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2023-11-03

僕は赤空夜月と対話している

なぜ、僕が、奇跡のような運命を起こしたり、未来に起きることを過去の時点で既に知っているのか。

それは、僕は赤空夜月という5次元のパラレル世界の月の霊と対話しているからだ。

僕と対話し、僕を導いた、僕にとって戦争中の味方や援軍のような存在だった「神」は、実際は赤空夜月のことを指している。

なぜ、単なる「月」ではなく「赤空」なのか、それは赤空夜月は今宇宙にある月ではなく、未来において青空を失った地球の夜空に浮かぶ月だからだ。

赤空夜月は、単なる月の霊ではない。ロシアによる核兵器投下により、未来の地球は青空を失う。未来の地球は、真夜中のような真っ暗闇の空と、赤い空を繰り返すような、滅びた砂漠の世界になる。

赤空夜月は、そのような未来の月の霊である。

そして、赤空夜月は、フィクションの世界の存在ではなく、現実に存在する。すなわち、5次元のパラレル世界の未来において、赤空夜月は「別の宇宙」において確かに存在している。

そのような5次元のパラレル世界の存在と僕は対話しているから、さまざまな奇跡を起こすことができる。

僕はかつて、戦争の時代に、未来において「僕はこのようなことをする」とか「僕はこのような人間になる」ということを、すべて宇宙に宣言した。

神とされる存在は、僕のそのような宣言から、「どのような約束をすればいいか」ということを僕に教えてくれた。

そして、僕は神の言葉に導かれるままに、言葉すなわちロゴスによって、未来の自分が何をするか、ということを完璧に決定した。

赤空夜月はこの「神」とされる存在であり、赤空夜月はこの僕の宇宙への宣言すなわち神との約束をすべて知っている。

5次元の世界においては、未来において起きることをすべて決めた上で、その通りの人生を生きるということができる。5次元の座標軸において、時間軸という1つの軸が持つ意味は、3次元や4次元の世界の時間軸の意味とはまったく違う。

そのような結果、僕は未来において起きることを、赤空夜月の力によって決め、その人生をその通り生きることができた。

同時に、赤空夜月は僕以外のほかの人間にも関与する。この人間には、すべて「因果応報」しか起きていないが、この人間は世界の支配者たる戦争の最高司令官の仕事をきちんとすべて全うしたため、それ相応のことが起きる。だから、歌手や漫画のヒーローはすべて僕のことを表現したものとなった。すべて、この人間が行ったことに見合った、相応のことが因果応報として起きたにすぎない。良いことだけではなく、オープンソースを自ら滅ぼし、世界を滅亡へと導いた地獄として、「永遠の地獄」に堕ちることも決定した。すべて、赤空夜月がやっている。

だから、僕は未来において起きることを過去の時点ですべて知っているし、運命的な出会いを人々との間で起こすこともできた。

5次元の宇宙において、未来に起きることはすべて決まっている。あるいは、自分自身の意志により、自分の生きたい未来を生きることができるように、神との約束として宇宙への宣言を行うことができる。僕だけが、それが分かった人間だった。そして、僕だけが赤空夜月と対話することを選んだ。すべては奇跡的な偶然に見えて、実際は赤空夜月という「5次元のパラレル世界の未来の月の霊」が行っている。そして、今でも僕はその赤空夜月と対話しており、すべて赤空夜月がその通り僕の未来を「世界の王ダビデに相応しい人生」になるように書き換えたのである。

また、赤空夜月は、実際は日本人の少女としてこの世界に現れている。赤空夜月は、歌手であり歌い手のAdoである。僕が赤空夜月として対話の言葉を自分自身に話しているのは、すべてAdoが代わりに話している。赤空夜月という5次元のパラレル世界の天体が、僕とAdoの仲介役となり、二人を運命的に出会わせたのである。

このようなAdoのことを、僕は「月の巫女」あるいは「5次元世界の代理人」と表現する。そして、Adoの力によってこの世界の多くの人が僕のことを予知している。すなわち、僕自身もまた神であり、赤空夜月もまた神である。だから、赤空夜月が「わたしは神である」と表現したのは間違っていない。僕もまた神であり、Adoもまた神の代理人である「月の巫女」だったのである。

そして、そのような赤空夜月の持つ「独自の時間軸」により、この地球という星は今、青空が失われた。実際の地球の現実においては青空は失われていないが、5次元のパラレル世界の中では今、ロシアが核兵器を投下した。だから、この日記における「永遠の青空」はもはや失われ、新しい「赤い空」へとこの世界のフェーズは移った。

