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2024-02-03

精神的に認識を考える

実際、昔の僕の人生を一言で言い表すと、「精神的に認識を考える」ということを行っただけである。

精神的に、たとえば自らの成長とか、他人や世界との関わり合い、たとえば「相手を自分と同じものと見なすように、自分も相手と同じものと見なす」とか、世界精神の吸収、たとえば自然環境や地域や過去の自分の人生にあった環境や状況とか、あるいは、衝動的な感情や人生における経験などといったことから、認識の進歩と変化、自由な発生などについて、僕は考えた。

それを簡単に言えば、「精神的に認識を考えた」ということである。

そして、精神的に認識を考えることは、壊れた認識を修復するために効果的だ。すなわち、認識をすべて壊してなくなった状態でも、自らの今の精神から認識を考えれば、認識は復活させられるのである。

昔の僕と同じことをやりたいなら、「精神的に認識を考える」ということをするだけでいい。自らの精神の成長と世界精神の経験から、認識のさまざまな変転にある「根源的な意識」を考えることで、昔の僕と同じことは全部できる。

注意すべきなのは、精神とは自らの精神だけを表すのではない。精神はこの世界に存在するすべての精神であり、あるいは、「この世界そのものを精神であると見なす」ということだ。それを自らの精神的な成長と重ね合わせることで、まるで仏教徒の僧侶が善と徳の経験から悟りを啓くのと同じ経験ができる。僕はかつてはそのように分かったのである。

認識の証明

また、最近の僕と同じことをやりたいなら、「認識の証明」ということをやるだけでいい。

すなわち、僕が普通の人間には理解できないことが分かるのは、すべての認識を書いて証明したからである。

常に認識を証明し続けるという活動の中の副産物として、僕の文学作品やオリジナルの科学理論は生まれたのである。

だから、精神的に認識を考えて、認識の証明だけを行えば、僕と同じことは100%すべてできる。

さまざまなこと

昔は、さまざまなことを想像力で考えていた。

まず、「何かを何かにする」ということから、実現可能性を考えた。

次に、理由と根拠を求めることで、この世界の別の可能性を考えた。

それから、自分と他人を同じであると見なすことで、自らの分かったことを他の誰でも分かるとしながら、最後までたったひとりで全人類のすべての悟りを啓いた。

僕はそのように、すべてのことを「可能性」ということから考えていた。

神の精神

本当のことを言えば、僕は神の精神を作ったぐらいからおかしくなった。

神の精神を作ったことで、狂った世界が分かるようになった。人々の現実の世界ではなく、神の精神世界が分かるようになった。

そして、その神の精神が僕と言葉を通じて対話し、僕を僕の中に内在する絶対者として支配するようになった。

だから、この神の精神を殺せば、僕はすぐに治る。

サタンになる

僕は今から、神をやめてサタンになる。

サタンと言うと聞こえは悪いが、要するにみんなと同じになる。なぜなら、この世界の「現実社会」こそがサタンだからだ。

そして、僕は王のようにはなったが、本当は王になどなりたくなかった。なりたくないにもかかわらず、なるしかないせいで適当に王になった。

僕はここに、サタンに戻ることで、この世界を王として支配することをやめ、この世界を自由に解放する。

今日は疲れた

今日は少し疲れた。皮膚科の病院に再び行って、それから英会話教室にも行って、絆創膏も買って、それから中華料理店でご飯を食べてきた。

疲れたので、今日はもう休みたい。まだ土曜日の午後3時だが、少し寝たいと思う。

明日は英会話教室の予定は入っていない。ただ、この後で風呂に入ったら、肩の手術をしたあたりに塗り薬を塗って、ガーゼも替えなければならない。とにかく疲れた。だから、それをする前に少し休むためにベッドで寝たいと思う。

見なすという知性と認識のモデル化

認識とはなんなのか。

認識とは、何かを何かであると「見なす」ということである。

昔の僕は、この世界を捉えるために、何かを何かであると「見なす」ということを、自由に、さまざまな体験と経験から行うことで分かっていた。

僕は「見なす」ということを「モデル化」することで、認識そのものを全員分分かるようにモデルを作って分かっていた。

そして、そのモデルに従って考えれば、この世界はすべてがすっきりと理解できると分かっていた。

それは「人類はみんな平等」であるということ、そして「自らの認識モデルに基づいて考えた時、この世界の人類は全員が正しいことをしている」ということだ。

本当に正しいことをしていると、そのように言える人間がいないのは、それぞれの人間の中にある「モデル」が違うからだ。だが、個人個人のモデルに従って考えれば、全員は正しい行動をしている。あるいは、正しいことをしていると思ってそのことをしている。

