具体例から世界を知ろうとせよ。
学校の知識や勉強から世界を知るのではなく、自らの人生経験や社会経験の、世界を知る具体的な体験から、この世界を知ろうとせよ。
インターネットにおいて、人々とのやり取りをする中で、鬱屈した感情からの開放を体験せよ。
学校のような特殊な環境から自由になり、精神的な依存やトラウマから解放されることで、コンプレックスを克服し、人々の真の意味での幸福の実現方法を知れ。
世界の存在がどのように存在するかを時間的に知りながら、この世界がどのようにして成り立っているかを知れ。
経験することで、世界の変え方を知れ。この世界が、何も変えられない硬直した世界ではなく、自由に世界を変えることが万人に許されていると知れ。
言葉の考え方から、世界を知ろうとせよ。
世界の存在が、それぞれの時間軸の中で、どのように存在しているかを知れ。
世界がどうやってできているのか、どのようにして作られているのかを、現実世界の人々の声を聞き、みんなと同じ経験をすることから知れ。
存在がどのように生み出されるのか、どのように失われていくのかを知れ。
何かが生み出されていることから、何かをどうすれば積極的に生み出すことができるのかを知れ。
人間が何を知り得るのか、何を考えることができるのかを知れ。
今自分が何を考えているのか、心の中で何を認識しているのかを知り、自己批判と自己対話から哲学的な真理を直観的かつ経験的に実証せよ。
すべては、存在と時間だ。
すべては、状態と法則だ。
すべては、融和と分裂だ。
すべては、独立と一体だ。
すべては、統一と多様性だ。
すべては、変化と停止だ。
すべては、創造と維持と破壊だ。
そのように、すべてのことを、存在における変化と時間、すなわち、「どのように存在するか」ということ、あるいは、「その存在をどのようにすれば存在させられるか」ということを考えよ。
すべてのことを、相対的に、物理的に、論理的に考えよ。その上で、言葉の知性を使って、世界における「時間と変化による融和と分裂の統一原則」から考えよ。それこそが、真の「自由」である。
この世界は変えられる。
この世界は、万人にとって、世界を変えることが常に許されている。
ひとりだけではできないことも、みんなで協力すれば変えられる。
だが、権力で支配しなくても、世界を変えることはできる。自由な社会において、真に世界の可能性と理想を問うものは、自由においても、理想の人倫の国を築くことができる。
世界にはさまざまな可能性がある。その可能性を制限するな。全員にありのままの可能性を制限せず許すことで、「自由への意志」からこの世界を自由かつ多様な世界にすることができる。
だから、世界は変えられる。そして、必ず、自由によって、世界のすべての問題を解決し、世界を救うことができる。なぜなら、僕の頭の中では、すべての問題を解決できると分かったからだ。
世界を救うために必要なのは、環境を経験することだ。
さまざまな環境を経験し、その環境の具体的な変え方を知り、その人がその環境でどのように暮らしているかということを、環境を想定することで考えよ。
個人と集団の考え方、あるいは、主観を客観と一致させる批判的理性と思弁的思考法の知性によって、「自由な社会を築く方法」を考えよ。
自由において大切なこと、それは「自分の好きなことをやる」ということだ。だが、その好きなことは人によって違う。自らが真にやりたいこと、生きがいとなることを見つけよ。
自分が何をしたくてそれをやっているのか、真に正しい望みと動機付けと行動はなんであるかを、たくさんの豊富な実体験をすることで気付け。
そして、それを万人にとって共通に成り立つような「アイデンティティ」とし、アイデンティティをどのようにすれば確立できるのか、ということを知れ。
自分が何をしたくてそれをやっているのか、真の意味で問い続けよ。そして、インターネットにおける具体的な社会経験を積むことで、自己実現を行え。それは自分だけではなく、世界の人々を救う。
社会に出る前の、モラトリアム的な猶予期間にある子供たちは、社会に出る際に備えて、下準備を行いなさい。
それはすなわち、学習するということだが、単に学校で勉強するだけが学習ではない。
自らの実体験に基づいて、デカルト的な、仮定の成立とそれに伴う結果の考え方から、勉強するのと同じことを、自分の経験から作り上げなさい。
