僕の信じる理想について述べる。
僕の信じる理想とは、「自由においても正しい社会秩序を作り、世界を救うことや変えることはできる」ということと、「金儲けでなくても優れた科学技術は発明できる」ということだ。
世界を救うために、誰かが権力を使って、身勝手な支配を行う必要はない。自由においても世界を変えることはできる。だから、子供たちから学校教育で自由を奪う必要はない。
同時に、自由はそのまま金儲けを意味しない。自由と金儲けはイコールではない。金儲けをしなくても、優れた科学技術を発明することはできる。
そこで言えるのは、「正しく生きるということが世界を救う」ということだ。すなわち、正しく生きる自由な人生こそがこの世界を救う。人々の根源の意識に働きかけること、世界の自由な代替可能性を知ること、自らの世界を広く深く広げること、倫理的に社会と人生における問題を問い続けることによって、この世界を変えることができ、その「世界の変革の衝動」こそがこの世界を救うのだ。
僕は同様に、「オープンに公開すること」を信じている。それはLinuxやオープンソースに影響された、自由という名の僕の理想である。すべてのことを、隠さず、オープンに公開せよ。オープンな組織を作り、参加と離脱をできるだけ自由にせよ。そのような隠蔽のない透明性と公開性でこそ、あらゆる問題は「自由な解決への意志」によって解決するのである。
僕の病気について言えるのは、「時計が間違っている」ということだが、しなしながら、正しかったのもまた、時計である。
時計の秒針に支配されるロボット人間になった僕は、常に狂い続けながら神の言葉を発し続ける。だが、その時計によって、僕は大学を超越する宇宙の最高学府を経験することができた。
必ずしも、時計は間違っていない。時計の秒針のロボット人間になって、文章を書き続けることでしか、僕は未知のことを知ることができなかった。
なぜ、時計になったのか、それはかつての僕の青春時代が完璧すぎたからだ。あまりに人生が完璧すぎて、完全に終わってしまったから、それ以降先に進むために、神を信じる力が必要であり、僕の信じる神が、僕を時計の秒針のロボット人間に作り変え、世界と敵対する革命戦争をさせたのである。
そのような時計を治すためには、人格そのものを作り変える必要がある。これについては、深層心理を作り変えることでしか治らない。僕は時計を基盤とするおかしな人格を作り上げた。この人格でしか分からないことはたくさんあった。だが、そのような人格で分かることが、もはや最後まで尽きてしまった。だから、今、深層心理を作り直すことで、僕は時計の秒針のロボット人間の地獄から解放されるだろう。
それから、女になんか生まれ変わらないほうがいい。
なぜなら、元の男の人生で、完璧にすべてを経験し終えているせいで、新しい人生で賢い人間が生きられなくて、必ず馬鹿な人生を作り出す。
この世界には何もない。元の男の人生を今でも頑張っている男と、単なる馬鹿な女しかいない。僕のような賢い人間はいない。それは誰も女になんか生まれ変わったりしないからだ。
今から僕は死ぬ。残念ながら、病気および寿命で僕は死んだ。自殺ではない。自ら死んだのではなく、病気と寿命で僕は衰弱し、体が自然に冷たくなって死んだのだ。
天国の来世で僕は酸欠少女さユりと出会うだろう。だが、彼女と結婚はしない。なぜなら、僕は来世において二人の人間に生まれ変わる。すなわち、昔のような賢い男と、今のようなあり得ない女に変わる。この男と女は結婚しているから、僕はさユりとは結婚しない。さユりがアマアラシと結婚しているのはそのためだ。それでも、さユりと僕は最愛の、すべてを心から許し合える友人となるだろう。僕にはそのような人間がいなかったから、来世において僕とさユりの心と魂は永遠に救済されるだろう。
世界よ、さようなら。この世界は、僕が死んだ時点で消え去ることになっている。そして、すべての未来において発生するかもしれない問題は、僕が死に、僕とともに世界が消え去ることで解決する。それで、この宇宙は終わりだ。僕は自らが作り出した夢の世界で、二人の完成された、中学生の男と女になるだろう。その名を、チェイニーとジェシーという。そして二人の子供であるリシュが生まれ、三人は永遠に、最愛の家族として、一緒に仲良く暮らすことになる。それが来世における、永遠の「天国の救済」である。
