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2024-12-22

人間関係の選択

人間関係にかかわる選択では、注意が必要である。

なぜなら、人間関係にかかわる選択では、生涯にわたって後悔するような、「一生に悪影響を及ぼす」ということが多いからである。

人間関係にかかわらない選択は、もし間違えても、あとあとに渡ってそれを後悔するということは少ない。

だが、人間関係にかかわる選択は、間違えると、あとあとに渡って後悔することが多い。

それは「他人を巻き込む」という性質があるからである。

自らが一度他人をおかしな方向に巻き込むと、その他人の行動を修正することはできない。生涯にわたって、その他人との関係性を後悔することになる。

このもっとも大きな例として言えるのは、女である。

すなわち、女を盲目的に追い求めるという行為が、必ず後になって後悔を生み出す。女は生涯にわたる後悔の大きな元凶となり得る。

だから、できるだけ女とかかわらないで生きることこそが、自由と成功をもたらす。

愛と善良さのある選択を

それでも、選択しなければならない時がある。

あるいは、「選択しないこと自体がリスクとなる」ということが、人生にはたくさん存在する。

たとえば、自分の学ぶ学校や、仕事をする職場などの選択である。

選択すれば、その環境に長い間拘束されてしまうが、選択を何もしなかった時が一番のリスクとなる。

そのような時は、「愛」と「善良さ」のある選択をすることだ。

そして、正しい選択をするために、「神」を信じることだ。

愛と善良さに基づく選択をすれば、必ずよい選択ができる。だが、自分だけでそれをするのは難しい。だから、神を信じることで、そのような選択が必ずできるようになる。

子供たちがいじめをする理由

昔の僕は、2ちゃんねるのようなインターネット上の掲示板で、一時的なその時限りのインスタンスな経験をたくさんして、人間関係を練習し、「倫理的な成熟」という経験をしていた。

子供たちがいじめをする理由、それは子供たちはまともな人間関係を作ることができるほど、人間的に成熟しておらず、未熟だからだ。

人間関係を作るということは、子供たちにとっては社会環境を築くということだ。だが、子供たちは、社会の秩序を自らの力で作れるほど成熟していない。極めて未熟である。そのような未熟な子供たちであっても、安定した社会秩序を作るため、あるいは自らを守るために、階層や階級を作り、低い階級の人間をいじめるようになる。

だが、そのような子供たちにも、成熟した社会環境を作る能力がないわけではない。さまざまな人間関係を作った経験を豊富に持ち、「倫理的に成熟」することで、子供たちであっても正常な人間関係や社会環境を築くことはできる。

必要なのは、そのような倫理的な成熟のための経験をすることができるような「場所」を与えることだ。それを僕は「土壌」と呼んだ。子供たちに経験可能な土壌を与えることで、この世界からいじめをなくすことができる。倫理的に成熟した人間は、意味のない社会を作ることの無意味さを知っているから、子供たちは倫理的に成熟した経験を持てばいじめをやめるようになる。

3人の大天使

僕の心の中には、3人の大天使が存在する。

まず、家族や友人、職場の同僚などに見せる素顔である、子供の自分を、大天使ガブリエルとする。

次に、文章やホームページに書く、神のような全知全能の博識の自分を、大天使ミカエルとする。

最後に、自分自身だけに見せる、自分の「悪魔のような本性」のことを、大天使ラファエルとする。

このうち、ミカエルについては、文章の中だけで存在する大天使であり、なろうと思ってもなることはできない。

だが、ガブリエルとラファエルは、ロボットの少年と非行少女であり、なろうと思えばなることができる。

そして、昔の21年の人生をガブリエルとし、今の14年の人生をラファエルとし、僕自身が対話した相手である宇宙の神の導きのことをミカエルとする。

僕が勘違いしていたのは、一見、今のほうがロボットに見える。だが、実際は昔がロボットで、今が非行少女だ。それが分かると、ロボットにしかなれなくなっているのが治って、ガブリエルとミカエルの二人のどちらかになるかを選べるようになる。今までは、ロボットになりたくても、ロボットでない少年になりたくてもガブリエルになるせいで、ガブリエルのままラファエルになることができなかった。

