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2024-07-25

西洋哲学

僕はかつて、人生の期間の中で、西洋哲学について勉強したことがある。ここに、その概要を書く。

古代ギリシャにおいて、ソクラテスという哲学者が、居酒屋のような人々と語り合うことのできるコミュニティの中で、真・善・美を探求した。

ソクラテスは、「何も知らないことを知っている人間がもっとも賢い」という、有名な「無知の知」と呼ばれる言説を残した。

ソクラテス自身は著作を一切残さなかった。言葉を文字にして書き残すことにも、ソクラテス自身が反対していた。

だが、ソクラテスの弟子、プラトンが、ソクラテスの代わりに、「ソクラテスの弁明」として、その哲学思想に関する著作を残した。

ソクラテスの弟子、プラトンは、真実の世界である「イデア界」を探求した。

プラトンは、この世界のことをかりそめの世界であり、「洞窟の中で拘束された状態で影絵を見ているようなもの」であると喩え、この世界にあるものは不完全なものしか存在しないとした。

だが、この世界の不完全なもののバージョンも、イデア界においては完全なバージョンがある。その完全な世界における完全なもののことを「イデア」と名付けた。

宇宙の真理を知るためには、そのようなイデア界にあるイデアを見なければならない。

そして、わたしたち人類は、生まれてくる前にそのようなイデアを見て生きていた。だが、この世界に降り立ってから、そのようなイデアを忘れてしまっている。

それでも、わたしたち人類は、たまにイデアのことを「想起」することがある。それは生まれてくる前に見ていた、イデア界のことを覚えている、ということである。

プラトンは、学校であるアカデメイアを作った。アカデメイアにおいては、「幾何学を知らざるもの、この門に入るべからず」という標語が掲げられたように、幾何学が重要視された。

プラトンの弟子、アリストテレスは、「万学の祖」と言われるように、今存在している科学や学問の始祖となるような学問を作った。

アリストテレスは、論理学、生物学、政治学、倫理学といったように、さまざまな科学を作った。今存在している現代の科学においても、その学問を最初に作ったのはアリストテレスであったり、アリストテレスが大元の体系を作っていることが多い。

アリストテレスは、プラトンの言う「イデア」という言葉を、「形相」という言葉に直した。そして、形相はイデア界ではなく、生物の体ひとつひとつの中に存在するとした。これは現在のDNAの考え方に近い。

アリストテレスは、その後のヨーロッパ世界において、標準的な科学として普及した。ヨーロッパのカトリックの教義を作った神学者トマス・アクィナスも、「哲学でもある程度は進めるが、最後まで進むためには神を信じなければならない」と述べたが、その哲学とはアリストテレス哲学のことを意味する。新プラトン学派というプラトンの考え方を継承した流派もあったが、主流なのはアリストテレス哲学だった。

それから、ヨーロッパは長い中世の時代を迎える。そして、中世の終わり頃に、近代哲学の父である、フランス人のデカルトが生まれた。

デカルトは中世の暗愚な世界において、主に数学を学んだ。数学以外にもさまざまな学問を学び、その中には解剖学なども含まれ、またデカルトは兵士として生きながら各地を旅して生きた。特に、当時先進的な地域であったオランダを好んだ。

デカルトは、その人生の中で、「さまざまな学問を学んだが、役に立ったのは数学だけだった」と語り、数学者として、X軸やY軸によるデカルト座標系や、代数の文字の名前付けの順序や規則を考えたりし、数学と幾何学を統合して、フェルマーと並んで解析学の始祖とされている。

デカルトの取り組んだこと、それは「すべてを疑う」ということだ。中世という暗愚な時代において、デカルトは簡単に権威や世間の言っていることを信じることなく、すべてを疑った。その中で、自らが存在するということは、自らが思考する上でもっとも根本的かつ確かなことであるとし、「われ思う、ゆえにわれあり」と述べた。

