、自らの経験から分かろうとせよ。
自らが培った自らの経験を大切にし、積極的に新しい経験をしようとせよ。
経験と認識から、「同一化」して分かろうとせよ。
その経験や認識と「合一」になり、その経験や認識がもともとあったその場所を思い出し、その場所にいた過去の自分の体験を再体験するように、「認識の再体験の合一化」から分かろうとせよ。
深層心理を分析せよ。
深層心理を、単純に分析せよ。「今自分が何を知って何をどのように捉えているのか」「自分は何をやりたくてそれをやっているのか」ということを、単純に分析せよ。
複雑すぎる分析は要らない。より、自らの自我を単純に考えよ。
単純に捉えられない時は、できるだけ細部まで部分化して、それぞれを単純な「自我」や「自分の今(あるいは過去の)生きている環境」の部品の関係性に捉え直せ。
人間関係も、環境の適応も、単純化すればそれなりの関係性のある小さな部品になる。
そして、環境における個人の「社会性」を考えると同時に、人々が行動する「動機付け」を証明し、なぜ、人はそのように行動するのか、人生でそのように考え信じるのかを確かめよ。
それらが、この世界を完全に理解する唯一の方法である。
世界は変えられる。
世界を変えるための方法を考えよ。
世界を変えるために、支配する必要はない。
世界を変えるために、権力で支配する必要はない。もっと別の方法で、この世界は変えられる。
そのために、もっとも効果的な世界を変える方法を考えよ。
その視点から見た、この世界を考えよ。
この世界の、その立場、その認識、その存在、その人間の視点から、この世界がどのように見えているかを考えて、その人間の考え方や行動との因果関係を考えよ。
「その環境からはその世界がどのように見えるのか」「環境を変えた時にどのように見え方が変わるのか」ということを、体験的に、「自らの環境に自らの深層心理は支配される」ということから考えよ。
また、「過去の自分は何をどのように考えていたのか」ということから、この世界そのものの「本来のこの世界」を捉え直せ。
そして、さまざまな世界を経験し、「体験的にこの世界を変えるチャンスがどこにあるのかを理解する」ということから、「本来子供たちのためにどのような環境を与えてやるべきなのか」を考えよ。
そうすれば、政治家になって権力によってこの世界を支配しなくても、「言葉の力」だけでこの世界は変えられる、ということを、自らの実際の体験から理解することができるだろう。
心の働きから、環境を物理的に理解せよ。
「その時心がそうなる」ということは、「その時世界がそうなる」ということと同じ意味である。
すなわち、心がそうなるということは、世界がそうなるということを意味している。
歴史とは意識であり、社会性を持った環境において、みんなの意識がそうなるということは、歴史の時代において、世界がまさにそうなるということを意味している。
そのような心の働きについて、物理的に理解せよ。
すなわち、心を再体験可能な機械と見做し、心がいつどのように体験をするのかということから、心がどのように在るのか、という「心の在り方」を、社会性を持った環境の構成員の中で理解しようとせよ。
そうすれば、子供たちがなぜいじめをするのかということを理解し、いじめのない、平和で平穏な「安心できる社会環境」を築くことができるだろう。
深層意識のレベルで、「環境から自由になる」ということを考えよ。
一度、辛く苦しい環境を経験し、そこから自由になった経験をし、そこでさまざまな人生経験を培った上で、もう一度、今度こそは負けない、逃げないと信じた上で、辛く苦しい経験に再び挑み、勝利せよ。
自らが、みんなから受け入れられたという経験をしたことで、逆に、人々のことを今度は自分が受け入れるという、そのような境地に達した人間は、どんなに逆境に立ったとしても、負けることはない。
自らの確固たる正しい人生経験を一度知った人間は、どんなに逆境に陥ったとしても、最後まで諦めず自らの正しい信念を信じて、戦い続けることができる。
地獄などどうでもいい。地獄など一切辛くない。有限の時間で終わるかどうかが心配なだけで、今の自分の地獄の状況を、自らは何も苦しいとも辛いとも感じない。
