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2024-05-04

枕草子を図書館で借りた

最近、僕は古文の勉強をしたいと思っている。

大学の生物学を学んで分かるような内容は一通り知った。大学で教える生物学がどのようなものかということはもう分かった。そして、これ以上生物学の勉強をしたとしても、新しい発見はもうできないだろうというぐらいの知識を得た。

最近の僕は、古文に興味がある。古文は昔の日本語だが、今の日本語よりも美しいところがあると思う。

また、僕はかつてフランス語やドイツ語の勉強がしたかったし、今でも英会話教室に通っているが、全然話せるようにならない。これは英語の話し方が「どう話していいか分からない」からだ。

そのような僕にとって、古文を勉強するということが、とてもいいということが分かった。今の日本語とまったく同じわけでないものの、まったく違うわけでもない。こういう言語を僕は探していた。

僕は清少納言の枕草子を読みたい。その理由は、僕は清少納言とよく似ていると思うからだ。まるで僕自身のことを「現代の清少納言」と言っていいほどに、清少納言は僕と似ていると僕は思っている。

枕草子、徒然草、方丈記の三つの作品は、日本の古典の三大随筆と言われていて、放送大学でもこの三つの作品は科目が存在する。だから、その科目を勉強することを目指して、まずは枕草子を読みたい。

それを昨日思って、今日はゴールデンウィークともあって図書館に行って枕草子を借りてきた。もちろん古文で書かれていて、現代語への翻訳も書かれているものを借りた。まずはこの本を読んで、「古文とはどのようなものなのか」ということを知りたい。

枕草子を読んでいる

今、枕草子を読んでいる。

読んでいると、「随筆」という言葉がぴったり。僕がやっているのと同じように、考えたことやあったことや世界に存在するものを全部書いている。おそらく、清少納言も「全部書いて分かるつもり」だ。

それから、僕自身について言えるのは、今まで日本語が分からなかったのは、既に日本語を幼少時代に分かってしまっているせいで、「日本語を新しく分かる」という体験ができなかった。

それが、枕草子を読むことで、日本語ではなく古文ではあるが、「日本語を新しく分かる」という体験をすることができる。

そのため、枕草子を読めば、僕はきちんと日本語が分かるようになる。

僕は英会話教室に行っているせいで、自分自身の喋る言葉が英語と同じになっている。日本語でありながら、英語のような日本語を話している。この英語のような日本語がみんなと違いすぎて、日本語でのコミュニケーションができなくなっている。英語はあまりに日本語と違いすぎる。

なぜ昔は日本語が分かっていたのに、今は分からなくなってしまったのか、それは虫歯のような病気のせいと、不登校になったせいだ。僕は虫歯になったことで日本語の部分が病気になってしまい、分からなくなった。そして、学校を中学の途中で不登校になってしまい、途中で日本語の勉強が中断したまま終了してしまった。そのような理由で、僕は馬鹿になったわけではないにもかかわらず、日本語だけが分からなくなってしまった。

「文章を書いているのに日本語が分からなくなるのはおかしい」と人々は言うだろうが、ここには複雑な問題があって、逆に僕は文章を書いて神と対話する日本語しか分からない。最近は作業所で仕事をした経験から、普通の日本語はなんとかすれば分かるようになったが、以前はもっと酷かった。本に書いてあることすら分からなかった。

そういうわけで、僕は枕草子を読むことで救われるということが分かった。

僕は枕草子を読む際に、できるだけ現代語の日本語の翻訳を読まないようにしている。翻訳を読まずに原文だけを読む。意味が分からない時は、「たぶんそういう意味じゃないかな」と思った上で、分からないなりに古文だけを読み続ける。そうすることで、僕は「子供時代に体験したはずの新しい日本語を理解する体験」を再びすることができる。そして、それこそがまさに、僕の求めていた「かつてあった正常な知性」だったのである。

放っておけば休める

僕が一番分かっていないのは、「放っておけば休める」ということだ。

すなわち、放っておけば頭の中でグルグル回っている問題はそのうちなくなる。そして、放っておけば疲れは取れる。

そんなに長く待つ必要はない。ただ、そのことが終わるその時までの間に、何もせずに放っておけばいい。

そして、僕はなぜか、そのような「放っておいて楽になる」ということが怖い。

その理由は、放っておいて休んでしまうと、今までの「疲れていたからこそ成り立っていた人間」がいなくなってしまうからだ。

すなわち、単に放っておいて、すべてが終わって、そして休めるようになってしまうと、最近の賢くなった自分自身が消え去ってしまう。

その自分を消し去りたくないから、適当に疲れている状態を続け、いつでも常に「分かり続けたい」「覚え続けたい」「忘れたくない」と思っている。

だが、そのような賢かった最近の自分のことを、そろそろ手放してやったほうがいい。

世界に対して、自らの過ちとして、「昔の自分と同じことをみんなができなくしてしまった」と思っているが、それは悪くない。なぜなら、昔の自分よりも、さらに今の自分のほうが誰にもできない。僕と同じように、疲れた状態を保ったままで、いつまでも女のように馬鹿と化して分かり続けなければ今の僕と同じことはできない。

