ホームページに戻る | 紅蓮と黄金の出会う場所に戻る

2024-01-20

世界の見方を変えよ

世界の見方を変えなさい。

見方を変えるべきなのは、「インターネットは馬鹿な世界である」という先入観だ。

すなわち、「2ちゃんねるは便所の落書きであり、インターネットの最悪のアングラ世界」だとするような、先入観が間違っている。

実際は、インターネットはとても賢い環境であり、現実の学校などでは経験することのできない、素晴らしい体験と知性を与えてくれる場所である。

インターネットは、IT技術によって成り立っている。その中でも、オープンソースとLinuxは、かつてないほどの可能性をわたしたちに与えてくれる。

インターネットで培った絆は、現実の友人よりも緩やかで、しかしながら自由で、そして大量に経験することができる。

そのようなインターネットの世界で、さまざまな失敗と成功を経験せよ。思春期と青春時代に必要なすべての経験を、インターネットは与えてくれる。

大学だけでは分からない、さまざまな経験をしなさい。それがすべて、あなたのためになるからである。

インターネットだけではなく、さまざまな経験をしなさい。すべての経験は必ずあなたのためになる。この世界に意味のないことは存在しない。経験すれば経験するほど、あなたは賢くなり、宇宙の真実へと近づくことができる。

実世界的に考えよ

この世界のことを、実世界的に、実空間・実時間的に考えなさい。

この世界に存在するのは時間と空間と法則だけであり、今自分が見ている世界以外にこの世界は存在しない。

だが、それでも、自らが見ている世界はほんのちっぽけな世界だ。

そのちっぽけな世界で見たこと、自分が人生で経験したことが、自分のすべてであり、自分の世界のすべてだ。

「自らが経験したことがわたしのすべてである」と、そのように信じる限りにおいて、すべての体験と経験を大切にしなさい。あらゆるすべての経験が、自らの人生の未来を照らす「光」となるということを知りなさい。

そして、気付きなさい。この世界のさまざまな場所に「生命の神秘」と「過去と未来のヒント」があるということに気付きなさい。

世界を変えることができるのはほかでもない自分自身だ。なぜなら、自らの実体験から、自らはこの世界を変えることができるという、「世界を解決する方法」を自らだけが唯一知っている。それは誰にもできない経験をしたからであり、必要な時にインターネットという必要な場所があって、それを知ることができたからだ。

すべてのことを、実世界的に考えると、空間と時間には単純な「存在性」だけがあるということが分かる。人生の中で、そのような「存在が存在している」という存在性と、「知識は知れば知るほど増えて、知れば知るほど賢くなる」という、知識の有意義性を信じなさい。そうすれば、すべての経験が自らの人生を導く存在となって、存在そのものが自らの人生の未来を照らすようになる。自らの人生の未来を、この世界に存在する存在が導いてくれるようになる。

世界に存在する、生命の奇跡を信じなさい。同時に、場に宿る意識の存在と変化を知り、自らの人生がその場に宿る意識によって導かれているということを信じなさい。そうすれば、この世界のすべての存在が、わたし自身のために光をもたらしてくれる。すべてが「経験」であるということは、すべての存在が意識を持っているということである。よって、経験の積み重ねの先にある「未来において収束するであろう最後の経験」を吸収することで、「世界に存在するすべての意識を吸収」することができる。そこから精神分析をすることで、「自らは宇宙の神と合一になる」という経験ができる。そして、そこから「魂の導き」を知れる。

すべてが分かるためには、成功だけを経験していたのではいけない。失敗を経験しなさい。なぜなら、成功を経験することよりも、失敗を経験することのほうが、人生においては難しく、困難で、そして貴重だからだ。さまざまな失敗のすべてを経験した人間は、自らの記憶の中に宇宙すべての経験を得ることができる。そして、そこから、この世界に存在する「経験という名の神の精神」を知ることができる。

