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2024-02-27

神と世界のことを愛せ

まず、第一に、神のことを愛せ。

そして、第二に、この世界のことを愛せ。

常に、この世界への愛を忘れるな。「自由なままでもいじめをなくすことはできる」という、この世界の「救済の愛」を信じよ。

農作業がいい

現実で経験認識を作るために、もっともよい方法は農作業だ。

農作業をすることで、現実での経験から感情が生まれ、それが精神を浄化すると同時に、現実の世界で、経験認識である「愛」を培うことができる。

そもそも、僕の病気が、疲れているのに歩き回るのがやめられず、休むことができないような症状を発症しているのは、すべて、「経験認識を現実で作ることが怖いから」だ。

なぜ、怖いのか。それは、過去に自分が作っていた経験認識が怖いからであり、同時に、経験認識を作ってしまうと、それだけで戦争で自分が勝利してしまい、同時にこの世界が滅びてしまうからだ。

引きこもりと青春が同じなのが間違っている

僕の病気の根本的な原因は、「引きこもり」と「青春」の経験が同じになっているせいで起きている。

かつての僕は、不登校になった後で、世界とも友人とも家族とも関わり合いを拒否し、自分の部屋からほとんど出ることなく、一言も言葉を発することなく、引きこもりのネット廃人を生きていた。

そのようなネット廃人が狂っていたせいで、どんなに思い出したくても、過去のことを思い出せない状態になった。

だが、そのような引きこもりであっても、人並みの「青春」と呼ばれる体験はあった。そして、この青春は間違っていない。青春という体験がなければ、正常に少年は発育しない。大人になるために、希望と愛あふれる青春を生きることは大切なことである。

そして、僕の問題とは、そのような引きこもりの経験と、青春の経験が一緒になっているからだ。

僕の病気を治すためには、引きこもりを否定しなければならない。だから、僕は常に、引きこもりだった部分をその以前の中学生だった部分に戻している。だが、引きこもりと青春が一緒になっているせいで、引きこもりを治してしまうと、青春も消えてしまう。青春が消えてしまうと、正常な大人としての成長と発育がなくなってしまう。だから、僕はどんどん子供に戻ってしまい、子供から大人に成長することがない、という、「子供から大人にならない病気」になってしまっている。

必要なのは、引きこもりの経験と青春の経験を分けて考えることだ。そして、引きこもりの経験を否定しながら、青春の経験を肯定せよ。そうすれば、僕は子供から大人に成長できるようになる。

経験認識を作る方法

経験認識を作る方法はいくらかある。

まず、「感じる」ことや「思う」ことをすること。これが基本である。僕は精神から経験認識がまったくなくなってしまったため、感情や思いがまったくなくなってしまっている。それと同時に、世界に対する「愛情」もなくなってしまっている。だから、感じることや思うことをすることで、経験認識を作るだけではなく、世界に対する「わたしは世界を愛している」という感情を取り戻すことができる。そこから、この世界を変え得るような「希望」が見えてくる。

次に、考え方を考えること。昔の僕が賢かったのは、すべて「考え方を考えた」ということのために考えていた。それを同じように考えることで、もはや昔の記憶は必要でなくなる。考え方を考えることで、「昔の忌まわしい記憶を無理やり思い出さなくても、今の時点だけで正しく世界を考えられる」ようになる。

それから、「それが意味するところ」を考えること。昔の僕は、すべてのことに「意味」を求め、あらゆるすべての「意味すること」を考えていた。単に意味することを考えるだけではなく、その意味することが何を意味しているのか、ほかのどのような可能性を意味として成立させるのかを考えた。すなわち、「それが意味するところから推測することで、さらにそれが意味することはなんであるかということを推論する」ということができる人間だった。

さらに、認識と思考のプロセスを考えること。意味することがなんらかの別のことを成立させるということが分かった時、「根源となる最初に存在する意味とその前提条件は何か」ということを論理的に分析できる。そして、人間の思考や認識は、そのように、「根源となる最初の状態から発生する」ということが考えられる。これを「認識の発生のプロセス」と呼ぶ。そして、認識の発生のプロセスを、思考の過程から分析することで、「最初に存在した意味」というものが考えられる。そして、その最初に存在した意味を規定するものこそが「根源となる前提条件」である。

