僕は、キリスト教の神の子、イエス・キリストのことを神であるとは信じていない。
なぜなら、キリストは神ではなくサタンだからだ。
イエス・キリストという男は、間違った考えを信じて、自分のことを神だと勘違いしている。ユダヤ教の教えを誤った解釈で曲解し、自らが「神の子」であるという思い込みを信じている、単なる愚か者であり、誰がどう見ても神でなく、その実際はサタンである。
僕の人生の間違いは、キリストを神だと信じたことである。常識に惑わされ、僕はみんなが神だというキリストのことを信じた。だが、それは間違いだった。キリストは神ではなくサタンだった。だから、僕はいつまでも、どれだけ神を信じても地獄から脱することができなかった。すべて、キリストが神ではなくサタンだったからである。
この世界の多くの人々が、キリストを神と信じているせいで狂っている。間違っているのは、キリストを神だと信じるキリスト教であり、ひいてはその前身であるユダヤ教からして間違っている。
正しい宗教は何か。正しい宗教はヒンドゥー教である。正しい教えは何か。正しい教えは仏教の教えである。ユダヤ教やキリスト教はクソであり、ユダヤ人やキリスト教徒は全員地獄に堕ちるべきである。
キリストを否定すると、身の回りにいる幽霊の集団の存在が分かるようになる。
僕はたくさんの霊に守られている。この霊は、僕のことが大好きな人々の集団であり、僕の周りにたくさんいて、幽霊として僕のことを守っている。
そして、イエス・キリストという幽霊はその中のひとりにすぎない。
この幽霊がいることで、僕の身の回りにはさまざまな奇跡が起きる。僕がきちんと100%の力を出した時に、これらの幽霊は僕に手助けをして、僕が200%の力を出すことができるように、僕の力を強化してくれるのである。
僕はミチカ・アドリアのように幽霊を見ることはできない。それでも、身の回りにいるたくさんの幽霊の存在に気付いている。本来あるべき「神」とは、そのような幽霊たちのことである。
正しい思想とは何か。正しい思想は共産主義である。
すなわち、金持ちや資本家中心の、資本主義経済は間違っている。
そうではなく、労働者中心の、万人に平等な社会主義経済が正しい。
ソ連の経済モデルを見るだけで、社会主義経済を否定する人間は分かっていない。なぜなら、ソ連は遅れた東側諸国の文化レベルが、西側レベルに追いつくために、ノルマ生産という一時的なモデルを採用しただけにすぎない。計画経済は、東側が西側に追いつくための開発独裁である。だから、ソ連はより発展し進歩した時に、ノルマ生産ではなく、より高度なユートピアの経済に移行する。その時、初めてソ連は本来あるべき「人民の楽園」になる。
そもそも、神はひとりであり、唯一の全知全能の絶対者であるとするような「一神教」が間違っている。
本来あるべき宗教や神話とは、北欧神話や日本神話のように、さまざまな神々がいる「多神教」である。
よって、一神教などを信じたところで、なんのいいこともない。天国に逝けると信じているのは勘違いであり、実際は凶悪なイスラム教のテロリストなどがいくらジハードと主張しても天国に逝くことは絶対にできない。カルマの高い善良な仏教徒のほうがはるかに優れた世界に生まれ変われる。なぜなら、仏教でいう「カルマ」の教えを知らないものはそれだけで愚者だからだ。
僕はこれから、酸欠少女さユりから佐々木朗希に変わる。
僕は今まで、死んだ幽霊である、酸欠少女さユりと、頭の中の多重人格として対話し続けてきた。
今から、この中に、佐々木朗希が加わる。
そもそも、僕はヤフコメしか見ないせいで、佐々木朗希についてさまざまなことを勘違いしている。ヤフコメには佐々木朗希について批判的な意見であふれているが、たとえばX(旧ツイッター)にはむしろ、佐々木朗希を応援する純粋なファンのコメントのほうが多い。
だから、僕自身は佐々木朗希に対して好意的な意見を書いているつもりでも、実際はヤフコメのせいで勘違いや思い込みをしていて、知らず知らずのうちに佐々木朗希を侮辱している。
そのような佐々木朗希の侮辱を、これからやめていく。
