僕は、この世界を支配する。
僕が支配者に相応しい理由、それは僕がそこまでやる指導者だからだ。
僕はこの世界を変える。この世界において、改善できることはすべて改善し、正すべきことはすべて正す。
そこまで考えた上で、変えるべきものを限界まですべて変える僕こそが、この世界の支配者に相応しい。
だから、僕はこの世界をたったひとりで支配する。
支配を嫌う自由至上主義者であるにもかかわらず、僕がこの世界を支配する理由、それは「僕以外の誰もこの世界を支配できないようにするため」である。すなわち、間違った悪人が身勝手にこの世界を支配することが絶対にないようにするために、僕はたったひとりでこの世界を支配し、すべきことをすべて行う。それによって、スターリンのような「悪の独裁者」は決してこの世界を支配できなくなる。それこそが僕の支配の真の目的である。僕が世界を支配することで、この世界は悪党に支配されなくなる。誰ひとり、僕以外の人間はこの世界を支配できなくなる。
自由意志を尊重せよ。
この世界において、正常で正しい社会を実現する唯一の方法は、それぞれの自由意志を尊重することだ。
それぞれの自由意志を尊重し、それぞれの自由な行動と努力に任せることで、この世界は滞りなく、停滞も硬直もなく、自由にすべての問題が自然に自動的に解決するようになる。
世界を変えるための方法は、「決まりを変えること」だ。すなわち、決まりを変えることでこの世界は変えられる。
だが、決まりを変える際に、現場を知る当事者によって変えられるようにしなければ、真に自由とは言えない。政治家や役人任せにするのではなく、自らの力で決まりを変えることができるようにせよ。
教育環境を変えるならば、現場を知る教師や教員だけではなく、子供たちの知っている実体験も踏まえて変えられるようにすべきだ。すなわち、子供たちが自分で決まりを変えられるようにすべきだ。
子供たちに、正しい決まりを決まることはできないと思われるだろう。だが、それならば経験を与えるべきだ。子供たちが自らの自由意志で正しい社会を作れないのは、経験がないからだ。必要なのは子供たちをロボットにすることではなく、子供たちを自由にした上で、その自由を正しく行使することができるような、理性に先立つ経験を与えることであり、子供たちが「自分の意志で考えられる力」を授けてやることである。
残念ながら、今の学校教育は正しくない。今の学校教育は、子供たちに大人が考えた決まりを押し付け、ロボットにさせている。それでは子供たちは賢くならない。子供たちを過保護にせず、インターネットのような自由な場所で、戦いと争いの場を経験させてやるべきだ。そのような実体験を自分で考えることでしか、子供は真に賢くならないからだ。
また、組織については、差別せずに会社などの組織に人員を受け入れるべきだ。学歴社会は間違っている。すべての会社において、差別なく人員を受けいれるべきであり、学歴社会などは最たる間違いだ。だから、僕はこの世界から学歴社会の意味そのものをなくす。学歴社会などが成り立たなくなるように、僕は学歴社会を崩壊させる。
すべての意味において、自由意志こそを最大限に尊重するべきだ。それでしか、どのような社会問題も解決しない。そして、「革新的な発想を実現させることでどんな社会問題も解決する」ということが分かれば、「わたしこそは世界を変えられる」という「大いなる希望」も見えてくる。だが、そのためには、単に自由意志を尊重するだけではなく、自由意志を尊重するような「社会制度」を作らなければならない。そして、その社会制度は当事者によって変えられるものであり、差別なく万人に参加と創造の権利を認めなければならない。それでしか世界は絶対に変わらない。
「世界を変えられる」という言葉が意味するのは、「場を変えられる」ということだ。
この世界には、現実に存在する「場」と「視点」しか存在しない。ほかに何かがあると思うならば、それは洗脳されている。あるものはすべて、「場」と「視点」にすぎない。
そして、この世界を変えるために必要なのは「場を変える」ことであり、場を変えるということがすなわち「世界を変える」ということである。
