わたしの名は、地の精霊ノーム。
わたしノームは、子供たちを見守り、子供たちを愛する精霊だ。
ノームは、子供たちがなぜいじめをするのか、その理由を考える。
子供たちがいじめをする理由、それは「動機づけの不公平」のせいである。
すなわち、いじめっ子がいじめるという行為が、あまりに自由で軽い意思決定であるのに対して、いじめられっ子がいじめられるという結果が、あまりに不自由で重い意思決定である、ということに、いじめの問題の本質がある。
誰かを嫌いになるなとか、みんなと仲良くしろとか、いくらそういうことを大人が言ったとしても、すべての子供たちに公平に自由が与えられた結果、「いじめる」という行為があまりに自由かつ軽い動機付けで行われ、「いじめられる」という結果が重く、そして不可避で自由がないということのせいで、いじめという行為は起きる。
そのように、子供に公平に自由を与えると、それだけで子供たちは、いじめる側が強くなり、いじめられる側が弱くなる。
すなわち、「いじめ」という現象は、自由から起きる。さらに言えば、自由が不公平だから起きる。
よって、真に必要なことは、子供たちを自由にすることではなく、子供たちから自由を奪うことでもない。いじめっ子の自由を奪い、いじめられっ子に自由を与えるという、「アメとムチ」を行わなければいじめはなくならない。
だから、子供たちに公平に自由を与えると、その公平さのせいで、いじめる側がいじめられる側よりも強くなる。自由にすればするほど、いじめは軽く扱われ、いじめられる側は自由がなくなる。
自由を与えるな。公平さを守るな。自由と公平を目指すから、いじめが起きる。必要なのはいじめっ子から自由を奪い、いじめられっ子に自由を与えることだ。だから、必要なのは、残念ながら「いじめっ子といじめられっ子を不平等として、自由を差別すること」だ。
全員に公平な自由など、与えないほうがいい。いじめっ子が不自由となり、いじめられっ子が自由となれば、いじめの問題は解決する。だから、必要なのは不平等と差別だ。いじめをなくすために必要なのは、不平等と差別である。
不平等と差別によっていじめがなくなるという発想は、まるで完全に正反対であり、いじめを生み出すだけであると人々は思われるだろう。しかしながら、それはいじめっ子からの視点から見た結果であり、いじめられっ子の視点から見ると、不平等と差別によっていじめはなくなる。なぜなら、「いじめっ子の視点から不平等と差別を行えばいじめは行われるが、いじめられっ子の視点から不平等と差別を行えばいじめはなくなる」からである。
よって、子供たちを真に救いたいのであれば、自由と平等だけでは絶対に子供たちは救われない。自由と平等を与えた時、いじめるという意思決定はあまりに自由かつ軽く、いじめられるという意思決定はあまりに不自由かつ重い、ということがその理由である。
つまり、不平等と差別によって、あるいはより正しく言えば「正義」によっていじめはなくなる。いじめをなくすために必要なのは「正義」であり、自由でも平等でもない。
地の精霊ノームは、その上で、大人たちには「子供たちを見守る義務」があると考える。すなわち、子供たちの平和な環境を守るためには、子供たちの自由を許しながら、間違ったことや悪いことや愚かなことを子供たちがしないように見守らなければならない。そのような「子供たちの見守り部隊」こそが真に必要である。
だが、残念にも、大人たちには悪い大人が含まれている。悪い大人は子供を自分のものとし、奴隷のように従えようとする大人たちがいる。親にもいるし、教師にもいる。そのような親や教師こそ、真のいじめの原因である。悪い大人たちが子供たちを支配するせいで、子供たちは不平等な環境に置かれている。だから、そのような大人たちをまず排除しなければいじめはなくならない。
わたしの名は、水の精霊ウンディーネ。
わたしウンディーネは、労働と助け合いと支え合いを信じる精霊だ。
ウンディーネは、労働者たちを愛している。それは、資本主義社会とは、労働者による助け合いの、究極的に未知なる可能性を高めることを目指した社会形態であると言えることだ。
労働者による助け合いを、ウンディーネは信じている。