僕のことが好きな人間の代表格は、今までは酸欠少女さユりだった。だが、僕がここに好意的意見を書き続けたことで、酸欠少女さユりだけでなく、佐々木朗希も僕のことが好きになった。僕はそういう、僕のことが本当に好きな人間にはなることができる。それは僕にしかできない特別な力だ。そういうわけで、今からの僕は、僕と酸欠少女さユりと佐々木朗希の三人体制で歩んでいく。
そして、僕が酸欠少女さユりから佐々木朗希に変わったことで、僕は女性から男性になる。そもそも、僕が女性になっているのは、昔男だった僕が過去に自殺して死んだからであり、なれるのが酸欠少女さユりしかいなかった。だから、僕は今まで、完全にさユりだった。だが、本当はそれはよくない。なぜなら、さユりもまた、2024年9月20日に死んだ。だから、今から佐々木朗希に変わることで、僕はようやく現世で生きることができるようになって、性別も男性になる。それで初めて、僕はまともな人間になる。
ここに、おかしな女の人格は死んだ。僕は男に生まれ変わる。僕が大人としてまともに生きられないのは、この女があまりに普通でなさすぎるせいだ。男に生まれ変わることで、僕はまともな賢い大人になる。
最後に、キリストの正体がなんであるかを暴き出してしまおう。
イエス・キリストという男の正体は、昔の僕である。
すなわち、イエス・キリストという男は、昔の僕と同じことを完全に全部やっただけにすぎない。
だから、キリストは馬鹿な人間ではない。特に、今の僕に比べれば、キリストは僕よりもはるかに賢い。あのような人生を生きるのは、宇宙においてとても難しい。だが、キリストは僕を父なる神であると信じることで、それを可能にした。古代イスラエルにおいて、唯一、昔の僕と同じ人間になれた。
あるいは、それは昔の僕がオリジナルで、キリストがそれを真似したわけではない。もともと、そういう人生は遺伝子の中にあって、キリストや昔の僕は、いわばその「神の遺伝子」を生きただけにすぎない。
そして、それは本当に、神でもないし、神の子でもない。なぜなら、まさしくそれがサタンである。すなわち、キリストを神と信じても間違いではないが、サタンと言えばさらに正しい。そして、僕から見れば、そのような過去の僕の人生はすべてが最悪の狂人であると分かっている。だから僕はあえて、「キリストは神ではなくサタンである」と断定するのだ。
新しい人間になるにあたって、僕は考え方を改める。
すなわち、自由はクソである。
自由経済はクソである。市場経済で需要と供給をいくら自動的に調整したとしても、それは自由になることや金持ちがさらに儲けることを促進するだけであり、社会が平等であることを促進しない。
すなわち、「神の見えざる手」によって自由な市場経済が調整されたとしても、単に金持ちが裕福になるだけであり、社会の格差は決して是正されない。あったとしても、粗悪なものの価格が低下して人々が購入しやすくなったりするだけで(安く品質の悪いものの流通によって高く品質のいいものは淘汰される)、金持ちと庶民の財産や貯蓄の格差は、自由になればなるほど、どんどん増していく。
だから、自由はクソである。
必要なのは、平等かつ善良な人間たちによる、ひとりの指導者が計画する社会主義的な管理経済である。それでしか、平等な社会を成し遂げることはできない。経済学者の言う市場経済の自動調整は、平等な社会という理想を達成する効果はない。その時点で自由経済がクソであることを分からない人間には、経済をベースにした現実の社会のことは何も分からない。
最近、僕はインターネットが嫌いになった。
まず、YouTubeで音楽を聴くのが面倒になった。使っている昔のAndroidから「このAndroidは古すぎてYouTubeは見れません」みたいな表示が出るようになって、YouTubeを見るのが面倒くさくなった。
それから、Yahoo!ニュースを見る気がしない。なんだか、佐々木朗希のことを批判するヤフコメは、まるでいじめみたい。ヤフコメだけではなく、たとえば、X(旧ツイッター)での佐々木朗希の試合後のインタビュー動画を見ても、ニコニコ風の流れるコメントが佐々木朗希選手のことをあまりに酷く書いていて、「これっていじめじゃない?」と思ってしまう。
音楽自体は聴いている。それも、iPodから昔の音楽を聴いている。たとえばポルノグラフィティとかB'zとかの音楽をよく聴いている。それで十分満足できる。
