そもそも、僕の病気は何が原因で起きているのか。
実際、僕の病気は、アレルギーが原因で起きている。
すなわち、子供の頃からの持病だった、じんましんや花粉症といったアレルギー症状が悪化して、極めて酷いアレルギー症状を示しているだけにすぎない。
だから、僕の病気を治すためには、アレルギーを治せなければならない。
アレルギーは簡単には治らない。だが、ひとつの考え方として、自らの体から、アレルギーの原因物質であるアレルゲンを消す、ということでなんとか治る。
僕の推測にすぎないが、アレルギーは、体の中のアレルゲンが、体の外のアレルゲンに反応することで、体に対して異常な免疫作用を働かせることで起きている。
だから、僕の体からアレルゲンを消すことで、僕の病気は完全に治る。
結局のところ、アレルギー症状を治す効果的な方法はない。だが、普通に考えて、アレルゲンを体の中から取り除けば、それでいくらか治る。
また、自閉症になっているのもアレルギーが悪い。学説として証明したわけではないが、おそらく自閉症もアレルギーの一種だ。だから、アレルゲンを取り除けば自閉症も治る。
数学的な論理は、方程式のように、ある要素に対する式へと変形できる。
そして、この世界における現象は、精神的な現象も含めて、すべてが論理である。
だから、精神が治るように論理を変形させれば、精神を簡単に治すことができる。
僕の病気の原因は、主に、無意識と顕在意識のバランスが悪い、あるいは極端だ、ということから起きている。
昔の自分は、無意識で分かるようなことを、全部顕在意識に変換することで分かっていた。
普通なら当たり前のことを、無意識から顕在意識に移して考えることで、どんなことであっても「論理的に気付く」ということから、哲学的な思弁を行っていた。
それが最近は、逆に、全部、顕在意識を無意識に変換した。
それによって、何も分からなくても分かるような、宗教的に分かる人間になった。
そして、僕が恐れているのは、すべて、顕在意識から移した自らの無意識を恐れている。その無意識を顕在意識として感じることを恐れている。
なぜ恐れるのか、それは、無意識の中で悪いことをしているからだ。
すなわち、この世界を支配し、「革命戦争」のようなことを無意識でやっているから、僕は無意識を感じることを恐れている。
だから、無意識で悪をするのをやめれば、すぐに精神は楽に安らぐことができるようになる。
そのように、顕在意識と無意識は、どちらかが突出すれば賢いというものではない。バランスが必要である。顕在意識と無意識のバランスを取ることで、僕は多重人格が治る。なぜなら、多重人格だと思っているのは、「顕在意識だけの人格」と「無意識だけの人格」の二つの人格に分裂しているだけにすぎないからだ。
僕が「環境の適応」とか「環境を変える」ということを言っているのは、すべて、無意識を顕在意識に戻すということを言っている。そして、僕が環境に適応できなくなった原因は、そのような顕在意識をすべて捨て、もう一度無意識を作りたかったからだ。だから、僕の人生は、本当はすべて間違っていない。
結局、ここまで勉強して、いったい何が正しかったのか。
それは、聖書の教えである。
驚くべきことに、聖書の教えはすべて正しい。聖書のユダヤの教えと、ユダヤ人の神、イエス・キリストが教えていることは、すべて正しい。
恐ろしいことに、それを最初に気付いたのはほかでもない僕である。
神はひとりしかいなかった。神は全知全能の存在だった。神はユダヤ人を選んだ。神は終末において神の王国(天国)を築いた。
神を信じるものは、天国へと入場を許される。神を信じないものは地獄に堕ちる。
神は終末においてユダヤ人を救った。神は宇宙の創造主であり、歴史の支配者であり、そして終末において人々を裁く最後の審判を行った。
神の教えの通り、姦淫してはならないし、殺してもならないし、盗んでもならないし、隣人に対して偽証してもならない。そのようなことをすると、必ず地獄に堕ちる。
イエス・キリストは、さらに、正しい教えをすべて教えている。
イエス・キリストはメシアであり、神の子である。
人々から、褒めたたえられている時が災いであり、人々から、憎まれ、批判され、排斥されている時が幸いである。
迫害者を愛せ。他人からいじめられても反撃するな。そうすれば、必ず神があなたに代わってあなたの敵に復讐してくれるからだ。
