残念ながら、これ以上、僕は馬鹿をしなくなる。
そもそも、こんなに長い時間、18年もの間、馬鹿なことを続けたのが、僕の一番間違っている点である。
馬鹿なことをやめれば、すぐに病気も治って馬鹿も治るのに、それが分かっていない。
それから、大きな間違いは二つ。ひとつは、誇張のしすぎだ。すべての発言を誇張しすぎている。もうひとつは、実況中継のように自分をロボットのような操り人形にして話し続ける。
そんなことはもうしなくていい。
馬鹿をしなくなるために、昔に戻ろうとする必要はない。なぜなら、昔から、2ちゃんねるとWikiの時代から、僕は馬鹿なことばかりしている。僕の馬鹿になった原因は昔の自分にあるため、昔に戻ることは必要ない。
僕は人間のことを知りたい。すなわち、いろんな人間について知りたい。
いろんな人を知りたいと思わないこと自体が、僕のおかしな点である。
だが、はっきり言って、みんなにはそんなに賢い人間はいない。そもそも、不登校になる人間もいないし、馬鹿な革命を起こす人間もいないし、文章を書く人間もいない。そもそも、中学時代からして、あんなに勉強ができる成績のいい子供はいないし、あのようにいじめられる子供もいない。
みんなはみんな、まともで普通の人間であり、僕よりも賢い人間はそんなにいない。いるとしたら、学校に通っているから賢い人間が多い。
だが、大人としてまともに生きる方法は、そのような人間のことを知ることだ。
それから、もっと簡単なことを知ったほうがいい。人間は普通、簡単なことから分かる。ネジを回すとか、お茶を入れるとか、電球を交換するとか、そういう簡単なことができると、人間は生きられる。
そして、結局、僕の問題は、神にそれが正しいと言われないと、それが正しいのかどうか分からないということだ。
すなわち、神の言葉でしか、何が正しいか分からなくなっている。
神に言われなくても、自分で正しさと間違いを判断できるようになれば、神に依存するのが終わって、自分の手で考えて生きられるようになる。
何も分からないのは、そのような神に頼りすぎているからである。
神の言葉に頼るのではなく、自分で正しさを判断するために、自由において考えるべきことはいくつかある。
まず、社会において、どのような立場と力があれば、どのようにできるのか、ということ。それをするためにどうするのか、社会的な何を得るべきなのか、ということ。
次に、人々が行動する際に、なぜ、そのように行動するのか、ということ。あるいは、なぜそのように思考するのかということと、どのような反応や慣習でそれを行為に移すのかということ。
そして、そもそも、この世界では何ができるのか、ということ。あるいは、この世界でそのようなことができるようになるためには、世界そのものをどうしていくのか、ということ。
それから、自分の実体験から、この世界でどのようなことができるのか、ということを、どのように気付くことができるのか、ということ。体験的に何を分かり得るのか、気付き得るのかということ。
最後に、支配された環境から解放された環境に移ることで、「自由になるとはどういうことか」ということを知るということである。
人間の人生は、それらの自由を知るためにある。そして、世界そのものがどのような成り立ちをしているのか、どのような合意関係や力関係で世界ができているのか、どのようなことを「許す」ことでこの世界をさらに自由度の高い世界へと「自由化」していくのか、ということこそが、この世界の目的であり、あるいは自由の意味である。
子供には、学習の機会を与えると同時に、この世界にあるさまざまな異なる世界の存在を教えるべきである。それだけで、子供は自由に自分の力で世界から必要なことを学び取ることができる。そのような「自由な学習」と、「今までいた世界とは違う世界を知る」ということこそが、子供の成長に真に必要なすべてである。
判断せよ。経験に基づいて、正しい判断力を培え。経験せよ。経験したから分かることだけでなく、経験する前から分かること、すなわち先験的なことについて、知と学習と判断を事前的かつ事後的に考えよ。あらゆるすべての情報を、自らの頭の中で、その情報が何を意味しているかを判断し、分析せよ。慣習や常識を疑うことから、情報や知識そのものの持つ本質的な意味と理由と、世界における関係性を知れ。
