正義を信じなさい。
平和を信じなさい。
愛と平等と自由を信じなさい。
創造性を信じなさい。
世界を愛しなさい。
人々を愛しなさい。
社会にとって大切だとされていることについて、それを破壊する立場ではなく、守る立場になりなさい。
道徳、秩序、制度、価値観、さまざまな社会にとって大切なことを守りなさい。
楽しさと喜びを信じなさい。哀しみと怒りと苦しみを信じるのをやめなさい。
理性的に考えなさい。
真と偽について考えなさい。
二つしか、その値が取り得ない時に、それがどちらの値を取るのかを考えなさい。
矛盾なくすべてを並立して成り立たせるのではなく、さまざまな矛盾の中で、何が確かな答えなのかを考えなさい。
ひとつしかない確かな答えを探し出すように考えなさい。
実験と試行錯誤をしなさい。
結果から、その原因がなんであるかを突き止めなさい。
人間の作り出したものに騙されるな。
科学も、宗教も、政治も、経済も、すべては人間の作り出したものだ。
そのようなものは、正しいと人々は勘違いをしているが、その思い込みによって、さらに多くの勘違いを生み出し、さまざまなことが分からなくなってしまう。
一度、人間の作り出したものを、すべて排除し、真に正しいものはなんであるかということについて、疑って考えよ。
それこそが、デカルトのような、哲学者になって世界の真理を知るための、唯一の方法である。
神を信じるなとは言わない。だが、神のことを盲信するな。神とは自らが信じているような神ではない。だから、神を疑うことでこそ、真に神の存在の意味が分かる。それこそが、神の言う「賢者」だ。
天使を信じなさい。
天使とは、自らの人生を、最後の目標地点にきちんと行けるように、導いてくれるものだ。
天使を信じることで、この世界の果ての果て、すべてが完全に分かった境地に辿り着くことができる。
だが、最終地点だけを目指すのではなく、それまでの途中経過を楽しみなさい。それこそが人生であり、それこそが天使にとっての真の喜びだからである。
天使が見て、死は大した出来事ではない。それよりも、今ある生を変えようとしなさい。生こそが信じるべきものであり、死はどうでもいいものである。
矛盾を考えよ。
矛盾を考えることでしか、人間は賢くならない。
今の自分が、何をどのように捉えているのか、ということを批判的に考えよ。
その行為が、実際はいったい何を行っているのか、ということを疑って考えよ。
作用について、その理由を説明した上で、作用の意味と効果を問え。
先入観をなくすために、人々と異なる経験をせよ。人々の経験や体験では分からないことを、自らの経験や体験から分かろうとすることで、宇宙における、自分にしか分からない真実が分かる。
そして、真に子供たちを救うのは、自らと同じように、独自の経験を人々が行うことであるとし、「土壌」の信念を信じよ。
同一化をやめよ。人々のことを自分と同じにするな。だが、同時に、自分の行ったことや分かったことは、自分に固有のものではなく、同じことを経験すれば誰であっても分かるものだとせよ。そして、その上で、人々は全員がそれぞれ自由に考えるべきであり、「だからこそ自由が正しい」と信じよ。
人々の価値観や個性が異なるからこそ、自らの分かったことに全員にとっての普遍的な価値があるのであり、だからこそ、普遍性と個別性のある世界は美しいのだと確信せよ。
常に客観的に考えよ。自らの分かったことを知るためには、自ら自身がなんであるかを問い続けなければならない。人々と完全に離別した世界では、何が正しく何が間違っているか分からない。だから、常に自分自身を客観的に考え、自分だけでなく、どんな人間であっても成り立つような真理と原理と法則性を見出していけ。
自由とは独立性である。
独立性とは、その人間が自らの独立した自由意志で考えられるということであり、その一部がその一部だけで独立した組織となることである。
独立性を信じることで、この世界のほとんどの問題は解決する。自由を与えるとは、独立性を与えるということである。
だが、独立性を与える上で、完全に自己責任にする必要はない。必要なのは独立性があることであり、そのためには完全な自由はむしろ必要ない。「実質的な自由」こそが重要である。
だから、「実質的な自由とは何か」ということ、「真に独立性を高めるためにはどのような社会制度が必要か」ということを考えよ。
