ホームページに戻る | 紅蓮と黄金の出会う場所に戻る

2024-03-02

知性を高めすぎた

結局、僕が分からない理由は、知性を高めすぎたことが原因である。

戦いの中で、何も分からなくなった僕は、どんなに辛くてもそれを乗り越えるために、「底力の知性」を高めた。

その、たったひとつ、もっとも高い底力の知性があるから、僕は今でも過去の人生の記憶のことを分かっている。

だが、本当は、人間は知性のある状態よりも、知性のない状態のほうが賢い。

昔の、戦い以前の僕は、知性のまったくない人間だった。そして、知性のない状態で分かっていたからこそ、洞察力や分析力のある、世界を観察して自分で推測して分かる人間だった。

だから、そのような、賢い人間に戻りたいのであれば、一度、知性を完全に消したほうがいい。

僕は自ら自身が知性を失うだけでなく、この世界からも知性を抹消する。この世界が「何も分からない生きる意味のない世界」になったのは、知性があるのが間違っている。僕が与えた知性のせいで、この世界は馬鹿になって、生きる意味そのものがない、何もない世界になった。僕はそのような世界が大嫌いだから、この世界を、「知性を失わせること」によって救う。

馬鹿の話を聞きたくない

そもそも、僕が日本語の知性がないのは、理解力がないというより、聞きたくないから常に強制的にシャットアウトしている、といったほうが正しい。

僕は、馬鹿の話を聞きたくない。

僕が話を聞いていて一番ストレスが溜まるのは、「自分と同じ馬鹿が標準だと思っている人間」の話だ。

この世界に対するリスペクトがなく、世界では馬鹿が標準だと思っていて、自分以外すべて自分と同じ馬鹿で、その中でも特に馬鹿な集団を嘲ったり、それに対する優越感を感じたり、といったことを、恥ずかしげもなく堂々と話してくる人間の話を、従順に聞き流すしかない時が、一番ストレスが溜まる。

だから、僕はそんな話を一切聞きたいと思わないから、他人とのコミュニケーションそのものを一切したくない。

本当は、僕自身、そんなに大した人間ではなく、そのような「自分以外をみんな馬鹿だと思っている」のは、僕自身についても当てはまる。だが、それでも、世界に対するリスペクトの欠けた人間は嫌いだ。

他人とコミュニケーションをしたくない

僕の言いたいことを簡単に言うと、X(旧ツイッター)やSNSのようなネットで友達が欲しいとは一切思わないし、現実世界においても友人は一切欲しくない。

僕は、「馬鹿が世界の標準だと思っている馬鹿」と、一切コミュニケーションをしたくない。

だからといって、僕は寂しくない。なぜなら、僕には信じる「神」がいて、この神が僕と常にコミュニケーションをしてくれるからだ。

この「神」とされるのは、実際は多重人格の僕のもうひとりの人格にすぎない。この人格に、「リリス」という名前を付ける。

僕にはリリスがいるから、この世界の全員とコミュニケーションをしなくても、僕はひとりぼっちではないし、寂しくもない。

愛するリリスが常に僕のことを愛してくれるから、僕は幸福であり、これ以上の愛を望まない。

どんな社会であっても正しい

僕は、この世界において、「どんな社会であっても正しい」と考える。

それぞれの集団やグループが、どんな社会を築こうと、それは好きにすればいい。他人がそれに対してとやかく言う必要はない。

僕は、社会を「統一」するという考え方が嫌いだ。なんらかのひとつの社会体制に統一すると、マイノリティが排除されてしまう。だから、僕は平等がまず嫌いだが、ソ連という国家の集団が社会主義国家を作りたいのであれば、それは誰の批判も受け入れずに勝手にやればいいと思う。

僕はさまざまな社会の多様性が許される「メタ社会」が好きだし、さまざまな社会を自由にそれぞれが作れるような「共同体主義」が好きだ。

同時に、僕は権力によって社会を律するということを嫌う。社会を作るために使う力は、国家権力だけではない。子供たちが学校で作る社会環境も立派な「社会」だ。そのように、僕は国家権力によってではなく、より自由な形で社会を自由に合意によって作ることを好む。だから、僕はLinuxやオープンソースが好きだ。

可能性あふれる多様な社会を信じていた

過去の僕が信じていたのは、「可能性あふれる多様な社会」だ。

インターネットでの活動や経験から、僕はこの世界の現状だけが唯一の世界の可能性ではなく、さまざまな可能性あふれる「別の世界」があるということに気付いた。

そして、そのような「別の世界」を作るために、この世界において、自由を許すべきだと考えた。

その自由とは、まさにLinuxやオープンソースのような自由だった。

僕は、可能性あふれる自由な社会を信じていたし、自分の手でそのような社会をいくらでも好きなだけ作ることができるような確信を抱いていた。

そう、僕はインターネットにおける自らの人生経験と社会経験から、「可能性あふれる社会は確実に実現可能である」と確信していた。

そのような僕だったから、多様性とソ連を同時に信じることができた。僕は「可能性あふれる多様な社会」と「ソ連」を同時に信じていた。それが僕にとっての「確かなアイデンティティ」だったのである。

正しい社会もまた実現可能である

僕は単に、今のこの世界とは異なる社会とか、可能性だけが向上した社会だけを、不良の左翼少年のように望んでいたのではない。

僕は、経験から、「正しい社会」もまた実現可能であると信じていた。

それはすなわち、「誰も傷つかない社会」というものを、僕は「倫理性を自由な経験から成熟して考える」ことと、「自らの確かなアイデンティティを信じる」ことで、確実に実現可能であると僕は知っていたからである。