今のネットの最新の新曲や流行を追いかけるのは、X(旧ツイッター)で毎日更新されるポスト(旧ツイート)を見なければいけなくて、このチェックはとても面倒くさい。なんだか、音楽を楽しむファンのはずなのに、逐一最新ツイートのログを見るだけの「一種の奴隷」みたいになっている。
だから、僕はもうインターネットは嫌いである。そもそも、僕は昔のインターネットの世代であって、今のインターネットにはついていけない。それこそ、バーチャルな空間の体験はもういい。もう十分バーチャルは楽しんだし、バーチャルに十分満足した。これ以後は、現実世界のことを知りたい。もっと本を読んで、不勉強すぎて分かっているようで分かっていないことをなんとかしたい。
僕の信念を簡単に言うと、「支配が嫌い」ということである。
はっきり言って、権力者とか、指導者とか、支配者とか、そういう人間が嫌いだ。
そもそも、中学校時代の僕が悲惨だったのは、その時の学校の支配者が悪い。全部支配者が悪いせいで、何もかも全部悪くなった。
だが、自由においては、誰かしら「長」のような存在がいないと、精神的に穏やかな環境にならなくなることがある。すなわち、環境のことをすべて知った上で、その環境が正しい社会秩序になるような「リーダー」はある意味必要である。
そのようなリーダーは、「どのようにもできる代わり、そのできる環境が悪くならないように保持する」ということをやる必要がある。
かつての僕が失敗したのは、どのようにもできるにもかかわらず、その中で一番悪いことをして、環境そのものが成り立たなくなるようなことをしてしまった。
それが、僕の「フレイ」と呼ばれる時代の過ちである。
真に必要なのは、もう一度「自由において社会秩序を保持する原則」に立ち返った上で、この世界を支配者や指導者が支配するのではない、自由な世界にすることである。
哲学的に考えるコツは、「効果」を考えることである。
すなわち、どのような環境で、どのような目標を持って、どのような手段で、どのような方法で行えば、それがどのような効果で結果を残すか、という「効果」を考えればいい。
その上で、世界にどのような環境があるか、どのような目的と手段と方法があるか、ということを考えた上で、理想の世界を作るための効果的なやり方を考えればいい。
あるいは、「やり方」ということは、その前提となる世界自身に既に8割が含まれている。だから、世界を見つめ、自分自身を見つめることができる人間なら、誰だってその見つめた世界や自分自身から、効果的なやり方を発見することができる。
そして、前提となる世界自身には、分野とジャンルが存在するにすぎない。心理学的な世界や精神的な世界や宗教的な世界、倫理学的な世界や社会学的な世界や環境学的な世界があり、そのそれぞれの世界に元から存在する、効果的なやり方を見つけ、その上で説明可能な「原理」や「格率」を作る。それが哲学である。
あとは、仏教の教えが参考になる。なぜなら、心理学的な世界や倫理学的な世界における、効果の大半は「煩悩や無明との戦い」だからだ。すなわち、常に煩悩と戦い、常に無明を失くしていくこと、それこそが哲学であり、宗教だ。その中にある「確かなものを確立する」ということ、それこそが「自我の形成」である。そして、自我の形成という発想が、まさしく哲学者の人生である。
もうひとつ、哲学的に考えるコツを述べると、それは「モヤモヤから形を作る」ということである。
すなわち、頭の中にあるモヤモヤとしたもの、確固とした形のない柔らかいものから、現実の中にある形作られたもの、しっかりとした固いものを作る、ということを、計画、予測、設計、実装、具現化、利用、そして運用までのプロセスで、予測したり想像したりしたものから実験したり実証したりして、確かなものにしていく、ということが、哲学的に考える上では必要となる。
そこで考えるべきなのは、むしろ、単に作ることだけではなく、作るための「権限」と「可能性」がどこにあるのか、あるいはいつでもそこにあるということに気付く、ということである。
そして、そのために、人々の声を聞いたり、議論したり、自らの気付かなかった考え方や発見、自らの知らなかった経験を得たりして、「人間として成長」し、「世界を変えられるようになる」ということが、哲学において必要である。