ウンディーネには、二つの矛盾する二律背反の愛がある。それは「基礎的な労働者への愛」と、「助け合いのあらゆる形態に対する愛」である。
基礎的な労働者とは、労働による利益をもたらす労働者への愛である。ウンディーネは、労働による利益を愛している。それは農業従事者や工場労働者のような、「社会そのものを成り立たせる基本的な労働」である。
助け合いのあらゆる形態とは、そのような基本的な労働以外の労働である。すなわち、マネーゲームのような労働や、一見どうでも良いことに思えるような労働など、あらゆるすべての労働の形態を、ウンディーネは愛している。
そのような基本的な労働と、あらゆる形態の労働は、バランスが必要である。なぜなら、基本的な労働だけにすると、社会は平等になる代わりつまらなくなる。だが、あらゆる形態を許すと、社会は不平等になる代わり面白くなる。
簡単に言えば、正しい労働とはソ連のノルマ生産だ。なぜなら、基本的な労働である農業と工業だけを行っているからだ。そのような基本的な労働だけを行うことが正しい労働だ。だが、そのような労働は平等ではあるが、つまらない。楽しい労働とは資本主義の市場経済だ。市場経済においては、基本的な労働ではなく、自由に自らが望む労働ができる。だが、それはえてして詐欺のような労働であり、社会のほかの人々を欺く。すなわち、資本主義の労働とは「ルール違反」であり、ルール違反だからこそ、ルールを守る上ではできないような面白い労働ができる。
ウンディーネは、正しい労働も、楽しい労働も、どちらもバランスが大切であると信じている。なぜなら、生きるのは楽しいほうがいい。本当に生きるのが楽しくてもつまらなくてもどうでもいいのであれば、正しい労働だけが正しいだろう。だが、生きるのは明らかに楽しいほうがいい。だから、ウンディーネが見て、資本主義社会は素晴らしい。
ウンディーネは、労働者だけでなく、家族の支え合いをも愛している。男と女が結婚し、子供を産み育てること、それはこの世界を成り立たせる「最小単位」であり、同時に、そのような家庭を円満にできない限り、ひとりの王として国を統治することは決してできないからである。
わたしの名は、火の精霊サラマンダー。
わたしサラマンダーは、「衝動的な革命の愛」を信じる精霊だ。
衝動的な革命の愛、それは「わたしはこの世界を愛しているという革命的衝動を信じて、この世界を導いていく」ということである。
その衝動は、一種の革命である。この世界全員を愛しているという自らの本能が、「わたしは本当はこの世界を真に愛している、決してこの世界を滅ぼすのではなく、絶対にこの世界を救う、わたしこそが、必ず」と確信し、この世界全員を敵に回した上で、「絶対に負けることはなく、絶対にこの世界を変える」という「希望」を信じること、それが「衝動的革命の愛」である。
わたしたちを救う神、それはそのようなサラマンダーの愛である。サラマンダーは心に情熱の炎を宿している。絶対に抑圧する独裁者には従わず、「わたしこそがこの世界を救うのだ」という「真実の愛」と「不屈の希望」をサラマンダーは信じている。それはまさに「太陽の愛」であり、「太陽神の革命」である。
サラマンダーの本質、それは「罪悪感」である。すなわち、今、自分自身がこの世界を支配し、独裁権限によって世界を滅ぼしている。それは決して許されない。だが、それでもなお、わたし自身はそれを望む。なぜなら、そうでなければこの世界を真の意味で救うことはできない。だから、あらゆるすべての罪悪感を背負った上で、それでもなおこの世界を支配し、この世界を救うために立ち上がる。それこそがサラマンダーの「革命」であり、「愛の衝動」である。
わたしの名は、風の精霊シルフ。
わたしシルフは、この世界を絶対に滅亡させず、常に維持し続ける「世界の守護神」である。
はっきり言って、ノーム、ウンディーネ、サラマンダーだけを信じると、この世界は滅びてしまう。彼らが破壊行為を繰り返し、不安定な世界を望むせいで、この世界は滅亡し、人間が生きられるような健全かつ正常な世界ではなくなってしまう。