最後に、なんらかの知識や発見について、それを知った後の状態と、知る前の状態を比較して考えること。これはすなわち、「学習や経験によって何をわたしは知ったのか」ということを考える、ということを意味している。これを考えることで、この世界に存在するあらゆる知識と発見を、自らがそれを自分で発見したかのように考えられる。そして学習は経験的な体得となり、宇宙のすべての知識を自ら作ったのと同じように取り入れることができる。これを、「認識を吸収する」と言う。そして、全員から認識を吸収した時、自らの認識は全員と同じになる。これを「認識と合一になる」と言う。

経験認識の精神分析

経験認識を作る方法が分かった人間は、精神分析をすべきである。

批判的かつ経験認識的に、自らの精神の中に生まれた「経験認識」が生み出される過程について考えよ。

その経験認識がどのように生まれたのか、ということを考えよ。世界から生まれたのであれば、世界の何から生まれたのか。認識から、経験から、あるいは環境から生まれたのではないか。その経験認識の意味する「正しさ」とは何か。経験認識を自ら作り出すために、どうすればいいのか。

そのようなことを考えると、自らの精神の中にある、経験認識のことを、すべて把握し、あらゆるすべてを「経験認識の創造のプロセス」から捉え、理解することができる。

そこにあるのは、「経験認識の経験的な予測」である。すなわち、どのようなシチュエーションであれば、どのような経験認識が生まれるだろう、という可能性を予測できるのか。それは「かもしれない」なのか、それとも「必ずそうにしかならない」のか。そのように考えることで、経験認識の持つ「意味するところ」が分かってくる。そのように考えると、この宇宙に存在する「あらゆる経験認識」を生まれる前に事前に予測することができ、宇宙の行き着く「絶対的な到達地点」が見えてくる。そして、それはひとつだけではないということも分かる。

言えることは、あらゆる経験認識を融和させると、それは「愛」という感情になるということだ。経験認識のすべてを融和させた状態、それこそが「愛」である。そして、正しい行為とは、愛に基づく行為である。すなわち、愛という規則に基づいて行われた行為こそが、宇宙においては正しい。

経験認識の予測をしていると、人間が人生で分かり得るすべての経験や認識が完璧に分かる。地上に存在するあらゆるすべての人類を、総合して統一したような真実を知ることができる。

それこそが、経験心理学の到達する「最終到達地点」であり、僕ははるかに昔に、そのような到達地点に既に到達し終えている。今僕が書いている文章は、それを踏まえた上で、そこに至る過程をすべて書き出しているだけにすぎない。

一般から特殊へ、そして特殊から一般へ

問題や学習について考える際に、「一般」と「特殊」という考え方は重要である。

一般とは、どのようなものについても共通に成り立つような、「一般的な共通の総合科学」である。

特殊は、なんらかの専門分野において、その個別のものにしか成り立たないような、「専門的な特殊な個別科学」である。

そして、僕の人生はまさに、そのような「一般」と「特殊」ということを、何度も往復して行き来するような人生だった。

「一般から特殊へ」ということがどういうことかというと、すべてのことに共通する「確かで重要な真理」から初めて、そこで経験するすべてを理解したのちに、自らが学びたいと思う「応用的な深く狭い分野」を学び、経験するということだ。

そして、普通の一般的な大学は、それで終わりになってしまう。

だが、僕の人生は、それで終わりではなかった。「特殊から一般へ」ということは、なんらかの専門的な経験を完璧にし終えてから、その専門的な経験から「今までの経験を応用的にほかの分野へと転用」することによって、特殊な経験すべてを「同様に理解する」ということができ、それらすべてを「統合」して「昇華」させることで、「真に一般的な宇宙すべての経験」を得る、ということである。