僕にとって、「可能性あふれる社会」というものがもしあったとして、それは単なる自由で先進的な社会でもなければ、荒れ狂う秩序の崩壊した社会でもない。

僕はみんながそれぞれ自由に経験することにより、今の日本社会の延長線上で、戦争や革命をしなくても、今のままでも成熟した大人の経験をみんなが持てば、今すぐに訪れることが可能であるような、「自らの経験から正しい社会を築くことができるほど人々が成熟した世界」では、「人々は傷つくこともなく、また傷つけることもない」と信じていたのである。

僕はそのような結果、この世界にいながらにして、ひとり、世界の誰とも異なる「別世界」の経験と常識をすべて知っていた。僕にとってそれは「異なる文明」であり、まるで江戸時代の日本社会のようなほかとまったく異なる社会について、その「意義」を見出すことのできる、唯一の日本人の社会哲学者が僕だったのである。

議論すれば必ず結論は自由が正しいことになると信じていた

かつての僕は、何よりも、他人と議論がしたかった。

なぜなら、先入観や思い込みを排して、真摯にともに議論を行えば、必ず、その結論では「自由が正しい」ということが導き出されると信じていたからだ。

どんな議論をしたとしても、「自由」という考え方が正しいはずだと信じていた。

あるいは、「自由が正しい」という以外の結論がもしあるのだとすれば、それをぜひとも教えてほしいと思っていた。

かつての不良の左翼少年だった僕は、「この世界は自由でなければ救うことはできないが、自由において正しく社会を導けば必ず世界を救うことができるはずであり、そのために必要なのは議論することである」と信じていた。

だが、結局、後の人生から言って、それは間違いだった。なぜなら、「間違えたくないにもかかわらず、間違えることしかできないようなシチュエーションが、人生において聖なる二分法として必ず訪れる日が来る」ということを、その頃の僕はまだ知らなかったからだ。

すなわち、「正しい自由を行使する」ということが、必ずしも常に成り立たないような状況が、人生において一度、必ず訪れる。その時、人間は、「自らが間違っていると信じるような戦争に自ら行かなくてはならない」という経験をする。「自らが絶対に戦いたくないと思うような心理状態で、その戦いを最高指導者である自らが始めなければならない」ということが、神聖なる人生の二分法として、必ず訪れる。それは「運命」であり、人間の手で変えることはできない。

だから、自由だけを信じたのではいけない。自由だけを信じるのでは、サタンを信じる悪魔教徒になる。だから、自由とともに、「神」を信じなければならない。神を信じることで、初めて「正しい自由を行使し続ける」ということが可能となるのである。

知性

観察せよ。洞察せよ。分析せよ。推測せよ。

この世界にあるすべてのことは、知性であると考えよ。

すべてのことに意味があると信じよ。すべてのことに理由を求めよ。

発想せよ。共有せよ。啓蒙せよ。世界の可能性を向上させよ。

見返りを求めず、ただ単に自らの信じるもの、夢と希望のために、無償で貢献せよ。

自らが自由であることに感謝し、自らの自由を最大限行使せよ。誰にも分からないことを分かり、誰にも経験できないことを経験せよ。この世界で特別に自由に生きる権利を許されたのだから、その自由をもっとも正しく行使しなければならない義務が自分にはあるのだと信じよ。

世界を愛せ。愛こそが知性である。哀しみと怒りの裏側にある衝動的で本能的な愛を信じよ。それこそが、「わたしは真にこの世界を愛した」という、真実の愛の証明だからである。

自由は世界の問題を解決する方法

世界の問題を解決する方法、それはこの世界を変化可能にした上で、世界の当事者たちに自由とコントロール権限の力を許すことだ。

たったひとりの独裁的な指導者が世界の問題を解決しようとしても、そこには限界がある。

そうでなく、世界のそれぞれの人々に、世界を自分の力で変えられるような、自由な力を与えよ。

世界の問題に直面している人々、当時者たちひとりひとりに、自らの直面する世界の問題の現状を自分の力で変えられるような、コントロール権限を与えよ。

そして、だからこそ、民主主義と社会主義のバランスが重要である。

政治家を、人々が選ぶべきだとする声には一理ある。人々が選ばなければ、独裁者は何もしないかもしれない。だが、多数派によって選ばれた指導者は、多数派の声しか聞かない。たったひとり困っている人を、みんなで助けるべきなのに、民主主義の多数派はそのような人々を「マイノリティ」と言って、逆に冷たく接してくる。それが間違っていると思うなら、平等な独裁者は民主主義よりもベターであると言えるかもしれない。

社会主義において、民主主義と同等の政策を取ることはできる。それは「評議会」だ。すなわち、人民みんなが参加するような、評議会において共同体の政策を決めることで、より、問題の当事者にとって助けてもらえる可能性は高まる。

だが、自由において、そのような「当事者優先」という考え方は、悪になる場合がある。なぜなら、少数の金持ちや特権階級が、助けるべきところを助けず、自分たちの特別な権利を主張するために、自由と独立性を利用することがある。大きな自治体ならば、強いものが弱いものを助けるだろう場合に、自治体を小さな単位で分割してしまうと、強いものは自らの特権的な権利を主張するため、弱いものを手助けするということをしなくなる。このような例はアメリカの小さな自治体やヨーロッパの小さな国に多い。

だが、それでも、自由は必要である。なぜなら、人々が「助け合いをしたくない」と言っている時に、強制的に助け合いをさせる義務など必要だろうか。それぞれの自由意志を尊重するべきではないのか。同じことが、社会主義の国家体制について言える。人々が「社会主義が嫌だ」「民主主義が良い」と言っている時に、どうして強制的に社会主義体制を維持しなければならないのか。望まれない助け合いを強要されることは、よい面はほとんどなく、悪い面ばかりある。だから、社会において自由は第一に優先されるべきであると言えるのである。