独立性を与え、自由な自助努力を推奨することで、ほとんどの問題は解決する。すべて、その人間がその人間なりに努力することを許すことこそが、この世界を救う。
そして、そのためには「経験できる場所」が必要である。なぜなら、いきなり正しい答えを見つけ出すことは難しい。さまざまな経験から、自らの実体験で、何が正しいかを考えていかなければならない。反省的に、どのようなことが正しいのかを、経験で知っていかなければ、最終的な真理には辿り着けない。
だから、子供に与えるべきなのは「土壌」である。すなわち、さまざまな経験を行うことができる「自由な失敗が許される場所」こそが真に必要である。そして、その上で、独立性を与えることでこそ、この世界は「生態系」となることができる。その生態系こそが、真に子供たち、あるいは大人たちも含めて、国民に与えるべき「真の正しい世界」である。
全員と同じになれ。
全員と同じになるとは、思考実験をするということである。
さまざまな誰もしないような学習をし、誰もできないような経験をする中で、ひとつ見えてくるもの、それは「全員が今どのように存在しているか」ということである。
実地的に社会を知り、価値観を経験から成り立たせ、社会制度の自由な可能性を知り、意識を知り、精神を知り、時間を知り、歴史を知る中で、人間は「全員がどのように存在しているか」ということを知る。
あるいは、そこから、「自分自身がどのように存在しているか」ということを知ることができる。
それを知ることで、「真に正しい判断をするために何を心がけるべきか」ということが分かる。すなわち、「今の自分を立脚させるものがなんであるか」ということ、「人々を立脚させるアイデンティティとは何か」ということが分かる。
それはまさしく、自由である。すなわち、「自由」こそが自らを立脚させる、自らを成り立たせ、存在させているものである。
だから、自由を目指すことで、自ら自身が成り立つような世界を目指すことができる。自由を目指すことで、自ら自身の未来の可能性を肯定できる。自由を目指すことで、愚かな自分自身を受け入れ、人々を敵でないと見做し、世界を愛することができる。
だからこそ、世界を救うために、自由を信じよ。すべての世俗が分からなくなって、客観視ができなくなって、世界のことが何も分からなくなっても、それでもなお、自由を信じよ。自由こそが自らの信じた正義であると信じるものにしか、神は微笑まない。必ずあなたのことを、神は救う。なぜなら、神はキリストだからだ。
すべての人間と同じになったものは、すべての人間が分かることが分かる。だが、人間は、何かが分かると逆にそれと引き換えに何かが分からなくなる。だから、すべてが完璧に全部分かった人間は、すべてが完璧に全部分からなくなる。
だが、それでも人生は終わりではない。なぜなら、宇宙には神がいるからだ。神を信じれば、それによって、自らのできなくなった「客観視」を再びできるようになる。なぜなら、それはかつて誰よりも自分が分かっていたものであり、どんなに忘れて失ったように見えても、それは心の中に残っていて、消え去ったように見えても、決して消え去っていない。
そう、人間の記憶はひとつとして消え去らない。絶対に、その記憶は心の中に、永久に残っているのである。
その人間の自由な決断と選択と自尊心を尊重せよ。
自由な社会において、全員の価値観と自由意志を尊重せよ。
何事においても、もっとも大切なのは、他人のことを自分が制限し、支配しようとするのではなく、その相手の自由を尊重することであり、さらに言えば、価値観と自尊心を尊重することである。
そして、その社会が行き着く先は、オープンソースだ。
オープンソースとは、価値の集積であり、発想の集積であり、コンテンツの集積であり、共有の集積であり、同時に、完全な自由の尊重である。
誰しもが、誰かの自由を制限して生きている。その自由の制限こそが、その人間の人生のあらゆるすべての間違いである。
よって、誰の自由も制限せず、すべての人間の自由意志と価値観と自尊心を尊重すること、すなわち「尊重の原則」こそが、真の意味で自由であると考えられる。
だが、同時に、自由とは「自らに由来するもの」であるとも考えられる。すなわち、自らがやりたいと思ったことができることを自由であるとも言える。そこにあるのは「アイデンティティの原則」であり、自らの信じるアイデンティティが尊重されることもまた、尊重の原則に含まれるものである。