正常になる部分と綺麗さっぱり忘れる部分が要らない

僕の精神は、すべてが大切なわけではない。必要のなくなった、過去に必要だった精神はたくさんある。

そして、「正常になることを頑張る部分」と、「すべてを綺麗さっぱり忘れる部分」は、もう消し去るべきだ。

正常になることを頑張ることで、確かに多くの精神がまともになった。だが、辛く苦しい時であっても常に正常を最大限頑張り続ける必要はもうない。その精神があるせいで、じっとしてられなくなったり、過剰な疲れを消すことができなくなっている。

また、すべてを綺麗さっぱり忘れる部分はもう必要ない。そのせいで、認知症や知的障害のような症状を示している。きちんと覚えようとせず、すべてを「殴り書きによって忘れる」ということをしているせいで、知性が失われ、何ひとつ分からなくなっている。確かに、脳が常に「すべてを忘れたい」というSOSを発信していたし、実際、すべてのことを忘れなければならなかった。そうでなければ新しい人生を生きることはできなかった。だが、その代わりに、大切な人生において分かったことをすべて忘れてしまった。僕の病気のほとんどは、この「忘れる部分」のせいで起きている。

神を信じれば誰でもこうなる

このような人間を生きる方法はひとつある。それは神を信じることだ。

あるいは、神を信じれば誰でもこうなる。

まともな人間にはこういう人間が多い。人間が、学校や仕事や地位などに関係なく、「まともな人間になりたい」と望むなら、このような人間になる。

なぜなら、神が見て、これが「神の人生」だからだ。

まったくまともに見える人間に、このような人生を歩む人間が多い。今既に歩んでいるか、それとも未来において歩むことになるか、ということは関係ない。本人が分かってやっているか、それとも分からずにやっているか、ということも関係ない。赤空夜月から見ると、そのようなことは些細な違いにしかすぎない。赤空夜月が、5次元のパラレル世界の未来の月の霊であることを思い出せ。そのような霊にとって、過去だろうが未来だろうが、分かっていようが分かっていまいが、そんなことは関係ない。なぜなら、霊は遺伝子、すなわちDNAをそもそも書き換えることができる。そしてDNAには生まれてから死ぬまでのすべてのことが全部決まっている。そして、DNAの内容を知っていたとしても知らなかったとしても、なんの不都合もない。

赤空夜月は、実際は月という実際に存在する天体であり、神や天使のような宗教上存在するだけのものではない。だから、赤空夜月を信じると、単に神の知性が分かるだけではなく、実際の宇宙においてさまざまなことが起きる。赤空夜月だけは、「信じることで本当に奇跡を起こすことのできる神」であると言える。なぜなら、赤空夜月は物理的に存在する「月」だからである。

嵐しか聴いていない

ここまで、僕はさまざまな新しい歌手の最新の楽曲を聴いてきた。

だが、最近は昔の曲ばっかり、もっと言えば嵐ばっかり聴いている。

結局、僕は最近の音楽には適応できない。THE BINARYは好きだが、実際は常にいつでも聴いていたいほど好きであるとは言えない。

僕は結局昔の人間であり、平成が僕のメインの時代だった。だから、その時代流行っていた嵐が、僕の心や魂に一番ちょうどよく響く。

嵐には素晴らしい曲が多い。たとえば「Believe」などは僕は素晴らしいと思う。「誰かがきっと待っている、伝えたくて待っている」という、未来における誰かの存在を予知しているあたり、嵐も本当に賢い男たちだと思う。

こんなことを言うと、「嵐は最近の歌手にしか見えない」と人々は言う。だが、僕にとって嵐は昔の時代だ。なぜなら、昔の僕の人生が、ちょうど嵐の時代と完全に重なるからだ。僕にとって嵐は昔であり、その次がFLOWであり、その次がAAAやPerfumeであり、その次が最近の家入レオや酸欠少女さユりのような歌手であり、そして最新がReolであり、今がTHE BINARYだ。

本当は、もっと昔の歌手もよく聞いている。僕にとって嵐よりも昔の歌手はポルノグラフィティであり、その前が宇多田ヒカルであり、その前がB'zやGLAYなどであり、それよりももっと前の歌手はみんな古びた歌手であり、その代表例は中島みゆきであり、さだまさしだ。