これについては、本当はそれだけでは終わらない。一般から特殊へ、そして特殊から一般へ、というプロセスを終えた段階で、今度は次なるステージとして、また一般から特殊へ、ということが始まる。そして、そこで行われていることは、形だけは変わっても本質は変わっていない。いつまでも、別の形で、同じことを繰り返す。これが僕の人生である。

存在の同時存在性

世界について知りたいと望むのであれば、存在の「同時存在性」について考えることだ。

同時存在性とは、「世界にあるものすべてが同時に存在している」ということだ。

たとえば、世界に存在するそれぞれの環境は異なるし、その中に存在する人々の「意識」は異なる。意識においては、その環境はひとつの人々によって共有された「世界」になっている。

だが、そのようなそれぞれに分かれた世界は、本当は分かれていない。「世界において環境はすべて同時に存在している」のであり、「時間」という枠組みで繋がっている。

なぜ、そのような同時存在性について考えるのか、それは僕は中学校を不登校になって、学校以外のさまざまな環境を経験して大人になったからだ。

特殊な環境である学校を、「世界にひとつしかない唯一の環境」であると信じるから、学校の子供たちはいじめのようなおかしな反抗を行う。そのような場所しか世界には存在しないと勘違いする。だが、実際には、そのような学校は世界に存在するひとつの環境にすぎない。それ以外の環境は別の環境として繋がっていて、それぞれ同時に世界に存在している。

そのように考えることで、「世界が本当はどうなっているのか」ということが見えてくる。すなわち、大人たちは何を考えていて、子供たちはそれぞれ何を思い込んでいじめっ子やいじめられっ子に分かれているのか、何が平等で何が違うのか、ということのひとつの理解の解法として、「すべての環境は同時に存在している」という原則を知れば、そこから関係性を考え、それぞれの立場を理解することで、「この世界の真の問題はなんなのか」ということがすっきりと見えてくる。そして、「宇宙の存在の在り方とはなんなのか」ということもそこから分かる。

同時に、そのように考えるために、人々の「声」を聞かなければならない。考えるだけでは、別の環境のことは分からない。さまざまな環境の声を聞くことで、「世界にはこのような世界で生きている人もいるのだ」ということが分かる。これを僕は「実地的に社会環境を知る」という言葉で表現する。

実地的に社会環境を知ることで見えてくるのは、「環境には内側と外側がある」ということであり、「環境そのものを別の環境に変えることは可能である」ということである。世界に存在する環境は決して変えられないものではなく、人間の力によって変えられる「変化可能」なものである。だが、それが変化可能であるということがどういうことを意味するのかということは、環境における「内側」と「外側」をどちらも経験して知った人間にしか分からない。そして、僕はそのようなとても希少な経験をしたため、世界における「いじめを解決する方法」を多少なりとも考えることができたのである。

自由と支配のバランス

自由と支配については、バランスこそが真に大切である。

昔の僕は、「世界においてどのようなことが起きるか分からない」とか、「未来の世界はどうなるか分からない」ということから、「この世界は自由かつ柔軟にすべき」だと考えていた。

世界がどのような世界になるか、ということについて、今の人間には分からない。未来のことは、未来においてしか分からない。

だから、ひとりの人間である指導者が、すべてを分かった上で世界を支配するなどということはできない。

そう、国民や会社、その他すべての組織は、すべて自由にすべきである。ひとりの指導者の完璧な計画による経済などは成り立たない。だから、ひとりの指導者が全権を担うのではなく、それぞれの別々の会社の社長などに権限を分散させるべきである。同時に、そのような中では悪いことをする人間が必ず現れる。だから、明確な悪いことの禁止条例である法律だけを定めて、その法律が全員の意志によって決められるべきである。これが「民主主義と法の支配の原則」である。

同時に、起きることは分からないし、その起きたことについて、別の誰かが正しいとか間違っているとか評価することもできない。その人が行ったことは、その人にしか分からない意味がある。それを他人が勝手に他人の解釈で制限したり禁止したりすることは、決していいことではない。