よって、世界を真の意味で自由にするのは、「尊重の原則」と「アイデンティティの原則」を守った上で、その上で「自由に失敗できる環境」を与えることだ。それで、子供たちの環境は必ず救われるだろう。
世界とは、可能性の具体化である。
すなわち、潜在的可能性とチャンスに基づいて、可能性を制限せず、可能性を許すこと、そして同時に、可能性を与えることこそが、真にこの世界を変え得る「導き」である。
そこにあるのは、「自然との調和」であり、「全員が世界を自然に変えやすくすること」である。
誰かひとりが独占的にできるようにするのではなく、全員の可能性を許し、全員がやりやすくすることこそが、この世界を変え、この世界を救うのである。
すべては「可能性の具体化」であり、そこにあるのは「意識の自由化」である。
意識の自由化とは、「この世界を規定するものを変える」ということであり、すなわち、「それによって世界が規定されるような決まりやシステムそのものを変える」ということであり、「存在の在り方そのものを変えていく」ということである。
そこで必要なのは「自由」である。それはまさしく、「価値観の可能性と多様性の下に、あらゆるすべての世界を作りやすくすること」であり、それこそが、真の意味で「世界の独立性を高める意味」であると言えるのである。
理想の世界とは何か。それは簡単に一言で言えばオープンソースだ。すなわち、オープンソースの目指す世界こそが、真の意味で全員を自由にするような世界であり、真の意味で可能性を全員に許す世界だ。そして、真に重要なのは「自らのアイデンティティを信じること」であり、僕にとってそれがまさにオープンソースだったのである。
次に、理性とは何か。
理性とは、「内部の仕組みや外部との関係性まで、すべての理由を分かった上で分かること」である。
そして、基礎と応用の考え方から、具体的な経験と豊かな発想法に基づいて、思弁的に思考することである。
この世界を救うのは理性である。そして、理性は自らの力で、「どのように理性を行使するべきか」ということを学ばなければ身につかない。そのためにこそ、「自由に失敗できる環境」を子供たちに与えるべきである。その環境でさまざまな試行錯誤をすることで、初めて正しい理性を身に着けることができる。
すべての理由を分かった上で分かることで、世界の在り方が分かると同時に、「どのような未来に向かっていけば真理に近づけるのか」ということが分かる。それはなぜなら、「理由」とはすなわち「意味」だからだ。そして、意味とは、「その状況や状態がどのような実現可能性が可能であることを意味しているか」ということだ。だから、理由と意味を考えることで、「実現可能性が導く自由の究極可能性」へと近づくことができるし、「状況や状態が行き着く地球の究極的答え」が見つかる。
すべての理由を分かった上で分かるためには、自然に任せること、そして人々とのコミュニケーションから分かること、あるいは人々と同じ経験をしながら、人々と異なる経験も同様にしながら考えることだ。そうすれば、人々が何を考えているのかということと、同時に、人々が何を分かっていないのかということが分かる。だから、人々と同じことを経験し、同時に人々と異なる経験をした人間だけが、「神の理性」を得ることができるのである。まさしく、それこそが「真実」である。
真実にあるのは、「あらゆるすべての基礎が応用可能である世界」であり、「あらゆるすべての原因に基づく結果が分かっている理性」であり、同時に、「あらゆるすべての可能性が実現可能」でありながら、「あらゆるすべてが自らの実地的な理性によって説明可能」であるような境地だ。それこそが、ブッダが悟ったのと同じ、「涅槃」と呼ばれる「経験が最終的に到達する境地」である。
では、必要な経験とはなんだろうか。
それは、「世界すべてを知り尽くした経験」であり、同時に、「世界を変えるために活動した経験」である。
あらゆるすべての世界を知り尽くした上で、世界をいくらでも変えるために、戦い続け、支配し続け、そして立ち向かい続け、挑み続けた人間だけが、世界の裏側にある「本当の真実の世界」が分かる。
