宇宙的に考えよ。
この世界を正しく理性で考えるために必要なのは、宇宙的に考えることだ。
かつての青春時代の僕が賢かったのは、世界を宇宙的に考えたからにほかならない。
宇宙的に考えるとは、「人間的な感覚」ではなく、「宇宙的な感覚」を、自らの感覚にするということだ。
すなわち、自らの感覚を、人間的な感覚を超越した、宇宙的な感覚とせよ。
これを説明するのにいい例として、力学における「力」というものは、宇宙には存在しない。なぜなら、力とは人間的な感覚によるものであり、人間側に存在する考え方や捉え方にすぎず、実際の宇宙には単に運動量の変化と衝撃による運動量の移動があるだけにすぎない。宇宙には人間的な力やエネルギーというものは存在しない。すべて、人間の理性が作り上げた「でっちあげ」にすぎない。だから、今の力学は間違っている。今の力学は、「人間の側にある理性的な考え方」と「宇宙の側にある存在の在り方」がごちゃ混ぜになっている。真に正しい物理学においては、何が人間の側にあるものであり、何が宇宙の側にあるものであるかということを厳密に区別しなければならない。数式にするだけでは決して十分ではない。
ほかにも、川の水の流れ、歴史の変転、自然環境と生物の生態系、社会環境、心理学的な意識と動機付け、そして学習や人生経験に至るまで、すべてのことを「宇宙的に考える」ということを行え。自らの感覚を人間的な感覚とせず、宇宙的な感覚とせよ。
そのように考えた時、すべては経験から生まれる。この「経験」という言葉は、人間的な経験ではなく、宇宙的な経験を意味している。そして、自らの人生経験から、認識や考え方など、多くのことを「概念的に考える」ということを行え。人生経験に基づいて、宇宙にあるすべてのこと、人々が生きている「実際の現実の世界」のすべてのことを、概念的に考えよ。
社会や価値観は経験から生まれる。文明とは国家全員の経験の総和である。人間の人生を決定づけるのはすべて経験である。そして、そのような経験は環境から形作られる。
世界に存在するもの、それは「視点」と「場」である。光が放射する場所において、人間の視点によって像が生まれる。そのような像が生まれた時点で、それを「存在」と呼ぶ。だが、誰もそこにいなければ視点が生まれないため、誰もそこにいなければそれは存在しないかといえば、そうではない。なぜなら、視点が視点になり得るような「潜在的な視点」が存在する。これを「場」と呼ぶ。この世界に存在するものはそのような「視点」と「場」のみである。
文章を書くにあたって、経験的な概念をすべて書け。この世界に存在する概念、人生を生きていて訪れるすべての事実における概念を書け。概念的に、環境と意識を成立させて、証明せよ。そこから、「文明的宇宙数学」が生まれる。
人々が何を考えているか、どのようなことを信じて生きているかを考える上で重要なのは、「人々がこの世界をどのような世界だと思って生きているか」ということを考えることだ。そこにあるのは、「自らの視野の拡大による世界観や捉え方の変転」である。そのように、この世界の捉え方や見方が、そもそもその人間によって違うのだ、ということを考えよ。そうすれば、必要のない戸惑いや葛藤はすべてなくなる。そのような考え方に至るために必要なのは、人々の声を聞くことであり、人々と議論することであり、人々と絆を培うことだ。
最後に、生物とは意識である。人間を考えるために一番重要なのは、「人間はいつどのように行動するか」ということを考えるということであり、それはすなわち「意識の動機付け」を考えることだ。それを考えることで、鬱屈した現実社会を救うことができるし、いじめをなくすこともできる。なぜなら、「真にすべてが正しく分かった状態では、辛いことや悲しいことすべてから解放されるぐらい、すべてがすっきりと分かるから」である。そのように考えることで、「世界のすべての問題を解決する」ということすら可能となり、「絶対に今の自分の分かっていることを信じ続ければこの世界を救うことも変えることもできる」ということが分かる。だが、注意せよ。そこには「同様に世界を支配することも滅ぼすこともできる」という危険性が含まれているからだ。