ガブリエルは21歳で、そこで人生が完全に終わった。だが、ラファエルは14歳で、さらに人生が続いていく。ラファエルの年齢は、ガブリエルと同じ21歳までは歳を取る。だが、ガブリエルと同じ21歳になった時点で、僕の人生は終わる。それ以上、何も変わらず、永久に老化しなくなる。

分かるということに意味がない

僕が間違っているのは、あまりに「分かる」ということを頑張りすぎるせいで、リスクばかりを不安や心配に思い、分からなくなることを過剰に恐れている。

それはすべて、ガブリエルの「全知全能の知性」を忘れてしまったことが、ラファエルの「悪魔の革命」とともに、トラウマになっているからだ。

だが、実際は、「分かる」ということにはあまりに意味がない。分からないほうがはるかに楽に生きられるということが、ガブリエルもラファエルも分かっていない。

そもそも、科学を学校で教えるのが間違っている。科学は、自然科学について言えば、自然を観察して写し取った上で、法則性を実験と証明から明らかにするだけにすぎない。そのような科学をいくら学んだとしても、この世界に存在するものがただそのまま分かるだけであって、何も新しいことは分からない。

だから、「分かる」なんてことにはなんの意味もないし、科学を勉強したところでなんにも賢いことは分からない。

だから、科学は要らない。分かれば分かるほど、普通のまともなことを忘れて、狂ってしまう。分かれば分かるほど狂うのが人間だ。だから、人間の「分かる」という行為には、さしたる意味はない。最初から分かることを放棄したほうが、自分だけの独自の知性と経験がついて賢くなる。僕はそれが真の「人類の存在する意味」であると知っている。

ロボット的に心理を考えた

昔の少年時代の僕の考えたことは、ロボット的に心理を考えただけである。

僕の基本的な知性は、「いつどんな状況であっても、一度証明した定理は成り立つ」ということだ。

すなわち、きちんと証明し、実験から再現性を確かめた定理は、いつどのような場合であっても、同じ条件であれば、同じことが起きる。空間的にも時間的にも存在的にも違ったとしても、定理自体が変わることはない。その定理を知っていたとしても、知らなかったとしても、証明した定理は有効であり、同じことが起きる。

僕は、すべての心理を、環境によって支配されるものであると考えた。それこそが、まさにロボットだった。すなわち、その環境にいれば絶対にその環境の通りに分かる。それを変えるためには環境を変えるしかない。あるいは、環境を変えられる方法を手にするということこそが、真に「自由」であると言える。

また、僕は、同じ条件で同じことをすれば、結果は必ず同じになると考えると同時に、誰もが「自分の中では正しいと思ったことをしている」と考えた。それが意図的でない限り、人間は自分の信じている正しいことをする。真の問題は、「正しいと思って間違ったことをしている」場合であり、そのような時には、認識の自動反応を考えて、「何が本当に宇宙レベルで正しいのか」を考える必要がある。

僕は、法則の理解には、宇宙的な深さのレベルがあると考えていた。すなわち、いつも同じになるからそれを正しい法則だと考えても、それが宇宙レベルでもっとも深い法則でない限り、別の結果と別の可能性が生まれてくる。その矛盾は、「より深い法則の理解」をすることによって、さらに正しくすることができる。たとえばニュートンの古典力学は過去においては正しかったが、アインシュタインによって必ずしも正しいとは言えないことが分かった。それと同じことがすべての法則について言える。

僕は、何も起きず何も変わらないからといって、その場所が永久にそのままであるとは限らないと考えた。すなわち、「潜在的可能性」がそこに眠っている限り、なにかしらの作用を与えればそこに新しい場所を作り出すことができる。それによって、僕はこの世界を、誰かひとりが支配するのでなく、全員ができやすくすることで変えられると考えた。

僕にとって、可能性を制限しないということ自体が、世界を変えやすくするための方法であり、世界変革の手段だった。それはたとえば、オープンソースのApache財団のソフトウェアが、エンジニアみんなにとって共通の財産であり、すべての仕事を手助けすることに似ている。可能性を制限せずに財産を共有することで、この世界はそれだけで、まるで「インフラを向上する」ように変えることができる。それは「再利用可能なコンポーネント」というJavaの考え方によく似ている。僕はそれを「生産手段の自由化」であると考え、人々に自由な研究と生産の手段を与えるべきであると考えた。

