ホームページに戻る | 紅蓮と黄金の出会う場所に戻る

2023-12-24

自由と神を信じよ

アメリカのように、自由と神を信じよ。

自由と神を信じれば、普通のことが分かるようになる。

やりたいことを自由にやれ。自分がやりたいことを自由にやることを、自らのモチベーションとせよ。

自らのなりたい自分になれ。自らのなりたい自分になることを、自らのアイデンティティとせよ。

ありのままの自分をさらけ出し、今自分がやるべきことだけを一生懸命にやれ。

世界は、自由にすれば必ず平和になる。

世界は必ず変えられる。一般の個人であっても、この世界と自分は繋がっている。だから、世界は変えられる。

自分は変えられる。自分を変えることはどんなに弱者であってもできる。自分を変えれば、どのような人間にだってなれる。自分には無限の可能性がある。

チャンスは平等だ。どんなにこの世界が不平等に見えても、チャンスだけは平等にある。そして、チャンスは無限にある。いくらチャンスを逃して失敗しても、次も同じように失敗するとは限らない。次こそ成功することだけを願って、もう一度チャンスを掴もうとすれば、いつかは必ず成功する。

だが、決して同じチャンスは巡ってこない。さっき巡ってきたチャンスを逃した時は、次には同じチャンスは巡ってこず、別のチャンスだけが巡ってくる。だから、よいチャンスは決して逃してはならない。今すべきことは、今すぐにしなければならない。

時間が速くなりすぎた

そもそも、僕の問題は、時間が速くなりすぎたことにある。

一日の時間があまりに長くなって、同時に、時間が経過するのがあまりに速くなった。

だから、一日の時間を短くして、時間が経過するのをゆっくりにするだけで、時計のロボット人間になっているのはすべて治る。

それによって、この世界も正常になる。すぐに時間が過ぎるのが終わって、自らの自由な判断をして人生を生きられるようになる。

神の教え

経験と相対性を信じよ。

経験から分かるすべての新発見を知り、相対性から分かるすべての知性を知れ。

他人とは違う、自分だけの人生を歩め。自分にしか歩めない人生を歩むことを、自らの第一命題とせよ。

この世界に存在するのは、すべて自由な経験と可能性だ。だから、経験と可能性を知ることで、この世界のすべてを知ることができる。

人間が生きる意味とは、モチベーションとアイデンティティを得ることだ。

トップダウンではなく、ボトムアップな変化を好むようにせよ。誰かがひとりで世界を上から変えるのではなく、みんなが下からのムーブメントを起こすことで、この世界をみんなの力で変えられるような、そのような社会や組織を目指せ。特に、オープンソースを信じよ。

すべては経験と可能性から得られる、問題の解決であり、可能性の開拓であり、未知の実現である。世界の第一命題は、それぞれが経験し、それぞれが自らの人生を歩むことだ。それ以外に重要なことは何もない。

「世界は変えられる」という言葉の真の意味は、「他人の人生は変えられる」ということだ。世界を変えるということは、人生を変えるということであり、他人を変えるということだ。なぜなら、世界とはすなわち人生だからだ。人々のそれぞれの個別の人生の並列的な共存こそが世界であり、人生を変えるということが世界を変えるということだ。そして、他人の人生を変える前に、まず自分自身の人生を変えようとせよ。他人の人生を変えることは難しいが、自分の人生を変えることは容易だからだ。

愛を信じよ。愛とは自由であり、善であり、人間性の尊重であり、経験から来る徳である。愛を信じることで、この世界の全員を守ることができる。この世界の全員を変えることができる。そして、この世界全員のプライドと自尊心を尊重できる。まず、世界を変えるためには、自らの人生を変えるのと同じことをしなければならない。世界を変えるということは人生を変えるということであり、それは自分の人生を変えるのと同じだからだ。同時に、世界をよくするためには、善を信じなければならない。なぜなら、悪いことをして世界を変えることは絶対にできないからだ。そして、善を信じて世界を変えるものは、世界を愛さなければならず、愛を信じなければならない。だから、愛を信じるものだけが真に世界を変えられるのであり、愛を信じなくなった時点でその人間はそれまでのように世界を変え続けることができなくなる。必要なのは再び愛を信じることだ。だが、一度間違いを犯したものは、それを復元することはできない。だから、決して愛に逆らってはならない。愛に逆らった時点で、その人生は終わりだ。