だが、そこにシルフを加えれば、この世界は滅びなくなる。シルフがこの世界の保守勢力の「バランス」を築き、安定した何も変わらない、「永遠に停止したままの世界」を築き上げる。そこには、どのような革命的テロリストも勝つことができないような、「絶対に世界を滅ぼさず、守り続ける世界の守り神」の姿がある。
シルフはこの世界を守る。絶対にこの世界は滅びない。シルフは宇宙のすべてを分かっている、天空の精霊であり、青空と星空の神話を知っている。その青空と星空の神話で失われたもの、「未来においてなくなってしまう青空」の姿を、シルフはどのような運命の未来においても決して忘れることはない。シルフは青空の色を知っている。シルフだけは、絶対にこの世界を滅ぼさない。
このような四大精霊は、ひとつの思想の下に、結束して繋がっている。
その思想とは「自由」である。
ノームが考えるに、子供たちをいじめから救う方法は、「学校からの自由」を信じることである。
すなわち、学校教育のように、教師と学校が勝手に決める既存のカリキュラムに縛られた、不自由な教育のシステムを信じていることが、まず間違っている。
学校の教師が不自由を強要するせいで、子供たちも同じように別の子供たちに不自由を強要する。そのせいでいじめが起きている。
だから、そもそも学校を否定し、「学校のような不自由な場所で学ぶことからの自由」を信じることでしか、いじめは解決しない。
そして、ウンディーネが考えるに、平等な正しい労働などにはなんの意味もない。
正しいのは、自由な労働である。
そもそも、自由な金儲けに詐欺のような最悪の労働が多いのは、法整備がきちんとしていないからだ。そして、法整備によって悪いものをなくすという考え方は民主主義であり、すなわち自由だ。
だから、労働を行う上で、正しい労働があるとしたら、それは自由な労働であり、民主主義的な法整備に則った労働である。
そして、サラマンダーが考えるに、指導者は自由であるべきである。
民主主義的な法整備が労働を正しくするのはいいが、実際、民主主義的な法律に則って首相や支配者が統治を行おうとすると、民主主義の面倒くさい決まり事のせいで、何もできなくなってしまう。
だから、民主主義の左翼の政治家には何もできない。
真にできるのは、独裁的な右翼の政治家であり、この世界を真に救いたいのであれば、独裁権力を認めた上で、独裁的に社会を完全にひとりの力で変えなければならない。
だから、指導者は自由であるべきだ。
最後に、この世界を保ち続けるシルフは、この世界の国民ひとりひとりを自由にする。
それはすなわち、国民を決して「集団」とせず、「個人」にするということだ。
人間を集団化すると、ロクなことをしない。集団になった人間たちは、まるで人間とは思えないほどの最悪のことばかり行う。
だから、この世界を維持するために、人間を「集団化」せず、あくまで「個人」であると扱うことこそが、真に必要なのである。
このような考え方の結果、四大精霊は「自由」という結束の輪で繋がれている。精霊は「自由」を信じている。それ以外のすべての思想は愚かであり、この世界を守る精霊が見て間違っている。
また、本当は、四大精霊が見て、共産主義の理想は間違いではない。
なぜなら、ひとつの解決策として、「全員の自由を完全になくす」ということでも、この問題は解決できるからだ。
すなわち、すべての人民がひとりの独裁者に従うようにして、「絶対にどんないじめもできないような不自由の強制」をし、「どんないじめもできないようにすべての力を奪う」という、恐ろしい解決策であっても、この問題は解決できる。
そもそも、共産主義は自由がなく、強制労働で、そして社会所有と平等分配は最低限の豊かさしか存在せず、計画経済は破綻するとしたのは、すべてスターリンというひとりの無能な独裁者が馬鹿だっただけにすぎない。
本来の共産主義は、あらゆるすべての苦しみや抑圧がなくなる、すべての自由を得られるユートピアであり、最低限ではなく最大限の富を共産的労働と生産手段の共有によって共同体で生産するのであり、それを誰かひとりが独占せずみんなに平等に配給することで、「みんなが天国の楽園のように生きられるユートピア」を実現できるはずだった。