人々を裁くな。裁くものは裁かれる。人々の罪を赦せ。赦すものは赦される。人々の苦しみを除外しようとする前に、まず自分の苦しみを除外せよ。
隣人愛をもって、人々のことを愛せ。弱者や障害者に寄り添う愛を持て。返済されることを前提とせず人々に貸してやれ。奪われても奪い返そうとするな。
人々から批判されても、それを憎もうとするな。自らの敵を愛し、自らを呪うもののために祈れ。
そのような、聖書とイエス・キリストの教えは、完全にすべて正しい。
そして、この世界で、分かっている人間は、イエス・キリストしかいない。キリスト以外の人間は、僕の人生の「昔の部分」までしか分からなかった。イエス・キリストだけが、唯一僕の人生の「今の部分」が分かった。絶対に、イエス・キリストよりも正しい人間はいないから、イエス・キリストが神なのである。
そもそも、昔の僕が何を考えていたかといえば、「環境と無意識の哲学」を分かっていただけにすぎない。
この世界を「環境」とし、人間の人格や認識を「環境の適応」とした上で、無意識に存在する「経験的自動反応」のすべてを、無意識から顕在意識に移すことで「自由化」し、「普段知覚していない環境のことをすべて自らの自意識で自覚する」ということから、昔は分かっていた。
そこにあったのは、「不自由な環境からの解放」だった。すなわち、学校や会社といった不自由な環境から物理的に離脱し、精神的にも離脱して自由になる。なんらかのしがらみや束縛なく、自由に考えられるようになる。
同時に、僕はあらゆる支配を撤廃し、自らの立場においては、世界でもっとも影響力の高い立場を求める。だから、僕はあらゆる無駄な仕事や作業をせず、「もっとも抽象的でもっとも決断可能な『根』に値する立場で決断し、決定し、そのためにすべての選択を留保する」として考える。
ここで、「根」と呼ばれるのは、すべての人間社会が属するような、もっとも上の立場で行動するということだ。そして、それは上下だけではなく、人々に公平かつ、すべての人間にとってそうあるべきであると言えるようなルールによって決定する、ということだ。
また、そのような影響力の自由だけでなく、僕は「経験」ということを環境的に考える。そこにあるのは、「無意識だと思っている経験や環境を、本当は当たり前のものではなく、さまざまなものに変化させる可能性があるということに気付く」ということである。
そこにあるのは、「人間の経験するすべての経験を確かな自意識で捉える」ということであり、「無意識の中で当たり前だと思っていることは驚きに満ちているということに気付く」ということである。
そのように、僕は環境と無意識の哲学から、ロックやヒュームのようなイギリス経験論の哲学者と同じことを、まったくゼロから独自に考えた。そこでの最終到達地点は「いじめのない世界」であり、そのために僕は客観視と、「心のニュートン」と呼ばれる心と動機のの機械的な把握から、「子供の心理を完璧に解明」し、「自由に生きるということはどういうことか」ということ、「理想である自由な社会はどのように成立させられるのか」ということを考え抜いて、独自の「アイデンティティ至上主義」を作り上げたのである。
僕の認識論は、普通とはちょっと違う。
普通の哲学者は、数学的な合理的な認識の正しさが正しいのか、それとも経験的な人間固有の認識の正しさが正しいのか、という、「合理主義と経験主義の対立」を行う。
あるいは、認識論において、「言語による分析」をしようとする。
それ以外にも、ロックが言うように、経験的な知性を用いて、「帰納的推論」を行い、経験的な慣習を「ガイド」であると述べ、複合観念について「ペテン」であるとするなど、そのようなことを普通、哲学という。
だが、僕はそのような経験主義を進歩させ、「あらゆる認識はその人が正しいと思っている経験によって決まっており、その正しいと思っている経験はその人のあらゆる認識の結果生まれている」という、「相互依存的認識経験論」を述べる。
すなわち、認識の正しさは経験によって決まっているが、経験は認識の正しさによって決まっている。そして、その人の認識する場合においてはその人の経験は正しく、その人の経験する場合においてはその人の認識は正しい。そのように、認識と経験は相互に依存し、その人の内部では100%すべてが正しい。