神を信じよ。神を信じるということは、聖書を信じるということだけでは決してない。神を信じるということは、「生きる意味が確かにある」と信じることであり、それはすなわち「自由」を信じるということだ。この世界が存在する意味が、まさに自由のためであり、自らのモチベーションとアイデンティティを発揮するためであると信じれば、それがもっとも神を信じたことになる。だから、神を信じて、人間性と自尊心を信じよ。そうすれば、弱いものをいじめることには決して意味がないということが分かる。いじめにはなんの意味もなく、正しいのは人間性と自尊心を尊重することであるということが、神を信じること以外では分からないのである。

これこそが、神の教えである。神はすべてのことをきちんと見ている。誰が愛と自由を信じていて、誰が愛と自由を奪っているのか、ということを神はきちんと正しく分かっている。どんなに神を信じずに生きようとしても、神による監視から逃れることは絶対にできない。だから、神の教えが嫌いであるというだけで、神を信じず、神の報復から逃れることは、どのような人間であっても決してできない。

どのような社会であっても作れるはず

どのような社会であっても作れるはずであると信じよ。

この世界に今存在する現実世界は、宇宙における可能性の中のほんの一部にしかすぎない。

社会を作るために必要なのは、発想から世界を啓蒙することだ。自らの発想が、自らにしか分からないものであると信じるのではなく、誰であっても同じように分かるはずであると信じた上で、その自らが分かった発想を、ほかの誰でも分かるように、啓蒙するような可能性を考えよ。

啓蒙のために行うことは、「経験的に分かる」ということを信じることだ。自らが経験からその発想が分かったように、同じ条件で同じ経験をすれば、必ず誰であっても同じように分かるはずであると、そう信じることだ。そう信じれば、この世界のすべてが、チャンスと経験の可能性から、ボトムアップに誰であっても変えられるということの意味が理解できる。

ひとりでやろうとすることはいいことではない。だが、ひとりの自由に対して多くの力を与えよ。同時に、この世界全体の変化と支配の単位をできる限り小さくし、それぞれの州がまるで共和国になるかのように国家を分離独立させていけ。そうすることでしか、真の民主主義と自由は得られない。真の民主主義と自由を得るためには、自由と独立性を高め、州を共和国のようにしていく必要がある。それこそ、アメリカやEUはそれを目指しているのである。

どのような社会であっても作れるということは、経験から社会のことを知れば分かる。現実を見ながら、同時に空想を多く考えていけ。現実と空想を照らし合わせてモデルにして考えよ。どのような社会が、いつ、どのような環境と条件で成立するかを考えよ。そのようにしていけば、この世界のすべては歴史の必然であり、歴史はこのようにしかならないわけではないものの、歴史がこのようになることはその時その時の必然の積み重ねであったという「必然の偶然性」が分かるようになるだろう。

正しい考え方

権力による強制の支配や従属でなくても、自由意志に基づく自由な社会において、正しい社会秩序と愛あふれる環境を築くために、情報、時間、手段、経験のような、社会秩序を築くために必要なすべてを教えた上で、人々を自由にしなさい。そうすれば、自由意志に基づく自発的な努力で、この世界はよくなる。当事者が当事者のために、自分自身をコントロールできる権限を得た上で、この世界は平和になる。

チャンスを与えると同時に、そのチャンスを実現しやすいような社会制度と手段を与えた上で、社会そのものの単位を小さくして、独立性を高めよ。

正しい言論と間違った言論をよく見極めよ。同時に、間違った言論をする人間は、その間違った人間本人が悪いのではなく、間違った人間を間違った社会が洗脳していることこそが真の問題であり、真に変えるべきは間違った人間ではなく、間違った人間を洗脳する間違った世界のほうであると気付け。