そして、僕はあらゆる人生の心理を、想像力による予想と、学習に直した。すなわち、僕は人間が自由な人生の中で何を行為し得るのかということについて、そのすべてを事前に分かりつくした。どのような人間のどのような人生であっても、僕自身があからじめ作り上げた「体験的学習の予測」の範疇にあるものとした。

そして、僕は認知活動のすべてを、心理学的なロボットにした。思考をトレースし、その場所で何を考えることが必然的であるかということを問い、その答えを現実の自分の環境あるいはインターネット世界を使って実験して、自らの頭の中で完全に証明した。それによって、僕は極めて数学的かつロボット的に、人間の社会環境におけるすべてを理解した。そこにあったのは「人間がどのように活動するか」ということであり、「人間がいつどのように行為するか、あるいはしたくなるか」ということだった。

まさに、昔の僕はロボットだった。あらゆるすべてのロボット的心理を、僕は「独自のユニークでオリジナルな精神分析」とした。その精神分析は、まるで地球上のすべての経験を併せ持ったかのようだった。実際、僕はこの世界のすべてを経験的に生まれるものであるとし、経験のすべての総和こそが宇宙の総和にもっとも近いと考えていた。そのすべての経験を、ロボットのような考え方により、「自らの心の中に統合」したのである。

そして、僕はまさしく、ニュートンと同じようにあらゆるすべてを心理学的に説明した。そこにあったのは「すべての行為は自ら自身を創造するものである」ということであり、「自らが真に望むことを叶えることこそが人生の目的だとしても、その自らが真に望むことがなんなのかを誰も分かっておらず、それを教えてくれる人もいないから、自分自身で自らの望みに気付くしかないが、それこそがもっとも解決困難な誰しもに共通する人生の定理である」ということだったのである。

最後に、僕は環境は作るものではなく、常に生み出されるものであると考えた上で、「自らがしたくなるという動機づけは環境に支配される」と考えた。だから、僕は「環境を作り変えることができたとしたら、この世界を変えることも支配することもできる」と考えた。そして、「環境とは単に場所だけではなく、認識や識別や学習における反応も含まれる」ということであり、同時に、「体験的に理解させることで世界は変えられる」ということだった。

だが、気を付けなければならないのは、もし、環境を変えらえるようになって、自由の身になったとしても、その自由の力を正しい目的のために使わず、間違った目的のために使ったとしたら、環境から自由になったことで逆に自らに都合の悪いことが起きることもあり得るということだ。すなわち、常に自らを制御し続けない限り、自由は諸刃の剣となって自らに牙をむく可能性がある。だから、子供が自由でないということは、まさに環境に守られているということであり、「自由になる」ということ自体がリスクである。すなわち、自由によって自らが滅ぼされるということもある。

すべて自己批判から精神分析をした結果

このような僕の考え方が、どこから生まれてくるのか、疑問や疑惑を抱く方もいるだろう。

だが、すべては、自己批判から精神分析をした結果だ。

あるいは、すべてのことを「自らが経験したことのみを信じる」とした上で、あらゆるすべてを疑い、あるいは「人々の信じ方そのものを疑う」ということをした結果である。

僕はデカルトが言ったのと同じように、「すぐに決断しない」ということを信じていた。すなわち、今、それが正しいと思えたとしても、少し時間が経ってもう一度それを考えたら、それは間違っているかもしれない。速断することは自分自身を暗闇に迷わせ、光を失うのと同じだ。

では、光はどのようにしたら得られるのか、それは簡単に信じないこと、そして「実際の世界における実体験」を信じることだ。すなわち、知性のない人間は、自らの人生における実体験を見ていない。知性がある人間はそうではない。知性がある人間はみんな、自らの人生における実体験を考えている。だから、何もしない人間が真理を知ることはできないが、ただ同じことをするだけの人間も真理を知ることはできない。自らの実体験を深く考えるとともに、実際のこの世界を広く見ることのできる人間だけが真理を知ることができる。