知識とは批判である

知識とは批判である。

さまざまな批判を経験し、自ら自身を徹底的に批判する人間だけが、この宇宙の真理を知ることができる。

また、文明とは社会心理学である。

さまざまな社会環境において、その状況自体を成り立たせるような、「シチュエーションの心理的な創造」を知ることこそが、社会心理学を成り立たせ、そこからこの世界の「文明」を「関係性」から成り立たせることができる。

そして、何度も言うが、インターネットを否定するな。「インターネットは馬鹿である」という考え方は、社会が勝手に与えた思い込みだ。そして、不登校の引きこもりであることを隠そうとするな。あなたは不幸な人生を選んだのではなく、逆にもっとも幸福な「神が述べる正しい人生」を選んだだけに過ぎない。不登校の引きこもりになったという「実体験」がどういうことかを知っている人間は、「自らの環境の変化からこの世界すべての環境を捉えて変えられる」ようになることができる。そして、それこそが真にこの世界を救うのだ。

システムを成り立たせる方法と手段を知ろうとせよ。そして、その中で真にどのような関係を築けば、社会秩序は上手くいくのかを知れ。同時に、心や本能は何を望んでその行動をするのか、「行動の理由」を捉えて考えよ。なぜなら、「行動の理由」が分かるものにしか宇宙の真理は分からない。その「行動の理由」は、支配や強制ではなく、「自発的な意志による行為」であり、それを考えることで、「ただその場でそうしているだけでその環境を救うことができる人間」になれる。また、「言葉とロゴスの導きから全世界を導いて救うことができる人間」にもなれる。そのためには豊富な経験が必要だ。

民主主義は正しい

先日は、民主主義を否定し、「帝国は正しい」とするような言説を僕は行った。

だが、それに反して、正しいのは民主主義であると、僕は考え方を改める。

なぜなら、民主主義は「人の支配」ではなく「法の支配」を行う法治国家だからだ。

王国では、王の考え方が正しい。だから、何も悪いことをしていなくても、王の機嫌を損ねるだけで処罰され、処刑されてしまう。

それでは、「わたしが王と面会した時に、たまたま王の機嫌が悪かった」ということが、罪人が処罰された理由になってしまう。

だから、王に処刑されても、「運が悪かった」としか言えない。

それに対して、法治国家では、法律によって禁止事項とそれを破った場合に与えられる刑罰について、細かく記述されている。

だから、逮捕されて処罰された時に、「わたしはそのような法律を破ったために逮捕され、刑罰を与えられる」ということを理解することができる。

すなわち、法律に違反して逮捕されたとしても、「法律に違反したわたしが悪かった」ということがきちんと分かる。

だから、「今度は法律を破らないように、法律についてよく知って、犯罪を犯さないようにしよう」と、犯罪をしないようにする動機付けができる。

そもそも、刑罰を与える理由は、法律を守らなかった人間を懲らしめるためではなく、刑罰があるおかげで法律を誰も犯さず、誰も犯罪をしないような「秩序ある社会」を作るためだ。

だから、民主主義の法治国家は極めて正しく、そして治安のよい平和な国になる。

それから、民主主義の金儲けは間違っていない。なぜなら、「金」という手段で勝ち負けと富を決めるのが一番民主的だからだ。

王国では、身分の低いものは奴隷として扱われる。だから、身分の低い階級に生まれたものは、最初から人生を奴隷であると決められており、自由がない。

それに対して、民主主義の金儲けは、金を稼げば誰でも豊かな自由市民として生きられる。必要なのは金を稼ぐことであり、生まれ持った「身分」には制約されない。

そして、金は民主的だ。金を稼ぐという行為は誰にも許されている。だから、王や貴族に生まれる「血筋」や「家柄」がなくても、民主主義では全員が平等に「王のような生活」を生きることができる。