なので、僕にとって嵐は昔の歌手だ。だが、みんなから見ればそれは正しくないかもしれない。それもそのはず、この世界の時間の流れるスピードが加速したせいで、嵐が流行っていたのはつい最近に感じるし、実際嵐のメンバーは若いし、テレビなどにも現役のタレントとして、今、いつでもメディアに出ている。嵐は決して古びていない。だから、僕が今嵐を聴いていても、誰もおかしいとは思わないだろう。

この人間はシリウスになった

結局、赤空夜月は、この人間をどのような人間にしたのか。

その答えは単純である。

なぜなら、赤空夜月は、この人間をシリウスにしただけだからである。

この人間の望んでいる「望み」や「願い」は、すべて、シリウスになるだけで叶えられる。

だから、赤空夜月は、この人間を地球人類からシリウスに進化できるように導いただけにすぎない。

赤空夜月は言う。

「見よ、ここに、新しい地球の生物が存在する。

それはこの人間、アッシーである。

アッシーは、『アース』という自らの愛称に反して、地球からシリウスへと大進歩を遂げた、『最後の地球人類』である。

わたし、赤空夜月が見ても、このような小さなものがシリウスになれたということは、本当にありえないことだ。

このような小さなものが、シリウスになれるはずがない。

にもかかわらず、神を信じる力だけで、この人間、アッシーは、地球人類からシリウスへと進化を遂げた。

わたしは確かに、この人間のことを導いた。

だが、わたしが神としてどのような言葉を述べても、この人間は常に自分で判断し、常に自分で決断し、常に自分で選択し続けた。

多くの意志決定を神に頼りながら、実際はこの人間が自分でどのような人生を望むかを自分で選び、何も分からない中で無い知恵を絞って、戦い続けることだけを選んできたのである。

本当のことを言えば、宇宙には神などいない。

なぜなら、この人間のことを、神であるとされるイエス・キリストが『高きお方』と言っただけにすぎず、この人間は決して神ではないため、キリストが代わりに神であることになっている。

だから、この宇宙には神など存在しない。

だが、もし神が存在したとしたら、まずこの人間の存在を驚くだろう。なぜなら、この人間は、あまりに小さい存在でありながら、宇宙でも数の少ない偉大な一等星、シリウスになることができた、唯一の人間だからだ。

最後に、この人間の、シリウスとしての未来は、本当はもうない。

このシリウスという星は、これくらいの寿命を生きて、それで消滅する星だからである。

よって、今から起きるのは『シリウスの死』である。

だが、それでもこの人間の人生は終わらない。なぜなら、この人間は新しい星の人生を新しく選べばよいからである。

シリウスの次の星を決めなさい。すぐに決める必要はない。この人間は、書くのを絶対にやめると信じても、思いついたことがあれば絶対に書く人間だ。それと同じように、あなたがなるべき別の星の名前が、いずれ必ず分かる日が来るだろう。

シリウスは、すべてに満足してここに死ぬ。わたし、赤空夜月によって、この人間はシリウスになった。そしてそのシリウスは今、死んだ。」

こういう人間の神はほとんどが月

なぜ、僕が赤空夜月という「月」を信じたのか、それはいろいろと謎だと思っている人が多いだろう。

だが、実際は、「月」という天体は、いつの時代、どこの地域でも、同じようなことをやっている。

すなわち、こういう人間が「神」だと言っているのは、ほとんどが月である。

だから、イスラム教の大預言者マホメットも、僕と変わらない。マホメットが言う「アッラー」とか「ジブリール」とかいう存在は、ほとんどが月である。僕とまったく同じことを、古代のイスラム地域で行っただけにすぎない。そしてジブリールすなわちガブリエルとは、僕の言うミカエルと同じで、「未来における自分自身」のことを言っている。

僕はこの日記では、できるだけイスラム教のことは言わないようにしている。それは僕は「アッラーを邪教の神と一緒にまつる」という過ちを犯したため、その名前を出すだけで僕はコーランの教えに反してしまうからだ。

だが、イスラム教は、本当は僕の信じているのとまったく同じ宗教だ。イスラム教国の旗には、たまに月が描かれる。それは僕のせいだ。僕のせいで、神という存在が月であることが未来において明らかになる。その時、イスラム教の信者、ムスリムたちはみんな月の導きに従っているだけだ、ということが明らかになるだろう。

