二等星、おおぐま座のフェクダは、文明が究極的な価値観へと収束した星である。
フェクダにおいては、地球における国家と同じような、5種類の文明が栄えている。
そして、その5種類の文明は、それぞれがとてもユニークで、そして究極的な価値観へと収束した、「最終的に行き着くような国家の考え方」を文明として実現している。
まず、地球上でいうアメリカのように、「楽しさ」や「自由」を重視する国家がある。この国家のことを、便宜上「フェクダ・アメリカ」と呼ぶ。フェクダ・アメリカにおいては、楽しく自分の望んだ人生を生きられることが最優先であり、社会は開放的で、快楽主義的だが、その代わり退廃的なものが多く見受けられる。すべてのことは金によって自由に消費することができる。
次に、「賢さ」や「知性」を目指す、啓蒙主義的な国家がある。この国家を、地球上でいうフランスになぞらえて「フェクダ・フランス」と呼ぶ。フェクダ・フランスにおいては、科学的な知性を用いることで、宇宙のすべての謎を解明するための、研究者を養成することをもっとも重視している。そのために、子供たちはとても厳しい学校に通い、血の滲むような努力をして、一人前の科学者にならなければならない義務がある。
次に、「強さ」や「正しさ」を重視する、王国のような国家がある。この国家は「フェクダ・ドイツ」と呼ばれる。フェクダ・ドイツにおいては、身体能力こそが一人前の大人になった証であり、子供時代に肉体を強化する訓練を受け、その中で落ちこぼれた人間たちは奴隷にされてしまう。その代わり、フェクダ・ドイツは極めて星の中で領土が大きく、ほかの国に決して負けないほどに強い。
次に、「平等」や「弱者救済」を重視する、共産主義のような、しかしながらより正しい経済モデルを採用する国家がある。この国家は「フェクダ・ソビエト」と呼ばれる。フェクダ・ソビエトにおいては、どのような馬鹿で愚かな人間であっても、国家から生きるための援助を得られ、そして神を信じる修道士たちが、きちんとまともに生活できるように全面的なバックアップとサポートをしてくれる。
最後に、「地球環境保護」と「自然との調和」を重視する、古代帝国のような国がある。この国を「フェクダ・ジャパン」と呼ぶ。フェクダ・ジャパンにおいては、一切の科学的な進歩を目指さず、古代的で原始文明的な共同体を維持し続ける。そこにいるのは、マジョリティではなくマイノリティのような民族たちをすべて集めた集団であり、国家のような近代的な組織を形成せず、原始的な文明を生きている。
このように、フェクダにおいては、究極的な「5つの価値観」へと、文明が最終的に行き着いた。これ以上、フェクダは何も変わらない。フェクダのアイデンティティは究極的かつ永遠であり、絶対にこれ以上変わることがない。そして、それぞれの国家の価値観はとてもユニークであり、まるでひとつの星の中に5つの星々の世界が共存しているかのように、それぞれの人種はまったく異なる。だが、彼らはひとつの星であるフェクダを共有しており、その世界は極めて自由かつ平等である。
このようなフェクダは、「すべてのものは5つの元素の集まりである」という考え方を展開する。これは、中国や日本に伝わる「五行思想」(宇宙のすべてを火、水、木、金、土の5つの元素に分類する思想)ととてもよく似通っている。フェクダにおいて、すべてのものは5つの元素の組み合わせであり、「5」という数字は宇宙においてもっとも自然で美しい数であるとされるのである。
北斗七星で唯一の三等星、おおぐま座のメグレズは、少しダークな星である。
メグレズにおいては、自由な生物であると言えるのは、たったひとりの事実上の支配者でありメグレズの裏の独裁者である、エルサムただひとりだけだ。
そして、エルサム以外のすべての生物は、自由を奪われた、機械的な生物種になってしまっている。
すなわち、メグレズにおいて、自由な意志に基づいて生きることができるのは、支配者であるエルサムひとりだけであり、あとのすべての生物は、エルサムの「絶対意志」にただ従うだけの、機械的な生物である。
