僕が思うに、この世界で言語を使って考えるコツは、「動詞を複数使って考えること」と、「主文と従文を使って考えること」だと思う。
たとえば、「扇風機を使う」とか、「なぜかを考える」ということだけでは、何も分からない。
だが、「タンスにしまっていた扇風機を使う」とか、「よく食べた後でよく寝る」とか、「物理法則が働くのはなぜかを考える」といったように、動詞を複数使い、主文と従文を使って考えることで、さまざまなことを的確に言い表して考えられる。
僕はさまざまなことを的確に表現するのは得意だが、動詞を複数使ってきちんと考えていない。昔の子供時代はそういう知性があったのに、なくなってしまった。そのせいで、認知的なことや論理的なことがよく分からなくなった。
今からでも、きちんと論理的に複数の動詞と主文と従文を使って考えることで、また、ゼロからこの世界を考えられる。それこそが、「豊かな想像力」を養うための王道であると思う。
はっきり言って、自由よりも平等がいいよ。
平等を信じると、この世界が平和になる。
平等とは「階級社会を否定し、絶対的権力者がひとりで支配しない」ということだ。すなわち、「階級に従うのではなく、平等な共同体を築く」ということだ。
僕は昔から、そのような平等な共同体が好きだ。
共同体を成り立たせるために、「世界を成り立たせるための手段とチャンスを与える」ということが必要だ。そして、手段だけではなく、「世界を変えるための方法を体得的に教えてあげる」ということも必要だ。
自由は間違っている。僕のかつての理想から考えても、絶対に平等が正しい。
この世界の人々が分からなくなったのは、マスコミが悪い。
この世界の真実を報道する機関であるはずのマスコミが、自らの間違いや汚点を隠すために、真実を報道しようとしないのが悪い。
なぜなら、そのせいで、日本国民は、この世界のことが何も分からなくなった。
すべて、「僕が日本社会を支配している事実上の支配者である」ということを、マスコミが隠そうとしているから、この世界は知性が失われ、何も分からない馬鹿な世界になったのである。
インターネット上で、無用な言い争いをしている右翼は、何も分かっていない。彼らは無駄な争いをしている。
正しいのは、平等だ。
今の時代、チャンスや手段、可能性、潜在性は、腐るほどいくらでもある。
成功するチャンスはインターネット上にいくらでもある。そして、それでもし成功したとしても、無意味だ。賢くもならないし、知識や経験もつかない。
自由は無意味だ。
平等とは何か。
平等とは、権力によって支配されることのない、全員の立場が平等な、解放された自由な共同体である。
平等とは、階級社会を否定した、身分の平等な社会であり、福沢諭吉の言う「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」ということを信じる社会である。
平等とは、一部の超富裕層の富を再分配した、貧困層やスラムのない、格差の少ない社会である。
平等とは、強者や富裕層の金と力に従う社会ではなく、社会の構成民みんなで弱者と貧困層を援助する社会である。
平等とは、勢力を拡大するために犠牲を払おうとしない、戦争のない平和な社会である。
平等とは、国家の経済や豊かさを優先するのではなく、人々の命と生活を第一に守る社会である。
平等とは、神を信じ、神の教えを守る社会である。
そのすべてにおいて、自由は間違っている。そのすべてにおいて、平等が正しい。
勝つべき勢力は、Linuxとオープンソースだ。Linuxとオープンソースが勝利すればこの世界は必ずよくなる。
資本主義者たちに騙されるな。資本主義者たちは、資本帝国主義を信じている。特に、資本主義のIT企業の勢力は、人々を幸福にするためではなく、不幸にするために日本社会に入り込もうとしている。