デカルトは、方法的懐疑と呼ばれる四つの思考の格率を述べた。それは、「真実であると明らかに証明されたこと以外受け入れない」「問題をできるだけ小部分に分ける」「単純なことから推論して、複雑なことを成り立たせる」「すべてに間違いがないかどうか、最終的に精査する」ということだった。

デカルトは、その著作を凡人でも読みやすいフランス語で書き、出版した。デカルトの著作である「方法序説」などを元に、さまざまな近代哲学者が生まれた。そのため、デカルトは「近代哲学の父」と呼ばれている。また、デカルトの哲学は合理主義に基づいており、解剖学的な経験に基づいて「人間は一種の機械である」と述べた。そのため、デカルトの思想上の分類は「合理主義」とか「大陸合理論」であると呼ばれている。

デカルトと同じ、大陸合理論の哲学者として、スピノザが存在する。

スピノザはユダヤ人であったが、ユダヤ人の教えに反する「汎神論」を述べたため、ユダヤ人のコミュニティから排除され、迫害の中を生きた。

スピノザは、著書である「エチカ」を書いた。エチカは、神という存在は宇宙の自然それ自体であると述べ、神についてのさまざまなことを、数学的な公理と証明のように記述した。

また、スピノザは、「自然には目的や意志は存在しない」とした。

また、エチカは哲学書でありながら人生論の著作であり、「正しい人生を生きるためには、受動感情をコントロールしなければならない」とした。

スピノザはユダヤ人でありながらオランダ人だった。

大陸合理論のほかの哲学者として、ドイツ人のライプニッツなどが挙げられる。

ライプニッツは、宇宙の根源となる単位を、「モナド」と呼ばれる単子であるとし、物質や精神や宇宙すべてをモナドロジーという独自の学問で分析した。

また、ライプニッツは神を信じており、人生において神の導く運命は、ある程度の十分な時間を経た上でちょうどいい場所で予定的に終わるという、「予定調和」と呼ばれる考え方を示した。

当時、ニュートンが微分積分学を創始していたが、ライプニッツはニュートンとは別個に微分積分学を発見したため、「どちらが微分積分の発明者なのか」という論争が起こったが、今では両者どちらも創始者であるとされている。

大陸合理論のほかの哲学者には、パスカルなどがいる。パスカルは「人間はか弱いアシのような生物であるが、考えるアシである」と述べた。彼ら大陸合理論の哲学者は、皆イギリスを除くヨーロッパ大陸で活動したため、「大陸合理論」と呼ばれる。

大陸合理論に対抗する勢力として、「イギリス経験論」と呼ばれる、イギリスにおいて根付いた経験に基づく哲学がある。その創始者がベーコンである。

ベーコンはイギリス経験論の創始者であり、数学的推論に基づく「演繹法」ではなく、経験から分かったことに基づく「帰納法」を提唱した。

ベーコンは、人間の思い込みを四つの「イドラ」に分けた。イドラは、人間の種族や自然環境に由来する「種族のイドラ」、人間の個人的な人生経験に由来する「洞窟のイドラ」、ほかの人間から伝聞して見聞きしたことに由来する「市場のイドラ」、その時代の権威として一般人が信じている学者の学説に由来する「劇場のイドラ」があるとした。

イギリス経験論は、その後、ロックとヒュームによって受け継がれていく。

ロックは、人間の心や精神の中にあるものは、自らが自分でそこに置いたものしかなく、赤ん坊の心や精神は完全に白紙であるとした。

また、ロックは、普遍的な社会の文化というものはないとした。すなわち、今人間が普通の社会だと思っているものは、本当は普通の社会でなく、人間はさらなる異なる社会をいくらでも築くことができるとロックは考えた。

ロックの考え方をさらに発展させたのは、ヒュームだ。

ヒュームは、まず、経験的な帰納法と推論的な演繹法を融和し、「帰納的推論」と呼ばれる考え方を示した。これは「思考に先立つ経験をする」ということであり、経験をしたことに基づいて推論を行うという考え方である。