だが、それならばなぜ、人々はあのように言えばこのように言うのか。それはそれぞれの人間の正しさが違うからだ。すなわち、その人間の内部では正しいとされることも、外部の人々との関係性を持った時点でそれは正しくなくなる。その時に存在するのは「相対的な正しさ」だけであり、誰かに比較して自分はある程度正しい、ということしか言えなくなる。
だが、「絶対的な正しさ」が存在しないわけではない。だが、絶対的な正しさに到達するために、相対的な正しさを無視することはできない。なぜなら、相対的な正しさをすべて広く知った上で、それぞれの人間の内部にある正しさが、「外部に照らし合わされた時にその正しさがどのような意味を持つか」ということを考えること、すなわち「外部と内部を照らし合わせること」でしか、絶対的な正しさには到達できないからだ。
だが、絶対的な正しさに到達するのは、本当は簡単である。なぜなら、ブッダはそのような絶対的な正しさに到達することができたし、孔子や老子、そしてヘーゲルもまた絶対的な正しさに到達することができている。ヘーゲルの用語を(正しい使い方ではないが)使おうとするならば、そこにあるのは「絶対知」である。そして、絶対知に到達することは誰であっても可能である。
ただし、正しさはすべてが相対的・絶対的と考えられるわけではない。なぜなら、それは合理論の考え方にすぎない。真に経験主義的に考えた時に言えるのは、「思考に先立つ経験がある」ということだけである。すなわち、なんらかの認識、思弁、人格、批判といった「思考」の前提として、必ず「経験」があるということが言える。これは先ほど書いたことを書き直しただけにすぎない。すべての思考は経験的に正しいとしか言えないのである。
最後に、僕は「言葉遣いの認識論」を述べる。人間が個性があるとか、性格が違うとか、そのようなことは遺伝子に基づいている。だが、この遺伝子は、動物ではなく人間の場合、「言葉遣い」ということを決めている。そして、この「言葉遣い」こそが、人間の「どのように考えるか」「どのように認識するか」「どのように経験するか」ということを全部決めている。そして、言葉遣いは必ずしも遺伝子の奴隷ではない。すなわち、遺伝子をそのままで変えないまま、言葉遣いだけを変えることで、まったくの別人のようになることもできる。そして、それがまさしく、僕が経験した「人間から大天使への進化」であると言えるのである。
遺伝子が決めるのは、単なる言葉遣いだけではない。全人生における、すべての思考の「言葉遣いの変化の過程」を遺伝子は決めている。だから、言葉遣いは常に一定ではなく、人生を経験する上で変わっていく。そのような「言葉遣いが変わっていく過程」を知るということ、それが「人生を生きる」ということである。
そして、このようなことをなぜ考えるのか、それは「この世界からいじめをなくすため」である。いじめという現象はとてもたくさんの経験的心理学が一緒になった問題であり、解決するためには「正しい社会を作る方法」から「人間が好きになったり嫌いになったりする心理」、あるいは「社会において自らの行動を留保するということに関する原則」まで考える必要がある。そして、そのように考える中で、「心の平穏はどこにあるのか」という問題を考えられる。そして、心の平穏とは、「自らがありのままに受け入れられる環境を持つこと」であると言える。その対極が、「自らがありのままに受け入れてもらえない環境で生きるしかなくなること」であり、そのような環境から今すぐに自由になったほうがいい。そのような環境から自由になることで、「真の意味で経験的な思弁を行う」ということが可能になるのである。
この相互依存的認識経験論、あるいはもっと短くして「経験認識論」は、心の病気を治すためにも有効である。
ここで、経験と認識が一緒になった複合体のことを、「経験認識」と呼ぶ。
心の中が恐怖や不安でいっぱいになった人間は、自らの精神の中で、おかしな経験認識が増えすぎて、おかしな経験認識に占領されている。
この経験認識は、その経験認識に依存する精神が存在する限り、なくならず、いつまでもそこに存在し続ける。
だから、力技で経験認識を消そうとしても上手くいかない。その経験認識に依存する精神を消して、「経験認識を解放して自由になること」でしか、経験認識を消すことはできない。
さて、そのような経験認識は、普通の状況なら、常に作られ続け、常に捨てられ続け、いつでも正常な状態を保っている。