今の僕と同じことをするのは、人間には不可能だ。だから、昔の僕と同じこともできなくていい。昔の僕だけができて、今の僕ができないとなると、デカルトやカントやヘーゲルのような哲学者になってしまう。そして、それは必ず狂った狂人のサタンになる。だから、そうすると必ず地獄に堕ちる。だから、そのような昔の自分のような人間には誰もなれないほうがいい。

そういうわけで、そろそろ、僕自身、大切だった素晴らしい自分自身を手放すべき時が来た。そういうことが一度分かってしまえば、もう僕の病気はすぐに治る。すなわち、放っておくだけですぐに休める。そして、それですぐに日本語は分かる。昔の自分は日本語が誰よりも完璧に分かっていた。読むという側面においても、書くという側面においても、思考するという側面においても、思い出すという側面においても、超一流だった。それがすぐに復活するだろう。

できることをすべてやってから次に進みたかった

結局、僕がやりたかったこととは、「できることをすべてやってから次に進みたかった」ということだ。

今の自分ができることを、すべてやり終えてから、次に進みたかった。

その理由は、今の自分のままを続ければ、全部のことがきちんとできるはずだと、どこかで分かっていたからだ。

それは、すべて、神を信じたから叶った願いだ。

分かることを放棄したから賢かっただけ

そもそも、僕が昔賢かった理由は、すべて「分かることを放棄したから」だ。

高校に行かず、勉強は自分のやり方で自由にやりたいと思ってIT技術とLinuxを勉強していた昔の僕は、最初から「みんなと同じように分かるということを放棄」していた。

僕が賢かったのは、すべてそのように、みんなと同じように学校で分かるということを放棄したから、みんなとは異なることが分かって賢かった、というだけにすぎない。

だが、分かることを放棄したということは、すなわち大切なことが分からないということであり、その結果、僕は「多くの大切なことが欠落した人間」になった。

そして、すべての「楽」が終わった時点で、そのような「みんなとは異なる賢さ」も消滅し、ただただ「何も分からない地獄」だけを残す結果になった。

結局、分かりたいのであれば、みんなと同じようにきちんと分からなければ分からない。いくらそのような正しい知性を否定し、分かることを放棄したところで、それで分かるのは一時的にすぎない。

小説を読みたい

枕草子を読んでいて思ったのは、「小説や文学は賢い」ということだ。

枕草子は、古文で書かれた清少納言の、はるか昔の文学だが、はるか昔の文学であっても、内容を読んでいるときちんと賢いことが分かる。

すなわち、「小説や文学を読んでいると賢くなる」ということが、まざまざと分かった。

だから、古文で書かれているか、それとも現代文で書かれているか、過去の小説か、あるいは最近の小説か、ということにかかわらず、小説や文学を読むと賢くなるということが分かった。

大人として生きるために必要なのは、大学の専門知識よりも小説や文学を読むことだ。だから、僕はもっと小説を読みたいと思う。

日本語の理解の仕方が分かった

また、古文を読んでいて、日本語の理解の仕方が分かった。

それは、「単語ごとに区切って、感情で理解する」ということだ。

たとえば、音楽を聴いていても、僕は今まで日本語の理解の方法が分かっていなかった。

日本語は、まるでジグザグのように、そして一音一音ごとに噛みしめるように、言い切るように言葉を話す。

そして、その理解をするためには、単語と単語の境界線を区切りながら、単語ごとに感情で分かる必要がある。

今までの僕の日本語の理解の仕方は、完全や完璧を目指すせいで間違っていた。そう、古文を読んで、僕は大好きな音楽の歌詞を理解できるようになった。だから、古文を読んで本当によかった。

藤浪はまだ終わっていない

マイナーでの試合を見て、藤浪晋太郎が「もう終わっている」と思っている人は分かっていない。

藤浪晋太郎、5戦連続失点 4四球でリズム作れず…マイナーで防御率14.09と大苦戦(Full-Count) - Yahoo!ニュース

藤浪晋太郎よ、諦めるな!

ここで諦めず、本当の野球選手としての意地と底力を見せてみろ!

藤浪晋太郎は、まだここで「終わり」じゃない。ここから這い上がれ!本当に絶対に克服不可能に見える壁を、ここで越えてみせろ!

諦めるな、藤浪晋太郎!お前はまだ終わりじゃない。