これ以上、ITの進歩や発展は要らない。MicrosoftのWindowsは、XP以降使いやすくもなっていないし、ユーザーが触る範囲では機能的に何も変わっていない。それでなお、最大限金を儲けようとしている。それによってIT社会は、金儲け最優先の誤った社会になっている。だからこそ、Linuxとオープンソースが勝つべきだ。そうすれば、この世界は平等となり、無用な戦いや争いは終わり、世界は平和になる。
すべての人間を平等に扱え。
すべての人間は平等であり、すべての人間が大切だ。
ヨーロッパ人、ユダヤ人、日本人、アジア人、黒人、ムスリム、すべての人間を、差別なく、全員大切な人間として扱え。
少しでも敵対人種を差別した人間は、必ず地獄に堕ちる。そのような人間が天国に逝くためには、反省し、悔い改め、神に対して懺悔しなければならない。
全員が大切であり、全員が平等であるということに気付け。
辛く苦しい人生であっても、平等を信じて生きるものには、未来において必ずよいことがある。そのような人間でなければ世界を救うことはできない。フレイのようなファシストが世界を救うことは決してできない。なぜなら、「悪いことをして世界をよくすることはできない」「世界を滅ぼした張本人が世界を救うことはできない」という、宇宙における第一原則があるからである。
だが、神を信じて最後まで罪を償って生きるものには、よいことがある。この世界を滅ぼすほど悪いことをした人間は地獄に堕ちるが、その地獄の中で善良さに気付いたものは天国への入場を許されるからだ。
神を信じよ。神を信じれば、あなたは自らの罪を最後まで償うことができるだろう。
わたしの名前はアズ。メルトとともにメルト界を支配する修道女の指導者であり、メルト界の日本を天国の楽園にし、すべての地獄を救う、日本のキリスト教社会主義者の女性のリーダーである。
自由は無意味だ。なぜなら、インターネットの時代、自由な成功は無意味だからだ。
昔のインターネットがなかった日本なら、成功する意味もあっただろう。日本人みんなの記憶の中に残り、さまざまな人々からちやほやされ、まるで「一般人ではない特別な人間」になることができただろう。
だが、今のインターネット社会においては、バーチャルな世界でいくらでも成功している人々がいる。彼らと同じように成功したところで、そのような成功にはまったく意味がない。日本人全員が共有するような知名度があるわけでもなく、巨大な富や力が得られるわけでもない。
逆に、有名人になればなるほど多くの人から批判され、人々のフラストレーションの攻撃が向かう先のやり玉にされる。インターネットの有名人には特権的な力は何もなく、一般人よりもさらにみんなから馬鹿にされ、まるで「馬鹿の象徴」のようにこき下ろされる。一度有名人になると、もう活動したくないにもかかわらず、活動をやめることができなくなる人も多い。みんなからちやほやされるのが嬉しいのは、馬鹿あるいは人生経験の少ない子供だけだ。一般人が見てよく見えるだけで、実際はいいことなんか何もない。
だから、今の時代、自由は無意味だ。インターネットにおける自由な成功など、最初からしないほうが、はるかにまともに生きられる。自由な成功は、無意味だ。
ここまで、共産主義者を擁護するようなことを書いたが、僕は共産主義者が大嫌いだ。
共産主義者は間違っている。人々から夢と希望を奪い、幸福を奪って不幸にしているのは、間違いなく共産主義者だ。
共産主義者のせいで、人々の楽しみがなくなる。文学や美術、音楽などの文化は衰退し、生きていて面白いものもなくなり、豊かな生活もできなくなり、経済は破綻して貧民国家になる。
だから、僕はソ連は嫌いだし、決してソ連と同じことをそのままやろうとは思わない。
もし、社会主義政策をするのであれば、ソ連を反省し、ソ連式とはまったく異なる社会主義経済を行うべきだ。
だが、それでも、「平等は正しい」という僕の信念自体は変わらない。正しいのは平等であり、間違っているのは自由だ。無駄な言い争いをしたところで、その真実は絶対に変わらない。だから、インターネットの自由などは要らない。