そして、あらゆる問題を解決し、思弁的に自己批判をすることで、矛盾の裏側にある絶対的な並立性を考えよ。そうすれば、相対的な世界の裏側にある、概念的かつ絶対的な「世界の本質」を知ることができる。そして、世界そのものがどのように在るのか、ということを考えよ。そうすれば、この世界そのものの裏側にある「本当の世界の姿」が見えてくるだろう。
世界そのものが、どのような関係性のバックボーンによって成り立っているかを知れ。知識や情報そのものが、どのような世界のバックグラウンドに基づいているかを知れ。世界が変われば、知識や情報がどのように変わってくるか、それによって人々の世界がどう変わるかを知り、同時に、そのような世界をどのようにしたら変えられる可能性があるかを知れ。そこまで考えた上で、人間の常識や当たり前の不確実さを知り、歴史における人間の普遍性を疑え。
そして、知識や常識を関係性に由来するものであると知り、世界観を今まで自分がいた環境に由来するものであると知った上で、真に正しい真実や真理とはなんであるか、思い込みを排して考えよ。そうすれば、逆に、人類全員に共通するような、「人間の裏側にある人間そのものを表す真実の世界」が見えてくる。それこそが、「真の宇宙」あるいはプラトンの言う「イデア界」である。
存在の本質とは「時間」である。
時間とは、その存在が今存在し続けているということである。
現象について、今起きている現象を、「常に今起き続けている現象」であると捉えよ。
たとえば、森林に育つ植物は太陽の光で生きているが、それはすなわち「常に太陽に生かされている」ということであり、「山は太陽によって今生きている」ということである。
世界において、その場所にあった過去の出来事は、歴史的な出来事だったにせよ、その当時に確かに起きたことであり、フィクションではなく、「確かにそこでその時起きていた」ということである。
そのように、存在の本質を時間に求めると同時に、その時間に存在した出来事を確かな存在であるとせよ。そうすれば、事象のすべてが時間的であるということが「実感」から分かるようになる。
世界における「自由」とは、それぞれの自由意志による「合意」である。
よって、自由経済のすべては契約である。なぜなら、自由経済において、社会的な主従関係と合意事項のすべてが、意志に基づく自由な契約だからである。
契約そのものは悪いものではない。なぜなら、契約する余地があるということは、そのように合意する限りにおいて、「許されている可能性の範囲が拡大する」ということだからだ。
だが、同時に、制約もまた悪いものではない。なぜなら、制約によって、契約の中から悪を除外することができる。
よって、契約する余地を拡大すると同時に、制約も深く考えられたものにすることで、世界は進歩する。それが「自由主義の理想の未来」である。
そして、社会を考える上で重要なのは、感情的な動機、すなわち「感情的にどうしたくなるか」ということである。
感情が本能的に望むのは、「自由」である。
すなわち、「さらなる自由が欲しい」と望み続けるのが、人間の感情の本能である。だが、それは受動的に与えられた限りの自由である。能動的な感情においては、自由とは「意識を自在に操る」ということである。すなわち、主体的に行動する上で必要なのは、自由自在に行使できる「意識」である。
子供の成長とは、受動的な行動をたくさん経験した上で、それを踏まえて能動的に行動することである。そして、その能動的な行動のために、さまざまな経験が必要となる。その経験とは、「自らが他人から受け入れられたという実感」であり、それによって、人々のことを今度は自分が受け入れられるようになる。
成長の先にあるのは、「自我の確立」である。自我の確立は、「自らを自らたらしめるもの」、すなわちアイデンティティを形成することである。そして、自我が望む「自由」とは、そのようなアイデンティティの形成であり、アイデンティティの形成がされることを自由な感情は望む。そして、完全にアイデンティティが形成された時点で、人々は不安や苦しみがなくなる。すなわち、感情的に誰かをいじめることもなく、誰かからいじめられることを恐れることもなくなる。それこそが、「子供の成長の最終到達地点」である。