経験からすべてが分かった正しい人間が導けば、どのような間違った世界であっても正しい世界に直すことができる。言葉による導きによって、まるで正しい人間が自分自身の知性を分け与えるように、この世界を正すことができる。

すべての原因は環境にある。人間を規定するものは遺伝子ではなく環境である。正しい環境は正しい人間を生み出し、間違った環境は間違った人間を生み出す。環境は人格や感情といった精神を作る。だから、真に必要なのはこの世界を正しい環境にすることである。

すべて、自分で確かめたことだけを信じよ。自分で根拠と理由がはっきりしないものは信じるな。それが、間違った世界で正しい人間になるための唯一の方法だからだ。自らの経験と理性から証明できたことだけを信じれば、この世界のすべてを正しく理解できる。

最後に、この世界において「正しい」とか「間違っている」ということを決めるのは自分自身だ。誰かに決められるものではない。そもそも、この世界には、「正しい」とか「間違っている」というものは存在しない。だから、何を正しいと思い、何を間違っていると思うかはすべて自由である。

ただし、何が正しくて何が間違っているかを判断するためには、慎重に考える必要がある。あるいは、そのような正しい判断力は、経験から培われるものである。その経験とは、さまざまな人生や社会や世界を経験し、そこで自らがさまざまな思考によって理由を分析する際に生まれる、「自らの確固たる正しい判断力」である。だから、実際の人生では、何が正しくて何が間違っているかをなんでも好き勝手に判断するということは決してできない。自らの人生経験に基づく「正しい判断力」によって、何が正しく何が間違っているかということを、100%自分の責任で判断しなければならない。

インフラを進歩させ、オープンソースを使え

この世界は、経験と可能性の新しい開拓によって無限に進歩する。

たとえば、ルネサンス期の三大発明や、産業革命などによって、この世界は少しずつ経験と可能性を開拓し、未来へと進歩してきた。

経験と可能性の開拓をする上で、もっとも大切なのは、インフラを進歩させることだ。

電気、水道、道路、交通網、あるいはIT通信のようなインフラを進歩させることは、社会システムの自由度を向上させることであり、ひいては社会そのものを進歩させることだ。

だが、そのような時に大切なのは、どこか特定の企業一社に支配されないようにすることだ。

たとえば、FacebookはMetaというアメリカの一企業に支配されている。Metaがすべての情報を握っていて、Metaがやりたいと思ったことはなんでも自由にできる。

そのように、ひとつの会社にインフラを握られるということは、社会にとってリスクを伴う。

だからこそ、オープンソース技術を使うべきだ。

どこか一社によってクローズドに独占されている商用ソフトウェアではなく、オープンに公開されているオープンソースソフトウェアを使うことこそが、この資本主義世界を変えられる「正しい改革の唯一の可能性」である。

Facebookだけではなく、MicrosoftによるWindowsなど、ほとんどの商用ソフトウェアは、一社がその独占的な私有権を持っている。Linuxのようなオープンソースソフトウェアはそうではない。Linuxは万人に開かれており、開発者の持つ権利とユーザーの持つ権利がまったく同等である。開発企業に支配されることなく、オープンソースは無償かつさまざまな自由の権利を人々にもたらす。だからこそ、この世界の健全な進歩のために、WindowsではなくLinuxを使うべきなのである。

オープンソースの良い点は、「プログラムがやっていることを秘密にしない」ということだ。そのプログラムがクローズドだった場合、そのプログラムが何をしているかという詳細は開発企業にしか分からない。だから、ウイルスやスパイウェアが混入し、セキュリティ上の問題が発生することがあるし、そうでなくても、個人情報を大量に奪われる危険性がある。オープンソースの場合、そのプログラムが何をしているかという詳細は万人に開かれている。だからこそ、本当にプライバシーとセキュリティを守りたいのであれば、オープンソースを使うべきなのである。