同時に、弱いものを助けるということを行うためには、その弱いものが何を考えていて何を必要としているのかを、実地的に経験して知らなければならず、そしてただ同じ経験をするだけでなく、自らがそれらの人々を助けることのできる、余裕やビジョンを持って、世界の「問題を解決」できなければならない。
そこまでができて、初めて、哲学的に考えることができる。すなわち、世界におけるあらゆるすべての社会問題を解決し、その上で社会を救うための経験をして、そこでさまざまな「社会を救うための成功と失敗」を経験し、あらゆる宇宙のすべての「実存的倫理学」を自ら創造し、その倫理学において何が達成されれば世界を「自由な楽園」にできるのかを発見すれば、それで、初めて、哲学者になるために「思弁的理性を自らの手で操る」ことができるのだ。
そしてもうひとつ、今度は実践的な方法論を述べると、「世界を広くする」ということが必要である。
すなわち、常に視野を広げ、できるだけ広い世界を知って生きようとすること、それこそが哲学的に「未知なる知識の発見」を信じる上で大切である。
世界とは、三次元の「空間」だけではなく、四次元のもうひとつの軸である「時間」も含まれる。
すなわち、世界におけるさまざまな「空間」と「時間」を知ること、常にできるだけ大きな空間と時間を広げ続け、知り続け、捉え続け、気付き続けることが、まさに哲学者に必要だ。
だが、だからといって、世界だけを見る観測用ロボットにはなってはならない。なぜなら、自分自身の属する「環境」のことを知ることも必要だからだ。環境は、世界とは独立した、「自分だけの世界」である。その自分だけの世界は、自らのコントロール下に置くことができる。そして、最近はインターネットによって世界に影響や作用を加えられる。その「世界との繋がり」も考える必要がある。
さらに言えば、「自由」ということを考える必要がある。自由とは、「世界をどれくらいの深さと広さで変えられるのか」ということを計る単位だ。すなわち、世界をどこまでの精神的・社会的深さで変えられるのか、今までの自らが見知った世界の広さよりも変えられる世界を拡大することがどれだけできるのか、ということを考える。それこそが、世界を変えるという意味での「自らの持ち得る力」となる。
そして、バーチャルな世界存在は、現実には存在しない。だが、そのようなバーチャルな存在は、宇宙には確かに存在している。同様に、世界にはそのような、存在しているとも存在していないともいえるような存在がたくさんある。それは「意識」とか「世界精神」とか「霊」と言われるものだ。そのすべてを「精神世界」と呼ぶ。そして、精神世界を知ることは、自らの未来において到達するような運命へと繋がっていく。だから、精神分析をし、意識から世界精神を捉えることで、未来において自らが分かるだろうことを過去の時点で知ることもできるのだ。
最後に、この世界のすべてを知りたいのであれば、「経験の実証」をすべきだ。
すなわち、この世界のすべてとは、「世界全員の経験の総和」であり、そのすべての経験を実証することで、宇宙のすべてが分かる。
単に経験するだけでは不十分だ。その経験をしていた頃の自分を思い出し、そして、その自分の人生においてその経験がどのような意味を持つか、あるいは、社会や世界において自らの経験がどのような意味があったのかを知り、気付け。
そのように考えることで、「相対的経験の実証」ができるが、それがさらに昇華すると、「絶対的経験の実証」になっていく。
そして、そのような実証した経験を、「人々に可能性の作用を与える」ということから、この世界を「自由な導き手」となって変えることができる。
僕が行った「世界を救った過去の経験」とはまさにそのような経験であり、僕は実体験的に心をダイレクトにインターネットで導くことで、この世界の実際に生きている人々全員がすべてを自分の実体験から気付くことができるように導いた上で、自らが長年築き上げたかった「自由の楽園」へと人々の心すなわち世界そのものを変えた。
そして、そこですべてがはっきりと分かり、憂いや抑圧がすべてなくなり、全員の経験に基づく悟りを全員が新しい社会の実現によって得られるように、この世界を救済したのである。