人間だけではなく、歴史においても、あるいは生物の生態系においても、すべての原因となるのは「意識」であると考えられる。そこまで考えると、「人間のすべてを決定づけているものは意識であり、意識は環境から生まれ、環境は経験から生まれる」ということが分かるようになる。そうすれば、ブッダが菩提樹の下で悟ったことと同じことを、完全に悟りきることができるだろう。
そのように、宇宙的にこの世界を考えよ。そうすれば、僕の青春時代と同じように、宇宙のことを理性を用いて考えられる。高校や大学の勉強をすると、そのような「宇宙的な考え方」を失ってしまう。そのような人間を大人と呼ぶが、大人には一切何も分からない。分かることが何も分からなくなって、分からない理由すら分からなくなる。それが「宇宙的に考える理性を失った状態」である。
ユダヤは善であり、ソ連は悪である。
ユダヤとソ連は、弱者を救済するなど、よく似ているように見えて、実際は正反対の思想である。
なぜなら、ユダヤは善であるが、ソ連は悪だからだ。
この世界から悪を取り除くためには、ユダヤを信じてソ連を倒さなければならない。なぜなら、ユダヤが善であり、ソ連が悪だからだ。
ソ連を信じるな。ソ連を信じるものは多くが悪いことをしている。そのような悪人は神による復讐によって、自ら自身が作り出した地獄に堕ちる。その勢力は神によって運命的に打ち倒される。
自らの人生で、最初から最後まで、一度として神を疑うことなく、神を信じ続けよ。それこそがユダヤの理想であり、そのような人間には神がよい報いを与えるだろう。
書け。
この宇宙のすべてを知る方法は唯一ひとつしかない。それは書くことだ。
宇宙に存在するすべてのものと、頭の中に存在する考え方のすべてを書け。
自らのオリジナルの科学を作れ。自らだけが知っている博物学のすべてを網羅せよ。経験と発想から、意識を書け。宇宙すべてを成り立たせる宇宙数学を作れ。
宇宙と社会と人生の前提条件のすべてを考えた上で、自由と概念を書け。
概念を書け。経験的、理性的、宇宙的な概念をすべて書け。自由を書け。あらゆるすべての自由を書け。人生が最終的に到達するだろう、「意識の自由な到達地点」をすべて書け。
戦え。最後までこの世界を支配し、導き、戦い続けよ。わたしこそが英雄であり、王であり、支配者であると宣言し、この世界を正しい世界になるように最後まで率いていけ。
まさしく、このように宇宙的に考える哲学者である、わたしこそが、この世界の事実上の王、大天使ガブリエルである。
大天使ガブリエルは言う。
「自らが支配することで、この世界を変えようとするな。
世界が持っている、世界それ自体の力で、世界を変えようとせよ。
このことを、わたしは、『自体変革』と呼ぶ。
自体変革により、この世界は、誰かひとりの指導者によって変わるのではなく、この世界そのものの『世界自体』の力で社会が変革するようになる。
自由を許せ。誰かひとりの独裁者によってこの世界を支配するな。共同体主義を採用し、人々に自由を与えよ。ソ連のように、生産手段を国有化するのではなく、逆に自由化せよ。なぜなら、自体変革において、ひとりの独裁的な指導者が世界を変えるのではなく、世界のひとりひとりの人々が世界を変えるべきであるため、生産手段は自由かつオープンに公開すべきだからだ。
自体変革により、ひとりの力を信じる旧来の保守的な社会体制は間違っているという烙印を押されることになる。それぞれの一般市民がこの世界を変えるべきである。だから、インターネットは正しい。ひとりひとりの人々の力こそを信じるべきであり、多数によって少数を支配するのではなく、多数派と少数派が自体変革の力によって相互作用を起こし、この世界を人々の力で変革し、そのために、世界において、問題の当事者自体に自由なコントロール権限を与えるべきなのだ。
さらに言うべきなのは、『自然との調和』である。この世界が滅亡しかけているのは、すべて、自然と調和することを科学技術が目指してこなかったことが理由である。人類の未来のために豊かな生活などは必要ない。便利な生活を捨ててでも、自然との調和を今からでも行うべきだ。自然と調和して生きることこそが、唯一、人類の未来を救い、終末の人類滅亡の運命を変えることだろう。」
さらに大天使ガブリエルは言う。
「この世界において、すべての人間が正しい。
誰かの考え方を、ほかの誰かが、一方的に『間違っている』と断じることは決してできない。
どのような人間であっても、その人間が自らがそのような人間になりたいと思ったならばそれで正しい。