「哀しみ」がもしあるとしたら、それはみんなに対する恨みや憎しみではなく、「自らがこの世界を破壊した」ということが哀しいだけだ。だが、それでも、それを辛いとか苦しいとかは一切思わない。なぜなら、その破壊している現状は「今だけ」であり、自らが信じる「おそらく達成するだろう希望の未来を実現した境地」においては、そのような破壊している現状はすべて覆されると、自分だけは世界の中で唯一ひとりだけ分かっているからだ。
世界がどんどん破壊される中で、人々は哀しみの絶望を感じるだろう。だが、その哀しみの絶望は嘘だ。なぜなら、自分自身は最後に必ずこの世界を再び救うのだということを分かっている。それを既に知っているし、信じている。だから、どんなに世界が自らによって破壊されても、自らはその破壊を信じない。必ずこの世界を救うのだと、信じて戦う自分が、目の前の今、ここに存在するからである。
そのように、一度すべてを経験すると、人間は何も辛くなくなる。17年という長い時間であっても、一度も目を逸らすことなく前を向いてまっすぐに戦い続けることができる。振り返るのは、最終地点に到達してからでいい。今はまだ戦いたい。どんなに辛く苦しい地獄でも、自分にとっては辛くない。綺麗事や強がりではなく、その信念と理想と希望を僕は信じているからだ。
はっきり言って、神を信じないものは全員馬鹿である。
神を信じないと、絶対に間違った人生を生きる。
神を信じなければ、正しい人生は生きられない。
神を信じない人間がいくら賢くても、それは賢くない。神を信じるものしか、正しい宇宙の真理に到達することはできない。
君が神を信じないからといって、僕は君のことを批判したりしない。だが、神を信じない限り、君は絶対に賢くならないということを僕は既に分かっている。
だから、君が賢くなりたいのであれば、僕は「神を信じるべきだ」と言う。
社会主義を信じるな。
社会主義を信じるものは、頭が狂って馬鹿になっている。
社会主義者は、「資本主義者は傲慢で強欲だ」と言うが、実際、傲慢なのは、社会主義経済を行って許されると信じている、社会主義者のほうである。
自ら稼いだ金を使って生きる、自らが稼いだ金は自らのものである、という私有財産を認める権利は、誰もが正しいと信じているものであり、それを間違っているという社会主義者は、社会秩序への挑戦だ。
社会主義者は、社会主経済が成り立つはずがなく、誰も社会主義経済を望んでいないにもかかわらず、国家を転覆して社会主義経済を実現しようと企む。そしてそれは必ず失敗する。
真に正しい思想とは何か。
真に正しい思想とは「自由」である。
自由を信じないものには、何も分からない。普通のことも、知性あることも、賢いことも、正しいことも、すべて、「自由」を信じるものにしか分からない。
自由こそが正義であり、自由を信じないものには、絶対に何も分からない。
この世界には、自分の敵しか存在しない。
言葉の上で、いくら「敵でなく味方を作れ」とか、「壁を作るな」とか、「自分から信頼して友達になろう」とか言ったところで、それらはすべて綺麗事であり、すべて偽善である。
実際は、敵になるかどうかは自分の行いではなく相手の行いで決まるのであって、壁を取り壊すことは簡単ではないし、自分から信頼しても馬鹿を見るだけだ。
必要なのは、敵が生まれた時に、その敵に支配されないようにすることであって、自分の嫌いな人間や悪い人間とは関わるべきではないし、嫌いな人間にはできるだけ支配されないように、できるだけ近寄らないようにするべきだ。
また、この世界には敵しか存在しない。「敵対するな」という教えは、どう見ても間違っている。すべては敵であり、自らの命を狙う犯罪者予備軍のようなものだ。だから、絶対に学校やマスコミなど信頼してはいけないし、絶対に日本政府や役所や商用のIT業界などを信じてはいけない。それらは最初からすべて敵であり、関わったところで良いことは何もない。最初から関わるべきではないし、関わるならば相手に支配されず、自分のほうが支配できる場合にのみ関わるべきである。