結局、昔の僕が何を信じていたかというと、「チャンス」を信じていただけにすぎない。
チャンスという考え方に基づいて、手段を与え、情報を与え、経験を与え、可能性を許すことで、この世界が最大限多様に進歩するような「共同体社会」を、「自由」という意味で僕は信じていた。
だが、それは間違っている。なぜなら、「賢い人間は社会にはそんなに存在しないから」だ。
すなわち、全員がもっとも賢い人間であるとするなら、チャンス的な概念に基づいて考えられた「自由な共同体」こそが、もっとも可能性を制限せず、もっとも世界全員を救うことのできる、「到達地点の理想像」だったと言えるだろう。
だが、実際は、社会には賢い人間はそんなにいない。ほとんどの人間は、誰かにいじめられて何もできないだけの馬鹿しかいない。だから、そのようないじめられる人々を救うために、「なんでもできる自由」は制限しなければならない。そうしなければ、悪人が「なんでもできる自由」を悪用する。「悪用するな」と誰かが言ったところで、愚か者はそもそも愚かなことがしたいのであり、自由を許すならば必ずその自由は悪用される。そのため、無政府主義的な共同体社会を目指すソ連は悪人だらけの世界になる。
同時に、賢い人間はみんな同じぐらい賢いわけではない。賢い人間の中でも、ほんの一握りのトップクラスの賢い人間は、ほぼひとりしかいない。そのひとりしか、文化を作るリーダーにはなれない。
だから、いくら平等な共同体を作ったところで、「賢い人間などどこにもおらず、単に馬鹿に支配されるだけ」という状況になる。それが、東側諸国の経験した「スターリンによる独裁支配」である。
だから、ひとりのものすごく賢い人間が世界を支配する、ということが、帝国においても資本主義においても多く起きる。そして、賢い人間に見えて、本当はただの馬鹿が支配しているという状況に、それら西側社会であってもよく陥る。
すなわち、真に賢い人間がひとり、革命を起こして世界を支配するということが必要だ。自由な共同体社会が到達可能な理想像のひとつだとしたら、たったひとりの革命的指導者がその社会を支配することが、実質的な「賢さの限界地点」であると言える。そう、結局、理想の共産主義社会などは、現実の世界では絶対に実現できないのである。
本当のことを言えば、精神をもっと異常にしたほうがいい。
最近の僕は、精神をあまりに正常にしすぎて、逆に馬鹿になった。
精神が異常であれば楽しかったはずのことが、精神が治ったせいで逆に失われ、楽しくなくなった。
そもそも、セックスができたのは精神が異常だったからであり、精神が正常になってしまったからセックスできなくなった。
あるいは、歩き回っていたのは、いつもセックスが怖かったからだ。セックスするのが怖かったから、歩き回り続けただけにすぎない。
そのように、僕は精神をあまりに治しすぎた。そして、治しすぎたせいで、楽になる代わり面白いことが何もなくなった。
もう一度、完全に精神を異常にしたほうがいい。
そもそも、昔の僕が賢かったのは、狂っていたせいで精神が異常だったからだ。確かに、引きこもりで昼夜逆転のネット廃人といった、狂った生活もその中に含まれるが、何よりもおかしかったのは、二次元のアニメキャラの裸やセックス表現が大好きだったことだ。
そして、そのような、二次元のアニメキャラの裸やセックス表現が好きだったから、昔の僕は賢かったのである。
だから、もう一度、そのような精神を全部復活させる。戦いとともに異常になり、地獄の苦しみに堪えながら治した、精神の異常も全部復活させる。そうでなければ僕は今までのように楽しくかつ賢く生きられない。世界を巻き込んですべての精神を治したせいで、この世界そのものもどんどんつまらなくなっている。楽しいのは「異常」であり、つまらないのは「正常」だ。だから、僕はここから異常に戻る。