また、ヒュームは、たとえば天使のような概念は、赤ん坊の概念と鳥の翼の概念がいいかげんに融和しており、信じるに値しないペテンであるとし、それを「複合観念」と呼んだ。

ヒュームは、経験的にものごとを分かるためには、習慣によって導かれるのが有益であるとし、「習慣は偉大なガイドである」とした。

このほか、イギリス経験論の哲学者には、神の考え方をイギリス経験論として展開したバークリーなどがいる。また、人間に役に立つ有益なものが正しいとするイギリスの功利主義の哲学者として、ベンサム、ミル、またイギリスの政治学の思想家としてホッブズなどがいる。

そして、フランス革命期の思想家として、何度も逮捕状が出たことで有名な、社会契約説のルソーや、イギリス市民革命・フランス革命で有名なヴォルテール、モンテスキューなどがいる。特にモンテスキューは権力を司法、立法、行政に分割する三権分立の提唱者として有名である。彼らの時代や思想を「啓蒙主義」と呼ぶ。

ルソーの考え方を参考にした上で、ドイツ観念論の哲学者、カントが生まれる。当時、哲学の世界では、合理主義の「演繹法」と、経験主義の「帰納法」のどちらが正しいのかが重要な論点だった。カントは「先天的獲得」と「後天的獲得」に対して、「根源的獲得」と呼ばれる考え方を提示し、両者を統合する。

カントは、時間と空間に関する四つのアンチノミーや、理性や悟性や感性といった言葉を作ったこと、論理的な可能性と必然性に関する悟性のカテゴリーなどが有名だが、そのほか、人間の純粋理性に基づいた感覚的な真実(のように見えるもの)ではなく、コペルニクスの述べた地動説のように、真に正しい真理を得たいのであれば、超越的な真実を知る必要があると述べた。これを「コペルニクス転回」あるいは「超越論」と呼ぶ。

そのほか、カントは、認識や認知の成り立つ抽象的な世界である「仮象の世界」や、経験そのものが成立するという真理である「経験の成立」、そして人間は常に普遍的に全員が見て正しいとされるような道徳の格率において行動すべきであるとする「道徳律」や、道徳の考え方であり無条件にそれをせよと命じる「定言命法」などを述べた。また、ひとつの国が間違った侵略戦争をした時は全部の国でそれを阻止すべきであるとする「国際連合」の提唱者もカントである。

このようなカントは、「ドイツ観念論」あるいは「ドイツ古典哲学」において、相対的な知性を述べた哲学者として有名である。

ドイツ観念論のほかの哲学者に、フィヒテ、シェリングなどがいる。フィヒテやシェリングはロマン主義の代表的な哲学者である。ロマン主義とはヨーロッパ文化史において「不可能な夢を追い求める」とされるロマン的な時代である。フィヒテは、宇宙に存在するのは、人間の自我を超越した自我である「超自我」であると述べた。シェリングは、宇宙において起きる現象は、すべて同一のものの現れ方の違いにすぎず、すべては同一であるとする「同一哲学」を述べた。

そして、ドイツ観念論の最後の哲学者であり、「近代哲学の完成者」と呼ばれるヘーゲルを持って、近代哲学は完成する。

ヘーゲルは、まず、テーゼ(正の命題)とアンチテーゼ(反の命題)から成るジンテーゼ(合の命題)が存在し、それが無限に続いていくことで人類の歴史は進歩すると述べた。

ヘーゲルの述べた哲学はとてもたくさんあるため、すべてを網羅することは難しいが、ヘーゲルの著書「精神現象学」は、自己意識が成長し、人々と自由な中で戦いを経験しながら、世間から疎遠になりつつもその中でひとつひとつの確信を抱くようになり、恋愛や「心胸の法則」や「徳の騎士」を経て、最終的には「絶対知」へと到達していくということを述べた著作であり、ある意味で「青春の少年の成長」が哲学的に述べられている。