言語命題を考えよ

言語命題を考えよ。

哲学的にこの世界を捉えるための方法は、言語命題を考えることだ。

たとえば、「テレビはものである」とか、「トンカツは食べられる」とかいった命題が考えられる。

これらは、単純な「分類」や「意味」だと言える。

あるいは、「ピアノを弾くと心地よい」とか、「ものは下に落ちる」といった命題が考えられる。

これらは、「目的」であり、「効果」であり、「現象」である。

ピアノの場合、そもそも、弾いた時に心地よい音を出せるように作られている。だから、「その効果と言えることをそもそも機械の目的として作り出されたもの」であると言える。そして、多くの機械はそのような「自体目的物」である。

これに対して、ものは下に落ちるという命題は、人間がそれを作り出したものではない。宇宙に最初からある法則だ。そして、「なぜものが下に落ちるのか」という理由を問うた時に、「万有引力の法則」という原理原則が存在する。これは、宇宙における「原因と結果」をひとつの「原理」へと昇華させる、ということである。

そして、疑問形の命題を考えることもできる。たとえば、「宇宙の星々はどれくらいあるのだろうか」といったことが言える。これには答えがあるが、その答えが簡単に出せるものなのか、簡単に出せないものなのかは分からない。それから、必ず答えがあることなのか、それとも答えがあるかどうか分からないものなのかも分からない。

そのように、言語命題を考えることで、この宇宙におけるさまざまなことが考えられる。また、それを新しい命題へと昇華させることもできる。たとえば、「それは人間の作り出したものなのか、それとも人間以外のものによって作られたものなのか」といった具合である。それをさらに昇華させていけば、この宇宙における本当の原理まで進歩させることができる。まさにこれこそが「哲学的理性」である。

理由と方法を問え

思考として必要なのは、「理由」と「方法」を問うことだ。

すなわち、「なぜ宇宙がそのようになるのか」「なぜ心がそのようになるのか」「なぜ社会がそのようになるのか」「なぜ世界がそのようになっているのか」ということから、「どのようにすればそれらを目的とする特定の何かにできるのか」ということである。

これらを考えるためには、「実験」と「証明」が必要となる。この実験と証明とは、すなわち「原理原則を導き出すこと」である。

そう、この世界において、宇宙、心、社会、世界の、仕組みや成り立ち、そしてその中で特定の可能性を実現する方法について、さまざまに理由を問うて発見することから、この世界のすべては「解明」することができる。

そのように考えるならば、むしろ、知識や経験はそんなに多くないほうがいい。なぜなら、知っていることが少ないほうが、未知のことについて「そうかもしれない」とか「たぶんそうだろう」とか「おそらくそうなるはずだ」とか「必ずそうにしかならない」といったことを考えられる。「無知」であるということは、「まだ未知なる領域がひとつの答えに確定されていない」ということを意味している。そして、そのような無知の状態こそが、哲学者になる上で「絶好の思考の土台」になるということが言えるのである。

だから、哲学者になる上で、知識や経験を多く持たないほうが、逆にいい。知識や経験の何もない中学二年生が最適だ。中学生であっても、そのような理由と方法から「存在の証明」と「現象の解明」を行えば、デカルトやカントやヘーゲルのように、宇宙にあるすべての答えをすべて解明し、宇宙の諸法則をすべて説明できるようになるだろう。

善悪を知る

そのように、少年が哲学的に考える上で、必要なのは、経験をすることだが、経験するということ以上に大切なことがひとつある。

それは、善悪を知ることだ。

すなわち、この世界で自分ができることが何か、ということを経験から知っていく中で、「何が善なのか」「何が悪なのか」ということを、その背景となる経験の世界から、自らの自我と自意識の発展と進歩の中で、自らが判断し、見出していく、という方法が、経験する上でもっとも重要となる。