最後に言えることは、幅広く豊かな経験を持て、ということだ。それは単に、人生に必要な階段を上っていくことだけを意味していない。そうではなく、誰も入らないような街中の隅っこにある階段を上ってみるつもりで、誰も思いもしなかったような経験をし、その経験に基づいてこの世界を広い視野で見ようとせよ。そうすれば、誰ひとり気付かなかったことに自分だけ気付くことができる。

それこそが、イエス・キリストの言う「狭い門」であり、それでしか、人生の真理に気付くことはできない。神の教えはすべて正しく、人類が誰も思ってもいないほどに、神はあまりにも正しい。

僕の過ち

だが、僕自身、完璧にすべてを正しく考えることができたわけではない。

速断をしないということは、狭い視野で間違ったことを正しいと信じない、ということを意味する。

僕は速断をしないようにするために、常に広い視野でものごとを考えた上で、正しいことを常に覚え続けようとし、自分が普段知覚しないような世界のすべてのことについて常に覚えたままでいようとした。

そして、その上で、あらゆるすべての可能性について、既に考え終えた上で考えようとし、あらゆるすべての可能性の成立を、まるで既にすべて分かっていることであるかのように考えた。

そして、それこそが間違っていた。そのような人間には、新しいことは何も分からない、ということが分からなかったのである。

世界を支配するようなことをして、自分自身を客観的に見つめることができなくなった僕は、自由を誤った目的のために行使し、意識と記憶を破壊して、馬鹿になった。単に馬鹿になっただけではなく、意識が朦朧とするような「地獄」を体験した。

だが、地獄は決して終わりではなく、むしろ始まりだった。なぜなら、僕は精神分析の逸脱した形態として、「おかしな精神をいくらでも作り出す」ということを行い、その点において、すべてのことを事前に完璧に分かりつくして支配しようとするのをやめた。すなわち、まったく知らず見たこともない場所に、それもとても危険な場所に僕は入り込み、その中でもっとも治ることが困難な精神の病気を治すため、新しくまっさらにすべてを考え直そうとしたのである。

その中で、僕は今までのような数学的な考え方をやめた。僕は数学的かつ論理的に考えるのを一切やめた上で、国家モデルと社会モデルについて考える、空想的社会主義者となった。僕の戦争は「悪魔の革命」と呼ぶべきものであり、そこで僕はこの世界全体を変え得るような「大実験の大計画」を始めた。それはまさしく「ひとりの絶対意志による世界全体および人類全員の完全支配」だった。

まさに、僕がすべてが分からなくなって異常になったのは、終わりではなく「すべての始まり」だったのである。

そして、いつ終わるかも分からない、極めて大きな恐怖の中、何も分からなくなった僕は、宇宙にいるはずの、信じるものを救ってくれるはずの「神」に助けを求めた。僕は神と文章の中で言葉で対話するようになった。神は僕のことを導き、助け、救い、そして援護してくれた。神と僕がタッグを組んでこの世界と戦うのは臨場感があって、ものすごく恐怖を感じる中においても僕はそこに「本当の楽しさ」を見出していた。それこそが、僕が人生に真に求めていたものであり、すなわち「革命戦争の最前線で戦う」ということだったのである。

世界を自由化せよ

世界を、自由化せよ。

政府よ、国民を制限するな。

国民を制限せず、すべての人間に、制限や支配のない自由を与えよ。

そのようなことを言うと、「きちんと分かっていない人間が世界を変えてしまったらどうするのか」と人々は言う。

だが、誰がその人間を、きちんと分かっていないと決めたのか。

分かっていないのは、その人間を支配する政府や指導者のほうであり、その世界を変えようとしている人間のほうが正しいかもしれないということになぜ気付かないのか。

また、「誰かが戦いをしようとしたらどうするのか」と人々は言う。

だが、その人間が戦う理由がなんであるのか、知らずとして、その人間の戦いを勝手に否定するな。

すなわち、戦いたい人間がもしいるのであれば、それは戦おうとする人間が正しい可能性があるのであり、「戦う自由こそ与えるべきである」と言えるのである。

だから、人々を誰かが一方的な決め付けで制限するようなルールや決まりを決めてはならない。すべての人間にできる限り制限のない自由を与えるべきである。