アイデンティティの形成がなされることで、人は世界を破壊することではなく、社会秩序のある社会を築くことができるようになる。それによっていじめはなくなり、子供たちの環境は平和となる。
子供はなぜ弱いのか、それは子供は自らを絶対に信頼することのできる「本質」を持っていないからである。
アイデンティティとは何か。アイデンティティとは、自らがそれを自らであると誰に対しても堂々と宣言することのできる、「自らの取扱説明書」であり、それを人生の中で確立することで、他人が何を言ったとしても、その他人よりも自分のほうが正しいのだ、ということを確信することができるようになる。だから、アイデンティティを形成することで、不安はなくなり、いじめは怖くなくなる。
だが、子供たちは、そのような本質をまだ形成していない。そして、サルトルが「実存は本質に先立つ」と言うように、未だ本質を形成していない状態でありながら、社会の大人はさも本質が形成されているかのごとくに子供たちに「自由と引き換えの責任」を問うてくるのである。
子供たちが、どのようにしたら本質を形成できるのか。そもそも、子供たちがいじめをする理由は、子供たちは経験が未熟であるため、正しい社会秩序で正しい社会を築くことができない。そのような子供たちの未熟さ故に、間違った社会が形成されてしまう。だが、経験を積めば、正しい社会秩序を築く方法がどのようなものであるかを知ることができる。それによって、「共同体感覚」を身に着けられる。
そのような経験を積んで社会性と共同体感覚を身に着けていくことでしか、子供たちは成長できない。そのような成長が未だ形成されていないが故に、いじめのような「自由の刑」が起きてしまうのである。
正しい思考法とは何か。
まず、世界自体をどのように変えたとしたら、人々の世界がどのように変わるのか、ということを考えることである。
すなわち、生産手段、制度、チャンス、あるいはインフラやシステムや決まりなどをどのように変えれば、さらに自由な可能性が人々に許されるのか、ということである。
次に、世界を広く見て、視野を広げるということである。
すなわち、人々が忘れがちになってしまうことを、常に忘れないように心がけること、嘘ではなく真実を常に感覚と感情で感じ続けること。そのために、自らを客観視し、あるいは人々の中にある「その人の自ら」を客観的に見ることである。
最後に、そもそも世界において、この世界では人間は何ができるのか、ということを、学習や体得の中で問い続けることである。
そこまで考えた上で、自己批判と弁証法によって、自ら自身に許されていることを知り続ければ、ヘーゲルの言う「合一化」や「実体化」や「世界精神の目覚め」のように、世界そのものに存在する、僕の言う「場に宿る意識」も分かるようになるだろう。それこそが、最終的な悟りの境地である。
何度も別れの言葉を繰り返したが、ここで僕はこの世界とお別れである。
僕は最近、やることがなんにもない。学校の勉強はそろそろ終わった。これ以上、勉強しても、面白くない。それから、数学も哲学も単なる馬鹿である。数学は難しいことをやっているようで、実際は簡単なことをやっている。哲学は子供が考えるようなことを知るだけで、今になって見ると、経験論について書かれた説明などは、とても低レベルなことを考えている。
もう、やることは何もない。これ以上、何かを好きになったり嫌いになったりすることもない。そもそもこの世界には最初から面白いものなんかない。音楽も野球もアニメもテレビも面白くない。
だから、ここで、僕は人生を一度完全に終えたのだ。
これ以上は、もう、馬鹿なことをしなければいい。そして、その「馬鹿なこと」とは、文章を書くことだ。これ以上は、文章を書くことをやめるしかない。だから、ここでお別れである。
さようなら、またいつかどこかで会おう。僕はこの世界を愛しているし、日本と日本人を愛している。日本よ、世界よ、そして神よ、ありがとう。では、さようなら。