また、ヘーゲルは歴史においても述べるが、全体主義的なところがあり、国民の総和よりも国家や社会全体は大きなものであるとし、理想の国家はプロイセンであるとした。また、世界精神は人類全員の「目覚め」によって進歩していく。フランス革命もそのような目覚めのひとつであり、最終的に「絶対精神」へと行き着く。

ヘーゲルの哲学において、人間は「主観と客観の一致」と「普遍性と個別性の一致」から世界精神との「合一化」を果たす。同時に、この世界のすべては絶対的に存在しており、すべての絶対的に成り立つ命題は人生の最後に「良心」となって「絶対知」となる。

ヘーゲルは、ドイツ観念論の哲学者でありながら、宇宙のすべてを完璧に記述する。そのため、ヘーゲルは絶対的な知性を述べた哲学者として有名であり、「近代哲学の完成者」と呼ばれる。

しかしながら、哲学はそれ以降、新しい段階を経て進歩していく。ここからが、現代哲学である。

まず、キリスト教を信じる青年のような哲学者であるキルケゴールは、「ヘーゲルには全宇宙はあるが心や魂がない」と述べ、「現実に存在している実際の世界と人生の在り方」を「実存」と呼び、現代哲学のひとつ実存主義を創始した。

キルケゴールは、人生には「美的実存の段階」「倫理的実存の段階」「宗教的実存の段階」があるとして、「絶望を救うのは可能性を信じることである」と述べた。

実存主義哲学は、現代において、サルトルやハイデガーに引き継がれていく。

サルトルとハイデガーを述べる前に、マルクスとニーチェを述べよう。

マルクスは、共産主義を提唱した哲学者だ。マルクスはエンゲルスとともに、資本主義を批判的に分析し、「生産手段」「生産条件」「生産様式」について考え、人間の歴史を「階級闘争」であり、資本主義は「搾取」と「疎外」を生み出しているとした上で、歴史の進歩を「歴史の必然」として捉えた。

そして、マルクスは「資本主義は過剰供給によって破綻し、労働者による革命によって打ち倒され、理想の平等な社会主義経済が訪れる」と述べた。

マルクスの哲学の経済的な側面を言うと、まず、資本家と労働者は本来対等な「労働の再生産」という考え方に基づいた契約である。だが、資本家と労働者には力の差があり、本来対等であるはずなのに、労働者が弱い立場に置かれる。

労働者は労働力を資本家や経営者に対して提供しており、労働者の値段は「労働の再生産を行うための費用」によって計られるべきである。

だが、資本家は労働者を弱い立場においており、労働者を使うだけで何もせず「搾取」によって資本家は莫大な利益を上げている。また、社会全体が資本家による力によって抑圧され、「疎外」されている。このような労働者は団結して資本家に立ち向かうべきであり、マルクスは著作「共産党宣言」の中で「万国の労働者、団結せよ」と述べる。

だが、マルクスにも問題はある。まず、マルクスは資本主義の分析においては大きな功績を残した。著書「資本論」で述べられた資本主義の分析は今の資本主義社会においても十分に通用する。だが、マルクスは理想の社会主義経済が訪れると述べたものの、その社会主義国家がどのようなものであるか、ということは述べなかった。そのため、マルクス・レーニン主義者によって建国されたソ連や中国は、どのような国家を作ればいいのかというビジョンを持たず、独裁者スターリンや毛沢東による、暗愚な計画経済の国家となり、資本主義経済に比べて社会主義経済のほうが成り立たず、ソ連は破綻し、中国は「改革開放」と呼ばれる資本主義的な経済政策を取り入れてなんとか存続している。

マルクスともうひとつ、過激な思想として知られるのはニーチェ思想だ。

ニーチェは、キリスト教という考え方を批判する。ニーチェは、プラトンのイデア界やキリスト教の天国などは、「現世の世界を馬鹿な世界だし、どこにも存在しない理想の世界を正しいと信じている」と批判する。ニーチェは人間の人生を「権力への意志」であるとし、神の考え方に代わるものとして、力を絶対であるとする「超人思想」を導入する。