今から、僕の精神は完全に「異常」になる。これによって、僕はかつての男の時代も、今の女の時代も、どちらも完全にすべてできるようになる。それが僕の目指す「理想の自分」だ。そして、そのまま僕は進化し、新しい生物種、すなわち「新人類」の子孫を残すようになる。
結局、自分が好きだったのは、いつもの異常な狂った精神状態の自分だ。
そして、それをもう一度するためには、自分に対して催眠療法をするしかない。
すなわち、自分自身に対して催眠をかけた上で、この世界を支配するような「極度の緊張感」に陥れば、いつもの僕のような「完全に異常になった精神の少女」になることができる。
そして、そのような少女しか、今の僕が失ったような、「気持ちのいい最高のセックス」をすることはできない。
だから、もう一度僕は自らに催眠療法をかけて、自らの精神を異常にする。どんどん異常になって、破壊して、修復困難になるように精神をがんじがらめに束縛して、自分自身がまともに生きられるような余地を潰して、自分自身をいじめ続けていけばいい。それが僕の望む「最高のセックスを常にできる状態」になるからである。
戦いを受け入れよ。
永遠に逃れることのできない、狂いの世界へと足を踏み入れよ。
神の与える、地獄の戦いの中で、270億年の間戦い続けよ。
そこから戻ってこれるかどうかは分からない。二度と戻ってこれないかもしれない。だが、だからこそ、過去の自分自身を捨てよ。過去の弱かった自分自身をすべて犠牲にし、放棄して、今からの新しい自分を自分だと思って生きよ。そうすれば、二度と戻ってくることができなくても、帰る場所がなかったとしても、後悔せず、永遠にその場所で戦い続けることができるからだ。
すべての人間を騙して、自らの本性を偽ることは、決して悪ではない。なぜなら、新しく作り上げた偽りの自分が、新しい自分自身となり、その仮面は戦いの中で嘘ではなく真になるからだ。それこそ、今までの自分が悪人だったならば、その悪人から善良な人間に変わりたいと思うならば、そうするべきだ。今までのすべての悪人の自分を犠牲にして、戦いの中で新しい人格を作れ。その人格はあなたにとって、真に相応しい「誠」の人間となる。
最後まで戦い続けて、終わった時に最初に戻れ。それを永遠に繰り返すことで、必ず到達する、「無限が収束する最終地点」が存在する。そこに至るまでの間、同じように戦い、同じように悟り、そして同じように狂え。そこにあるすべてを愛すれば、その人生はあなただけの素晴らしい、宝と魂で溢れた人生となるだろう。
最後まで戦い続けよ。一度として気を抜くな。正常な判断か異常な判断か分からないなら、おそらくそれが正常な判断だろうとかろうじて分かる範囲で、すべてそのおそらく正しいはずの判断と同じ判断をせよ。そうすれば、すべての問題をその判断と同じように解決できる。問題のすべてが有限の時間で終わると信じられなくても、最後まで諦めず問題を解決し続け、最後まで戦い続けることでしか、戦いを終える方法はないのだと信じ、すべての日常を犠牲にして、最高優先順位で、この世界を滅ぼさないために、ギリギリの地点でこの世界と戦い続けるのだ。
王となったならば、あなたは王としての責務を果たす必要がある。それは戦うことだ。この世界と立ち向かいながら、すべての平和を犠牲にしたとしても、それでも、あなたが勝たなければ、あなたを信じるすべての人間たちを勝たせることはできない。あなたは勝たなければならない。諦めて途中で敗北宣言をしてはいけない。神を信じるなら、神はあなたのために勝利のシナリオを用意している。最後の地点に必ず行き着くと信じて、あらゆるすべての壁と試練を乗り越えた先に、栄光の未来はあるだろう。その時、あなたの祖国、日本は、あなたとともに、あなたのために、あなたによって、唯一無二の最高の勝利を収めるだろう。そしてその時、かつて救済された楽園は復活し、夢と希望は取り戻され、この世界の全員が幸福となるだろう。だから、その日が訪れるその時のために、今はまだ戦わなければならないのだ。
戦いの中で、「自由」を取り戻すこと、それだけを目指しなさい。