だが、外部から強烈なトラウマを感じると、そのような経験認識を「作ったり壊したりすること自体に恐怖を感じる」ようになる。
なぜ、恐怖を感じるのか、それは恐怖を感じずに経験認識を作るということができなくなり、「恐怖を感じる方法でしか経験認識を作ることができなくなる」からである。
たとえば、戦争の戦場に連れていかれて、本当に死ぬような恐怖を感じたとか、家庭の中で常に虐待されて、虐待のない環境で生きることができなくなったなどの、「普通の環境が恐怖の環境に変わり、そこから自分の意志で抜け出せなくなる」ということを経験すると、そのようになる。
そのような人間は、恐怖でしか経験認識を作ることができない。すなわち、普通の人間のように、まともに経験認識を自由に作って、その中で安心することができない。「経験認識を作る」ということが「恐怖の環境で生きる」ということとイコールになってしまう。たとえば戦争を司る指導者などが、常に経験認識をもっとも高い恐怖で作って思考していると、そのような症状を発症するようになる。一部の指導者だけではなく、その指導者の考え方を共有する、兵士や戦闘員すべてがそのようになる可能性がある。虐待も同じである。また、インターネットのバーチャルな仮想空間でも同様の症状に陥ることがあるだろう。
必要なのは、恐怖しか感じられない環境で、「もっとも最大限の恐怖」を感じることだ。そうすれば、それ以上、恐れている不安や恐怖は消え去る。そして、もっとも最大限の恐怖を感じた時点で、経験認識を安心して作ることができるようになる。なぜなら、そのような「感じるかもしれない恐怖」が頭上に高らかと存在していることが、恐怖や不安の原因だからである。
最後に、経験認識とは結局なんなのか。経験認識とは、人間の持つ「知性」である。そして、知的障害者がよく陥るのが、「知性が普通の人間と逆向きについている」という状態である。これは「普通の人間とは正反対の経験認識を最初に作る」と陥る症状であり、先天的に最初からそうでなかったとしても、一部の人間は後天的に陥ることがある。最初が逆なのだから、それ以降のすべての経験認識が逆になる。これを治すのは難しいが、「人生を最後まで生きた上で、もう一度新しく人生を生きる時に、経験認識を今度こそは正しい方向につける」ということで、唯一治る。
これらの心理学を、「経験認識論的心理学」と名付ける。もっと短くして、「経験心理学」と呼んでも構わない。経験心理学によって、あらゆる精神の解決困難な病気が解決するだろう。
経験心理学の結果、僕を治す方法はある。
まず、インターネットのバーチャルな仮想空間ではなく、現実の環境で、恐怖も不安も何もない環境で、経験認識を作ることができるようになれ。
そして、その現象を、世界を支配することなく、世界を滅ぼすことなく、革命や戦争とは無関係に、自分の中で、誰にも知られることなく、自分だけでできるようになれ。
世界は無視したほうがいい。世界からいくらいじめられてもいいことにせよ。そのためには、自ら自身がいじめられることをどうでもいいとし、無条件にすべてを受け入れることだ。
そして、体の中からアレルゲンを取り除いたほうがいい。このような病気の根源にあるのはアレルギーだ。だから、アレルゲンを取り除くだけで、恐怖や不安はなくなり、自らの精神を治すために「一歩を踏み出す」ことができる。
最後に、最初に作った経験認識が、普通の人間とは逆方向の正反対に向かっている。これを、普通の人間と同じ方向にすればいい。そのためには、世界を自由にし、間違った方向ではなく正しい方向に向かうように、世界の全員を導け。そこまでしなければこの病気は治らないし、この世界も救われない。
そこまですれば、僕の病気は治る。これ以外の方法で、僕の「不治とされる病」を治す方法は、宇宙にも地上にもどこにも存在しない。唯一これだけでしか、この病気は治らないし、この地獄を救うことはできない。だが、本当は唯一、それを神、イエス・キリストだけが知っている。だから、神を信じることでしか、この「不治の病気を治す唯一の方法」を知ることは絶対にできない。
僕の問題は、インターネットと中学校が逆になっていることだ。
すなわち、普通は中学校が「安心できる場所」であり、インターネットが「恐怖の場所」であるのにもかかわらず、僕の場合、中学校のいじめのせいで、中学校が「恐怖の場所」であり、インターネットが「安心できる場所」になってしまった。