だが、メグレズにおいて、最初からそのように王と奴隷が分かれていたのではない。はるかに昔においては、生物たちは全員がエルサムのような自由で平等な生物種だった。
メグレズにおいて、何があったのか。それは、「メグレズ・インターネット」という独自のインターネット通信網の話である。
地球におけるインターネットのように、メグレズにおいても、星のすべての世界を繋ぐ通信網として、「メグレズ・インターネット」と呼ばれるネットワーク通信技術が進歩した。
そして、メグレズ・インターネットは、最初は地球のインターネットと同じように、自由でオープンな、双方向の通信技術だった。
だが、そのメグレズ・インターネットを裏で支配する、陰の支配者が現れる。それがエルサムだ。エルサムは、インターネットの技術的中核を成り立たせるための技術ベースを、インターネット上における匿名の活動により、事実上たったひとりで支配することに成功した。そのため、エルサムは、メグレズ・インターネットをひとりで支配できるようになった。
そして、その結果、メグレズ・インターネットは、自由かつ双方向のインターネットではなく、「たったひとりの絶対意志を世界中の全員に一方的に伝達するだけの通信手段」へと変貌してしまった。
そして、それにより、人々は進化あるいは退化し、エルサムたったひとりの意志に従順に従い続けるだけの、機械的な生物種になってしまった。
本当は、エルサムも、悪意があってそのようなことを行ったわけではない。エルサムにとって、世界を支配するということは本意ではなかった。だが、エルサムは「自由に世界を変える」という革命思想を持った人間であり、「この世界を変えるために、もっとも頂点の影響力からこの世界を変革する方法は何か」ということを考え続けた。そして、その考え方に従って正しくメグレズ・インターネット上で匿名で活動した結果、簡単に世界を支配することができるようになってしまった。
そのように、陰の支配者になったエルサムは、「支配する」ことができるようになった結果、逆に「支配しない」ということができなくなった。すなわち、エルサムは永久に支配をし続けるようになってしまう。そのため、エルサムが生きている限り、何十年にも渡って、メグレズの人々は支配され続けるようになった。そのために、彼らは機械的生物種に退化してしまったのである。
エルサムの支配において、もっとも恐ろしい点は、「人々はエルサムに支配されていることを知らず、自らのことを自由だと思い込んでいる」ということだ。人々は、エルサムに裏で支配されている事実を知らない。エルサムが自然に当たり前のように世界の自由を奪い続けていくのを見て、人々は「世界が平和になった」と勘違いをしている。だから、どんどん自由がなくなっていっても、人々は「攻撃的ではない平和な世界が訪れた」としか考えず、「わたしたちは自由のままである」と思い込んでいる。だが、実際はエルサムによってすべての自由が奪われていくだけであり、それによって生物種は「神に支配されるだけのロボット人間」へと変貌し、それが結局は機械的な「支配者すべてに従順に従う生物種」を作り出していく。
また、重要なのは、エルサムは悪いことをしないということだ。エルサムは、支配者になったからといって、ヒトラーやスターリンのような「悪事」をしたいわけでは決してない。エルサムはこの世界を正常な「救済」に導いており、そこで悪事をまったくしない。だから、人々は、もしエルサムの支配に気付いて、自らが不自由になっていることを知ったとしても、暴力的な反逆や革命を起こさない。支配者が善良で、世界がよくなっているにもかかわらず、あえて内戦を起こして秩序を破壊したり、人々あるいは自分の命を犠牲する革命を起こしたりする人間はいない。エルサムは善良すぎる支配者であるため、メグレズは何もしていないにもかかわらずエルサムたったひとりに支配されてしまい、メグレズは「神と機械的生物の星」になってしまったのである。
二等星、おおぐま座のアリオトは、悲しい星である。
アリオトにおいて、人類は数人あるいはその数人の子孫である数十~数百人しか存在しない。
ほとんどの人類は、自然破壊による異常気象によって滅びてしまった。