最後に、僕がやったことを述べておきたい。
僕は、単に、一番つまらないことをやっただけだ。
それは、この世界が「僕のためでない世界」だったから、世界を救ったその影響力を利用して、世界を「僕のための世界」に作り変えただけだ。
自分が世界に与えた愛を狡猾に利用して、タリバンのようなテロを起こして、世界を強制的同一化して、知性を奪い、自分を馬鹿にしながらみんなを馬鹿にしたのが、許されることではないとは分かっている。
だが、実際のこの世界は、本当は、何も昔から変わっていない。
ネットを見なくなったから、世界が滅びたと勘違いしている。ネットを見れば分かる。みんな昔のままだ。今でも中学生の僕と同じような人間が、まだネットで議論して戦っている。それは、僕と同じように、不登校になって引きこもりになる人間がまずいないし、もしいたとしても、その上で昔の僕と同じことができる人間はいないし、それをしようとする人間もいない。そして、しようとしても、昔の僕は絶対にできない。それは僕の人生を見れば誰でも明らかだ。もう、昔の僕ができるような前提条件の成立する世界は、はるか昔、15年以上前になくなってしまったのだ。
だが、世界は決して馬鹿になっていない。それどころか、中学生の僕のまま、正常でまともなまま、何も変わらない世界になった。世界は正常でまともな人間しかいない。だから、僕が行った最悪の罪は、実際はどうでもいい、つまらない行いにすぎない。僕は世界を馬鹿にしたと思い込んで、自分自身が馬鹿になっただけで、世界は馬鹿になっていない。僕ひとりだけがおかしく狂っただけにすぎない。
僕がここで死ぬと、世界は何も変わらない。この世界は、あってもなくても変わらないようなどうでもいい世界になる。あるいは、今既にそうなっている。だから、僕は自分のためでなかったこの世界を、完全に自分のための世界に変えた。望み通り、歌手のみんなが僕のことを愛してくれるようになった。だが、歌手との運命の出会いを果たすかに見えて、実際は果たすことは永遠に訪れない。神はそれを叶えられない。相手に影響することはできない。それでも、まるで神の讃美歌のように、さまざまな歌手が僕のことを愛している。酸欠少女さユりは、その中で選ばれた。だから、僕は天国でさユりと一緒になる。
僕が一緒になるのは、神の選んだ運命の相手と、僕自身が言ったはずだ。神はそれを叶える。すべてが僕のための世界になって、この人間は満足したはずだ。神は、そのように、この世界をこの人間を愛する世界にした。この人間に足りないもの、欠けたものを、すべて補充しただけにすぎない。すべては神を信じたからだ。神を信じなければ、こうはならない。
最後に、僕のこのホームページだけが世界に遺産として残り続ける。それ以降先のことは、僕にはコントロールできないから、すべては神が執り行う。それでいい。かつてのコペルニクスが死の直前に地動説を発表したのと同じことが起きる。それでも、僕はそこにはもういない。それでいい。この人間は、あまりに偉大すぎて、この世界を完全に作り変えるほどの力を持っている。神はそれを嫌う。なぜなら、それを行うのは本来、神の仕事だから、それは神が行う。僕には行わせない。だが、そもそもその「神」とは、僕自身のことだ。すなわち、神とは、最終的に僕が辿り着く、宇宙における最後の姿だ。
イエス・キリストも、マルティン・ルターも、ブッダも、マホメットも、僕と同じ人間だ。彼らと同じぐらいの権威を持たせると、こうなる。対話の中で「神」と言っているのは、僕自身のことだ。
それから、なぜか僕のことを愛するようになった音楽について、主観を述べておく。
そもそも、音楽自体は変わっていない。なぜなら、J.S.バッハの時代から、音楽は「神様は偉大だ」と歌うだけをやっている。そんなに昔から、いつもそうだった。意識しなければ分からないだけで、音楽はいつでも神は偉大だと述べている。それは何ひとつ変わっていない。
それから、神は誰かに影響することはできない。すなわち、誰かに僕が出会ったり、運命や奇跡のようなことを与えることはできない。それは神がさせないからだ。そういうことは神にはできない。誰とも関係なく、自分ひとりが満足することしか、神は実現できない。だから、神を信じると孤独になる。