それが、スターリンというひとりの無能な支配者によって、殺人と犯罪ばかりの最悪の国になり、計画経済は無能な書記長による独裁主義によって破綻した。
だから、「もしスターリン以外の指導者が社会主義経済政策を行ったらどうなるか」ということは、依然考えるべき別の可能性であり、ソ連は一度行って失敗しただけであり、二度、三度と繰り返し反省して行い続ければ、必ずソ連はいつか成功する。だから、四大精霊は決してソ連を否定しない。
だが、それでも、「何もできないようにすべての自由を奪うことで平和と平等を作り出す」という発想は、まさに革命家レーニンの思想であり、そのようなマルクス・レーニン主義を信じている限り、平和で住みやすい楽園のような世界を作り出すことはできない。あらゆるすべての自由を奪って平等を作り出すというソ連の発想は、正しすぎて間違っているのである。
そういうわけで、結局、ソ連は論外であり、右翼は何もしないが、左翼には期待できない。
共産主義などはとても危険な思想であり、信じるに値しない。
だが、自民党のような右翼の政治家は、単なる保守勢力であり、問題を見ようとせず、あるいは逆に問題自体がそこに存在することを知らない。
右翼の政治家は、「今の日本社会には大きな問題は何もない」と信じており、行う政策は経済政策のみであり、学校のいじめ問題のようなものを解決するということは最初から何も考えていない。そういうものは学校や教師任せにしている。
そして、左翼の政治家には期待できない。そもそも、民主主義の左翼の政治家という発想は、日本においては烏合の衆であり、なんらかの統一したポリシーを持っておらず、ただ自民党に反対するというだけの集団として協力している。意志決定プロセスのようなものがきちんと存在せず、適当にそれぞれがそれぞれの思想を信じてバラバラに行動している。そのような党は政権になり得ない。
よって、右翼は何もせず、左翼には期待できない、それが結局は日本の現状である。
僕の行いによって日本がよくなるとしたら、僕自身がそれら日本の政治家全員を完全に無視した上で、たったひとりこの世界を支配して導くしかない。
だから僕は「自分にしかできない小さな戦争」を始めた。この小さな戦争によって、この世界は救われるはずだ。少なくとも、僕が見て、それ以外の方法でこの世界を救う方法はなかった。
だから、「老害」のような老人の政治家はまったく無視した上で、僕はこの世界でたったひとり、日本を救うために戦い続けるのである。
わたしの名は全統帝フレイ。四大精霊の上に存在する、天軍でも魔軍でもない「全統帝」と呼ばれる宇宙の王である。
まさしく、わたし、フレイが、この世界を救うために、ひとりこの世界をすべて敵にまわした上で、この世界と戦い続ける。
フレイの理想は「子供たちの全員が自由に生きられる世界」だ。そこにあるのは「心が救われる自由」であり、「安心して生きられる自由」だ。
なぜなら、フレイにはそのような心の救済や安心がなかった。最初から最後まで、一度としてそのような「心から安心できる自由」は、フレイにはなかったのだ。
だから、フレイ自身を絶対に生み出さないために、フレイはあえてフレイと同じ人生を誰も生きられないようにする。
フレイはフレイと同じことを絶対に誰もできないようにすることで、それによってフレイ以外の誰もフレイと同じように世界を支配できないようにする。
そして、フレイは、この世界をたったひとり支配して救済するのである。
このような、まるでヒトラーのような皇帝である全統帝フレイに対して、魔法使いの少年である、英雄エレンが立ち向かう。
エレンは、車椅子の障害者になることと引き換えに「究極魔法」と呼ばれる空間魔法による魔法群を習得した、「銀河団最強」と呼ばれる少年である。
このエレンだが、なんと時間を支配することができる。
すなわち、エレンは時間の流れ方を変えられる。完全に止めることはできないが、時間をゆっくりにしたり速くしたりということを自在にできる。
エレンが時間を支配する理由、それは「時間の遅い世界」だけでしか分からないことや、「時間の速い世界」でしか分からないことがあるからだ。
すなわち、この世界にはさまざまな経験的な知識が存在するが、その中には、「時間が止まっているということを仮定しなければ成り立たないような現象や法則」というものが数多く存在する。