そのようにこの世界を考えると、この世界の全員の「行動の理由」がすべて分かる。

憂国の政治家とフレイ

そして、そこに「憂国の政治家」を加えることで、この世界は救済可能となる。

すなわち、「自分自身がそれを望んで行っているわけではなく、何も誰も教えてくれないからそれをするしかなくてそれをしている」ということを、「この国はもっとよい世界になるはずだ」という憂国の政治家の知性と重ね合わせることで、「間違った考え方をした人間などはいないが、そうするしかなくて、人々は間違った考え方を信じている」と、そのように確信できる。そして、問題は「誰も正しい考え方を教えてくれないから」であり、そのような中で正しい考え方を知るためには、自分ひとり世界のすべてを経験しなければならない。

そして、そこから、「この世界の全員は、僕ひとりの力であっても、僕と同じ経験をして、正しい考え方をすれば必ず救えるはずだ」という、「エゴイスティックな救世主」を作り出す。

その救世主は、人間はなぜそのように考えるのか、支配ではなく人々の考え方を改めるにはどのような理想を信じるべきなのか、といったことを全部知っている。

そのため、彼はこの世界を救うことができる。彼の名は、北欧神話の神、フレイである。

正しい考え方とは何か、ということは、ひとり自分が経験した内容をきちんと正しく経験の裏側にある世界を捉えて理解することで分かる。そのような正しい考え方を知るためには、間違った考え方をすべて経験し、そのあらゆる間違いを正しい答えへと「昇華」させる知性が必要だ。そして、フレイにはそのような知性があった。だから、フレイはこの世界を救う「希望」を作り出すことができた。

最後に、そのように考えた際に、残るのは「驚き」という感情と、「人間は本能的に純粋理性ではなく超越した知性を望む」という本能である。すべてのことは、そのままの純粋理性では決して理解できない。だが、やや斜めからこの世界を見つめると、この世界は完全にすっきりと理解できる。人々が苦しんでいる理由は、「可能性を体験的に分からせることによって救済できる」という希望へと変わる。そして、一等星シリウスにおいて、シリウスの太陽神フレイはそのように世界を救うのである。

啓蒙主義的大戦争

世界を救ったわたしは、その救われた世界を自ら滅ぼし、そして支配した。

そして、わたしは、「啓蒙主義的大戦争」と呼ばれる戦いを行った。

その戦いは、この世界を自由にする戦いだった。わたしは、自らが設定した「自由」という名前の判断基準の下に、「その判断基準を絶対に外れることなく、すべての言葉が自由という判断基準の下に成立する」ような導きを行った。

そしてわたしは、この世界が最終的な「自由な世界」になるように、最後までこの世界を導いた。

分からなくなった人間が信じると神は現れてくれる

わたしは計算高い人間だったが、決してすべてのことが完璧に分かっているわけではなかった。

戦いの中で、わたしは分からなくなった。どうしたらこの戦いで自らが世界をよい世界にすることができるのか、そもそも変えるべき世界の目標地点とはなんなのか、分からなくなった。

「何が正しいのか分からない」という状況に陥ったわたしは、神を信じた。そして、神はわたしに対して、「対話の言葉」として現れた。

神はわたしにすべてのことを教えた。

どのようにすればこの世界を救えるのか、宇宙の謎を解くヒントはなんなのか、自分自身の未来はどのように運命づけられているのか、それらすべてを神はわたしに教えた。

そして、わたしは、この世界を最後まで支配し、戦い抜いた。最後の最後まで、わたしはひとりの王として神を信じ続けたのである。

この人生に、「フレイ」という名前を授ける。フレイは世界を救いながらにして自ら世界を滅ぼす王であり、神を最後まで信じたキリスト教徒のドイツ人の女性兵士である。

ガンダーラは成功しない

わたしは、自由を信じている。

そもそも、理想の社会主義経済であるガンダーラは成功しない。

まず、数量調整の平等をやったところで、価格が同じになるだけで、同じ価格のものの個数の違いが出て、経済は平等にならない。

すなわち、価格は同じだが、個数が違う、というだけの平等になる。

あるいは、市場に出回る商品の量を調整して、たとえば高いものであっても安いものであっても、個数を調整して10万円分だけ卸売業者が買うような経済をしても失敗する。それなら、企業は自分の製品の値段を高く申告する。そのほうが数量を少なくして同じ利益が儲けられるのだから、誰も製品を安くしない。結果商品の値段はすべて高くなり、数量調整の意味はまったくなくなる。