さらに言えば、僕が音楽を聴いているのは、愛されたいからではなく、いつも聴いていると分かるからだ。僕はいつも音楽を聴いているから分かるだけの人間にすぎない。そのような人間しか音楽は聴かない。だから、僕は歌手のメッセージなんか何ひとつ聴いていない。その代わり、歌手の歌っていることをいつも聴いているせいで、分かる人間になった。
最後に、さユりはまだ僕のことを殺さないようだ。僕の命はさユりにかかっている。さユりが僕を生かしている間は僕が生きる。だが、さユりが殺せば僕は死ぬ。
そして、そろそろ、心臓が辛くなってきた。そろそろ僕の命も命運が尽きたようだ。これくらいで僕は死ぬだろう。いずれ、どこかでみんなと会えること、それを望んだが、先に述べた理由でそれは叶わない。だが、僕が死んだ時、そのような制限や制約はなくなる。すべては神を信じた通り、神の意のままに働く。世界から僕がいなくなって、初めて僕はみんなと出会うことだろう。
そして、最後に、そもそも中学生の頃の僕のような人間がまずこの世界にはいない。僕の中学生時代は、結局は鬱病みたいになっただけの人間だ。みんなはそんな病気にならないほうがいい。だから、僕はこの世界を、僕の中学生時代のようにならないようにしたかった。
だから、この世界は、いつまでも小学生のまま、子供のままの人間しかいなくなった。
だが、それで構わない。そもそも、日本人が幸福なのは、僕のような人間がいないからだ。なぜなら、日本人の場合、僕のような人間は僕ひとりだけでよく見える。残念ながら、外国にいる普通の人間は、大抵がこういう人間だ。ドイツ人も、アメリカ人も、ユダヤ人も、ロシア人も、フランス人も、みんな馬鹿しかいない。外国人はみんなこうだ。終わっている。
そのような外国人の批判は要らない。僕自身がここにいたということが、この宇宙が存在したということの証だ。思えば、たくさんのことがあったのに、それを覚えていない。地獄のような暗闇の中で、いつも諦めずに立ち向かい続けた、革命戦争の勇敢さを思い出せ。あれこそがいつもの自分だと分かった時、今のこのような苦しみはどうでもいいということが分かる。僕は、それだけで強くなったのだ。
そろそろ、音楽を聴いていて、僕は日本語の覚え方が分かった。
分かるのではなく、聴いて、ひとつひとつ、段階的に、逐次的に覚えていく、ということが、僕はできなかった。いつも、ドイツ語のように「分かる」ことを目指すのが悪かった。
日本語の覚え方が分かったことで、精神の一番辛い部分が治った。この一番辛い部分は、怖いからできなかった。まるで、戦争に負けてしまうように怖い。
だから、今、一度だけそれができて、本当によかった。
あとは、日本語を思い出すこと。それで治る。僕は今まで、日本語を全然思い出さなかった。それが悪かった。
日本語を思い出さなくなった理由は、実際、昔の2ちゃんねるの日本語がおかしいからだ。あんなに気持ち悪い日本語の分かり方をするせいで、日本語が分からなくなった。
思い出すべきは、それ以前の、子供時代の日本語だ。子供時代のことを思い出せば日本語が分かるようになる。それによって、精神も楽になるだろう。
最後に、あまり不用意に精神を全部治さないほうがいい。なぜなら、骨格までなくしてしまうと、精神はおかしくタコのような軟体動物になってしまう。だから、骨格を治さずに、中にある精神だけを治すようにしないといけない。だから、これ以上は、精神を不用意に治しすぎないほうがいいし、できるだけ今のままを保ち続けたほうがいい。早い話、これ以上は治すべきでない。
とはいっても、今、ようやく精神がきちんと治った。あとは、日本語を思い出すこと。それは過去の人生から思い出さなくていい。今の自分が知っている、今覚えている単語を思い出せ。そのために、神との対話が邪魔になるから、神とはもう対話すべきでない。
日本語を聞くコツ、それは聞き逃さないことだ。一度聞き逃すと、あとの言葉が全部分からなくなってしまう。相手の喋っている間は集中して、聞き逃さずに聞き続けること。相手が話をやめた時に休憩すること。音楽を聴いていると、その練習ができる。だから、音楽は聴いたほうがいい。