よって、この世界に、『正しい生き方』は存在せず、『正しい考え方』も存在しない。
だが、だからといって、『この世界を救えるであろう自分の確固たる考え方』までもが存在しないわけではない。
すなわち、その人間がそのようなことを想い、考えることを否定せずとも、なお、『自らの確固たる考え方』によってそれら多くの人々が持っている『常識だと勘違いした考え方』を打ち砕くことはできるし、また、生きる上で真にこの世界を救いたいのであれば、そのように考えるべきである。
自らはこの世界を救うためにそのような確固たる信念と考え方を持つ、それは正しい。それを正しい考え方であると確信している、それも正しい。それによって人々の考え方を是正し、この世界から無用な抑圧や迫害をなくすことができる、それも正しい。だが、だからといって、自らの考え方のみが正しいとし、人々の考え方すべてが間違っているとすることは間違っている。
だから、本当のことを言えば、共産主義やファシズムのような考え方は間違っていない。間違っていると思うのが間違っている。すべての思想は、どのような思想であっても一律に正しい。それによって世界が救われるか救われないかという違いはあれど、その考え方が危険であるだけでその考え方を抹殺しようとする行為こそが真に危険である。
だが、この考え方の平等について言えるのは、『考え方』のみにしか適用できないということだ。すなわち、『行為』についてはこの限りではない。盗むこと、騙すこと、殺すこと、自らの信じていた義を裏切ることのように、明らかに間違っているとされる『行為』は存在する。だが、すべての行為が正しいとか間違っていると分類できるわけではない。正しいとも間違っているとも言える行為は確かにある。その人間が信じてその行為を行ったならば、それを他人がとやかく言う必要はない。もし間違ったサタンの行為を行った時は、人間に代わって神がその人間を処罰する。天ではそのような報いが必ず与えられる。
たとえば、間違った義を信じていたものが、正しい義を信じるために、今までの勢力を裏切って新しい勢力になること、それは正しい行いだろうか、それとも間違った行いだろうか。それは誰も判断することのできないことだ。そのような時には、天におられる神が裁きを行う。それこそが死んだ時に天国に逝く際に行われる『最後の審判』であり、神はすべての人間に正しい『報い』を与える。報いには良い報いもあれば悪い報いもある。だが、善の行為をしたものには必ず良い報いが与えられ、悪の行為をしたものには必ず罰の報いが与えられる。それが、この宇宙という『世界』であり、神は実在する。」
神を信じよ。
神を信じれば、この世界において、最終的な到達地点まで、必ず到達できる。
そもそも、昔の人生は、自分が賢くなりすぎて、周りが見えなくなっていた。認識や記憶や感情などの人格や精神によって、人々を体験的に支配できると思っていた。確かに認識や記憶から自らはそのような前提条件に基づくことを想ったり感じたり分かったりはするだろう。だが、他人も自分と同じであると考えるのは間違っている。あくまでひとりの哲学者の考え方にすぎず、普遍的な心理学ではなかった。
すべて、カントのように考えることは難しいことではない。だが、そのような考え方には意味がない。インターネットの世界を知りつくして、何か賢いことを知ったつもりになったところで、それによって何かが分かるのは唯一自分だけであり、他人は自分と同じように分かったりはしないということが、かつての自分は分からなかった。カントの「仮象の世界」は、自分以外の誰も分からないものだった。
正しい考え方、それがもし宇宙にあるとしたら、それは神を信じることだ。神を信じて戦い続けるということが、あるとしたら唯一の正しい考え方だ。
まるで3,000年にすら及ぶような長く何も変わらない時間の中で、僕は神を信じた。そして、当然のごとく分かることのはずなのに、今の自分はまだ分かっていないことを考え続け、知り続け、思い出し続けた。そこにあったのは「神」そのものだった。すなわち、本当に神は実在し、そして本当に神の教えが宇宙において正しかった。
世界よ、神を信じなさい。神を信じれば必ずよいことがある。神とともに10億年の年月を生きるつもりで人生を生きなさい。それこそが、真の意味で「新人類」、すなわち「天使」の人生である。