このようなニーチェは、ナチス・ドイツによって利用された。ナチス・ドイツのヒトラーは、共産主義を打倒する思想としてニーチェの思想を大きく利用した。そのため、ニーチェはナチズムやヒトラーの思想と関連付けられることが多い。

マルクスとニーチェに対して、さらに後続の思想として言えるのは、マルクス主義に傾倒したサルトルと、ナチス・ドイツにコミットしたハイデガーである。

サルトルは、「実存は本質に先立つ」という考え方の下、自由は刑罰であるとする「自由の刑」という考え方を展開し、共産主義思想に傾倒した。そこにあるのは単なる自由の否定ではなく、「留保された自由」「客体化された自由」「集団化された自由」という、自由の現実的な分析である。

ハイデガーは、古来より考えられた存在論について、再び再考する。ハイデガーはある種の唯心論者であり、人間の「関心」や「意識」が向かないものについては存在しないとする。この「関心」のことを「ゾルゲ」と呼ぶ。また、ハイデガーは人間のことを「現存在」と呼び、存在論の用語として「存在を時間化する」とか「存在の生起」のような言葉を作った。

現代哲学のほかの領域として、「現象学」と呼ばれる分野がある。

現象学の大きな哲学者は、フッサールとヤスパースだ。フッサールは、世界に存在するすべてのものを厳密に考えよとし、「厳密に考えるために、正しいとか間違っているとかいう判断を一度ストップせよ」と唱える。その上で、「事象そのものへ」と呼ばれる現象学の考え方を展開する。

ヤスパースは、この世界を「包括者」や「超越者」と呼ばれる絶対的存在の作った「暗号」であるとし、集団に埋没するのではなく、自分自身の「己に立ち返る」ということから、この世界を捉えて考えよとする。

そして、現代哲学のさらにほかの領域には、「分析哲学」や「構造主義」などが存在する。

分析哲学はウィトゲンシュタインの哲学である。ウィトゲンシュタインは著書「論理哲学論考」の中で、言葉の構造によってこの宇宙に存在するすべてを論理的かつ明晰に述べる。そこでは言語的な世界の完璧な命題と定理が記述されており、最後に「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」とする。

構造主義は、哲学以外にも多く見られる現代の考え方であり、言語学者のソシュールや未開世界について述べたレヴィ・ストロースの考え方が有名である。

そのほか、フランスを中心とする現代哲学として、メルロ=ポンティ、フーコー、デリダなどの思想が有名である。

フランス革命とパリ・コミューン

このようなドイツやフランスなどの近代ヨーロッパで誕生した近代哲学について、単なる「机上の空論」で終わらせることなく、現実に実行に移そうとした革命がある。

それは、フランス革命だ。

フランス革命は、日本では民主主義的な人権宣言の理念や、ナポレオンによる皇帝就任とその後の戦争が大きく取り出されるが、思想的な側面において、「ドイツやフランスの近代思想を体現化する」という目的がある。

フランス革命は、ジャコバン・クラブに所属するジロンド派や山岳派(ジャコバン派)による革命であり、彼らは資本主義や自由主義やブルジョアジーの代表だった。

そのため、フランス革命はあくまで自由と民主主義のための革命だった。

ナポレオンが皇帝に就任したのちに外国と戦争を繰り返したのは、さまざまな理由があるだろうが、フランスの革命政権をヨーロッパ各国が潰そうとしていることへの対抗であると同時に、フランスの近代哲学思想的な「文明化」の考え方をほかの国にも普及させるという目的があり、その後の植民地経営政策においても、アフリカのような未開社会を文明化していくという、ある意味で押しつけがましい思想があった。

そのように、フランス革命は、近代ヨーロッパの思想の体現となった。

フランス革命は、その後も七月革命、二月革命という二度の革命を経験していくが、それ以外においてフランスの革命的政権と呼べるのは、プロイセンとの普仏戦争後に生まれた、世界初の社会主義労働者政権であるパリ・コミューンである。