アリオトでは、過去には偉大な文明がたくさん栄えていた。北斗七星のほかの文明に負けないぐらい、アリオトは素晴らしい偉大な文明を生み出していた。
だが、彼らは、便利で豊かな生活を享受するあまり、自然の保護を軽んじてしまった。
そのため、今地球で起きている温暖化や異常気象と同じように、アリオトでも、異常気象や自然災害が多発し、そして、それ以上絶対に戻ることのできない「ティッピング・ポイント」を越えてしまった。
アリオトでは、その時、ものすごくたくさんの異常気象や自然災害が次々に起きた。気温は50度以上になり、海面は何メートルも高まり、大地震と大洪水が毎年のように起き、そして感染症やパンデミックもアリオトの星中に広がった。
その結果、アリオトの人類はほとんどが絶滅する。
だが、その中で、たった数人の人類が生き延びる。彼らは、「神の導き」という運命的な奇跡を体験した。この神の導きは、「神によって選ばれた星の中でもっとも賢い数人にしか与えられない聖なる力」であり、その聖なる力を信じた人間だけが、アリオトの「滅亡の自然災害」を生き延びることができた。
アリオトでは、今では人類ではなく、ほかの生物種が繁栄を迎えている。その中で、かつて生き延びた数人の子孫である数十~数百人の人類だけが、まるで陰に隠れるように原始生活を行っている。
二等星、こぐま座のコカブは、つまらない星である。
コカブには、宇宙の生物の中でももっとも無意味な、「退化した生物たち」が多く存在している。
人類は、地球上の生き物では、虫やミミズのような生き物がもっとも退化していると思うだろう。
だが、コカブの生物は、それよりもさらに、はるかに退化している。
たとえば、空中に浮かぶだけの生き物がいる。単に空中に浮かぶだけで、それ以外になんにもしない。空気中に養分がたくさん存在しているため、浮かんでいるだけで何もせずに生きられる。だから、体にはなんにもない。
ほかには、自分の力で移動することも捕食することもできない生き物がいる。周りから助けてもらえないと、自分からは何もできない。いつでも他の生き物に依存して生きていて、他の生き物に迷惑をかけることしかできない。
それから、体そのものが完全にバラバラになった生き物がいる。これは見ていると異様である。食べる部分と動く部分とエネルギーを生み出す部分が分裂していて、たまによく見失ってしまう。それぞれが適当に生きているが、誰かが死んだ時点でほかの誰かも死んでしまう。
また、空気中にガスとして存在している生き物がいる。単なるガスに見えるが、実際は生き物であり、知覚したり捕食したりする能力を持っているが、実体はガスにすぎず、空気中に漂うことしかできない。
それから、面白い生き物は、ものの中に「運動状態」として存在している生き物である。これは、海や水面の波を思い浮かべると分かりやすい。波はそれ自体は水の状態にすぎないが、波という現象は確かに存在している。その波と同じように、ほかのものの「運動状態」として存在している生物がいる。波や直線運動のような形でその生物は外部の世界を知覚し、別の波や運動を捕食するのである。
このように、ある意味では面白い、単純な生き物たちが多くいるコカブの生物たちは、本当は宇宙で一番恵まれた生物だ。なぜなら、退化した理由は「なんにもしなくても楽に生きられるから」だ。なんにもしなくても、適当に漂っているだけで、楽に生きることができるからこそ、何もしなくなって全生物は退化する。まるで宇宙でもっとも生きやすい星だから、宇宙でもっとも退化した生物集団になってしまったのである。
二等星、しし座のアルギエバは、とても先進的な星である。
アルギエバには、「完全自動万能製作工場」という、先進的な工場が存在する。
完全自動万能製作工場とは、その名の通り、なんでも完全に自動で、そしてどんなものでも万能に製造できる工場のことだ。
アルギエバの生物たちは、二つの柱によってこれを可能とした。それは「自動化技術」と「万能製作技術」だ。
自動化技術を成り立たせるのは、高度に進歩し、そしてナノレベルでとても小さくなったIC・集積回路技術だ。