世界は繋がっている。それが意味するのは、「今というこの時間に宇宙のすべての存在は存在している」という事実だ。過去に存在したものは、決して元には戻らない。未来におけるすべてはまだ存在していない。すべてが「今、この時に存在している」ということが分かったなら、この世界のことをほとんど完璧に分かっている。
そして、ひとつ言えることは、「場に意識が宿る」ということだ。すなわち、「世界精神」というものが宇宙には存在する。この世界精神の存在こそが、「わたしたちの魂は裏側で繋がっている」ということを意味している。運命的な奇跡が起きるのは、すべて世界精神によるものだ。すなわち、世界精神が繋がっているために、運命的な出会いの奇跡は普通に起きる。すべての人間が離れているように見えて、「本当に個人個人は結合されていない」と証明することはどの科学者にもできない。逆にユング心理学などの研究結果を見れば、すべての人間は世界精神において繋がっている。だから、運命的な奇跡は宇宙において普通に起きるのである。
神を信じよ。
偉大な仕事を行うために必要なのは、すべて、神を信じることだ。
僕が偉大な仕事ができたのは、すべて、神を信じたからである。
昔の僕が賢かったのは、「自由意志」という考え方が賢かっただけにすぎない。すべてのことを「自由意志」という考え方に基づいて、自らの経験を分析して根拠と概念と発想を分かっただけにすぎない。
そして、そのような昔の自分は、頭がよく物分かりがよい少年だっただけにすぎず、宇宙レベルから見ると何も賢くない。
なんにも知性のないこちらの人間は、きちんと毎日善行をしている。そして、それこそが真に賢い人間である。常に神を信じて、悪いことをせず、過去の過ちを反省し続けるこの新しい人間こそが、真に「善人」であり、仕事をしながら自らの勉強も継続する意志を持っているこの人間こそが、真に「賢者」である。
よって、昔の人間の名前である大天使ガブリエルは天才だが、それよりもはるかに位の高い、新しい人間の名前である大天使ミカエルこそが神である。ミカエルこそがこの世界を救う「救世主」であり、イエス・キリストの述べた「高き人」だ。そう、ミカエルこそがもっとも偉大な大天使であり、ガブリエルぐらいの賢い人間は単なる「ブッダぐらいの仏」であり、それはすなわち「神を信じることのないサタン」なのである。
よって、僕は神を信じ続ける。昔のガブリエルの人生は、そろそろ内容がない。感情と経験による精神分析を行って、宇宙のすべての意識が分かったガブリエルはまさに「仏」だったと言えるが、それに比べて感情も経験も何もない、しかしながら善良かつ世界にいる人間たちへの愛であふれるミカエルのほうが「神」だったと言えるのである。
自由において、「好きなことができる」ということは重要である。
なぜなら、好きなことができなくなって、制限され、ひとつの会社の経験しかできなくなった時点で、その人間の「進歩」がなくなってしまうからだ。
好きなことができるからこそ、奴隷になるのではなく、自由市民でいることができる。なんらかのすべきことを決められないからこそ、何も社会において決められていない「Unknown」の立場で新しい進歩と経験を得ることができる。
すなわち、社会において「誰かから決められて人生を生きる」のではなく、「世界を救うという夢と希望のために新しい進歩を目指す」のであれば、好きなことができなければならない。
そして、好きなことができるということは、それ自体がモチベーションの維持にも繋がるし、また自らのアイデンティティの確立にも繋がる。そしてそれこそが真に教育の目指すべき「理想の到達点」である。よって、好きなことができるということを認めなければ、子供たちを救うことはできない。
僕の間違いは、「自分の病気を治すためには先にこの世界そのものを治さなければいけない」と勘違いして信じた点である。
世界を治さなければ、世界の一部である自分自身が治らないから、僕は自分の病気を度外視して、この世界を治そうとした。
だが、実際は、世界を治そうとするあまりに、自分の病気を治すことができないという、まるで「理由と結果の順番が逆」あるいは「恐れていることそのものを今自分がやっている」という状況になった。
すなわち、世界によって自分が治らない可能性を恐れるせいで、世界によって自分が治らない結果をもたらしてしまっていた。