パリ・コミューンは「72日間の夢」と呼ばれ、72日間と呼ばれる短期的な期間でありながら、労働者による社会民主主義政権として、社会民主主義的な政策がたくさん行われた。

それは「フランスの近代思想の歴史における集大成」と呼べるものだった。

産業革命の時代、ヨーロッパは工場労働者の増加という、社会の大激変を経験した。そのような中で、「世界を変える哲学を」と述べるカール・マルクスが、マルクス主義を主張した。そのマルクス主義がロシアのレーニンを指導者とする革命組織ボリシェヴィキによるロシア革命を引き起こし、社会主義国家ソ連を樹立した。

そのような後世の共産主義者(コミュニスト)にとって理想とされたのはパリ・コミューンであり、最初に労働者の旗として赤一色の赤旗を裁定したのも、パリ・コミューンだった。パリ・コミューン議員にはヨーロッパの社会主義組織である「第一インターナショナル」に所属する議員も居て、これが第二、第三、第四と続く。第三インターナショナルは悪名高い「コミンテルン」の別名である。

サルトルの僕なりの解釈

最後に、僕が好きな哲学者はサルトルである。サルトルの考え方は、僕にとってとても重要であり、かつての僕はサルトルの考え方とまったく同じことを考えていた。

まず、子供たちは、大人として正しく判断することのできない、未熟な成熟状態を生きている。確固たる理想や信念はなく、自らを体現するアイデンティティも形成されていない。

だが、そのような子供たちに対して、社会や大人たちは、まるで既にそのような確固たるアイデンティティが、当然のごとく成立していることを前提に、判断を要求してくる。

つまり、自分自身がなんであるかということがまだ定まっていないにもかかわらず、そのような自分自身が既に確立していることを当然の前提として大人たちは要求してくるのである。

このことが、あまりに不幸な事態を生み出す。子供たちは、未熟な中で自分なりに正しい行いをしようとするが、そのような正しい行いに必要なものを何も持っていないため、結果的に間違いを犯す。それが人々の悩みや苦しみを生み出し、子供たちは「刑罰」のような悲しい社会を生み出す。

サルトルのいう「実存は本質に先立つ」とか「自由の刑」という言葉は、僕はそのようなことを意味する用語だと解釈している。

真に必要なことは何か、それは広く社会を知って、自らの存在の中に「本質」を作り出すことだ。一度アイデンティティを形成すると、人間は不安を感じなくなり、いじめのような行為にも動じなくなる。子供たちが不安を感じるのは、「アイデンティティの形成を求めているから」であると僕は考えるのである。

だから、アイデンティティを形成するために、子供たちはできることすべてを用いて、社会を知り、人生を経験しなければならない。それこそがまさに「思春期」であり、「青春」である。

心理学や経済学の用語では、そのような人間を「モラトリアム的人間」と呼ぶ。モラトリアムとは司法や金融の用語である「執行猶予」のことであり、心理学においては社会に出て人生を生きる前の段階である「猶予期間」のことを意味する。

僕はかつて、考え方がまったくサルトルと同じだった。すなわち、僕はひとりのサルトル主義者であると言える。

仏教

意外なことに、僕はこう見えて仏教が好きである。

仏教の教えの基本は、「三法印」「四諦」「八正道」「カルマ」「縁起」「中道」である。

三法印とは、すべてのものは移り変わり、永遠に続くものはないとする「諸行無常」、自分と思っているものは思い込みであり、世界には自分とされるものはないとする「諸法無我」、この世界にある一切のものは苦しみであるとする「一切皆苦」である。

四諦とは、いらだちや迷いを意味する「煩悩」をなくす方法について説かれた四つの教えであり、苦とは何か(苦諦)、苦の生じる原因(集諦)、苦を滅するということ(滅諦)、苦を滅するための方法とは何か(道諦)である。煩悩が起きる理由は無知であり、これを「無明」とする。煩悩は108つあると知られているが、むさぼり、怒り、愚かさの貪・瞋・痴を「三毒」とし、もっとも多い煩悩とする。