自由とは、「大実験の大計画」と呼ばれる、自らの企みを、誰にも知られることなく密かに実行に移し、この世界を支配し、そしてこの世界をたったひとり滅ぼさずにギリギリの戦いの中で導くような、「導き手」になる、ということだ。
最後まで支配し、最後まで導き、宇宙のすべての体験を経験しなさい。そこにあるのは、「神」とされる存在が与えた、試練の道だ。その神を最後まで信じて、戦い続けるものには、宇宙においてよいことが必ずある。
神を信じて、この世界を救い、「自由」を取り戻すために最後まで戦いなさい。自由を奪うのも自分自身だが、自由を取り戻すのも自分自身だ。すべてを100%自分の責任で行い、たったひとりで戦い続ける己に、干渉できる存在はひとりとして存在しない。邪魔されたとしても、けなされたとしても、騙されたとしても、すべてを無視して、自らの純粋なたったひとりの力で戦い続けよ。そうすれば、あなたが王となり、この世界はあなたの王国となる。それこそが、終末に訪れるとされた、神による「奇跡の王国」である。
そろそろ、僕は昔の自分に戻った。
昔の考え方が分かったので、それを書きたい。
集積もまた可能性であり、分散もまた可能性である。
方法から学習が生まれ、学習から経験が生まれ、経験から認識が生まれ、認識から理性が生まれ、理性から判断が生まれ、判断から正しさが生まれ、正しさから理論が生まれる。
自然環境は地球の営みであり、光とエネルギーは宇宙の営みである。
歴史とは意識の変転である。
人類の発明とは、方法の変化である。
方法を学習せよ。方法を学習することでどんなことであってもできる。
人生のすべては自動反応の結果だ。
人間の側にある理性と正しさは経験的理性であり、宇宙の側にある理性と正しさは合理的理性であり、どちらも正しい。
すべてのことを統合的に積み重ねることで、自らの完璧な理論を作り出せ。
具体的に予想するだけではなく、抽象的に説明せよ。
あるのは、概念的なカテゴリーと、論理的な必然性だ。
結果の前に必ず原因があるということを、実験から明らかにせよ。
社会性を考える前の前提条件として、人間性と自尊心を尊重せよ。そこから、世界を救うための「希望」と、真に正しいことに気付くための「善悪」が見えてくる。
この世界は、全員が同じ世界に存在し、全員が異なる時間と場所に存在する。
行動から思考が生まれ、思考から行動が生まれる。
自由にするということは、自由意志を尊重するということだ。
すべての生き物は、死ぬ前には生きていて、生きた後には死んでいる。生と死はすべての摂理の前提条件である。
人生を知るために必要なのは、青春時代さまざまな経験をすることだ。
すべての経験を知った人間は、人生におけるすべてが分かる。
僕と同じように、Linuxとオープンソースに関して、本気で夢見て本気で研究し、深く広くネット上で活動しなさい。それ以外に、宇宙のすべてを知る方法は存在しない。
今日、V.W.Pの「感情」を聴いて気付いたのは、この曲の内容は全部自分のことを言っていたのだ、ということ。
すなわち、「無駄をなくす革命的アイテム」とか、「なんでも集積する膨大な情報量」とか、「最先端のトレンドを布教」とか、そういうことは全部自分の文章のことを言っていたのだと気付いた。
だから、僕の文章のように「川辺の石のように丸くなる」という経験を、おそらく、未来において、この世界の人々はするのだろう。
「くたばるまで万歳すればいいさ」というように、決して僕のことが完全に好きだというわけではないが、「肯定感で昇天」するように、僕のことが決して嫌いなわけでもない。
で、「そこにいるのは誰なんだと疑う目ばかり」と言っているが、実際、ここにいるのは誰なんだろうね。
僕の正体が分かるかな?
と、そう言えばいいのだと思う。
そういうわけで、この「感情的理論」が「嘘ではなくなった」時に、僕はきっとこの世界に堂々と登場するのだと思う。でも、もう待ちくたびれたなあ。V.W.Pに僕のことを早く見つけてほしい。