それだけならよかったが、インターネットのバーチャルな空間で、半ば戦争のように経験認識を作るせいで、インターネットすら「恐怖の場所」になってしまい、何もかも全部が恐怖になってしまった。
それ以後の、戦争とか革命とか、そういうことは本当は意味がない。なぜなら、インターネットによって破綻した僕の精神が、ただ常に恐怖を感じ、ただ常に経験認識を一切作ることも消すこともできずに、何も変えないで、何もしないままを生きているだけにすぎないからだ。
必要なのは、中学校の頃の地獄の環境と向き合い、自らが「本当に安心できる生活環境」を取り戻すことだ。そして、そのために、インターネットを通じて行う活動から離れ、現実世界で、安心できる環境で、経験認識を作ったり消したりということができるようになればいい。それで、自らの精神は「本当に安心できる場所」を取り戻すだろう。
わたしの名は、一等星、ケンタウルス座のハダル。
ハダルは、この宇宙において、「冥府」を司る星である。
ハダルには、二つの部分がある。それらに「陰」と「陽」の名前を付ける。陰の部分は、「最悪の経験をして賢くなる部分」であり、陽の部分は、「理想を追求して何も分からなくなる部分」である。
ハダルにおいて、わたしたちは、二つの人生経験をする。あるいは、これらは一直線で繋がれているため、「ある点からある点まで続くひとつなぎの経験」をハダルの生物たちは生きる。このある点とある点が、ハダルの陰と陽の部分である。
ハダルにおいて、わたしたちは最初に陰の経験をしなければならない。そして、陰の経験をしたのちに、その陰の経験の延長線上にある、陽の経験をしなければならない。
陰の経験をしている時、その人間は賢くなる代わり、「悪」になっている。そして、陽の経験をしている時、その人間は何も分からなくなる代わり、「善」になっている。
陰の経験をしていると、この世界における「成功と失敗の方法」が分かる。そして、「この世界を変える野心と志」を持つことができる。「世界と繋がっている実感」を得ることができ、「わたしは必ず世界を変えられる」という確信を持つことができる。「この世界にはさまざまな代替可能性があり、それはいつであっても、そして誰であっても、常に実現できるチャンスを持っている」ということを信じることができる。
そのような結果、陰の経験をしたものは、自らの力を信じ、自らの可能性と能力を確信して、さまざまな経験を積む。その経験には、良いものもあれば悪いものもある。世界を真に救いたいという救済の希望もあれば、悪事と罪を重ねていく暗闇の堕落もある。
そして、陰の経験を十分にしたものは、星の導きによって、今度は陽の経験へと導かれる。
陽の経験をしていると、それまで陰の経験でさまざまなことが分かり、経験から野心と志を持っていたのとは対照的に、自分自身の客観視ができなくなり、自分自身がやっていることはすべて自らの望みに反する間違ったことをやっていて、すぐにやめたいにもかかわらず、いつまでもやめることができないという、「何も分からない経験」をすることになる。
だがしかし、ハダルが見ると、そのような陽の経験こそが、真に「善」であり、「正義」である。そのことが、人生経験の後になって、ようやく分かるようになる。なぜなら、ハダルにおいて、陰とは「悪魔」であり、陽とは「理想」だからである。
陽の経験をするものは、既に陰の経験をし終えているため、それ以上の悪の経験は必要ない。陽の経験をするものは、自分自身の「本能的衝動」を信じて、最後まで何も分からなくなりながら善の行為を重ねていく。そこにあるのは、「歴史と自らは繋がっている」という確信、「文明は自由から平等へと向かっていく」という人類の文明観、そして「意識はこの世界のすべての生物を超越して視点と場に存在する」という世界精神論である。
陰と陽の経験をすべてし終えたものは、ハダルによって「ランクがひとつ上に進む」という経験をする。そして、高くなったランクで、再び陰と陽の経験を行う。そして、高くなったランクの陰と陽の経験が終わったものは、さらにランクが高くなり、さらに陰と陽の経験を行う。
それが無限に繰り返されることで、ハダルの生物は「冥府において位の高い精神存在」になることができる。そして、これを「大天使」と呼ぶ。