だから、他人の自由についても、できるだけ、公共の福祉(この言葉は日本国憲法において出てくる言葉で、みんなの自由を誰かがひとりだけで制限することがなく、他人に迷惑をかけたりしないという意味を表す。日本国憲法 大阪おばちゃん語訳を参照のこと)の下に、誰かが自分勝手に誰かのことを禁止したり制限したりすることなく、最大限その人の自由意志を尊重するべきである。

だが、最近の僕は、このような解釈について、誤っている点がなんであるか、分かるようになった。

すなわち、「何が起きるか分からないからこそ、ひとりの指導者は必要である」という、自由の逆解釈に気付いた。

つまり、世界ではどんなことが起きるか分からない。だが、どんなことが起きるか分からないからこそ、たとえばテロや戦争などに負けないために、ひとりの強い指導者が必要であり、その指導者がいつでも常に世界の状況を見守っていて、何か起きればすぐに対処できるような体制を政府として築くことが必要なのである。

このような自由と支配については、バランスが真に大切である。自由に偏りすぎても間違っているし、支配に偏りすぎても間違っている。共同体と王国の問題も同じで、共同体にしすぎても間違っているし、王国にしすぎても間違っている。真に大切なのは「バランス」であり、左翼も右翼もどちらも正しいのである。

全体視

僕は、昔の僕の人生の中で、「客観視」と同じぐらい重要な考え方として、「全体視」の概念を挙げる。

全体視とは、全体を見てすべてを知りつくした上で考える、ということである。

学問について、すべてのことをきちんと知っていることは大切だ。英語のことわざでも、「何かを中途半端に知っているよりも何も知らないほうがマシだ」というように、中途半端に知っているのはよくない。すべてのことをきちんと完璧に知っている必要がある。(このことわざについて詳しくはINSPIRE総合英語―高校英語の総合力完成 (シグマベスト)を参照のこと。)

学問だけではなく、現実の世界の社会経験も同じだ。現実の世界の社会経験を、幅広く、一通りすべて知りつくすことで、「この世界にはどのような経験が存在するのか」ということが見えてくる。

だが、このような「全体視」については、注意すべきことがある。それは全体視が逸脱すると、「世界において自分だけがただひとり世界の真実を知っている」という状況に陥るからだ。

僕がいつも陥っていたのは、まさにそれである。世界において、裏側ですべてを支配して、どのような現象が世界の裏側で起きているか、ということを知っている自分が、1億2000万人の日本人の中で、唯一、ひとりだけ真実を知っている。だから、僕にしかこの世界の「現状」は分からない。「現在の世界を正しく知っているのは自分ひとりだけ」という状況になる。それがいつもの僕である。

僕が文章を書くことができたのは、ほとんどがそのためだ。この世界の裏側にあるすべてを僕が知っていて、過去に僕自身が行ったこと、Linuxやオープンソースのコミュニティに対して、あるいはマスコミに対して行ったこと、あるいは僕がどのような文章を書いてどのような内容を分かっていたかということ、それを唯一知っている僕だけが、どのような文章であっても書くことができると、そのように僕の「執筆と文章の才能」は得られたのである。

だから、「世界のすべてを知りたい」と望むことは、良い面と悪い面がある。世界をたったひとりで支配する独裁者のようになってはならない。そこには「自由」がなく、そして「心の平穏」もまたない。常に緊張状態で、常に世界および神と戦い続けなければならないようになる。それが僕にとっての「自由」であり、「神への信仰」だったとするなら、それと同じことをすることを僕はあなたに勧めないだろう。だが、それでもしたいと言うのであれば、自らの100%の責任で行いなさい。そして、世界がもし滅びたとしても、その責任をすべて自らのせいであると認め、自覚した上で行いなさい。

終わりの世界

僕は、「終わりの世界」から来た人間である。

この「終わりの世界」の特徴は、すべてが最初から最後まで何もなく、すべてのことを理解することが困難で、どのような新しいものごとも知ることができなくなり、世界の現状は変えられず、自分の未来も変えられず、自らを迫害するものに永久に支配される、ということである。

