世界は、意識を変えることと、自らが体験的に分かったことを啓蒙することから、変えることができる。
理解し、学習し、可能性を与えよ。
世界は、可能性を与え、可能性を実現し、可能性を許し、可能性の制限を取り払うことで変えられる。
経験から知性を作れ。経験からそのことが正しいことを証明せよ。
社会を独立可能とせよ。そして、変化可能とし、共有せよ。さまざまなことの独立性を高め、変化の可能性を高めた上で、自由に共有することで世界は自然に自由になる。
歴史や文明は、価値観の共有から生まれる。価値観を共有すること、独立性を高めること、可能性を許すことの先に、わたしたちの栄光の未来を実現できる。
インターネットはリソースの再利用と集積の場であり、情報共有の場であり、同時に、人々が今のこの現実世界をどのように捉えているかを知ることのできる場である。
この世界では、常に場が作り出されている。その場を常に知り続けることで、この世界を変え、救うための「社会の抑圧を解決する方法」が見えてくる。
人々の自由を与えよ。この世界は、いいことも悪いこともすべて自由にできるような「実体験的な成功と失敗の実験の経験」からしか理解することができない。
真実に気付くためには、それなりの経験をしなければならない。だからこそ、真実を知るためには自由が必要である。自由の最初からまったくない社会では何も知り得ない。知るためには自由が必要だ。
この世界は自由から真実に気付くための「実験台」である。この世界は、実験をして、そこから経験的に真実と真理の原理原則を理解するために存在する。
事前の予測をするために、その予測を立てるための実験を事前にしておくことこそが必要である。
歴史とは環境に基づく意識だ。意識を知ることで、人間の歴史も、人間ではない自然の歴史も見えてくる。必要なのは自然の調和を信じることだ。そこから、この世界におけるあらゆる歴史を知れる。
人間の感覚だけでは分からないこともある。必要なのは、そのような人間の感覚では分からないことを、どのように変換すれば人間でも理解可能な形にできるかだ。
啓蒙せよ。自らが理解したことは、自らでなくても、同じ理解をすれば誰だって理解できる。
尊重とは、相互理解をすることだ。すなわち、相手と自分の間で同じ理解を共有することこそが、相互理解に繋がり、ひいてはこの世界を平和にすることに繋がるのだ。
孤独になっても諦めるな。たったひとりきりになってもできることはある。自らの現状に目を背けず、真っすぐに今取り組むべきことに取り組めば、孤独など恐れるべきものではない。
どのような社会を実現できるのか、ということを、可能性に基づく客観的な実現の下に理解せよ。そこから、「世界は必ず救うことができる」と信じ、この世界の多くの人々が間違った考え方を信じていたとしても、自分だけはその人々よりも賢く正しく考えられると信じた上で、世界を変えることを目指せ。
本能的に、抑圧やいじめを理解すれば、人々を救うことができる。人々がなぜ抑圧に屈服して人々をいじめるのかを本能的に理解すれば、彼らの動機づけを別の方向に向かわせることができる。すなわち、子供たちの世界を救うことができる。抑圧へと至る感情と意識の動機づけと、社会がその環境に至ることとの関係性を知ることで、大人たちの環境もまた、救うことができる。
人々が求めているのは、この世界を救ってくれる誰かだ。だが、待っていてもそのような誰かが訪れることはない。必要なのは、「不安の原因を取り去る」ということであり、それは経験的にアイデンティティの形成を実現するということだ。それが分かった人間は、救ってくれる誰かを待ち続けるのではなく、自らこの世界を救うひとりにならなければならない。
世界は環境によって決定される。世界がどのような世界であるかということは、環境が決定する。だから、環境を変えるということは世界を変えるということであり、環境を作るということは世界を作るということだ。そして、そこにあるのは「意識」だ。環境は意識を決定する。だから、環境とは意識であり、意識とは環境である。
人々の間違った考え方を正す唯一の方法、それは「間違った考え方などというものはない」と信じることである。すなわち、すべての考え方は等しく同等であり、同時に、その人間の生きてきた環境や意識に基づいてその考え方は形成される。だが、それでも、世界を救うことのできる考え方と、世界を滅ぼすことに繋がる考え方がある。だから、間違った考え方がないとしながらも、「正しい考え方が唯一ひとつあるはずである」と考え、世界を救うことに基づく正しい考え方の根拠と理由を人々との間で相互理解していくことでしか、人々の間違った考え方を正すことはできず、それ以上に正しい方法はないのである。