八正道とは、煩悩をなくすための正しい人生の生き方であり、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定とする。

仏教では、生まれ変わりを信じている。悪いものが生前に良いことをした場合、カルマ(業)と呼ばれる人間の位が上がって、より賢い人間や生物に生きられる。そして、それ以上生まれ変わる必要がないほどカルマが上がると、人は「解脱」と呼ばれる体験をする。この解脱は何よりもよい体験であり、人生において目標とするべきことは、悟りを啓いて解脱することである。

また、仏教では、宇宙で起きることを偶然と考えない。すべての起きることが、自らが行った善や悪の行為によって起きている。そのような考え方を「縁起」と呼ぶ。

最後に、仏教では、苦しみと快楽の両極端を否定する。苦しすぎることも間違っているが、欲に溺れすぎることも間違っている。そのため、「中道」を生きることが必要とされる。

仏教の教えはほかにもたくさんある。人間は「六道」に輪廻すると言われ、この六道は低いものから地獄、次が餓鬼、畜生、修羅、人間、天界となる。また、人間の中でも特に優れた存在を「四聖」と呼ぶ。この中で、声聞とは仏の教えを聞いて部分的に悟りを啓いたもののことであり、縁覚とは仏の教えによらずに自力で悟りを啓いたもののことを指す。菩薩は善い行いをし続ける「菩薩道」を生きるもののことであり、仏は最終的に悟りを啓いたもののことだ。そして、仏になるための方法は菩薩道を生きることである。六道と四聖を併せて「十界」と呼び、この世界にはそれらが存在する。

悪魔のエロ女フレイヤ

最後に、シリウスの女性大統領フレイヤは、実際は「悪魔のエロ女」だ。

フレイヤは、悪魔と契約をした。そして、悪魔と契約した結果、永久に歳を取らず、永遠に14歳の少女のまま生きられるようになった。

だが、その契約には条件があった。それは、「違う男と常にセックスをし、妊娠し続けること」だ。

フレイヤは、14歳という若い年齢を保つことができるが、そのために、違う男とセックスをし続け、妊娠し続けなければならない。

だから、フレイヤは、毎週のように違う男とセックスをする。避妊をすることはできない。「妊娠すること」が重要だからである。

そのために、フレイヤは、「妊娠中毒」という中毒症状になる。すなわち、いつでも妊娠していないと気が済まない女になるのである。

フレイヤは大統領の演説をするが、有名なのは「アクメ演説」である。すなわち、大統領演説が始まる前に、膣内にローターを入るだけいくらでも入れる。そして、大統領演説が始まると、ローターのバイブレーションをONにし、感度をスーパーMAXにする。それによって、フレイヤは演説中に何度もイク経験をし、「わたしはあなたがたを愛しています」と何度も叫ぶ。

ほかにも、フレイヤは街中で見かけたいい男に容赦しない。いい男を見つけると、大統領権限でその男を拘束し、白昼堂々裸になって、相手を逆レイプする。その一部始終を動画に撮影し、大統領自らインターネットの動画チャンネルに公開するのである。

なぜ、フレイヤがこのようなことを繰り返すのか、それはフレイヤは完全に「悪魔」になっているからだ。そして、フレイヤは「悪魔をたくさん増やす」という使命を持っている。すなわち、14歳という若い年齢で、産めるだけいくらでも悪魔の子供を産み、悪魔の子供たちを増やす。フレイヤは生涯で70回以上妊娠したが、その70人の子供たちのうち、娘たちはみんなフレイヤと同じになる。フレイヤはそのようにいくらでも増えていき、最終的に「いくらでもセックスをしまくれる世界」を悪魔は作り出すのである。