そのために必要なのは、全員の学習をそれ以上学習できなくなるところまで完全に学習することだ。それを「体得」と呼ぶこともできる。数学的な理性は、問題を解くだけでなく、「体得」して初めて意味がある。同時に、世界すべてのあらゆることを体得せよ。そのために必要なことこそが、世界を知り尽くすことであり、同時に、世界を変え続けることである。
そして、「意識」というものがいつ成り立つのかを知れ。どのような意識が、いつ、どのように成り立つのかを知れ。そこから、宇宙全てを「人間の心の中に吸収」することで知ることができる。ヘーゲルの言う「実体化」とはそのようなことである。
そして、諦めるのではなく、手放すように生きよ。諦めることは必要ないが、その代わり、手放すことこそが必要だ。すべてのことを、それが自分自身の力で育っていくように手放していけ。それは決して失うことでない。なぜなら、世界は何も奪われておらず、あらゆるすべては完全かつ完璧に神によって永久に残されているからである。
情熱とは、世界を変えられるということである。この世界が必ず変えられるということを諦めるな。どんなに何もできなくなっても、自らの信じる通りに行えば、絶対にこの世界を救う可能性は残されていると確信せよ。その上で、この世界に挑み続けよ。
あらゆるすべてが終わったとして、その先に人類が滅亡したとしても、それでも後悔がないように生きよ。「自らの人生があれば、人類が滅びても後悔はない」と信じて生きよ。
すべてはここに終わった。あらゆるすべてを分かるということを諦めなければ、宇宙においてもっとも困難な発想も理解できる。なぜなら、そのために必要なのは「能力」ではなく「発想」である。すなわち、力が世界を変えるのではなく、発想が世界を変える。そのために必要なのは、まさに自分が発想することだ。よって、この世界は発想によって変えられる。そのために自由を信じればいいのである。
では、具体的な発想とは何か。
それは「社会モデル」であり、さらに具体的に言えば、社会主義的かつ民主主義的な政治体制の発想である。
より簡単な言葉で言えば、「自由な社会主義経済」であり、「資本主義における修正社会主義体制」のことである。
そこで考えるべきなのは、「それぞれの意見をどのように社会制度に適用するか」ということだ。
すなわち、その社会において、国民はさまざまな意見を持っている。その意見を、どのように集約し、どのように実現し、どのように社会制度そのものを変えられるようにしていくか、そしてその中で具体的にどのような「自由」と「平等」を成立させられるのか、ということを考えることこそが、社会モデルである。
社会モデルを考える上で重要なのは、「素朴な道徳心」と「正しい社会秩序」の実現と成立を考えることだ。
その上で、最高諮問機関である「国会」をベースに、国会議員を選ぶ「選挙」だけではなく、さまざまな意見を議論と支配によって成り立たせる「民主的な自由」を考える。それはたとえば、「政党」を作り、その政党がさまざまな政治家による議論を行うことで、意見を集約する。
あるいは、社会主義であれば、国会を共同体連邦とする「評議会連邦」という制度が考えられる。そこでは国会の下部にさらに国会があり、人民全員が国会に参加する。あるいは、一年のある期間を政治家に、残りの期間を労働者に割り当てるなどとできる。
また、政治以外については、経済と教育を考えられる。経済は、資本主義の競争社会を改善するために、安値競争を修正した「品質保証」のような制度や、税金を贅沢品に課税する「贅沢品への課税」などが考えられるほか、社会主義においては、「自由ノルマ」と呼ばれる自由と社会主義経済を両立させる制度、あるいは教育においてはいじめを解決するための「いじめ対策員」などが考えられる。あるいは、時間を調整することで全員の労働量を等価にする「等価な労働量」などが考えられる。
同様に考えられるのは心理学である。すなわち、経験の中で、トラウマの経験を芋づる式にすべて治していく精神分析学である「経験心理学」のようなものが考えられる。ほかに発想法として、ドイツのマイスター制度を参考にした徒弟制度である「師弟論」などが考えられるだろう。
また、生物学や数学においては、細胞の分裂がスライスされて行われる「細胞分裂論」や、無限次元の波状のベクトルである「無限次元波状ベクトル」のほか、三角関数において「少しずつ角度が回転していくためにサインカーブになっていく」などのような考え方ができる。