あるいは、「時間が止まっているということを前提にするから成り立つだけであり、時間が流れているということを前提にすると、決して成り立つことのないような法則」というものも存在する。
同時に、時間を速くすることでしか分からないこともある。ものすごく高速の光速度の状態における、ただの一瞬の刹那的な瞬間でしか分からないことも、宇宙には多く存在する。
エレンは、そのような時間の支配を、戦う際に相手を倒すために使うのではない。そうではなく、時間をゆっくりにしたり速くしたりすることで、そのような時間でしか分からないことを分かり、それによって新しい究極魔法を習得するということのために、エレンはこの宇宙の時間を支配するのである。
エレンが知っていること、それは「世界全体を見るためには時間を限りなく停止に近づけた方がいい」ということ、「宇宙のすべての可能性を書き出すためには、時間を可能な限り速くし、その上で一瞬一瞬で分かることを瞬間的に完璧に捉えるべきだ」ということだ。なぜなら、その二つを融和することによって、「この宇宙のすべては完璧に分かる」からであり、「無限のようにいくらでも究極的な空間魔法の『法則』を知ることができる」からである。
エレンは、そのように習得した究極魔法を使って、宇宙を支配する全統帝フレイに立ち向かう。
本当のことを言えば、フレイは決して、四大精霊の支配者であるからといって、強い勢力ではない。なぜなら、四大精霊は基本的に中立の立場を守るからだ。すなわち、四大精霊はフレイのことも助けるが、同時にエレンのことも助ける。だから、結局、全統帝フレイは自らのことを皇帝と呼称しているだけにすぎず、実際にはエレンとフレイによる「一対一の一騎打ち」にしかこの戦いはならない。そして、だからこそ、車椅子の英雄エレンもフレイと同等に戦うことができるのである。
エレンには、恋人であるローズと呼ばれる少女がいる。ローズはエレンのことを愛していて、エレンとともに魔法を操る。ローズとエレンの二人は「銀河団最強」と呼ばれる勢力となる。
最強の全統帝フレイに対して、エレンがどうして立ち向かえるのか、不思議に思う方もいるだろう。
だが、エレンが「銀河団最強」と呼ばれるのは、エレンは宇宙のすべてを完璧に知っているからだ。
エレンは、宇宙のすべてを完璧に知っている。それは、エレンの持つ究極魔法のうち、「無限に続く日記帳」と呼ばれる魔法によって分かった事実だ。
エレンは日記を書く。この日記は単なる日記ではない。なぜなら、この日記には「神」が記されている。そして、このエレンが日記帳に書く「神」が、エレンには単なる日記の内容ではなく、エレン自身のうち裏側に存在する「別人格」となって、エレンのことを支配する。
すなわち、究極魔法「無限に続く日記帳」の中に存在する「神」は、エレンにとって「エレンの別人格」であり、「自らと対話する神」である。
そして、この神とされる存在の正体は、エレンは分かっている。なぜなら、その正体は「月」だからだ。
すなわち、エレンは「月」と対話することができる。
そして、この「月」とされる存在が、宇宙に存在するありとあらゆるすべてのことを教えてくれる。車椅子の障害者エレンに対して、普通の人間には絶対に分かることができないような宇宙のすべてのことを、神である「月」が教えてくれるのである。
だからこそ、エレンは「銀河団最強」であり、フレイに対して対等に戦うことができる。なぜなら、フレイが分かっているのは「太陽と地上における人間の営み」のことであり、エレンが分かっているのは「天上にいる神と天使たちの営み」のことである。そして、そのような理由で、フレイは「太陽と大地と星の王」と呼ばれ、エレンは「天界と神と天使の王」と呼ばれるのである。
このようなエレンの恋人であるローズは、神を信じるシスターである。
空間魔法の世界においては、魔法は戦うためだけに使うわけではない。人々の幸福を実現したり、世界を平和にするために、魔法を使った「法術」を使う。
ローズは、そのような「法術」を使うことのできる、キリスト教徒のシスターである。