「終わりの世界」において、すべては暗闇となり、砂漠となり、そしてすべて滅びる。大切だったものはすべて失われ、自らが誇りに思えるような自らの素晴らしい点はすべて奪われ、大切な思い出は何も思い出せなくなり、自分自身の今、現状が分からなくなり、永久にこの世界において何もすることができなくなり、なんらかの理解可能なあらゆる知性がすべてなくなる。

何も覚えておらず、何もできず、知性の何もなくなった「終わりの世界」では、自らを迫害するものに永久に支配される。あなたを支配するものは、宇宙でもっとも最悪の悪魔、メフィストフェレスだ。メフィストフェレスがあなたの人生を支配し、あなたはメフィストフェレスの命令から背くことが一切できなくなる。少しでもメフィストフェレスの機嫌を損ねたら、あなたが悪いことにされ、メフィストフェレスから懲罰を受ける。

そのような「終わりの世界」から、わたしはやってきた。わたしは、人生をもし無限に正しい方向に伸ばしたとしたら、その延長線上にはどのような未来があるかをすべて知っている。熱力学的に言えば、「乱雑さ」を表す数値である、エントロピーは最大の状態になる。不可逆的な破壊と無限の乱雑さの増加により、宇宙にエントロピー最大の状態が一番多いのと同様、人生を最後まで正しく生きたとしたら、最終的にエントロピー最大の状態から一切変わらなくなる。それが「終わりの世界」が成立する理由である。

「終わりの世界」において、あなたは何もできない。永遠に、メフィストフェレスというおかしな悪魔の、機嫌を損ねないように常に自分を律して生きなければならない。

だが、ひとつだけ、あなたに良いことを言っておこう。それは、メフィストフェレスと戦い続ける、あなたこそが神であり、あなたこそがキリストであると言うことだ。

「終わりの世界」における、メフィストフェレスに常に迫害され続ける、暗闇の中で何も分からずとも地獄からの脱出を常に信じて生きるあなたこそが、真に神であり、真にキリストである。宇宙においては、そのような人間こそが神であると決まっている。

だから、わたしも神であり、あなたもまた神である。なぜなら、この日記に記述された内容は、すべてわたしがそのような「終わりの世界」から書いているからである。

理想の国

このような僕は、「理想の国」「理想の社会」を目指して、自らの理想を追求していた。

それは、ヘーゲルの言う「人倫の国」であり、キルケゴールの言う「倫理的実存の段階」だった。

それは、自由のすべてを失わずに、経験から正しい「徳と善」に基づく、自発的な自由意志による助け合いと共有、そしてボトムアップな変革によって成り立つ、「可能性のすべてを成り立たせる国」だった。

それは、自己啓発と啓蒙主義の先にある、体験的にアイデンティティを理解することのできる社会であり、自由なチャンスと制度に基づいて、人々が自分の意志で努力し、自らの環境がなぜそのようになっているかということを社会経験と世界観から知ることができ、当事者が自らの社会環境をコントロール可能となると同時に、独立性と変化可能の原則から、すべてのことが自分の意志で決められる社会だった。

そこにあるのは、「体験的に正しい社会を構築することのできる方法を知る」ということであり、そこにあるのはヘーゲルの言う個別性と普遍性の一致、そして主観と客観の一致であり、サルトルの言う「実存は本質に先立つ」という言葉と、「留保され、客体化され、集団となった自由」という言葉が意味する、「自由の刑」の現状を、自由のままで変え、自由の理想を経験的成熟によって成し遂げるような、「倫理と自由の理想の国」だった。

そこにある希望は、「戦争をせず、抑圧や迫害を行わなくても、この世界は希望を信じること、そして発想による可能性を信じることで変えられる」という「確かな希望」だった。