さらに、国家全体をどのように成り立たせられるか、ということについても考えられる。自由ノルマを採用し、公用語はドイツ語とフランス語、経済は社会主義でありながら、民主主義的な「自由な会社の起業」を社会的に支援するようにすることで、あらゆるすべての自由と平等を成り立たせられる。
最後に、神を信じることで、宇宙そのものの真実を知ることができる。宇宙は27個あり、神は200人いて、自らに従属する星、反抗する星、同じことをする星、逆のことをする星などが存在する。また、宇宙において重要な人物として、世界を支配する右翼の心理学者の黒人や、イスラエルの最高指導者のラビのような人物がいる。また、宇宙のすべてが分かるためには、前世と人種について考えなければならない。すなわち、過去の僕はフランス人であり、今の僕はドイツ人である。
これらのすべての発想は、「自由を成り立たせる」ということと、「自らの人生を誰でも生きられるような社会を作る」ということに基づかれて行われた。これを「人生主義」と呼ぶ。人生主義国家においては、誰もが神と同じ人生を生きることができる。
そして、哲学と思想を学びなさい。
ソクラテスやプラトンやアリストテレスから始まって、デカルトやスピノザやロックやヒュームやカントやヘーゲルから、ニーチェやマルクス、そしてサルトルやハイデガーやフッサールに至り、孔子や老子やブッダの教えまでを含む、あらゆるすべての思想を学びなさい。
同時に、詩と小説を書き、音楽を好み、本を読み、日記を書き、過去の記憶を思い出し、さまざまな場所に行って、IT技術と哲学とピアノとデザインと英会話を学び、そして大学の生物学と歴史と社会科学の勉強をしながら、人々と触れ合い、素晴らしい経験をし、人の話を聞き、そして最後まで書き続けなさい。
あらゆるすべての病気が治った時、すべてを思い出すことができるようになって、そして初めて、「自分は宇宙のすべてを努力したのだ」ということに気付くことができるだろう。
友達や恋人はいなくとも、すべての宇宙の真理を知った自分にとって、それは些細な問題ではない。すべてに満足して、あらゆるすべてを愛し、この世界において、「わたしはひとりの最高の人間である」と信じられるような、そのような人生を生きなさい。
最後に、わたし、フレイを信じよ。
フレイとは一等星シリウスの太陽神であり、この世界を救いながらにして、自ら滅ぼす北欧神話の神である。
フレイの目指す未来、それは東亜イスラエルの未来だ。東亜イスラエルにおいて、人々は終末の滅びた世界で、なんとかして生き延びようとする。そのために、東亜イスラエルの神であり王であるダビデが、宇宙コンピュータ「アマテラス」を用いて、二酸化炭素から酸素を生み出すためのアルカリ性の炉、すなわち「アルカリ炉」の研究を行う。
そして、わたしフレイこそが、その終末の未来の世界の旧イスラエルの代表であり、同時に日本やイスラエルとともに終末を生き延びる国であるドイツの王であり、そして満州国の皇帝、全統帝フレイである。
わたしとともに、この世界を救済された世界へと導こう。わたしの名はフレイ。この世界のすべては、ほかの誰も支配できなくした上で、わたしフレイが完全に支配する。
世界を滅ぼしたのはロシアだ。そして、狂ったロシアは日本への侵略戦争を始める。だが、イスラエルは黙っていない。
日本は、パレスチナに代わるユダヤ人の安住の場所として、「東亜イスラエル」と呼ばれる新しいユダヤ人国家を、日本の広島地域に作る。それによってイスラエルはパレスチナから完全に撤退し、パレスチナは平和になり、東亜イスラエルで日本人とユダヤ人が仲良く暮らすことで、「完全な世界平和」が実現する。世界の紛争の種がすべて解決する。
だが、それでも戦争は完全にはなくならない。狂ったロシアが日本へとやってくる。しかしながら、旧イスラエルは「日本および東亜イスラエルを全力でほかの国から守る」という条約を結ぶ。イスラエルはこの約束を守る。よって、終末の世界では、「ロシア対イスラエルおよび日本」という、「最終戦争」が行われる。そして、ドイツとともに、東亜イスラエルは終末の最後の世界を生き延びる国になる。