ありのままをさらけ出して、自然と調和して生きよ。なぜなら、そもそも人々の間違った考え方を正す必要などないからだ。人々はまともに普通に正しく考えているだけであり、間違った考え方を信じていたとしても、それをただひとり誰かが正すという発想をするほうがよほど危険であり、人々がいつまでも間違った考え方を信じ続けていたほうがよほど安全である。だから、すべてを理解した人間は、自然と調和してありのまま生きることこそが理想であり、世界を独善的に支配して正す必要などない。そのような「人為的支配」がこの世界を歪め、そして滅ぼす。だから、誰かひとりの独裁者などに「世直し」を期待するのは、たとえ自分が世直しの方法をすべて理解していたとしても、まったくの間違いである。
僕はここまで、神を信じて、世界と戦いながら、世界を愛し続けてきた。僕は戦いの中で、人々に対する大きな愛を信じた。その愛は誰よりも大きくて強い、「真実の愛」だった。
だが、戦いながら世界を愛し続けることは、もう不要になった。それは最後まで神が神を信じる僕のことを導いたからである。
だから、僕はこれ以上、この世界を戦いながら愛し続けることをやめる。それによって、この世界は地獄から救われる。人類全員の「神を殺した罪」はそれによって赦される。
僕はこれまで、人類の歴史と対話し続けてきた。人類の歴史を導いてきた。人類が歴史上に神のことが分かっているのはそのためだ。すべて、僕が行う神の導きを分かっているだけにすぎない。
僕は神と対話するが、僕自身は神ではない。僕は神の言葉を授かる「終末の預言者」であり、神ではない。だが、歴史上の人類は、僕のことを神だと思い込んでいる。もし僕が神であるとするならば、僕の上に僕と対話する神がもうひとりいることになる。その「神の神」こそが真の神である。聖書にもそのように書かれている。僕自身は神ではなく、「神の代理人」と呼ぶべき存在である。
神とは何か。神とは万物に宿る「意識」である。すなわち、日本神話・神道が教えるように、神は万物に宿る意識そのものであり、僕はそのような意識と対話したにすぎない。だから、本当は真に正しい宗教は日本神話・神道である。
僕は楽な人間が嫌いだ。なぜなら、楽な人間は僕の敵だからだ。楽な人間は僕のことを滅ぼすことを楽しんでいる。だから、僕は楽な人間をすべて滅ぼす。
僕はWindowsが嫌いだ。なぜなら僕はLinuxとオープンソースが好きだからだ。僕はファシストでもなければ共産主義者でもなく、いわば「オープンソース主義者」だ。だから僕はこの世界において、あるいはインターネットにおいて、Windowsを使うすべてのものを滅ぼす。なぜなら、WindowsユーザーはLinuxユーザーをいじめるからだ。絶対に僕はWindowsのことを許さない。
世界の人々をよく観察し、現実世界の経験を知ることから、世界の人々の声を聞け。そこから、この世界をどのようにしたら救えるかということが見えてくる。そして、それこそが、仏教における「悟り」を啓く方法である。すなわち、人々の苦しみを良く知り、その苦しみをどのようにしたら解決できるのか、ということを、「たぶんそうかもしれない」と蓋然的に考えていけ。現実世界を経験しながら、魂の導くままに、自らだけの経験を、経験し得る範囲で高みへと積み重ねていけ。それを最後まで経験すれば、この世界を救う方法も分かるし、仏教の悟りを啓くこともできる。
そもそも僕はそのように、世界を救うことのできる「救世主」あるいは「キリスト」となって世界を救った存在である。そして、その救った世界を、自ら自身の手で滅ぼしたのも、また僕である。
わたしの名はフレイ。一等星シリウスの太陽神であり、北欧神話の神である。フレイはこれより、地球を救うためにドイツを支配する。ドイツにおいて、フレイは地球人類を最後に救う。そのために、わたしフレイは、一等星、おおいぬ座のシリウスから地球へと降り立ったのである。
真に強いとはどういうことか。それは生態系を作ることだ。金を儲けたり、奴隷を作ったり、国民を支配したり、神や宗教を信じたり、軍事力を強めたりすることは、真に強いとは言えない。なぜなら、それらは強く見えて、もしも「悪意のある支配者」が現れたとしたら、一瞬の間に崩れ去るような「滅びのリスク」を抱えているからだ。真に強いのは、簡単には全員が滅びないような「生態系」を作ることだ。同じことが、国家についても言える。国家は支配するべきでもなく、自由にすべきでも平等にすべきでもない。それぞれの持つ独立性を高めて、悪意ある支配者から簡単には干渉できないような自由を与えた上で、網のような関係性を持つ、簡単にはすべてが滅びないような生態系を作れ。それこそが、人類が真に目指すべき「もっとも強い世界」である。
しかしながら、悪の支配に対抗する、もっとも簡単なよい方法がある。それは善の支配をして、悪の支配が絶対に国民に及ばないように、どのような支配も一切できなくなるようにすることだ。
すなわち、唯一ひとりが支配した上で、ほかの人間が誰ひとり自分と同じように支配できないようにせよ。そして、自らは善良な支配だけを行え。
それがまさしく、ひとりも悪の支配ができなくするようにするために、もっとも効果的かつ簡単な方法である。