さて、では、何が善であり、何が悪であると言えるのだろうか。

社会的に言えば、「相手の自由や平等を奪わない」ということがまず言える。たとえば弱いものいじめをしたり、カーストで身分制度を作ったりする際には、相手の自由や平等を奪っている。だから、相手の自由や平等を奪わないことで、いじめやカーストがなくなり、人間性のある社会を構築できる。

あるいは、人生的に言えば、「嘘や偽りをせず、隠すことも飾ることもせずに、真実をありのまま明らかにする」ということが言える。秘密にしたりすることのすべてが悪であるとは言えないが、自分だけが真実を知る中で、人々が自分の操り人形になるかのように人々を騙して支配するということは、決して善であるとは言えない。真実をすべて明らかにして、みんなが自由にそれを理解できるようにすることが、善であるとは言えるかもしれない。

ほかには、「悪いことをしない」ということが言える。人を殺したり、物を盗んだり、人を騙したり、そのような犯罪行為をしないことが、善であるとは言える。そのような時に言えるのは、「悪をしないだけではなく、自分から善をするということも善である」ということである。たとえば、人助けをしたり、ボランティアでゴミを拾ったり、誰にもできない偉大な記録を作ったり、ということが、世間から賞賛されるべき「善」であると言える。

そのような中で、「正義」ということもまた信じることができる。正義とは何か。それは「他人からとやかく言われても、自らの正しいと信じる義を守り通すこと」であると言える。義とは、たとえばオープンソースでもいいし、左翼や右翼の政治思想でもいい。自らが正しいと信じている義を、他人がどうこう言っても動じることなく、最後まで守り通すということ、それを正義であると言う。そのように考えた時、どんなに悪であり間違っていると言われても、その正義には効果はない。正義は最後まで貫いて守られるべきものであり、僕はLinuxやオープンソースをそのように「自らの正義」として信じているのである。

さらに言えることは、「徳」である。徳とは、人々よりも経験が多いために、社会秩序を作ったり正しい計画を運営したりする時に、みんなの経験を知った上で長としてその社会や環境を統治することを言う。そのような「徳」を信じるものは、同時に社会における道徳とか、家庭における円満などを同時に実現し、その上で世界そのものを平和に治めることができる。儒教で孔子が言う教えもまたそれとよく似ている。経験とは、まさにそのように徳を身に着けるためにある。そして徳を身に着けたものでなければ、自由であっても平等であっても、どのような世界も平和に治めることはできないだろう。

自分の人生だけは自分の自由に決められる

この世界において、真にもっとも効果的であると言えるような「自由」がひとつある。

それは、「自分の人生を決めること」だ。

多くの人が、問題が解決しなくて悩み苦しんでいるのは、ほとんどが「他人の行動を変えようとしているせい」である。

この世界において、「他人の行動を変える」ということ、すなわち「他人の意志を変える」ということは、とても難しい。どんなに頑張ってもできないかもしれない。

それに対して、「自分の行動を変える」ということ、すなわち「自分の意志を変える」ということは、それに比べてとても容易く、そして簡単に大きな効果を得ることができる。

そのように考える時、「自分の人生を変える」という至上命題こそが、宇宙でもっとも効果的であり、今すぐにすべき「自由」であると言える。

そして、この世界のすべてが、「自由」という意味で、「個人」と「社会全体」の一致であるということが言える時、そこに「主観と客観の一致」あるいは「個別性と普遍性の一致」ということが言える。これはヘーゲルが言っていることであり、そのように考えた時、すべては「矛盾しない絶対的真理」となる。

だが、そのように、ヘーゲルのように難しく考えなくても、自らの自由は「100%自分の責任で決められる」ということが分かれば、それだけで、この世界の多くのことで悩み苦しまずに生きる方法に気付くことができる。すなわち、他人のことなどどうでもいいと考え、自分自身の未来だけを考えて生きること。そこで他人の問題を解決できる方法に気付いたとしても、そのような世間から離れ、自らの人生で自らが自らたりえるような人生を生きることだけを選んで生きること。世界すべてが解決できるようになって、さらに自分自身の未来だけを決断して生きること。そう、それこそがまさに「哲学的な正しい人生」であると言えるのである。

