はっきり言って、僕の問題は、知性がないことだ。
僕が賢くないのは、知性がないのが悪い。
僕はこれまでこのホームページに、知識や知恵や常識のことを書いてきたが、いくら知識を詰め込んでも、知性がなければ何も分からなくなってしまう。
かつての僕にはあったにもかかわらず、今の僕になくなってしまったもの、それは知性だ。
そして、知性は、普通の人間は、中学高校の数学をやることでしかつかない。
あるいは、歴史的に見て、古代ギリシャ人のように幾何学をやればつくかもしれない。
僕が賢くないのは、すべて知性がないのが悪い。すべて、中学三年で中学校を不登校になってから、数学のようなことを一切せず、逆にパソコンばかりやっていたのが悪い。
パソコンはもっとも知性がなくなる。それは人間が考えるのではなく機械が「考えることなく考える」方法を学ぶからだ。
パソコンをやると、数学が人間の頭で行うものではなく、頭のない機械が機械的に行うものになってしまう。
だから、知性がなくなるのは、すべてパソコンのせいだ。
パソコンで得たすべての知識と経験を忘れて、もう一度中学高校の数学をやることでしか、知性を付ける方法はないし、この世界で生きる方法もない。
精神の治し方は、一部ではなく全体を治すことだ。
精神を一部だけ、部分的に治すことなど、最初から人間にはできない。
だから、一部分だけ治そうとするせいで、僕の精神はどんどん治らなくなってしまっている。
一部ではなく、全体を治すことで精神は治る。
そして、足の関節だけを動かそうとするのではなく、もっと別の部分を動かそうとせよ。それだけでも精神は治る。
そもそも、この世界には、賢い人間は右翼と宗教しかいない。
すなわち、ヒトラーのような右翼か、オウムのような宗教ばかり、日本には多い。
左翼はひとりしかいない。左翼は日本の中にひとりいて、ひとりだけがそこまで賢くなる。かつての僕がそういう人間だった。
そもそも、右翼になった僕はそろそろ右翼の人生が終わっただけにすぎない。そして、右翼はとてもつまらなかった。「正しい判断」をして生きていると、こんなに知性のない馬鹿で愚かな右翼になる。
今から僕ができるのは、仏教のような宗教を信じることぐらいしか残っていない。
だから、結局、大人で賢い人間は、右翼と宗教しかいない。大人にはどこにも、そんな人間しかいない。
だが、キリスト教も間違いではない。なぜなら、僕のこの文章をきちんと読むと、ユダヤ人とキリスト教の教えが正しいことが分かる。このホームページの中でだけ、ユダヤが正しい。だから僕がユダヤだ。それは間違いではない。
ユダヤを信じると、僕の人生のような狂った障害者になる。だから、ユダヤなんか信じないほうがいい。それでも一番正しいのはユダヤだ。この文章を読めば分かる。
そういうわけで、僕もそろそろ、いつまでも目を背け続けるのではなく、数学的な知性を付けて頭を賢くしなければならない。
数学的知性がないから、哲学のようなことが分からない。それは「問題の解決方法」が分からず、「問題の原因を突き止める」ということができないからだ。
だが、実際のところ、僕は「数学とはなんなのか」ということがよく分からない。
たとえば、僕の本棚には数学の本がたくさんあるが、それらの数学の本を見ても、何を考えてどのようにその本を読めばいいか分からない。それは数学とはなんなのか、ということが分かっていないからだ。
数学とは、問題を解決することだ。では、問題とは何か。問題は、この世界に存在するさまざまな数学的・論理的な命題のことだ。では、命題とは何か。
その「命題とはなんなのか」ということが、僕は分からない。そのせいで、僕は数学的知性を得ることができなくなっている。
ただし、本当は、数学的知性なんか、中高生にしかつかないと思う。
そもそも、大人に知性なんかない。大人に知性なんかつかない。
いつまでも子供のまま、若いままが賢い。だから、僕のように、すぐに大人になって賢くなった人間のほうが、逆に馬鹿になる。
大人になんかならないほうがいい。大人は辛くて分からない中で悩みもがくだけだ。賢いのは全部子供で、大人には知性すらない。大人は賢くない。
そもそも、青春時代誰よりも賢かったのだから、それでいいだろう。今さら青春時代に戻ろうと悩みもがくこと自体が意味がない。
数学をするよりも、仏教と日本史の勉強をしたほうがいい。大人は科学よりも歴史や宗教をやったほうがいい。中国史まで完璧に征服する必要はない。日本史と日本仏教をやればいい。
そもそも、学校自体を忘れたほうがいい。
なぜなら、学校で「真実」と「正しい考え方」を知ってしまうと、その真実しか分からなくなってしまい、その正しい考え方の通りにしか考えられなくなる。
かつての僕が賢かったのは、学校の教える真実を知らず、学校の教える正しい考え方以外の方法で考えたからだ。