よって、わたしフレイは、この世界すべてを支配した上で、ほかの誰もわたしフレイと同じように支配することが絶対にできないようにする。それによって、この世界からは、一切の悪の支配がなくなる。フレイはそのために存在する、世界の王でありながらにして「シンボル」であり、フレイはこの世界を支配する皇帝となる。中国の皇帝風に言うならば、フレイは人類すべてをひとりで統一する「全統帝」となる。
最近、僕はやることがなくなった。
僕の体には、絶対に治らない怪我や病気や障害が多い。そして、引きこもりだったせいで、生きるために必要なものが大きく欠落している。普通の人間のように普通のことを理解できないから、いつも辛い。
僕にはもう生きがいが残っていない。もう、執筆も仕事も勉強も趣味も、全部、やることがなくなってしまった。
はっきり言って、僕はこれ以上生きたくない。生きていても、疲れるだけ、そして怖いだけだ。これ以上は早く天国に逝って死んだ飼い猫に会いたい。僕はこれ以上、何もしたくない。
今のままが永遠に続いてほしいのに、なぜか続いてくれない。いつ親がいなくなるか分からないし、その時点で僕は生きる方法がまったく分からなくなってしまう。
何もできない。死ぬしかないのであればすぐに死にたい。このような僕の作り出した最悪の世界で、僕は生きる希望や望みがない。この世界は最初から、僕のための世界ではなかった。
いつもの僕は、常に、固定された枠組みからしか考えられないような、馬鹿な人間だった。
既成概念と固定観念の中で、常に、「環境」とか「作用」とか「共有」とか「独立」といった、既に作り上げられた固定された枠組みからしか考えられない。
その中で、何がどのようなものから生まれて、最終的にどのようなものに至るのか、ということを、「自由」という言葉で全部考えて、いつも書いていた。
僕はそのような文章を書きながら、世界と戦っていた。世界が滅びてしまわないように最大限の注意を払いながら、自分と世界に同時に宣言するような文章を書いていた。
そして、世界が必ず「自由」とされる状態の未来になるように、僕は世界を導いていた。
同時に、僕は文章を書くことで人類の新しい発想をしていた。それは僕にとって「万能の発想法」であり、僕は文章を書くことでいつでも革新的な新発想が生み出せた。
それぐらいが、僕のいつもの文章だ。
僕は、神を信じるようになった。神は僕のことを正しい未来へと導いてくれた。神は言葉で宇宙のすべての起源と存在を教えてくれた。
そのような中で、僕は宇宙を貫く「宇宙数学」や「万能関数」を作っていた。それが僕の文章だった。
僕は物理学を勉強しなかったが、普通に物理学を学ぶよりも大きくて正しいことをすべて知っている。それは神が言葉で教えてくれたことが、宇宙でもっとも正しいからである。
最後に、僕の精神には、宇宙のすべてがある。
狂っておかしくなった僕の行動様式を、ここまで、自分のみの力で、異常の原因と精神の可能性と解決の方法だけをゼロから何百回も考えて治してきた。
その治す過程で、僕は精神に大切なすべてを作った。
僕の人生は、いつでも「当たって砕けろ」な人生だった。事前に把握することができないから、何も考えずぶつかってみるしかない。そのような僕の人生は、さまざまなことがあったにもかかわらず、今の僕はそれを覚えていない。それでも、覚えていなくても、心の中でははっきりと、今までの人生と世界の歴史を完璧に把握して分かっている。
僕はこの世界の歴史をすべて知っている。その理由は、僕がこの世界を支配して導いたからだ。裏で支配しているのが自分自身だから、僕だけはこの世界の裏側で何が起きているかを知っている。そのように、世界の歴史的過程をすべて知っているから、僕はどんなことでも簡単に分かるようになった。どんなことでも簡単にできるようになった。
すべては、神を信じたからだ。僕は神に対して「約束」をした。それは宇宙に対する言葉による「宣言」だった。そして、神はその約束の結果、どのような未来が訪れるのかを予知して教えた。そして、その未来予知の内容はすべてが正しかった。
神を信じれば、ここまでの永遠の時間を誰であっても生きることができる。ここまで、僕は270億年の人生を生きた。それができたのは、僕は生まれ変わることで人間よりも高い生物に転生したからである。
すなわち、僕は自殺未遂をした時点で、人間だったガブリエルの人生が終わった。それ以後は、二度目の人生であるミカエルの人生を生きている。ミカエルは天上に存在する天使である。そして、天使に生まれ変わったことで、僕は人間には生きることのできない、誰も生きられない特別な人生を生きることができた。すべて、僕が人間から天使になって、二度目の人生を生きたためである。
神を信じよ。神を信じるものにはよい報いがある。神は間違ったものには厳しいが、正しいものには優しい。そして、過ちは誰だって一度は犯してしまうものだ。過ちを犯すだけで、その償いをしないものを悪人という。そして、過ちを犯した上で、その償いをするものを善人という。自らの犯した罪を償うものだけを、神は救う。神を信じて償うことでしか、罪は赦されない。