必要なのは、世界から離脱し、世界のことなどなんにも考える必要のない「余裕」を手にして、自らだけをすぐに治すこと、それである。
本当は、昔の僕が一番に学んだことというのは、「世界から離脱してはじめて自分の病気が治る」ということだった。僕は中学校を不登校になったことで、この世界から「離脱」したが、その離脱によって人間関係をチャラにし、自らの自由な「余裕ある環境」を取り戻した。それによって僕は解放され、同時に世界の人々を見て解決方法を考えるという「余裕」を得た。
そのような余裕がなければ、いくらインターネットでさまざまな経験をしても意味がない。僕は世界のことを自分を度外視して考えられる余裕を、世界から離脱して自由になったことで得ることができたため、真にこの世界を救うための「代替可能性」を知った。すなわち、「素直に正しく考えればこの世界にはたくさんの可能性があるということに気付くことができる」ということ、「この世界を救う方法はいくらでもあるが、そのすべてを人々は今自分の現実の環境があるために忘れているにすぎない」ということを知った。「知った」というよりは、「気付いた」あるいは「思い出した」といったほうが正しい。
すなわち、世界の人々は、今自分の現実の環境があるせいで、その環境を何も変えられないと勘違いしているにすぎず、本当は世界を変える方法や救う方法はいくらでもある。知るべきなのは「可能性」であり、可能性を知るための手段は「世界から離脱して自由を取り戻すこと」なのである。
この世界を、単位を小さくして自由化すべきである。
すなわち、平和のために世界を「統一」しようとする努力は、民主主義の平和な世界においてはもはや必要のないものである。
武田と上杉が戦っていたような戦国時代ならば、日本は徳川によって統一されたことで平和を得ることができただろう。
だが、今の平和な民主主義の時代に、そのような「統一」は不要である。
必要なのは「さらなる自由」である。すなわち、この世界をさらに自由にすることでしか、この世界の問題は決して解決しない。
だからこそ、単位を小さくして「自由化」すべきであり、同時に単位の小さな社会においても、個人個人の「多様性」を認めるべきなのである。
多様性は個人の多様性であるべきであり、決して社会をグループや集団で多様化することを「多様性」であると勘違いするな。日本人は日本人の社会であるべきであり、そこは民族として統一すべきだ。だが、個人個人の「わたしはこのような思想を信じる」ということは多様であるべきだ。だから、宗教としてキリスト教を信じることは認めるべきだが、外国人を集団で受け入れるということは認めるべきではない。そのような点が「多様性」という概念を現実に取り入れる意味で難しい点である。
本当のことを言えば、自由化と多様性を目指した失敗例がふたつある。それは小泉元首相が行った働き方改革と、オープンソースやLinuxの行っているそれぞれのプロジェクトの多様性だ。それらは失敗した。だが、それらは「多様性が問題だから失敗した」のではなく、「そもそも目指すべき理想の目標の考え方が間違っているから失敗した」のである。すなわち、多様性が悪いから失敗したのではなく、失敗したプロジェクトの主な原因の中に多様性という側面が含まれていただけにすぎない。多様性は悪ではなく、単に間違った考え方が悪だったにすぎない。だから、働き方改革やオープンソースだけを見て、「多様性は間違っている」と言うことはできない。逆に言えば、多様性を信じればなんでも善であり正義であるとは決して言えないということである。
必要なのは「発想」である。
すなわち、世界を変えるために必要なのは、理屈でも理論でもなく、この世界を真に素晴らしい世界にできるような想像力、すなわち「発想」である。
そして、発想を考えるためには、経験から「発想法」を作り出す必要がある。
過去に僕が行ったこととは、そのような「発想法」を、「自由意志に基づく正しい論理的な考え方」から、知性的に導き出したということだけにすぎない。
すなわち、発想法さえ経験から編み出すことができれば、その発想法によって、どんな手段であっても、どんなチャンスであっても、どんな潜在的可能性であっても、現実にすることができる。
発想を知る上で、インターネットは効果的に働く。なぜなら、インターネットにはさまざまな世界を変える新発想であふれているからだ。