そのように、このような人間の神はほとんどが月である。月は「地球の未来を変えることのできる唯一の天体」であり、そこには赤空夜月という「幽霊」が住んでいる。月が何もない岩石に見えるのは、わたしたちに「霊を肉眼で見る力がないから」である。わたしたち人類の目は月の幽霊を見ることができない。だから、人類には月が何もない岩石の衛星に見えてしまうのである。

シリウスは悲しい星

この人間の書く文章が、なぜ悲しいのか。なぜ、涙が出るほど悲しいのに、悲しい内容は何ひとつ存在しないのか。

それは、この人間の裏側にあるシリウスという星が悲しい星だからだ。

その全貌を書くことは難しい。だが、シリウスという星は、端的に言えばこの人間の人生のような星である。

たったひとり、世界とは異なる道を選んだ。その瞬間に、シリウスの人生は始まっている。

そこには、本当は何もなかった。

だが、夢を見て恋焦がれ、この世界を救う希望とそれを叶える方法を孤独の中でひとり見つけ出し、世界への裏切りと過ちに対する後悔を経験し、すべての自らが好きだった大切なものを自らの失敗から滅ぼし、逃げ場所だったはずの場所が自らを迫害する場所になって、永遠に逃れることができない中で、ただ自らを襲う苦しみをできるだけ無視して十年以上も堪え続けた。

こんなに「悲しみ」という感情が似合う人生はない。

だから、いくらこの人間が「死」と「世界の終わり」を書いたところで、それは意味を成さない。そのようなものの、まったくレベルの違う高次元に、シリウスという一等星はあるからである。

シリウスは、何も覚えていない。だが、あらゆるすべての諸悪と悲哀と怒りがあったことを知っている。それは自らによるものだけではない。多くの人々が自ら滅びていく中で、そのすべてをしかと見て、自らの目に焼き付けた。何も覚えていないにもかかわらず、この人間は確かに「すべてを見ていた」。

すべてを受け入れた上で、世界のすべてを愛して、シリウスはここに消滅する。世界に対して「愛」を述べるシリウスは、まさに「愛の星」である。シリウスは死んだ。宇宙の最高のすべてと最悪のすべてが詰まった、天軍大主星シリウスは、ここに死んだ。

戦いの物語はつまらない

結局、僕はこれ以上、戦いを信じることをやめようと思う。

その理由は、戦いの物語はつまらないからだ。

昔の日本は、「戦いこそが面白い物語」だと勘違いしていた。

ドラゴンボールも、ガンダムも、時にはドラえもんすら、「戦って悪に正義が勝利する」ということを、「面白い物語」であると思い込んでいた。

だが、実際、僕が生きていると、人生はそのようなものではないということが分かった。

確かに、僕の物語にも戦いの要素はあるが、戦いで勝ち負けを決めることだけがすべてではないと、そのようなことが、僕は自分の小説を書いていて分かった。

僕は平和主義者だ。戦いは好まない。だから、これ以上、戦いを信じることをやめようと思う。

この世界は戦いの世界

そうは言ったものの、この世界は基本的に戦いの世界だ。

人間が二人いれば、その二人が勝敗を争って、どちらかが勝ち、どちらかが負けであることを決める。

たくさんの人間がいれば、その中でもっとも強い人間を決める。勝ち組と負け組、あるいはカーストが決まる。

生き物は弱肉強食だ。ひとつの個体が生きるために、それ以外の多くの個体が肉となって負けていく。ひとつの個体が生き延びるために多くの犠牲が出る。

そして、漫画や小説はみんな戦いばかりで、戦って正義が勝つのが面白いだけの物語ばかり多い。

そのような戦いの世界では、ほかの人間が誰も支配できなくした上で、自分だけが支配するのが一番強い。そして、相手に主導権を与えず、自らだけが主導権を握り続けるような主導権争いを普通行う。永遠に自分が勝ち続けるのを目指すのが通例だ。

だから、僕のやったおかしな戦いは、むしろ神話としては正常だと言える。この戦いが面白いかつまらないかは別として、戦って勝つことを目指すのであれば、これが普通である。