だが、これとキリストの教えは矛盾しない。キリストは、「迫害者を愛し、自らの敵のために祈れ」と言っている。まさに、それは正しい。なぜなら、この世界には敵しかいないからだ。敵しかいないのだから、愛するべき対象も祈るべき対象も敵だ。だから、堂々と迫害者を愛すればいいし、堂々と自らの敵のために祈ればいい。
僕がかつて信じていたのは、「自分がしなくてもみんながしてくれる」という発想だ。
たとえば、僕がLinuxやオープンソースを開発しなくても、みんなで開発しているから、僕自身が何もしなくても、Linuxとオープンソースは開発され続けるだろう、という「他力本願」だ。
それが、まず、間違っている。
僕はこの考え方を発展させて、自分が社会環境、たとえば学校環境や生産手段に基づく資本主義社会を、改善しなくても、みんなが改善しやすくすることで、みんなによってこの世界は変えられる、変えられ得る、ということを信じていた。
そこにあったのは、「自分がしなくても、みんながしてくれるし、第一にそのようなみんながしてくれることをしやすくすればいい」ということであり、これを僕は「自然の変化に促す」と考えて、万能の魔法のお鍋のように考えていた。
だが、実際は、そんなことでこの世界がよくなるわけがない。
現に、僕がLinuxとオープンソースに貢献していた頃は、ネットのLinuxコミュニティも栄えていたのに、僕がそれらに関与しなくなって、僕自身がプロジェクトから去った時に、Linuxとオープンソースは衰退した。そう、あの時代にあのように考えてLinuxとオープンソースをやっていた人間は、ネット上にたくさんいるように見えて、本当はたったひとり、自分だけだった。
結局、やっている人間がネット上にたくさんいるように見えて、世界は思ったよりも狭く、ほとんど自分ひとりでやっているだけなのに、気付いていないだけにすぎない。
やるべきは「自分ひとり」であり、ほかの誰でもない。自分が一歩踏み出す勇気を持たなければ、ほかにやってくれる人間など、いるようでどこにもひとりもいないのだ。自分がやらなければやってくれる人はほかにいないのだと考えよ。
いくら「人為的支配ではなく自然の変化に任せる」と言ったところで、それもまたどうでもいい妄言だ。自分のやりたいことをやるのは自分だけであり、ほかの全員はすべてガラクタだと考えよ。
「自分がしなくてもみんながやってくれる」と考えるのは、引きこもり的な考え方であり、世界を操り人形にしたいだけだ。自分のやりたいことをやってくれる人間は、自分以外、誰ひとりいないと知れ。そして、自分以外のすべては自分と考え方の異なる他人であり、実質的に全員敵であり、真の味方は自分だけだと確信して行動せよ。
ここまで、まるで自分が世界で一番賢いかのようなことを書いてきたが、それは真実ではない。
僕はまったく馬鹿な人間で、落ちこぼれで、みんなと同じことがまったく分からないし、まったくできない。
長い間続けてきたピアノやデザインでも僕はみんなよりもレベルが低いままだし、10年以上通っている英会話についても全然話せるようになっていない。
特に、放送大学の教科書などを見ていると、数学の教科書も、物理学の教科書も、あるいは哲学の教科書でさえ、僕には絶対に分からないような、僕よりもはるかに上の賢い内容を教えている。
だから、僕はまったく、ほとんど何も分かっていないし、まったく優れた人間ではない。
この世界で僕はまったく最低レベルの人間であり、何ひとつ賢い点はない。
昔の僕が賢かったのは、中学生の中でも優等生だった僕が、何ひとつ最初からできるはずのないLinuxとオープンソースをやっていたからであり、結局Linuxとオープンソースはできなかった。だが、その活動や研究の経験の中でさまざまなことを知り、世界のことを自分で自由自在に考えられるほどだった。
そのような賢かった自分自身も、大人になるにつれて僕は失い、まったくその時に簡単にできていたようなことさえ、今の僕には決してできなくなった。