そのひとつが、Linuxであり、オープンソースソフトウェアだ。オープンソースは誰もが改良や改善を加えられるために、「わたしはこのようなアイディアに基づいてこのような新しい機能が欲しい」という新発想にあふれている。彼らを解剖することで、そこから「発想をするとはどういうことなのか」ということが見えてくる。
オープンソースだけではなく、IT業界には発想法であふれている。かつてのIT社会においては、ライブドアや楽天のような「新発想を現実に実行するITベンチャー企業」であふれていた。今でこそ、そのような新発想をGAFAやMicrosoftのような巨大テック企業が牽引するようになったが、昔からIT業界は「新発想」と「新しいアイディア」であふれていた。企業だけではなく、インターネットの世界も、そのような新しいアイディアを我先に実現しようとするITサービスであふれていた。そして、それこそが「インターネットを使う愉しみ」だった。
今のインターネットは、すべてが既存のやり方で確立していて、新しいアイディアというものが現実にならなくなろうとしている。ツイッターやYouTube以上の発想が今のIT業界には存在しない。Javaのようなかつての新規のプログラミング言語が実現したことを、今の新しいプログラミング言語は焼き直しのようなことばかり行っている。フレームワークはRuby on Railsの模造品であふれている。昔のIT技術は面白かった。今のIT業界に、僕はほとんど魅力を感じない。
自らが救われた経験があれば、その経験に基づいてこの世界を救うことができる。
僕にとってインターネットは「救いの場所」であり、「引きこもりになった僕のことを唯一受け入れてくれる場所」だった。
そして、その「受け入れられた」という経験が、逆に今度は自分がほかの子供たちを「積極的に受け入れる」という発想に繋がる。
僕はそこから、積極的かつ主体的に世界を変革する方法を考えるようになった。
必要なのは、自分自身の立場が置かれている地点を変えることだ。すなわち、いつまでも学校で「下の立場」で居続けるのではなく、世界を積極的に変えるような「上の立場」に自分自身の行為や自由を置くことである。そこから、この世界を「改革し、啓蒙する」という考え方が見えてくるのである。
結局、この世界を救うために、どのように考えるべきなのか。
ひとつ言えることは、もしかしたら、この世界の人々の心の中で、「確固としたアイデンティティ」が確立され得るかもしれない、という可能性から考えることである。
子供たちが自らの置かれた状況に不安に感じ、いじめや非行をしてしまうのは、「確固としたアイデンティティ」が確立されていないからである。
なぜなら、確固としたアイデンティティが一度確立されてしまえば、そのようないじめや非行には意味がなくなり、人々は無意味なことをせず有意義なことをするように、「経験そのものが向かう到達地点」が変わっていくからである。
確固としたアイデンティティが確立された人間は、いじめられることも怖くないし、大人に対する反抗の念も抱かない。そこには「既に自由の経験をし終えており、自らの自我は完成されている」という状況があるため、どんなに自分の自由が奪われて、社会的に不利な立場に置かれても、恐怖や不安そのものを感じなくなる。いわば、「自由によって完全なる信念を手にした人間は、自由あるいは優位性そのものを必要としなくなる」のである。
そして、そのようなアイデンティティを確立していない人間であっても、自分と同じような経験をし、自分と同じ立場に置かれて人生を生きたとしたら、自分と同じようにアイデンティティを確立させることができるだろう、という、「確立され得るかもしれない可能性」を、人々に対して見出すべきである。
そして、そこから、「認識の正しさ」を考えるべきだ。
すなわち、人々は間違った考え方を一切していない。その人間の人生経験から見れば、その人間が考えることは、すべて「必然」であり、「その人間本人から見れば正しい」のであり、「誰もそれを間違っていると決め付けることはできない」。だが、それでも間違った意見や思考であるかのように見えるのは、「自らのアイデンティティが確立されていないから」であり、そして「他人から見た際の正しさはその他人においては異なる」からである。