それがまさしく、ブッダのような悟り体験へと繋がっていく。
そのような「悟性に基づく下準備」を行うことで、この世界のすべてはすっきりと理解できる。問題の解決の知性だけで、あらゆるすべての問題が解決できることを知れ。
見返りを求めない、ボランティアの手助けを行いなさい。
報酬を求めることなく、善良な社会の実現を目指して、見返りを求めない個人的なボランティア活動による手助けを行うものには、未来において、神が運命の奇跡を与える。
まず、個人個人の人間関係から、どうすれば相手に信頼されるのかを考えなさい。壁を作らず、偏見を持たず、相手に信頼される前から相手を信頼するようにしなさい。
そして、個人の手助けだけが自由ではない。社会そのものを変えることも、ある意味では自由であると言える。だから、自らの自由な手助けの体験から、社会を「啓蒙」しようとすることは間違いではない。
だが、社会を支配しようとする際には注意しなさい。正しい自由ではなく、間違った自由を行使するものは、神によって地獄に堕とされる。神は正しいものには優しいが、間違ったものには厳しい。
昔の僕は、そのように、心理学的にすべてが分かった人間だった。
あらゆるすべての人類の問題を、経験的学習と批判的知性によって解決することで、ブッダが言う本来の意味での「仏」に僕はなった。その僕は、人類の心理学がすべて分かっていた。
さらに言えば、僕はインターネットで仮想社会のコミュニティに参加し、議論や自治を経験したことで、人類の歴史や文明のようなことがよく分かった。
当時の僕は、何も知らなかった。だが、何も知らない代わり、よく考えた。知識がない代わり、現実での社会経験や人生経験を豊富に積んだ。学説や文献や理論を知らない代わり、先入観なく、想像力で人間の場と視点の変容を考えることができていた。
だが、僕はいつしか、そのような当時の賢かった知性を忘れてしまった。その理由は、大人になっただけではない。僕は日本を相手に、間違った争い事を始めた。僕はこの世界を救済されたまま停止させるのではなく、戦うことでさらに改善しようとした。だが、宇宙には、「悪いことをして良い世界を築くことはできない」という第一原則がある。その原則の通り、僕は知性を失い、神に救われるまで、何もできない自らの生み出した地獄の暗闇に、アメリカを含むこの世界全体を巻き込むようになったのである。
これで、僕の書きたかった、「青春時代の自らの理想」を最後まで記述し終えた。そして、それをもう一度思い出し、再び思考し直すことができるようになった。すなわち、僕は神によって救われた。
あとは、細々とした、その時にしか分からなかった刹那的な真理がたくさんある。それを書くためには、「感覚」と「意味」を述べる必要がある。常に僕は感覚と意味によって哲学的知性を分かっていた。それは、「自ら自身の人生の過程にあった経験に基づく実感」であり、「その時成立した命題や状態や主観的な認識がその原理法則において客観的に意味していることは何か」ということだったのである。
すべては経験である。
知るということは、経験するということだ。経験することでしか、人間は何かを分かることはできない。
合理主義者は、理性と経験は矛盾するという。だが僕は、理性には、人間の経験がなくても、それ自体で成り立つ「自体命題」が存在し、自体命題それ自体には経験は必要はないが、そのような自体命題を人間が習得し体得するためには、「学習」と呼ばれる経験的知性を使う必要があると考える。
だから、合理主義者は間違っている。すべての人間の知性は経験的に習得されるものなのである。
経験とは、それ自体が心理学だ。なぜなら、経験においては「精神」が必要だからだ。精神の中に経験は作り出されるのであり、精神がなければ経験は存在しない。
すべての知性は経験であり、すべての経験は精神である。そのように考えた時、経験的な知性を完全に理解することで、宇宙のすべて、世界のすべて、人類のすべてをはっきりと完全に理解できる。それこそが、ブッダの述べる「仏」の状態である。だから、正しい宗教は仏教である。