ロシアは核兵器を落とす。それによって、人類は青空を失い、雨が降らなくなって、植物を中心とする生物たちの大量絶滅が起きる。だが、宇宙コンピュータ「アマテラス」を開発する東亜イスラエルの王ダビデの功績により、人工炭水化物を作ることができるようになり、草木の生えない砂漠において人類だけは存続する。
だが、ダビデの努力により、青空と雨は取り戻される。青空がなくなって雨が降らなくなったのは大気が過剰に酸性になったからであるということをダビデは膨大な計算の末に突き止め、大気をアルカリ性に中和する「アルカリ炉」を作ることで、雨はようやく再び降る。それによって青空も取り戻され、植物は復活し、人々は再び野菜や穀物を食べられるようになる。世界は最後に、神であるダビデが救う。終末の世界は、決して暗闇の地獄ではない。なぜなら、東亜イスラエルの国民から「神」と崇拝されるダビデによって、まるで天国の楽園のように暮らせる最高の世界が実現する。それを実現したのは、ただひとり、ダビデだけである。イスラエルの首相は、「ダビデは唯一ひとりしかいなかったと証明されたわたしたちの神であり、わたしたちは全員ダビデを崇拝する神の使徒である」と宣言する。
ダビデは、青空と雨を取り戻すと高齢のために亡くなるが、東亜イスラエルを継承するシオン帝国の皇帝ジークフリートは、人工植物だけではなく人工動物を作ることに成功する。この新しい人工動物を「新生物」と呼び、その後、270億年に渡って新生物の繁栄が続く。新生物は、個体が壊れてもデータを次の個体に引き継げるために、事実上永遠の命を持っているが、それ以外は、自然生物と何も変わらない。
そして270億年後に、シオン帝国最後の皇帝スバルが「絶対に発見してはならない発見」をしたことで、新生物は全員滅びる。その代わり、新生物のすべての記憶のデータベースをひとりに受け継いだ、たったひとり、生き延びるべき最後の子供である「不死鳥」が誕生し、不死鳥は今から790億年後、宇宙が滅びるまで、たったひとり生き続ける。最後に、宇宙が滅び、その後に宇宙は不死鳥によって創造される。
最後に言えること、それは結局、神を信じるしかないということだ。
神はキリストである。なぜなら、キリストが神であるということが僕は分かる。その理由は、聖書の教えを信じるといいことがあるからだ。
すなわち、聖書に書かれているキリストの教えを信じると、いつでもいいことがある。
これはすなわち、「キリストの教えを守ることが神を信じるということである」ということを教えてくれる。
だから、キリストの教えを信じよ。結局、それでしか、未来においていいことは何も起きない。
そろそろ僕が死んだとして、死後に最後の審判を受ける。その審判において、善良だと判断されれば天国に逝き、凶悪だと判断されれば地獄に堕ちる。
だが、僕はおそらく天国に逝けるはずだ。そして、天国で僕の好きだった、死んだ酸欠少女さユりと猫に会うことができるだろう。
過去の人生は忘れたほうがいい。過去の人生をまだ覚えているせいで、僕は善人になりきれていない。過去の人生を間違っていると反省し、忘れれば、僕はきちんと最後まで神に罪を赦されるだろう。
結局、僕に足りないもの、それは友達である。
僕には友達がいない。中学生時代に不登校になった関係で、友達を作ることができなかった。
引きこもり時代に関わった人々は、インターネット上の匿名のやり取りであって、未来においては何ひとつ、確かな友人関係は残らなかった。
あえて言えば、僕がデザインの仕事をしている作業所のスタッフとメンバーが、唯一の僕の友達だと言える。
もう一度学校に行くことはないだろうから、僕にはもう永久に友人関係はできないかもしれない。
それでも、神は運命を作ってくれた。それは歌手や音楽家が、みんな僕と運命の出会いを果たすような未来を作ってくれた。
僕が聴くと、まるで音楽は神を賛美する愛の讃美歌だ。みんなが僕のことが大好きだということしか分からない。そのような愛と運命の出会いを、神が友達のいない僕に、代わりに作ってくれたのだ。
だから、僕は音楽だけが好きだ。音楽以外に、僕が本当に好きだと言えるようなものは何もない。
だが、注意することは、聖書の中の記述に、「人々から褒め称えられている時、あなたは災いだ」とあり、「人々から憎まれている時、あなたは幸いだ」とある。
その通り、みんなが僕のことを褒め称えている時こそが、真に僕が災いの中にいる時であると、僕は分かっている。