ナノレベルで小さくなったICをたくさん使い、すべての工程を製作技法からライン処理まで、すべて自動化できる。そこに人間が手動で介入する必要は一切ない。まったく人間の力を使わず、どんなに大量でどんなに巨大でどんなに困難でどんなに疲れる作業であっても、すべてICで自動化できる。
もうひとつの柱は、万能製作技術だ。すなわち、なんでも作ることができる。その理由は、新しい「元素よりもさらに基礎的な働きを持つ『超元素』の素材」と、その活用方法が分かったからだ。それは「元素のさらに元素」と呼ばれる究極的な「超元素」であり、素粒子そのものをいくらでもナノレベルで編集・操作することができる。
この二つの柱によって、宇宙ロケットであっても、自動車や飛行機であっても、コンピュータであっても、あるいは食料や衣類であっても、アルギエバの「完全自動万能製作工場」で大量に製造できる。
これがもたらしたのは、「完全なるユートピア」だ。すなわち、人々は働く必要がない。すべてのことを機械と工場がやってくれる。そのため、人々は全員が何もしなくても遊んで暮らすことができる。そして、自分の夢と志だけを追いかけて、自由に生きることができる。
アルギエバが実現したのは、そのような「完全に自由な世界」だ。社会主義や共産主義とは別次元のレベルで、アルギエバは「天上の楽園」を作ることができたのである。
そろそろ、一通り二等星はできた。宇宙の星々がたくさん増えた。
そして、これくらいで、もう僕は星について思いつかなくなった。
普通に、宇宙にあるであろうとされるような星は、そろそろ僕が考えて、全部作った。
だから、宇宙については、これくらいで終わろうと思う。
前々から、生物学や社会や歴史のことが知りたいと言っている僕だが、それらは本当は同時にやればいい。なぜなら、「現実世界」というひとつの枠組みとして知ればいいからだ。
たとえば、現実世界には生物のことが多い。食べ物として食べているのは農業や牧畜の結果得られた農作物だし、衣服も石油のような有機化学も生物学だし、ほかにも医療や病気やスポーツなどは生物学だ。
それから、現実社会には歴史のことが多い。社会には、たくさんの歴史あるものが存在する。建築物とか芸術作品とか文献なども歴史だが、何よりも社会に存在する会社や科学技術の歴史のような、個別のものの歴史過程は、広い意味で歴史であると言える。そして、そのような個別のものの歴史こそが、真に面白い歴史である。
そういうわけで、そういうものを知るために必要なのは、すべて「現実を見ること」だ。
本当は、この日記には社会の内容は腐るほど多いが、現実を見ていない。それは社会主義政策を目指しすぎているからだ。現実で成り立つはずのない社会主義を、どうにかして成り立たせようとするあまり、「現実から飛躍した社会論」ばかりを書きすぎている。何もかも夢想や虚像ばかりで、現実を見ていないのだ。
だから、宇宙の天ばかり仰ぐのもそろそろやめて、もっと現実を見たほうがいい。そもそも、生物や社会を学びたいのは、それらだけを知らないからであり、単純に「生物や社会だけが残った」というだけにすぎない。そのような現実から飛躍した「教科書の中にだけ書かれていること」はもう忘れたほうがいい。必要なのは、教科書や実現不可能な夢を見るのをやめて、現実の世界、それも天上ではなく地上の世界を見ることだ。
それから、パソコンやIT技術、大学の情報工学はもう終わりにしたい。なぜなら、これ以上アルゴリズムやデータ構造を学ぶと、プログラマに本当になってしまうからだ。それは、自分の一生をIT技術だけに捧げることを意味する。永遠にIT技術を学ぶだけの、エンジニアになるのはつまらない。オープンソースが好きなのはあくまで趣味の世界であり、死ぬまで一生ITをしたいとは思えない。作家や詩人として見ても、それは間違った選択だ。だから、僕はこれ以上、IT技術や情報工学を学ぶつもりはない。
そろそろ、子供時代の自分が思い出せるようになった。
そもそも、僕の問題は、昔の世界と今の世界が、まったく二つに分裂しているのが間違っている。