先ほど、僕はすべてを「創造と維持と破壊」と述べた。これはヒンドゥー教のブラフマーとヴィシュヌとシヴァのことを意味している。そして、僕はすべてを「存在と時間」と述べた。これはハイデガーの哲学を意味している。彼らの教えや言っていることは正しい。だが、本当は僕の理解のほうがさらに正しい。僕の分かった考え方の通りに分かれば、彼らの真理をさらに超越した真理が分かる。僕はそれを、誰かに教えられるのではなく、自らの知性と経験によって世界を知り、認識や認知を正しく分析することで理解したのである。
このように書くと、真理を追究することはとても難しくて、ブッダのような一握りの賢者にしかできないものなのだと思われるかもしれない。
だが、真理を追究することは簡単だ。中学生でもできる。
なぜなら、単に「何がいつ成立するか」を考えればいいだけだからだ。
世界や環境のことについて、それがなぜ、誰によって、どのような理由で、どのような方法で成立したかを考えるとともに、自らのやりたいことや行為を、なぜやりたいのか、どのようにやればその目的を達成できるのかを考え、すべてのことの理由を求めると同時に、そのような方法がどのような手段や機会において成立するかを考えよ。
そうすることによって、この世界そのものの成り立ちが分かる。この世界がなぜこの世界になっているのか、という理由が分かる。そして、自由にするのであっても、単に自由放任にするのではなく、分かった人間が破壊や滅びを排した上で、ひとりの長として環境の秩序を構築することが大切であり、そのために制度や決まりやシステムを作る必要がある、ということが分かる。
本当は、自由は必ずしも正しくない。だが、僕が僕の考え方を真理へと昇華する上において、「自由な社会」という僕の信じた理想と信念は正しいものだった。今思えば、自由は必ずしも正しいものではないということが分かる。たとえば、世界には善良な人間だけではなく悪人もいて、自由にすることで悪人は自由を間違った目的のために行使するだろう。全員の能力を尊重することはできても、全員が善良だと信頼することはできない。だから、自由を奪うことは国家にとって必要だ。
だがそれでも、僕自身が信じる理想の世界においては、「自由においても子供たちの環境を救うことはできる」ということが、とても大切で、かけがえのないものだったのである。
そのように、昔の僕が考えたことは、精神的な経験だということは分かった。
だが、今の僕が考えたことは、果たしてなんだったのか。
今の僕が考えたのは、「世界の構造」である。
すなわち、豊富な経験と発想法を基にして、僕は世界の構造を考えた。さまざまな具体的な発想をするために、人生の裏側にあるプロセスや過程、世界の裏側にあるシステムや制度を考えた。
そのように、今の僕は、経験から構造へと考え方を変えた。そして、世界の経験的前提条件を成立させるのではなく、その成立をベースとして、具体的な発想を構造的に成立させるようになったのである。
そもそも、昔の僕が分かっていたのは、不登校の引きこもりになったことで、失敗を経験し、インターネットでスラムのような環境を経験し、少しずつ家族に心を開き、殻を壊すようになった上で、世界を変える活動をするためにオープンソースとLinuxに関わったが、そのような経験を僕は戦いながら文章に書くということへと転用し、作家活動を行うようになった。
そのような人生的な文章を書く上でも、僕は構造を重視した。
みんなに「文章を書きなさい」と言っても、みんなはどのような文章を書いていいか、見当がつかないだろう。だが、僕がやったのは、人生のような「裏側にある構造」を作った上で、その裏側にある構造に基づいて文章を書く、ということを行った。
だから、僕と同じことを行うために必要なのは、単に思いついたままに言葉を綴ることではなく、前提となる構造を作ること、すなわち、社会構造や人生の過程の構造を一時的に何度も作って、その一時的な構造を基にして文章を書くということである。
そして、僕は世界の構造を考える上で、物理や生物と政治経済の下に、独自の歴史的な考え方を書いていった。それは「新しい自由かつ平等な世界モデルを作る」ということだった。
何度も僕自身が言っているように、僕は革命戦争のように世界と戦っていた。そこにあったのは「最大限の緊張感」だった。そのような最大限の緊張感があれば、僕と同じように、無限に続く永遠の文章を書くことができる。僕が行っていたのは、作家や詩人ではなく、ひとりの戦士や革命家だったのである。