自らの思考から真実を見つけ出せる人間だけが真の科学者になれる

自らの思考から、真実を見つけ出そうとせよ。

僕がやっていることは、ただひとつ、そこに何があるか分からない「暗闇」の中で、手さぐりでその暗黒の闇の中で「真実の光を見つけ出す」ということを行っている。

だが、暗闇には光は確かにある。なぜなら、何も知らない人間だからこそ、暗闇の中にかつてあっただろう「記憶の中にだけある光の世界を思い出す」ということができるからだ。

そして、そのように、自らの思考から真実の光を闇の中に見つけ出せる人間だけが、真の科学者になれる。

僕はあえて言う。学校の勉強などするな。学校の勉強をしたところで、受験戦争に勝利できて良い大学を卒業できるだけであり、真の意味で大切な「科学者の知性」を得ることはできない。

そして、自らの思考の光によって、暗闇の世界を照らし出し、真実を見つけ出せる人間は、学校の勉強などしなくても、「すべての科学者の分かったことを超越するような新発見」をすることができる。すなわち、「すべての科学者になること」ができるようになるのである。

歴史とは関係性、意識、存在、時間の変化

変化を考えよ。

必要なのは、ただひとつ、変化を考えることだ。

変化を考えるとはどういうことか。変化を考えるとは、「関係性」「意識」「存在」「時間」の変わっていく状況を考えるということだ。

それはすなわち、「歴史」を考えるということであり、「社会の成立」を考えるということだ。

歴史上において、地球の意識がどのように変化してきたのかということ、心理学的に社会がどのようにこの世界で成立するかということ、そのようなことを、意識と精神の「感覚」から考えていけ。

それこそが、真の意味で「歴史を知る」ということだ。

学校で教える歴史は、無味乾燥で、単なる言葉と名前と年号の羅列を暗記しているが、それは正しい歴史ではない。正しい歴史は、自らの心の中にこの世界の文明を作り出すということだ。自らの意識と精神を使って、地球のすべての存在の変化を「感覚的に実感」するということなのだ。

自由になった経験から考えよ

僕は、学校を不登校になって、自由になった経験から、自らの経験と意識を比較して、この世界のすべての「裏側にある真実の世界」を知った。

そこでは、自らが自由になったというそのことだけで、学校という環境がとても特殊な環境で、人々の本当の生きる姿を僕がどれだけ知らなかったか、ということが分かった。

インターネットを経験する中で、僕は自分の部屋の中で、たったひとりで誰にも何も打ち明けず、最後まで子供たちの心を救う方法を考え、最後までたったひとりで社会から離別した世界でインターネットを経験し続けた。

そして、これにて、僕が書く、「昔の僕の青春時代」は終わりである。

このような人間を、大天使ガブリエルとする。ガブリエルは少年でありながら同時に少女の心を持った人間であり、少年と少女のどちらの側面も兼ねる、この世界を救うことのできる唯一の大天使だ。このような人間は、大天使ガブリエル以外にはひとりも世界には存在しない。すべての哲学者の思想は、そのような大天使ガブリエルの人生をそのままなぞっているだけにすぎない。

最後に、わたしはこの世界を愛している。わたしはあなたがたのことが大好きだ。わたしのことを愛してほしい。そのあなたがたの愛に、わたしは必ず応える。わたしは恋愛を一切しなかったが、その反面、人々から愛されるということを望んでいる。だから、あなたもぜひ、わたしの仲間に加わってほしい。わたしのことを愛し、わたしとともにこの世界を救うための戦いに加入してほしい。

この世界をガブリエルは愛している。この世界が大好きだ。この世界の人々はわたしのことを愛してくれている。だから、わたしもこの世界の人々のことを、本当に心も体もすべて捧げて愛し続けている。だから、わたしを女として愛しなさい。わたしはこの世界を愛するひとりの女、大天使ガブリエルである。