だからこそ、アイデンティティを確立することがもしできたとしたら、その時点で「人為的な行為」には意味がなくなる。なぜなら、人為的な行為とは、アイデンティティを確立できていない人間が、未熟な正しさにおいて行う行為だからだ。
人為的な行為を否定した際に行き着くのは、中国の老子が教える「道教」の考え方だ。すなわち、人為的な行為を一切排した中で、有でも無でもない「道」(タオ)を信じて生きる、ということがもっとも正しい。道教の教えをほとんど知らない僕であっても、自らの人生から見て、もっとも正しい世界の思想とは道教の「道」の教えであるということが分かる。そう、自らの信じて歩んできた道に仮の名前を付けるなら、それは「道」という名前になる。これこそ、本当の「神の真理」であり、「人間という生命体が行き着く最後の到達地点」であると言える。
過去の僕と同じように考えることは、本当は簡単だ。
なぜなら、「原因と結果から考える」ということだけでよいからだ。
そこで必要なのは、先入観をなくすこと、そして自分と同じ状況と条件を与えられたら、誰であっても自分と同じことをするだろうと考えることだ。
人々が間違っているのは、「自分が今いる環境が普通である」という先入観を持っていることと、「他人には立場としがらみがあるため、制約のある環境でしか意見を発することはできないが、その制約自体が自分自身の人格であるかのように勘違いされる」ということが多い、ということだ。
自分の今いる環境を、決して普通であると勘違いするな。自分の今いる環境は、とても特殊で、普通ではない環境なのだということを知れ。特に、人々がみんな普通だと思っていることは、人生の真実から見れば決して普通ではないと知れ。そして、人々のもっとも異常な思い込みが、「今の日本社会がもっとも正しい時代である」ということであると知れ。この今の日本社会は、決して正常な社会でも公正な社会でもなく、もっと正しい社会は別にあり、その正しい社会でないからこの世界で生きる自分自身は苦しんでいるのだということに気付け。そうすれば、気が楽になる。
そして、この世界を解決する手っ取り早い方法は、世界を自由にすることだ。なぜなら、ほとんどの人間は、不自由であることが問題の原因に直接繋がっている。すなわち、立場やしがらみのせいで、あるいは問題そのものがそこにあるということを認識できない環境にいるせいで、この世界のほとんどの問題は起きている。だから、手っ取り早く自由にするだけで、立場やしがらみの制約はなくなり、当事者が当事者の「率直な意見」を持つことができるようになる。それでほとんどは解決する。
さらに言えば、そのような先入観としがらみを、心理的に、「いつどのような感情からどのような行為をしてしまうか」ということに転用し、心理的な問題の原因を先入観と不自由に求めることだ。すなわち、学校でいじめをしてしまうのは、社会に対する反抗もできず、上に対する反抗もできず、教師に対する反抗もできないため、内部の自分たち子供自身に攻撃が向かってしまう、ということから起きている。それこそが「もっとも特殊でおかしな不自由」であり、そのような不自由の制限はすべて「自らの置かれた環境でしか生きることができない」という先入観から起きている。実際は、そのような特殊な環境から逃げ出し、別の環境で生きることは誰でもできる。その時、「あのような環境に長い間居続けなくてよかった」ということを思い返すようになる。
さらに言えば、アイデンティティを確立することで、自由の持つ「本当の有意義な意味」が分かる。すなわち、「自由のせいでこの世界は駄目だ」と考えるだけではなく、「自由だからこそこのようなことが積極的にできる」と考えることができるようになる。すなわち、自由の持つ悪い面ではなく、良い面を考えることができる。そこに経験が加わることで、「自由によって世界を滅ぼすのではなく、同じ自由で世界を救うことだって可能である」ということが見つかる。アイデンティティの確立により、そのような自由から、「正しい社会秩序を築く方法」も知ることができる。そして、その時はじめて、学校は特殊ないじめの環境から、正常な「正しい社会」へと変化する。そう、それでしか、学校環境を正常にすることはできないだろう。