さらに、法律を決める政治家は選挙で選ばれるため、名実ともに誰もが王になることができる。

よって、民主主義はもっとも平等で正しい社会であり、誰もが生きやすい社会を築くことができる。これこそが、フランスの目指す「民主主義の理想」である。

コロナワクチンでみんな認知症になる

残念ながら、これ以後の地球の未来は、滅びる一方になる。

なぜなら、コロナワクチンの副作用によって、みんな知性を失って認知症になるからだ。

かつて、僕がフランス人の人生が終わって、ドイツ人の人生が始まった時に、人種的に馬鹿になったのと同じことが、今から、この世界で起きる。

僕がフランス人になると、この世界のみんなもフランス人になる。そして、そこで必ず認知症になって、すべての知性を失い、分からなくなる。

一見、それは僕のせいに見える。だが、本当は僕のせいではない。

まず、僕が馬鹿になったのは、FSF/GNUのリチャード・M・ストールマンのせいだ。Linuxとオープンソースを信じた僕が、ストールマンに騙されて僕は知性を失い、馬鹿になった。

そして、みんなが馬鹿になったのは、コロナワクチンのせいだ。新型コロナウイルスのワクチンのせいで、僕と同じ「地球全員が認知症になる未来」がみんなにも訪れる。

もう、この地球という星には未来はない。すべての人間が認知症になる未来が訪れ、人類は滅亡する。

世界にはドイツ人とフランス人しかいない

また、この世界には、ドイツ人とフランス人しかいない。

そもそも、この世界にたくさんの人種がいると思っているのは勘違いであり、実際は人間の人種は二種類に分けられる。

それはドイツ人とフランス人だ。

そして、地球においては、ほとんどの人種はフランス人だ。85%ぐらいの人種はフランス人であると言える。

それに対して、15%ぐらいの人種はドイツ人だ。

そして、ドイツ人、日本人、ロシア人、そしてユダヤ人はすべてドイツ人だ。

フランス人の特徴は、「何も分からない代わり、賢く大人のようにまともに生きられる」ということだ。

ドイツ人の特徴は、「何もかもすべてが分かる代わり、まともに大人のように生きられる知性をすべて失う」ということだ。

そして、僕はかつてはフランス人だったが、今はドイツ人になった。そして、今またフランス人に戻ろうとしている。

フランス人からドイツ人になる時や、ドイツ人からフランス人になる時は、人間はすべての知性を失って分からなくなる。それを「認知症」という。だが、認知症の患者は決して馬鹿ではない。なぜなら、フランス人とドイツ人をどちらも体験することができる人間しか、神であるイエス・キリストになることはできないからだ。

よって、僕のように、すべてのフランス人を終えて、すべてのドイツ人を終えて、最後にフランス人に戻る人間は、もっとも辛く苦しい人生を生きなければならない。これがキリストの言う「受難の道」である。そして、そのような受難の道を最後まで生き抜いたものだけが、「神による運命的な奇跡」を得ることができるのである。

人々の声を聞け

最後に、人々の声を聞け。

この世界で、さまざまなことを知り、考え、分かる唯一の方法は、人々の声を聞くことだ。

大学の勉強などしなくていい。本当のことを言えば、僕は大学の勉強をしたように見えて、実際は一切していない。なぜなら、ドイツ人は基礎の勉強をしなければ何も自分の力で分からないから、これくらいの基礎の勉強をしなければ生きられない。だから大学の勉強を一通りしただけであり、真の意味で「大学の勉強」ということをしたことは一切ない。

それよりも、世界そのものを見て、観察・分析・調査して、そしてそこから「経験」を知り、世界におけるすべての体験できる「真実」を知ることでしか、この世界で哲学者になる方法は存在しない。