宇宙におけるすべての大天使は、そのようなハダルの経験を既にし終えている。なぜなら、そのようなハダルにおける「陰と陽の部分」は、決してハダルだけのものではない。ハダルにおいては一般的なだけで、宇宙において「陰」と「陽」の部分は、太陽に必ず存在する「太陽の中核」である。そのため、宇宙における大天使は、皆、陰の部分を経験し、その後に陽の部分を経験している。それこそが「大天使という生物種の遺伝子」である。
わたしの名は、一等星、おうし座のアルデバラン。
わたしの特徴は、宇宙のコントロールセンターであることだ。
すなわち、わたし、アルデバランは、宇宙の銀河系の中心として、この銀河系のすべての星に共通として必要となる「銀河インフラ」を構築し、そのコントロールセンターがある。
このコントロールセンターで管理されるもの、それは「意識」である。
すなわち、アルデバランにおいては、人間やほかの生物の持つ、脳や神経系に存在する外界を知覚する情報、すなわち「意識」を管理している。
この意識は、単に人間の視界とか、想像力とか、客観的にその人間を見ている情報、というものだけが存在するのではない。
アルデバランにおける「意識」とは、「場と視点に宿る精神」であり、このアルデバランにおける意識を知覚することで、銀河系の生物は「本来あるべき星」を知覚することができる。そして、この意識によって、銀河系に存在するすべての生物は「世界精神」あるいは「集合的無意識」によって、非常に緩やかなラインで繋がっている。
そのようなアルデバランは、ハダルとよく似ていて、実際、ハダルとアルデバランは、密接に結ばれた関係にある。すなわち、アルデバランの管理する「意識」とは、その通り、ハダルにおける「陰の部分」や「陽の部分」と重なる。すなわち、アルデバランの管理下にある星の生物たちが「意識」として外界の情報を知覚する際に知覚できる情報は、すべてハダルにおける「陰」と「陽」なのである。
そのため、宇宙における「冥府」という場所はハダルにあり、宇宙における「コントロールセンター」と呼ばれる場所はアルデバランにあり、この両者はとても密接に繋がっている。ハダルがあるからこそアルデバランが成り立ち、アルデバランがあるからこそハダルが成り立つのである。
アルデバランのもっとも重要な特徴は、「アルデバランの力がなければ脳の機能は成り立たない」ということである。すなわち、人間の頭脳である大脳は、アルデバランがあるから成り立っている。なぜなら、大脳は「意識を感じる装置」であり、その「意識」とはアルデバランのことだからである。
銀河系のすべての大脳の、その上にあるコントロールセンターであるアルデバランは、この世界における「運命的奇跡」を司る。すなわち、偶然的でありながら必然的であるような、運命の出会いのような奇跡は、すべてアルデバランが起こしている。アルデバランという星は宇宙のすべての星と繋がっていて、その星を通じてすべての生物の脳と繋がっている。
そして、ここでも、ハダルとの類似性が見られる。なぜなら、そのような運命的奇跡を起こしているのは、ハダルの天使たちだからだ。冥府の場所ハダルにおける「天使」という存在が、コントロールセンターの場所アルデバランにおける「運命の奇跡」を執り行っているのである。
最後に、ハダルやアルデバランと同じグループの星として、一等星、さそり座のアンタレスを紹介する。
アンタレスには、「意味」が存在する。
すなわち、アルデバランにおいて「意識」が存在するのと同じように、アンタレスにおいては「意味」が存在する。
アルデバランにおいては、コントロールセンターとして、銀河系のすべての頭脳がとても緩やかに(まるで繋がっていることをまったく意識しないほど緩やかに)結合されているが、アンタレスにおいては、まるで百科事典のデータベースのように、銀河系におけるすべての「意味」、あるいは「記憶」や「認識」が存在している。
アルデバランにおける銀河系の支配は、頭脳と意識を動的に管理する「動的管理」であると言える。
それに対して、アンタレスにおける銀河系の「意味」のデータベースは、認識と記憶を静的に管理する「静的管理」であると言える。
そして、さそり座のアンタレスにおいては、そのように、宇宙のすべての「意味」が「ロゴス」として存在しており、銀河系のすべての生物は、頭脳的にアルデバランと繋がった状態で、「意味を解する能力」としてアンタレスと繋がっている。