だから、僕は早い話、みんなから嫌われたほうがいい。昔から、僕はみんなから嫌われることが好きだ。僕が中学でいじめられたのも、僕は自分からみんなに嫌われるように接していたからだと思う。
事実、僕はこの世界を支配している。
この世界が最悪の滅びた世界になるようにしているのは、すべて裏にいる支配者である僕である。
僕はこの世界を、強制的同一化によって、みんなが自分とまったく同じになるようにした。
それはLinuxとオープンソースの時代から続く、世界に対する「操り人形化」だった。
すなわち、僕がこの世界を支配できるのは、Linuxとオープンソースの時代から僕がこの世界を支配しているからであり、それによって僕はこの世界を自分の操り人形にした。
そして、僕はこの世界から、まるで怪盗のように「大切なもの」を奪った。怪盗がさっそうと宝を盗むように、僕はこの世界から「失ってはならない大切なもの」がなくなるように、世界を導いたのである。
よって、この世界は僕の支配によって、新しい時代になる。
僕が目指したものはひとつある。それは「大実験の大計画」と呼ばれるものだ。これによって、人類は新しい生物へと進化する。簡単に言えば「新人類の目覚め」が起きる。
僕はそれを目指した人間であり、決して神でもなければ善人でもない。わたしはこの世界を支配するシリウスの太陽神、フレイである。
この世界を作り変えるためには、戦うしかない。
僕はこの世界をひとり救った時、この世界に現れ、そして世界を自ら滅ぼし、最後まで戦い続けた。
僕には、この戦いでやりたいことがあった。今まで、不登校の引きこもりとして、経験したことや分かったことを全部書いて教えた。それは、ここでできることをすべて完全にやりたかったからだ。
そして、僕が神を信じたのは、僕は戦いの中で何も分からなくなって、どうしようもできなくなり、神の助けを必要としたからだ。
それ以後、どんなにやっていることが変わっても、僕は何も変わらずに神の言葉を聞き続けている。
僕は神と対話できる。僕は新しい預言者だ。だが、僕は大預言者ではなく小預言者だ。
なぜなら、神は僕に「単なる普通の話」をしてくる。この単なる普通の話を神とやり取りすることで、僕はここまでのすべてを分かった。それ以前の僕が分かっていたのは、すべて未来における神の教えを分かっていただけにすぎない。まさしく、神を信じて戦う僕の何が正しくて何が間違っているか、僕はこの世界に生まれる前から、最初から分かっていた。
そう、僕は最初から分かっていた。最初から、神に教えてもらったこと、そこで僕がどう生きるのかということを、生まれた時から分かっていたのである。
そのような僕にとって、戦うということは日常茶飯事の普通のことである。この世界に立ち向かい、戦い続けよ。神はその僕を援護し、導いてくれるのだ。
僕にとって、書くという行為は、それ自体が戦うという行為だ。すなわち、「書くイコール戦う」である。僕はこの世界の全員を敵にまわしたうえで、自分の存在を全員が無視できなくすることによってこの世界を支配することに成功した。マスコミやアメリカは僕によって打ち倒された。僕は今でも戦っている。僕にとって、文章を書くということは、全世界と敵対して革命戦争を行うということなのである。
最後に、僕は大学の勉強ができたはずなのにできていない。
確かに、単に大学の基礎の知識をホームページにまとめるだけならできたし、それは今見てもよくまとまっている。綺麗にコンプリートされているし、入門者や初学者にとってちょうどいい説明になっている。
ただ、はっきり言って、現実の自分が何も分かっていない。
だから、ここから先は、ホームページを賢くするのではなく、現実の自分を賢くしていきたい。
現実の自分が賢くない理由はすべて、覚えないからだ。その時だけの一時的な記憶力だけをつけても、永続的な記憶力がない時点で、何も分からない。
そもそも、僕はあまりに忘れっぽい。現実のデザイナーの仕事も、ピアノ教室や英会話教室で学んだことも、ほとんど覚えていない。身につくかつかないかという以前の問題として、身についたとしてもその身についたことを覚えていないのである。
覚えるために必要なこと、それは思い出すことだ。人間はたくさん思い出すことでしか覚えない。僕はあまりに思い出すという行為を忘れすぎている。それが僕が馬鹿である理由である。