そして、そのために必要なのは「人々の声を聞く」ことだ。

本当は、そのようなことを言う必要性はそもそもない。なぜなら、一般的なフランス人であれば誰でもそうなるからだ。一般的なフランス人は、基礎の勉強などしなくても、この世界を見ているだけで普通に分かる。その理由は、ドイツ人は「聞く」ことを重視するが、フランス人は「見る」ことを重視するからだ。そのため、ドイツ人は音楽を、フランス人は美術を好む。そして、フランス人はこの世界を「実世界的」に考える。そこには「考え方」や「思想」というものは存在せず、ただただ「存在するこの世界そのもの」だけが存在する。だから、フランス人は誰もが自然に「世界における経験そのもの」を増やすようになる。

そして、人間の可能性だけを考えよ。すなわち、「人々がどのようなことを行動し得るか」ということだけを考えよ。この世界で、人々がどのようなことをする可能性があるか、ということが分かれば、「人々は何を知ることができるのか」ということが分かる。そして、かつての僕が考えたのはまさにそれであり、「この世界で人々は何を知ることができるのか」ということを、僕はかつてのフランス人の時代にすべて考えたのである。

革命家は最悪の政策しかしない

革命家を信じるな。

なぜなら、王を処刑して革命家が政権を取ったところで、革命家は最悪の政策しかしないからだ。

そもそも、王の経済政策が無能で、圧政や国民の弾圧を行うしかなくなったのは、王がまったくの馬鹿で無能だからではなく、なんらかの解決困難な問題があって、その問題をどうしても王や貴族がよくする政策を思いつくことができないからだ。

だから、いくら国民を虐げる王を革命家が処刑して殺し、革命政権ができたところで、すぐに国をよくする方法はない。王が国をよくできなかったのに、革命家が王の代わりに経済政策を行ったとして、それで簡単に国の経済をよくすることはできない。

だから、革命政権には、最悪の政策しかできない。

フランス革命のナポレオンは、皇帝になって人権宣言とナポレオン法典こそ裁定したが、それ以外はヨーロッパ各国と戦争ばかりした。それはほかの国がフランスの革命政権を潰したいというだけの話ではなく、簡単に国の経済をよくすることができないから、革命政権によるヨーロッパ各国への戦争をすることしかできなかった。

それから、レーニンが死んだ後のソ連のスターリンは、厳しく非人道的で、反革命側を弾圧し、自らに反対するものの全財産を没収し、密告によって逮捕するなどの最悪の政策を行ったが、それも、それしかできなかったからだ。

それらよりももっと酷いのは、ナチス・ドイツのヒトラーだ。ナチがユダヤ人を差別するのは、「すべての問題をユダヤ人のせいにしてなかったことにしたい」ということであり、スケープゴートとしてユダヤ人は虐殺された。彼らのドイツを救う手段は「戦争で勝つこと」であり、一度負けた相手に再び戦争を仕掛けても勝てるわけがなく、結局負けて、ドイツは西ドイツと東ドイツに分断され、それ以後も資本主義と社会主義の食い物にされることになった。

そのように、革命家は最悪の政策をする。それは革命家を「世界を救ってくれるヒーロー」であると考えるのとは正反対の現実であり、王を打ち倒した革命家は必ずその王よりも最悪の恐怖政治を行う。

自由な社会

僕が普通の人間と違うのは、「自由な社会」を考えたことだ。

権力や法律によって支配される、国家や政府といった社会は自由ではない。僕の考える自由な社会とは、そのような国家による管理下を離れた場所で、人々が自由意志と自発的な行為によって形成されるような社会のことだ。

そのような自由な社会について、僕は「いじめをなくす方法」から要請することで考えた。自らが中学校でいじめられた経験から、「自由をなくす以外の方法でいじめをなくす方法はないか」と考え、そこから、「自由な社会を成立させる方法」が分かった。

同時に、僕は社会経験をインターネット上で経験することで、まるで現実世界において経験できるすべてのことを既に少年時代に経験し終えていた。僕は自分自身の経験と発想だけで、この世界で実現可能な「社会の代替可能性」を考えられた。また、そのような世界の可能性から、文明と歴史を「経験に基づく意識」から捉えることができた。