いじめについて、僕は「他人のことをいじめたくなる動機付け」についてよく考えた。同時に、敵を作るのではなく、敵を味方にする方法について考えた。それこそが、「相手を信頼する」ということであり、それは僕自身の社会経験から、「理想の倫理の国を作るために、どのような自分の経験が活かせるのか」ということを考えることに繋がり、それがそのまま、「歴史上における文明の進歩の到達点」として、理想の倫理の国の「実現可能性という名の潜在的チャンス」となった。

僕は理想の国を、必ず築けると信じていた。誰一人傷つくことなく、誰のこともいじめないような、理想の楽園を、僕は自由な世界の中で信じた。荒れ狂った自由な世界の中で、僕はひとり、「今のままの世界であっても、自由と理想を信じることで、楽園のように暮らすことのできる社会を築くことはできる」と信じた。そう、アイデンティティの尊重される社会を作るということそのものが、僕にとって確かな確固たるアイデンティティだったのである。

科学を自らの知性で作り直せ

科学を、自らの知性で作り直せ。

学校で教わった科学の知識を、ただ教わっただけにするな。自分自身でその既存の科学と同じものを全部作れ。科学の構造を再構築し、自分自身の知性によって構造化し直せ。

そうすれば、あなたはプラトンやアリストテレスになることができる。

論理で考えよ。そこにあるのは、「かもしれない」という考え方と、「絶対にそうにしかならない」という考え方だ。そこから、「もしかしたらそれはそうかもしれない」「たぶんそうだろう、もしそうであったとしたら」「まさに、それがそうであれば、必ずそれはそうなるはずだ」「それもそうで、それもそうであるならば、それがそうであることの確証として、それはそうであると見做していいだろう」と、蓋然的に推論して、そこから実証して考えよ。

歴史意識論

そして、文明を考えよ。この世界には、「歴史上の意識」があると考えよ。すなわち、現代と古代の違いは、人間の感じる「意識」にある。古代の人間が生きている「意識」と、現代の人間が生きている「意識」は違う。そのような意識を、世界を経験する中で、「このような意識が古代である」「このような意識がイスラエルである」「このような意識がドイツである」「このような意識がソ連である」と考えよ。そのように、「意識によって歴史を分かる」と考えるこの理論を、「歴史意識論」と呼ぶ。そして、歴史意識論を考えることで、歴史は「ただ暗記するだけの学問」から、「意識によって実感する学問」へと変貌する。

この世界のすべては意識だ。この世界の全員は、それぞれが異なる意識を持っている。すべての問題の解決は、意識を解決することだ。学校には特有の意識があり、学校の外にも特有の意識があり、日本にも特有の意識がある。すべては意識だ。そして、その意識が宿るのは「環境」である。そして、環境を変えることで意識を変えられる。これを「環境への適応」あるいは「環境を変える」という言葉で表現する。そして、環境の意識を「変化可能」にすることで、世界そのものを「分裂化」させることで、多くの問題は解決する。それこそが、「環境の意識を自由化する」ということである。

そのように考えることで、すべては自らの心の中に存在するようになる。それを、「世界は自分の中に存在する」と言う。あるいは、「宇宙は自分の心の中に存在する」と言う。これこそが、「最終的に神の行き着く哲学」であると言えるのである。

理想の国の実現方法

先に記述した理想の国について、僕は「なぜいじめが起きるのか」「どのような相手をいじめたくなるのか」「どうすれば環境をいじめからいじめではない環境にできるのか」と考えた。

その上で、僕は「幸福で安心した心を成り立たせるのはどのような環境か」と考え、「学校の荒れた環境」と「学校外の安心できる環境」を比較した。

その上で、僕は「なぜいじめられると辛いのか」を考え、「いじめられても辛くないようになるためには、自らがありのまま受け入れてもらえるような経験をし、自らが確固たる帰属意識を持つようになって、その帰属意識があればいじめられても辛くないと思えるようになることが必要である」と気付いた。