結局、僕は世界に存在してはならない愚かで馬鹿な人間であり、このような人間が賢いわけがない。賢いのはこの世界のみんなであり、経験や役割だけを見るのではなく、知性や知識を見たとしても、僕よりもみんなのほうがはるかに賢いと言えよう。
そして、みんなが賢すぎて、僕はそのみんなのレベルにまったくついていけない。もっと簡単なことをやりたいのに、その簡単なことをやりたいと思うモチベーションすら続くことはない。
そもそも、僕は普段の生活で何もしていない。
ネットでエロを見るぐらいしか、能がないのが今の自分だ。
YouTubeでたまに音楽を聴いているが、その音楽が自分のことを愛してくれているということすら、勘違いや幻想だったということが最近分かってきた。
これは運命なんかじゃない。単に僕という愚かな王がこの世界を支配していて、みんなが僕と一緒にいるから、みんなから僕が煙たがられているだけにすぎない。
みんなははっきり言って僕のことが大嫌いだ。早くこの世界から僕がいなくなってほしいと思っている。
結局、僕はX(旧ツイッター)でエロ表現を見るぐらいしか能がない大人であり、かつてはエロかったそのような表現も最近はエロく感じなくなってきて、射精もほとんどできなくなったし、こんな馬鹿は早く死んだほうがいいとしか思わない。
はっきり言って、大学やプログラミングは僕にはできない。
今まで、そんなことが、できた試しがない。
大学の勉強は、放送大学の教科書を読む限り、とても難しい。特に、量子物理の教科書なんか、僕は歯が立たない。絶対に分かるはずがないし、分かろうとすること自体が間違っている。
プログラミングは、かつての中学生の頃の僕ならできたかもしれない。当時の僕は、Perl/CGIでブラウザゲームの基礎の基礎ぐらいは作れていたし、2ちゃんねる専用ブラウザの改良もできていた。あの調子でやったとしたらなんとかできるだろう。だが、今の僕にそうしたことは明らかにできない。
結局、僕には世界にある難しいことなど何もできない。この世界は僕とまったく適合していない。この世界は僕のための世界ではない。
僕のための世界でないこの世界で、僕ができることは、僕のためでないこの世界であってもできることに限られる。それは僕にとってはこのホームページを書くことであり、日記と世界観を書くことだ。
僕はデザインの仕事だけ、それなりにできている。今僕が通っているデザインの作業所は障害者福祉施設であるため、そんなに高いレベルのデザイン技能は求められない。だが、もしこれが他の職場だったとしたら、僕のデザインスキルはお粗末なものであり、プロのデザイナーなんかになれるはずがない。
ピアノもピアニストほどに上手ではないし、作曲やカラオケのスキルもない僕に音楽活動はできない。
そして、偉大な小説などを書く能力は僕にはない。僕には本当に何もできない。だから、僕は今、やっていること以外にできることはないため、今やっていることを単に続ける。その先に何もない景色が広がっていたとしても、それしか僕が見ることのできる景色はなかった。
僕は、この世界を変えたい。
V.W.Pのページに書いたように、僕の「強制的同一化」によって、この世界は僕の「偽物」ばかりの世界になっている。
そのようなこの世界を、なんとかして、素晴らしい世界に変えたい。
だから、僕は大学の勉強などしたくない。僕がしたいのは、お勉強をして100点満点を取ることではない。この世界を最高の楽園にしたいと、いつでも僕は望み続けている。
だから、僕はここで、今一度、この世界を支配する。
必要なのは、精神のレベルでこの世界を騙して、嘘をついて導いて、精神を変えることで全世界を消滅させるような、おかしな「大実験の大計画」ではない、ということを僕は既に知っている。
そのような精神的な小細工では、この世界を救うことはできない。2006年の夏に、世界を救いながらにして自ら滅ぼしたのと同じことであり、いくら世界を操り人形にしたとしても、この世界は救われることなく、必ず滅びる。
だから、僕は真の意味で、今度こそこの世界を救う。必要なのは「神に約束すること」である。すなわち、「わたしは真の意味でこの世界を救う」と、宇宙に宣言し、神に対して約束すればいい。そうすれば、神はそれを叶えてくれるだろう。