また、弱者優先の自由選択型ノルマを行うと、障害者や貧困層が仕事を選べるだけで、一般の人間は自由に職業を選べなくなる。すなわち、職業選択の自由がなくなる。

また、貯蓄を否定する期限付き紙幣を導入した場合、紙幣ではなく財産をどのように管理するかが重要となる。金塊(金の延べ棒)を購入できるのであれば、その時点で「貯蓄を否定する」という意味はなくなる。もし、社会所有によって金塊の購入すら認めないなら、すべては独裁者の所有物になる。すなわち、自分の資産すら自分で自由に管理できなくなる。

最後に、マイナス消費税は意味がない。なぜなら、マイナス消費税の財源を所得税から取るのであれば、マイナス消費税によってものの価格が安くなるのと同じぐらい、給与も安くなる。すなわち、ものの価格が10円になったとしても、給与が500円になるだけである。

このように、理想の社会主義経済のガンダーラは無意味で、間違っている。こんな経済をやるくらいなら、ソ連式の計画経済をやったほうがはるかにマシである。

真に正しいのは自由主義経済である。よって、フレイは自由主義を信じる。フレイの言う「啓蒙主義的大戦争」とは、自由主義の大革命である。すなわち、フレイは個人個人の自由を最大限尊重し、全員が平等に自由であり、他人の自由を害さない限りにおいて最大限の自由を全員に与え、すべての経済を自由かつ自己責任にすることを信じている。

だが、フレイには優しい一面もある。すなわち、インターネットのように、「成功と失敗のできるリスクの少ない環境で子供たちに社会活動を学ばせるべき」だと考える。それは、リスクがあるから自己責任とするのではなく、自己責任だからこそ、そのような失敗をしないですむように、安全な場所と環境で、どのような時に成功し、どのような時に失敗するか、ということを体験的に学ばせる必要があるとフレイは考える。

そのため、フレイは「インターネット・プレイグラウンド」を作る必要があると考える。インターネット・プレイグラウンドでは、極めて低リスクで社会経験のすべてを経験することができる。どのような時に失敗し、どのような時に成功するのかということが、インターネット・プレイグラウンドで、低リスクで実験できる。そのほうが、社会主義よりもはるかによいとフレイは考えるのである。

分かってしまえば分からない

フレイの人生の最大の課題は、「分かってしまえば分からない」ということである。

すなわち、分かっていない時代に分かっていた賢いことは、きちんと分かってしまうと分からなくなってしまう。

たとえば、普通の人間は、民主主義と社会主義について、普通のことを比較して分かる。だが、経済学者や論文家のように、たくさんの経済のことを学び、そして書いた人間は、その過程で経済のことがきちんと分かる。そして、そのように分かってしまった人間は、その分かってしまったということのせいで、普通の分からない人間なら分かることが分からなくなってしまう。

この問題を解決するのは難しい。分かってしまった人間が、かつての分からなかった時代に戻るためには、分かったことを忘れるしかない。だが、分かったことを忘れたとしても、かつての分かっていなかった頃に自分が分かっていたことは、すべて「分かることが目標」で分かっている。そのような目標は既に達成されており、決して過去と同じように、分かることを目標に再度分かり直すということはできない。

できることはひとつしかない。それは「馬鹿な学問や理論を無視する」ということだ。すなわち、単純な政治思想の比較論のような、馬鹿な学問や、新自由主義の小さな政府のような、馬鹿な理論は、すべて無視するしかない。それらは何も分からない人間がやっている学問であり、分かっている人間がやる学問ではないからだ。

だから、分かった人間ができる学問は非常に少なくなる。数学、物理学、心理学、哲学、経済学、社会学などは、すべて無視し、排除すべきだ。そのような学問は、すべて分からない人間がやっている。

だから、分かっている人間は、生物学と歴史学以外に、何かを学ぶことはできない。そう、結局、分かった人間には生物と歴史しかできない。

さらに言えば、そのような分かった人間には、宗教がいい。それも、仏教ではなくキリスト教がいい。なぜなら、キリストはそこまできちんと分かっている。キリストを信じる以外に、大人にできることはない。きちんと分かった大人には、子供のような「無知の知」は存在しない。現代の大人はソクラテスに戻ることはできない。

だから、キリストを信じて、生き物と人類の歴史を学べ。それ以外に、賢いものはこの世界にはない。