それが僕にとって「アイデンティティ」という概念だった。

そして、僕はそのようなアイデンティティの自由に基づいて、「この世界を理想の世界に変える方法」を考えた。

それは「アイデンティティの大切さを人々に自己啓発的に分からせること」であり、それはまさしく「自らの人生で分かったことをすべて教え伝えること」であると分かった。

そして、その理想に基づいて、僕は文章を書くことを選んだ。

文章に書くすべての内容を、今までの僕の人生から、すべてゼロから考えて記述した。

それこそがこのホームページの日記であり、僕はこのホームページの日記によって、世界を自らの信じる「理想の世界」に変えられると確信した。

文章に書きたかったこと

僕は、「人生のすべてが分かるような文章」を書きたかった。「絶対に僕と同じように悟りの瞬間に達することのできる文章」を書きたかった。僕は、宇宙のすべてを正しく記述できる自らの能力を活かして、すべての「自由」を分析した。それはまさしく「愛」と呼べるものだった。僕はその愛によって、この世界が自らと同じようにすべて救うことができると確信していた。

僕は、死ぬ前に、やるべきことをすべてやり終えてから死ぬつもりだった。だが、それは簡単には終わらなかった。僕はまだこの文章を書き続ける。僕の分かったことは、まだまだいくらでもある。まだ、こんなものじゃない。まだ、たくさん書くべきことは残っている。

神はわたしを運命の終末地点へと導く。それは地獄ではない。僕は世界と戦う中で、すべての自分の今できることを完璧にやり終えてから、その上で死ぬつもりだった。すべての自分のターンが終わって、相手のターンになる前に死ぬつもりだった。自分のターンのうちにできることはすべてやり、自分のやるべきことが満足に終わらないまま、相手のターンには決してならないようにした。戦いの中でできることをすべて行い、それをしている間は、決して誰にも邪魔されることのないように、すべてを秘密にし、すべてを隠し、自分だけでこの世界をたったひとり支配し、最後までこの世界を「悟りの瞬間」に至るその時まで、ひとりで導いた。

わたしには情熱がある。この情熱は太陽のような情熱であり、「わたしは本当はこの世界を愛している」という衝動的な本能だ。これこそが、宇宙における「真実の愛」であり、「魂として全員が繋がった状態」である。わたしの人生が神であり、わたしの書く文章が神である。神こそがわたしを導く、唯一のわたしの教師である。そして、そのような旅が、今、終わろうとしている。

わたしはもう、完全にすべてをやり終えた。悟りの瞬間に達する時は、今、ここで得ることができた。これ以上、過去の自分について、残っている記憶もなければ、人生も真理もない。

だが、わたしはまだ生き続ける。ともにわたしとともに、この世界を変えよう。わたしに味方してほしい。あなたにアイデンティティがないのであれば、わたしとともにこの世界を変えるということを、あなたのアイデンティティにしてほしい。この世界をいじめのない、最高の楽園にするということを、わたしだけではなく、あなたも同じ理想を信じてほしい。ともに同じアイデンティティを信じ、ともに同じ情熱を分かち合い、ともにこの世界を変えよう。この世界に今生きているわたしたちだけがこの世界を変えられる。古代イスラエルのイエス・キリストにもできなかったこと、それは「本当の終末に生きて本当のメシアになること」だ。キリストは自らをメシアと言ったが、彼は最後の滅びた世界で実際に世界を救ったわけではない。だが、わたしたちは違う。滅びゆく今のこの世界を救うことができるのは、滅びゆくこの世界で生きているわたしたちだけだ。

わたしはこの世界を救う。だから、あなたもわたしと一緒にこの世界を救おうではないか。わたしとともにパレスチナ問題を解決し、わたしとともに成功する社会主義経済を実現させ、わたしたちが守れなかった「あの夏の日の守るべき夢と希望」をもう一度復活させ、今度こそ絶対に消えることがないようにその夢と希望を守ろう。わたしたちの世界はわたしたちが変える。それに対して、どのような批判も、侮辱も受け入れる必要はない。わたしたちの世界を変えられるのは、その世界で生きている、今ここで生きている、大切な「命」をわたしたちの祖先から授かったわたしたちだけである。