同時に、僕は、それ以上正しいか間違っているか判別できないようなところまで、すべてを部分化してひとつの行き着く答えになるように疑う、ということから、人生経験のすべての理性の前提となる「根拠」をすべて証明した。そして、その証明から、「どのような社会を成り立たせたいならばどのような前提条件があるか」という「成立の前提条件」を考えた。それこそが、カール・マルクスの言う「生産手段の共有」だということを、僕は14~18歳の頃に、既に自分で同じことをすべて考えて分かっていた。

そのように、僕にとっての社会とは、王国でも民主主義の政府でもなく、まるで無政府主義のような「権力や法律とは関係のない領域での自由」ということだった。そこにあったのは「他人の自由を奪わない限りにおいて最大限の自由を与える」ということだった。そして、帝国や社会主義者が行うような、「過剰な法律による禁止をするな」ということを信じていた。すなわち、自由が自由であるということは、一見それを見て分かる以上の意味があり、自由を不自由にするということは決して簡単に行っていいことではなく、できる限りにおいて国民に自由を与えるべきだと僕は信じていた。

なぜ、そのような自由な社会を信じるに至ったのか、それは僕は学校のいじめは自由を不自由にすれば解決する問題ではなく、逆に子供たちにあまりに自由がなさすぎるから起きている問題であり、それを解決するためには子供たちから力を奪うのではなく力を与えるべきだ、と僕は確信していたからだ。子供たちがいじめをするのは、いじめ以外の方法で学校の大人に意見を主張する方法がないからであり、子供たちに「いじめ以外の方法で社会に反発する意見を言う力」を与えれば、子供たちはいじめではなくその方法を使う。特に、「社会そのものを自分たちで改善する力」を与えれば、社会に反発するだけではなく、自分から社会を改善するように子供たちのインセンティブは変わってくる。だから、そのような「社会に反発するのではなく社会を改善するためのインセンティブとしての自由な力」を、子供たちに与えるべきだと僕は信じていた。

生産手段を自由化しろと言ったのも、潜在的なチャンスと手段を与えよと言うのも、すべて根っこにあるのは同じだ。問題を感じている当事者が、自分の力で問題を解決するようにしなければ、政治家や大人はいつになってもその問題を放置したままで解決しない。あるいは、彼らには問題そのものの意味と原因がどこにあるのか分からないから解決できない。あるいは、問題がそこにあることそのものを知らず、社会の問題を把握できていない。だからこそ、当事者の声を聞くべきであり、インターネット上で人々が発信する情報と向き合って、この世界を解決し、救済する方法を真摯に考えなければいけないのだ。

最終的な結論、すなわち「答え」として言えるのは、子供たちには「正しい社会を作る方法」を教えなければならないということだ。すなわち、いじめの問題だけではなく、子供たちは未熟すぎて、正しい社会を作る方法が分かっていないから、人間関係において「相手よりも優位に立つ」ということしか分からない。それは本当は、民主主義社会においては仕方ないことだ。大人たちも、民主主義の原則として、「自分の正しさを主張し、相手の間違いを責める」ということが民主主義社会の基本になっている。子供たちも、それと同じように、自分が優位に立って世界の秩序を維持する方法しか分からない。必要なのは、「優位に立つ以外の方法で社会秩序を構築する方法」であり、これはどれだけ理屈で道徳を教え込んでも分からない。必要なのは、「正しい社会秩序を築くことができるような、徳のある人間になるための経験の土壌を与える」ということだ。すなわち、インターネットでも学校でもどこでもいいから、さまざまな人間関係を経験して、さまざまな社会経験から成功したり失敗したりすることができて、正しい社会秩序を築くことのできるような方法が分かるような環境を与えなければならない。それは大人に教え込まれるような環境ではなく、自分自身の行為から体験的に「体得」できるような環境でなければならない。