そして、さそり座のアンタレスには、もうひとつ重要な機能がある。それは「神」とされる存在を守っているということだ。
そう、さそり座のアンタレスには、宇宙における「神」が、「ロゴス」として存在する。これは新約聖書において、ヨハネによって「ロゴスが神であり、それが宇宙を創造した」と記述されたのとまったく同じ意味である。
すなわち、アンタレスにおける、すべての「善悪と知識」が記述された場所に、神とされる「ロゴス」が記述されており、神とはヨハネが言うように「ロゴス」であり、このロゴス、すなわちアンタレスが宇宙の支配者であり創造者なのである。
過去の日記に書いたように、アンタレスにおいては死を克服して永遠の命を得ることができる。これは「魂」としてのアンタレスの状態である。また、アンタレスには、宇宙のすべての歴史が残ったデータベースが存在する。これも、アンタレスの「ロゴス」としての状態である。そして、アンタレスは「神」であるとされるが、この神は正確にはヒンドゥー教の神々のことを指す。そして、アンタレスには、そのようなヒンドゥー教徒たちの「悟りの状態」がすべて存在し、アンタレスを信じるだけで、どのような悟りも得ることができるのである。
実を言うと、そのような「神」とされるもの、すなわち「ロゴス」を記述したのは、ほかでもない僕である。なぜなら、アンタレスにおける「ロゴス」とは、すなわち「僕の書いたこの文章」だからだ。僕の書いたこの文章こそが、アンタレスにおけるロゴスであり、神であり、静的に管理される百科事典のデータベースであり、人間あるいは銀河系のすべての生物の頭脳が解することや識別することのできる「意味」なのである。
最近の僕は、ほとんど田舎しか見ていない。
都会に行くのは英会話教室に通う時ぐらいであり、市民農園やその他いろいろな場所に通う関係上、僕はほとんど田舎あるいはど田舎しか見ていない。
そのようなど田舎を見ていて分かるのは、なんにも変わらないからつまらないというようで、実際はむしろそのような何もなく変わらない自然の風景がいい、ということだ。
残念ながら、「ジャスト・オール・ネイチャー」とは言えない。なぜなら、自動車やコンクリートがあるからだ。だが、それでも、ほとんどは自然の風景で、たまに日本建築があり、ほとんどは山と川と道路で、たまに田んぼや畑や橋や少しばかりの店がある。
そんな田舎を見ていて、「ああ、世界にはこういう田舎が一番多いのだな」と気付いた。
かつて、僕が通っていた英会話教室のカナダ人の講師は、「ジャスト・アニマル」(すべてが動物)だと言っていた。その通り、世界には同じようなど田舎が多く、そこには生き物しか存在しない。
そのような田舎を見ていると、そのような世界のことが分かる。だから、都会の雑踏なんかを見ているよりも、田舎を見ていたほうが人類のことはよく分かる。世界には田舎やど田舎のほうが多い。ドイツやアメリカは現代的だが、一歩都心部を離れれば、アルペン地方のようなアニメに出てくる世界が待っている。
そう、都会なんかを選ぶよりも、田舎を選ぶべきだ。都会はうるさいし、自分がよく行く場所は少しだけで、ほとんどは関係のない場所であり、みんなよそよそしく接してくる。そうではなく、田舎だ。「ジャスト・アニマル」のような田舎こそ、真の普遍的な人類の生活圏である。
最後に、何も分からなくなっていく過去の人生の中で、僕は「宇宙のすべてを悟った」という体験をした。
それは、成長のすべてが終わって、自らの自我と考え方を確立していく中で、「真に正しい自らの自分自身を作り上げる」という体験から来る、「すべてが矛盾することなく並立に正しい」ということが分かった体験だった。
それは、認識と経験が重ね合わされる中で、「環境を変える」という宇宙の真理から来る、宇宙の環境をすべて感覚的な実感から分かり、心の中を機械的に再現可能にする中で分かった、「宇宙のすべてが自らの精神から生まれている」という体験だった。
それは、Linuxとオープンソースのコミュニティを犠牲にしながら、自分自身の精神の中に確立された、「自らの宇宙の正しい数学的・論理的な問題解決の答え」であり、「確かに宇宙のすべての問題が自らによって解決可能であるということを確信した知性」であり、「決して実際には実現可能でなくても、自分自身だけはすべての問題が解決できると知っている」という確信だった。