昔の世界と今の世界の記憶が分裂したせいで、昔の記憶が思い出せなくなっているのだ。
だから、昔の記憶と今の記憶を融和するだけで、きちんと子供時代の記憶を思い出すことができる。
それで、馬鹿になっているのが治る。僕が馬鹿になっているのは、すべて、子供時代を思い出すことができないからだ。子供時代を思い出すことができないせいで、幼児のような馬鹿になっている。
そして、子供時代を思い出すと、子供時代の経験があるだけで、この世界の現実のことは簡単に分かる。
僕の場合、小学生時代は普通だった。さまざまなことの中で、好きなことを好きなだけやっていた。そのような小学生時代にやったことの、そのまま延長線上を分かるだけで、普通は大人になる。
僕の場合、中学生時代が辛すぎた。中学生時代から、子供ではなく大人のように生きなければならなくなったことが、一番辛かった。みんなが大人になっていくのに、自分だけ置いていかれるのが辛かった。自分も大人になれとみんなから言われているような気がするのが一番辛かった。
そのような、中学生時代より以降のことを忘れたかったから、人格を昔の世界と今の世界に分裂させ、今の世界だけを限定的に制限して分かるようになった。
だから、中学生以降のことは忘れていい。小学生時代のことを思い出したほうがいい。
そして、意外と、昔の僕は、普通のことを誰よりもよく知っている。そこらじゅうの大人よりも、はるかにこの世界の現実を知っている。それは中学校を不登校になって、引きこもりになった時に、インターネットでさまざまな世界を知ったからだ。インターネットのバーチャルな世界で、僕は誰よりも現実世界のことを知っている。そして、その世界ごと、完全に過去の世界を闇に葬りたかった。それだけが、僕の多重人格だった。
だから、もう、何も心配する必要はない。教科書通りのことを覚える必要などまるでない。昔の自分と今の自分の記憶と人格を融和すれば、それで完全にすべて分かっている。
まさしく、これが「すべてを知った人間」の完成である。
また、家族との関わり合いについて思い出したほうがいい。子供時代に、学校や習い事やゲームや友人から知ったことは、本当は多くない。ほとんどは、父親や母親や姉といった家族から教えてもらった。家族と一緒に何をしていたかを思い出せば、普通に現実で生きられるようになるだろう。
僕は幼少期の頃、ものを作るのが好きだった。
幼い頃は、セロテープや段ボールなどを使って、さまざまなものを作るのが大好きな子供だった。
それが少し大人になると、プラモデルの自動車のミニ四駆を作ったり、父親と一緒に木の工作をしたりするようになった。
父親が博物館学芸員で、母親が教師で、英会話やピアノや書道などの習い事をしていた小学生時代は、物分かりがよくて、問題に対して解答を考えるのが得意な子供だった。
それから、ゲームが好きで、たくさんの子供を家に招いてみんなでゲームをし、みんなをまとめることが得意な子供だった。
それから、家族と一緒にさまざまな場所に旅行に行ったし、学校では当然のように好成績を取っていた。
スポーツやアウトドアも大好きで、長い間走り続ける持久力があって駅伝の大会に出たことがあったほか、バスケットボールが好きで、友達と一緒に林や川で自然探検をしていた。
昔は、そういう賢い子供だった。いつしか辛く苦しい人生を生きるようになったが、昔は友達が多く、家族と一緒に幸福な生活を送る、賢くてものを作るのが大好きな、平和な子供だった。
そもそも、僕が探していた「帰るべき場所」とは、すべてそのような小学生時代の自分だった。
だから、今、僕は分裂していた「昔の世界」と「今の世界」を融和させることで、そのような小学生時代の自分に戻る。ようやく、自分のあるべき場所に帰ろう。
そもそも、僕が昔賢かったのは、すべて、大人の経験を既に子供時代にすべて経験していたことが大きい。僕は子供時代に、既に大人として知るべきことを全部知っていた。
だから、学校環境に絶望して中学校を不登校になっても、自分だけの力でインターネットで社会経験を積み、哲学的な思弁を自分だけで、誰の助けも借りずに行うことができたのである。