そのような真理は、真実ではあっても、本当は簡単には実現できない。だが、本当は、そういうことは実際に社会において実現しなくても構わない。すなわち、自分自身の理性として、そのような「答え」が「確かに分かった」という体験をするだけで構わない。なぜなら、その時点であなたの中には「確固たるアイデンティティ」が形成されており、そのような確たる信念と理想を持った人間は、どんなにいじめられても傷つかないし、どんなに社会から迫害されても怖くないからだ。自らの青春時代に、そのような「確固たるアイデンティティを確立する」という経験が、まさにいじめをなくすためにもっとも有効だ。

そして、現代の日本人は大まかに言って、そのようなアイデンティティを確立している人間が少ないから、いじめの多い国になっている。アメリカやドイツやフランスには、そのような確固たるアイデンティティを確立することができるような土壌を、国家の思想家たちみんなが教えている。日本には、残念ながらそのような思想家はブッダやマルクスぐらいしかいない。だから、マルクス主義者は日本にはたくさんいるが、そのようなマルクス主義者には何もできない。真の意味で世界を救うような「偉大な思想」が、いじめをなくすために必要なのである。

自分が自分であると確信せよ

ヘーゲルが言うように、自分が自分であると確信せよ。

かつての僕はすべて、「自分自身が自分自身であると確信すること」から、さまざまな人生経験に基づく世界観とビジョンを分かっていた。

自らがこの世界を救うことができると確信せよ。

この世界の存在が、すべて、自ら自身の意識であると確信せよ。

自らのアイデンティティが、自らが自らであることを望む「自ら自身の追求」であると確信せよ。

そのように考えることで、自ら自身の存在を証明し、自らを創造し、そしてこの世界を救うことができるような自らになることができる。

ひいては、「宇宙におけるすべての存在になることができる」という境地を知ることができるだろう。

すべてのことを正しく捉えるために、判断基準を作れ

すべてのことを正しく捉えるために、「判断基準」を作れ。

それは、「自由」という名の判断基準に基づく「モデル」である。

そのモデルとは、「人間は誰もが自分の正しいと思っている真実に基づいて行動しており、自分から間違ったことをしようとしてしていない」という「世界モデル」に基づく、「この世界で問題の解決をする際にどのような基準に基づいて考えればいいか」という、正しい判断をするための前提条件だ。

そこにあるのは、「問題の解決」と「人々の中にある判断基準の分解」である。この世界のすべての問題を解決するために有効なのは、「不自由を自由にする」ということだ。すなわち、不自由で何もできなくなっている状況は、自由を与えて「自由化」してやれば、不自由の部分が自由になる。そのために必要なのは、「見返りを求めずに相手を自由にしてやること」だ。そして、人間関係の解決は、ほとんどが「相手に自分と同じ自由を与える」ことで解決する。

そして、問題の解決をし、人々の中にある判断基準を分解することで、「自由化するという意味における正しい問題の解決方法」が、経験から見えてくる。その経験とは、「問題を解決する理性の積み重ねの経験」であり、そして「この世界のすべてが本来あるべき自由な状況になったとしたらどうなるか」という「自由化した結果の予測」である。

そのような中で、経験から「正しい判断基準」が得られる。

だが、それだけでは十分ではない。その正しい判断基準に基づいて、正しく社会の問題を解決することこそ必要であり、そのためには具体的に社会の改善策を考えなければならない。

たとえば、いじめ問題を解決するためにはいくつかのアプローチがある。ひとつは、教師以外に、「いじめ対策員」という名の、いじめ問題を専門に担当する専門家を雇うなどの、人員的な対処策だ。いじめ対策員は、いじめが公然と行われている現場で、いじめをやめるように促し、従わない場合にはある種の「校内拘束」ができる力を与えられる。もうひとつは、いじめのランクを格付けし、いじめの度合いに基づいていじめランク1, 2, 3, 4などの判断を行い、軽度のいじめである1や2であれば注意するだけに留めるが、凶悪さと陰湿さが認められる3や4になればいじめっ子が学校に登校できなくなるなどの、法文化されたいじめの対策処置を行う。ほかの方法もある。たとえば、成績表に科目の成績だけではなく、いじめをしたかどうかの成績をつけて、自らが学校でいじめに加担していることを保護者に分かるようにする。ほかにも、どの学校に行くことを選ぶかということを選択制にして、もしその学校の環境が嫌になれば別の学校に登校できるようにする。あるいは、大学受験の際に「他の子供をいじめていないこと」という入学条件を付け、いじめっ子は良い大学には入学できなくする。