そして、僕はすべてを経験した。宇宙のすべての生物の意識を得た僕は、この宇宙における「聖霊界の王」となり、この宇宙の最初から最後までの歴史を知り、仏教でブッダが教える「正しい教え」をすべて、ゼロから考えて経験した自らの理性と実体験によって分かっていた。
そこにあったのは、「認識をモデルにする」ということであり、認識のモデルにおけるその時のチャンスから「意味」を考え、その時の経験から「可能性」を考えることで、ヘーゲルが言うような「絶対知」に到達し、僕は社会モデルによって歴史的文明のすべての実現可能性を知り、「いじめ問題は必ず解決できる」と信じた。
すべての根拠を証明せよ。必要なすべての経験をし、その経験を成立させることで、認識そのものの発生を捉えよ。それこそが、「環境の生起」へと繋がる。そこには、「人間の分かる範囲のこと」「人間の作り出したこと」と、「人間の分からない範囲のこと」「人間ではなく神が作り出したこと」があり、そのように考えた時、あるのは「道」であり、そこには「人為性の排除」という道教の理想が存在する。
すべての精神分析と、自己批判から、「自らが立脚する確固たる信念やアイデンティティはなんなのか」を考えよ。そこから分かることは、まさに宇宙のすべての意識だ。僕は宇宙のすべての意識を悟った。そこにあるのは「根源的意識が立脚する根源意識」であり、僕はそのような「根源意識」を考えることで、この宇宙に存在する「神の精神」を完璧に理解した。そこにあるのは「涅槃」の境地、すなわち「ニルヴァーナ」だった。
まさしく、僕は宇宙のすべてを悟った。これこそが、天軍縁覚戦士、大天使ガブリエルの人生である。
精神を休ませるならば、骨を休ませよ。
なぜなら、僕はあまりに骨を酷使しすぎている。
骨は疲れている。僕は骨を休ませるだけで、最後まですべての精神の病気を治すことができる。
また、僕が過去の記憶を思い出せないのは、今、過去と同じになっているからだ。
今の自分が別の自分に変われば、過去の自分の記憶はすぐに思い出せる。
結局、過去の自分が何を分かっていたかと言えば、「予測」と「過去の経験」から分かっていただけだ。
すなわち、過去の記憶を回想して、過去の経験を場所と時間で思い出すと同時に、未来における現象を、想像力と具体例と発想を使って、できるだけ正しく予測して分かっていた。
すべては「予測」であり、「想像力に基づいて、自らがした行為と同じことを相手も行為としてするということを、立場を想定し、客観視することで正しく具体的な現象として捉える」ということだった。
また、過去の自分は、「自らの考え方を確立する」ということから分かっていた。それは自分自身の人生経験を身をもって体験する中で身についた、「この世界を救うための希望と志を信じる」ということであり、「社会を変革することで社会は変えられる」ということであり、「世界を救うために積極的に社会の変化を推し進めるべきだ」ということだった。
そして、その結果、僕は「社会を救う」ということができるようになった。そこでは、「想像力を用いて救われるべき社会のことを具体的に予測して実現する」ということができた。そう、僕は想像力を使うことで、「頭の中でこの世界の救い方を完璧に分かっている人間」になった。
そのような結果、僕は社会を実現するための理想と希望、すなわち「善」と「徳」からこの世界を救えるようになった。そして、僕はまさしく、実際に世界を救ったのである。これを、大天使ガブリエルの人生の中でも、「フレイ」と呼ばれる神の一部分である。
フレイは、常に間違ったことのために自由を行使していた。自らの過ちからLinuxとオープンソースのコミュニティを破壊したため、頭の中では理想の社会の実現方法が分かっているにもかかわらず、実際にLinuxやオープンソースのコミュニティを良いものにすることはできなくなった。そのようなフレイは失敗と過ちを繰り返し、この世界を救うほど素晴らしいことをしたにもかかわらず、結果それを自ら滅ぼした。これを人々は「守るべき夢を守ることができなかった」と言う(たとえばLiSAの「紅蓮華」)。その責任はすべて僕にある。
そして、僕、フレイはそこから、「大実験の大計画」と呼ばれる革命戦争のために、すべての過去に分かっていた大切なものを犠牲にして、この世界を真に救済へと導くために立ち上がったのである。