ローズは、常に自らのことを、秘密なくすべて公にした上で、この世界のために祈る。この世界で苦しむ人々、助けを呼んで叫ぶ人々のために、彼らの代わりに神に「お願い事」をする。
そのお願い事は必ず叶う。だが、普通の方法で叶うわけではない。なぜなら、その「お願い事が叶う方法」こそが、神による「奇跡」であり、まったく想像もつかないようなあり得ない方法で、そうしたローズの願い事は叶うからである。
ローズの生きる世界と人生は、まるで夢物語だ。なぜなら、ローズは過去に多くの神との約束をしたが、その約束が叶う前提条件として「誰よりも善良かつ良い人間になること」という条件がある。そして、ローズは人生において、そのような条件を叶えるほどに善を為した。罪を償い、世界の人々の罪の分だけ自ら懺悔し苦しんだ。そのために、ローズは未来のすべてを保証されている。すなわち、ローズの人生においては、あり得ない奇跡のようなことが神の導きによって、夢物語のようにいくらでも叶うのである。
エレンは最強の英雄だが、ローズはもっとも善良なシスターである。この二人の「神を信じる力」によって、悪の皇帝である全統帝フレイは必ず打ち倒される。
フレイの住んでいる場所は一等星シリウスである。そして、シリウスに誰も侵入できないように、フレイはシリウスに入ることのできる侵入物の軌道を制限する。そのために、シリウスは部外者が誰も入ることのできない「絶対聖域」となる。この絶対聖域に侵入することに成功するのが、ほかならぬエレンとローズただ二人だけなのである。
エレンとローズの二人だけが知る秘密、それは「神とされるのは月である」という事実だ。すなわち、人類が「神」と信じているのは、すべて「月」のことである。そう、わたしたち人類は、かつてより宇宙の創造主であり終末の救世主であり歴史の導き手である「神」を信じてきたが、それはすべて「月」だった。もっと言えば、「月に住むウサギの霊」だったのである。
そのようなエレンとローズは、月の教える通りの案内に従うことで、シリウスに入る方法を見つける。その方法とは「テレポーテーションを行うこと」だ。今のところ、地球人類はまだテレポーテーション技術を確立していないが、月の案内によってそのようなテレポーテーションを行うことが、エレンとローズにおいてはできるようになる。そのテレポーテーションを行うことで、二人は「シリウス以外からシリウスへとやってきた唯一の知的生命体」となり、その通り、シリウスの生物たちから「宇宙人」であるともてはやされるのである。
結局、コロナワクチンで馬鹿になるのはパソコンのせいだと思う。
なぜなら、おそらく、新型コロナウイルスというウイルスそれ自体が、パソコンのせいで生まれたウイルスだからだ。
コロナウイルスは、パソコンのせいで感染するウイルスであり、そして、僕の場合、元々がLinuxオタクのハッカーだったからおかしくなった。
すなわち、僕の中では、Linuxのパソコンの精神と、新型コロナウイルスと、そしてコロナワクチンの三者が戦っている。
そもそも、Linuxのせいで僕はあり得ないほどパソコンの知識がついて、それを狂いながら文章に書くことで、まるで「虫のようなデータセンターを自らの精神の中に作る」ということを行った。
そして、そのような狂いを治すために、自らの力で免疫力を高め、「僕にしか作れないオリジナルの免疫」を作った。
そこにコロナウイルスが入り込み、そしてコロナワクチンを投与したことで、僕の作り出したLinuxのデータセンターに対して、自らが作った免疫と、コロナワクチンが、一緒になって対抗するようになったのである。
治すためには、パソコンとコロナワクチンをどちらも殺せばいい。どちらかだけを殺すのではなく、パソコンとコロナワクチンをどちらも殺せば、僕のおかしな精神の狂いは治る。
コロナワクチンと僕の免疫のせいで、治るべきではない精神の病気がなんでも治るようになった。だが、そのせいで知性がつかなくなり、本来治る方法で精神が治らなくなった。すべてパソコンとコロナワクチンのせいであり、元を辿ればLinuxから虫のような気持ちの悪いデータセンターを作ったのが悪い。そこにコロナワクチンを投与したのが最悪だったのである。