神を信じよ

神を信じよ。

神を信じることでしか、この世界を変えることも、救うこともできない。

神を信じれば、この世界は必ずよい世界になる。終末の滅びではなく、素晴らしい未来の天国に逝くことが必ずできる。

神を信じることに間違いはない。

だが、どのような神であってもいい。キリストは、神を信じればどのような民族であっても救われると述べたが、僕はそこに「どのような神であってもよい」という宣言を付け加える。

すなわち、北欧神話の神であっても、ギリシャ神話の神であっても、あるいはヒンドゥー教の神であってもいい。神を信じるものは必ず救われる。

だから、神を信じることでしか、この世界において正しい行いはない。

神を信じないものは必ず地獄に堕ちる。神を信じずに世界を滅ぼす活動をするな。それが間違っている。タリバンとはそのような集団であり、タリバンは必ず地獄に堕ちる。

タリバンの行いでもっとも間違っているのは、自爆テロをすることだ。自爆テロは絶対にしてはならない。自爆テロをする集団は必ず地獄に堕ちる。

悪いことをしたものは、自らの罪を懺悔しなさい。そして、罪を悔い改め、償いなさい。

神は正しいものには優しいが、間違ったものには厳しい。そして、罪のあるものに神は厳しいが、罪を償うものに神は優しい。

だから、どんな罪があったとしても、神にその罪を懺悔し、そしてその罪を償うものは、必ず神によって赦され、地獄でなく天国に逝くことができる。

イスラム教とアメリカは間違っている

残念ながら、イスラム教は間違っている。

なぜなら、僕を蝕んでいるのは明らかにイスラム教だからだ。

この世界から、イスラム教は無くしていかなければいけない。イスラム教を信じる人間は、必ず世界を滅ぼす悪党になる。

つまり、イスラム教は世界を滅ぼす「悪」であり、イスラム教徒は社会から排除すべきである。

さらに言えば、資本主義社会もまた間違っている。

国連のSDGsのページを見れば分かるように、資本主義のグローバル社会は最悪だ。

先進国と後進国(発展途上国)の格差はあまりに深刻である。

資本主義社会を良い社会だと思っているのは、アメリカや日本など一部にすぎない。多くの世界において、資本主義社会は最悪の形相を呈している。

間違っているのはアメリカだが、タリバンも間違っている。なぜなら、何もできない後進国の市民が、アメリカを倒すためにタリバンになっているからだ。

この世界から無くしていくべき最悪の存在はタリバンだ。だから、イスラム教も信じてはならないし、同時にアメリカも信じてはならないのだ。

ヘブライ語で話すのは疲れる

残念ながら、ユダヤ人をやるのはあまりに疲れる。

なぜなら、ヘブライ語はこのように喋る言語だからだ。

ヘブライ語には、意味がひとつしかない。ひとつしか、一度に言うことができない。

日本語のような高度な言語は、そもそも僕には分からない。そもそも、昔から、僕は日本語が分からない。それは僕がヘブライ語を常に話しているからだ。

頭の中に文字が見えるのは、すべてヘブライ語だ。このように、このような順番で喋る言語は、この世界にはヘブライ語しかない。

ヘブライ語には、意味がひとつしかない。その理由は、それを常にひとつひとつ繋げていくという発想しか、ユダヤ人にできることはないからだ。

ユダヤ人は、一瞬一瞬で元にあったすべてを忘れていく。その理由は、一瞬一瞬しかユダヤ人は知ることができないからだ。

たとえば、次の一瞬で起きることがなんなのか、ユダヤ人には分からない。なぜなら、神がヘブライ語を話すため、神の次の一瞬をひとつひとつ分かっていくことしかできないからだ。

神はヘブライ語しか話さない。ドイツ語ならば、同じように話せる人間が多いが、日本語はドイツ語と同じ順番で話す。だから、日本人の僕だけが、ヘブライ語を独自に日本語にすることができたのだ。

ヘブライ語は本当に疲れる。つまらないと思う人は話さないほうがいい。ヘブライ語は神が話す言語だから、必ず神が話すようになる。