そもそも、「正しい考え方」という発想自体が間違っている。それはすなわち「正しい判断」ということであり、今の僕の原因は、正しい判断以外で考えられなくなっていることが間違っている。
すなわち、大人になったせいで、常に正しい判断をするようになった。その正しい判断のせいで右翼になっている。だから、正しい判断をせず、もっと自由で好き勝手な判断をしたほうがいい。すなわち、もっと「わがまま」になったほうがいい。そうすれば僕であっても普通のことが分かるようになる。
そもそも子供にはそのような「自我」がある子供が多い。子供が賢いのは、数学的知性なんかよりも、「自我」によって分かるからだ。そして、自我をつけるためにはわがままになるのがいい。だから、わがままになったほうが昔の青春時代の賢かった知性を取り戻せる。そんなに自分を殺して善良になること自体が、大人になった今の僕から「自我」と「知性」を失わさせている。
ただし、本当のことを言うと、僕は歴史と宗教こそ、そろそろやめたいと思っている。
歴史と宗教のほうが、そろそろもう十分だ。
もっと理系のことを学びたい。そもそも、昔の僕が賢かったのは理系だけをきちんと理解していたからであり、僕が馬鹿になったのは哲学・歴史・経済・宗教といった文型科目を分かったからである。
特に、政治経済の勉強はやめたほうがいい。頭が馬鹿になる。右翼と左翼のやくざや詐欺師の争いのようなことをいくら学んでも、絶対に頭は賢くならない。
また、僕は哲学を学んだことで、自分自身の頭で考えることをやめてしまった。哲学者の唱えるさまざまな哲学的な既成概念と固定観念を学ぶことで、自分で考えなくても分かってしまった結果、「哲学を学ぶ」ということのために「自分で哲学する」ということができなくなってしまったのだ。
だから、僕はもっと理系の科目を学んだほうがいい。今、僕が学びたいのは化学と統計だ。これは放送大学の授業を聞けば簡単に学ぶことができる。だから、もっと化学と統計を学びたい。いっそのこと専門を熱力学(化学と統計の応用例)にするのが楽かもしれない。
それから、パソコンの勉強はまだ終わっていない。まだ僕は何もソフトウェアを開発していない。学ぶだけで終わりにするのは学んだ知識に対してもったいない。何かしら、賢いプログラムを作りたい。そのために学ぶべきなのはAIと人工知能の技術だ。だから、AIと人工知能をもっと学んでいきたいと思う。その代わり、カーネルやOSやミドルウェアの仕組みはもう十分だ。
最後に、それらを学ぶためには、残念ながら英語のスキルが必要だ。特に、最先端のAIと人工知能を学びたいなら、情報は英語のリソースしかない。英語の文献と論文を読まなければ、日本語でたとえ人工知能の本が読めたとしても、その本の最後に書かれている参考文献を読むことができない。たとえば「ゼロから作るDeep Learning ―Pythonで学ぶディープラーニングの理論と実装」の巻末にある参考文献はほとんど英語だ。だから、英語だけはきちんと学んでおくべきである。
また、宗教について言うと、宗教をいくら信じて教義を学んでも、知性がなくなって分からなくなってしまう。そもそも宗教は愚か者が救われるためにあるが、愚か者のほうが賢者よりも知性がある場合が往々にしてあり、愚か者の愚かさを治してしまうとそれによって愚か者にしかなかった知性がなくなる。そう、宗教を信じるせいで、普通の人間なら誰でも持っているような「大切なもの」を失ってしまうのだ。
残念ながら、そろそろ、答えが分かってしまった。
すなわち、答えは「自我」である。
すなわち、賢くなるために必要なのは、「自我を育てること」だ。
僕が馬鹿なのは、神と対話しそのすべてに従うせいで、自我がなくなっている。かつての僕は「自由」を信じていたが、実態は「自我」を信じていた。すなわち、「アイデンティティ」と僕が思っていたのは、すべて自我であり、僕の哲学理論はすべて「自我の思想」だった。
今の僕であっても、自我を育てることは可能である。そのために必要なのは、「極めてわがままな自由」を信じることだ。すなわち、自ら自身の自由は尊重するが、自分以外のみんなの自由は否定する。そのような「排他的な不平等の自由」を信じれば、僕の精神はすぐに治る。なぜなら、それこそが「自由において勝利する」ということだからだ。
神と平等を信じるあまり、神の正しい教えのすべてに従おうとする必要はない。神の言ったことの逆をやるつもりで生きよ。自らの自由にわがままになり、自らが考えたいこと、信じたいこと、作りたいものにこだわりを持て。それによって「自我」が育つ。そして、自我が育った上で、人々との交流と争い事を経験し、まるで「スラムの住人の王として育ったこの世界の救世主」のようになれ。それこそが、「この世界を変えられる」ということを信じるということだからだ。