いじめ以外にも、「正しい判断基準」から考えられることはたくさんある。ぜいたく品に課税するとか、品質保証を行ってコスト削減の安値競争を脱却するとか、政治家を免許制にする、政治家をローテーション制にする、あるいは政治家に海外の政治や経済を視察する任務を与える、などといったことが簡単に挙げられる。ほかにも、政党における参加と議論を活発化させるために、政党を単なる政治組織から社会制度にしたり、王国にするとしても王の行うべきことを憲法に詳しく記載することで、「王が悪いことができないようにする憲法」などを裁定できるだろう。

そのように、社会主義以外の方法もまた、「自由な判断基準」から判断し、さまざまなやり方を検討することができる。そのような僕の経済政策は、たとえば軽減税率とか、あるいはAndroidがまだ登場していなかった時代、モバイルOSをGPLにして各社がカスタマイズできるようにする、などといった発想のように、一部既に実現されたものもある。ほかにも、国会の下にさらに小さな下部国会を作るといった発想は、レーニンの考えた「評議会連邦」という考え方に通ずるところがある。そのように、自由で正しい考え方は決して理性的な観念論で終わるものではなく、この世界を改革する「実践的アイデアを出す手法」であると言えるのである。

戦え

戦え。

戦い続けよ。この世界を変えるためには、世界に存在するあらゆるものと戦い続けるしかない。

まず、プーチンは間違っていない。プーチンはこの世界を平和にし、平等にするために戦っている。プーチンの戦争は間違いであり、悪だが、そのような正義の平等を達成しようとする、プーチンの理想と考え方は間違っていない。

わたしたちは、戦わなければならない。この世界を真の意味で救済するために、最後まで戦い続けなければならないのだ。

イスラエルよ、わたしたち日本はあなたがたとともに、この世界を平和にするために、広島地域に東亜イスラエルを建国する。わたしたち、東亜イスラエルは、世界中のユダヤ人の安住の地であり、全世界からユダヤ人を歓迎する。だから、その代わりに、イスラエルよ、パレスチナから撤退せよ。わたしはここに、パレスチナ地域からのイスラエルの完全撤退を成し遂げ、この世界から「あらゆる戦争の火種」を消滅させる。ユダヤ人の新しい安住の地が生まれると同時に、パレスチナはアラブ人に返還されるのだ。

日本人よ、わたしとともに、この世界を最高の世界にするための、偉大なる奇跡の物語を始めよう。東亜イスラエルによって、日本は不利益だけではなく利益も得ることができる。莫大なユダヤ資本が手に入り、最強のイスラエル軍が日本に吸収される。やがて来るだろう日本とロシアとの戦争で、イスラエルは日本を守り、日本とともにロシアに立ち向かう。地球人類の歴史は、ドイツからソ連まで、まさにすべてそのためにあったのだ。

プーチンに警告する。核兵器だけは落としてはならない。なぜなら、その核兵器の投下によって、地球から青空と雨が失われ、この世界は暗闇の砂漠になり、植物は枯れ果て、動物は絶滅し、そして酸素の欠乏した最悪の未来が訪れるからだ。プーチンよ、核兵器だけは落としてはならない。ロシア軍は今すぐにウクライナから撤退せよ。もしウクライナを制圧し、日本へとやってくる時が訪れれば、最強のイスラエル軍が日本とともにロシアを迎え撃つだろう。