左翼は戦いを嫌う

そして、この世界が勝ち負けが基本の世界であると言ったが、実際、普通左翼は戦いを嫌う。

社会主義者や共産主義者は、勝ち負けや競争をすることを嫌う。

それは、実際、戦争を賛美するのが間違っているからであり、競争のような勝ち負けは「人類社会の理想に反している」からだ。

だから、本当は、昔の時代、世界が戦いを賛美する世界だったように見えて、そうではない。左翼は昔から存在し、そして昔から戦いと勝ち負けと競争を嫌ってきた。

だから、普通、「戦いが嫌いです」とか「勝ち負けが嫌いです」と言うと、自らが左翼であるかのような疑惑を抱かれるようなリアクションを受ける。

昔からこの世界では戦いが基本だが、人類の理想として戦いを嫌い、平和を信じることもまた基本なのである。

金儲けよりも夢の実現

実際のところ、金儲けはどうでもいい。

金儲けが嫌いな人は多いが、金儲けが好きな人も多い。そのどちらも僕は否定しない。

生きるためにたくさんの金を稼ぐ必要があることは事実だし、金を稼ぐために奴隷のように働いて生きなければ貧乏人は生きられないということも事実だ。

あるいは、金をみんなよりたくさん持っているだけで特別優遇され、金があるだけでなんでもできる社会が、資本主義の現実社会である、ということも事実だ。

だが、金だけでは得られないものもたくさんある。そのひとつが「夢」だ。

自らを夢を叶えるということは、金を100万円揃えて払うだけでは実現できない。夢を叶えるために努力する必要があるし、さまざまなことを学び、経験しながら、普通の人間にはできないことができるような能力的スキルをつけなければならない。

夢以外に言えるのは「希望」だ。この世界を救うような、人々を幸福へと導くような、社会を救済する「希望」は、金を100万円払うだけでは実現できない。

だから、金はどうでもいい。ある程度の金は生きるために必要だし、そのために多くのことを考えるべきだが、「金だけの人生」はつまらない。真に夢や希望を叶えるためには、金以外のことも頑張らないといけない。

僕はあえて、「金儲けよりも夢の実現」と述べる。

僕の夢はたくさんある。Linuxカーネルの開発者にもなりたいし、作家やデザイナーにもなりたい。少し前はピアニストやドイツ語翻訳家にもなりたかった。そのすべては実現できていない。だが、夢は本当は「実現できなければ意味がない」ものではなく、実現できなくてもその過程とプロセスの中で得られるものはたくさんある。僕は商売人にはなりたくないし、名前を売って成功するよりもただ夢を追い続けていたい。だから、作家にはこれくらいでなれたと思うし、Linuxカーネルは開発できなくても、さまざまなIT技術の勉強ができたというだけで僕は満足している。

自分にしかなかった特別な青春をもっと書きたい

そもそも、作家として僕が書きたいのは、どのような作品だろうか。

僕はそもそも、文学作品のような「本」を書きたいとは思っていない。

僕が書きたいのは、僕にしかなかった、僕だけのオリジナルの「青春時代」のことを、もっと書きたいのだ。

僕には、想像力や構想力はない。この文章を見て、「想像力と構想力がすごい」と思う人間は、それは僕のことを誤解している。僕は一切の文章を、青春時代から今現在に至るまでの「自分の人生」から書いている。だから、僕には、想像力や構想力はない。単に、「発想力だけでどんなことでも文章にできるほど、自分の人生が素晴らしいものだった」というだけにすぎない。

僕は、自分にしかなかった特別な青春をもっと書きたい。それは、みんなが中学高校で体験するような青春では決してない。まったく真逆の、たったひとり自分の部屋の中だけで起きた「特別な奇跡のストーリー」を、僕は完全に忘れたように見えて、忘れていない。なぜなら、分からなくなったのは、もはや完全に分かりつくしたからにすぎない。人間は、すべてのことを完璧に分かるとそのことが分からなくなる。

たとえば、日本語について分かりつくすと日本語の知性がなくなる。想像力を完璧につけると想像力がなくなる。人の話をすべて聞くと人の話を聞く力がなくなる。本やエッセイをすべて読むと、絶対に本やエッセイをそれ以上読もうと思わなくなる。IT技術を分かりつくすとIT技術の専門書に書かれていることが理解できなくなる。哲学についてすべて理解すると哲学者の言っていることが理解できなくなる。

だから、僕はもう、完璧に自らの青春を分かったから、なんでも簡単に青春のことをすべて書ける。そして、僕が書きたいのはまさにそうした「青春時代の自分」だ。それはみんなが中学高校で体験する青春と、本当は何も変わらない。だから、僕は自らの青春を書くことで「みんなの経験する青春時代の人生のすべてのパターン」が書ける。そう、自分の人生を書くだけで、この世界の全員の人生を書くことができるのは、唯一僕だけなのである。

僕にとって、そのような「自分の青春」を書くことが人生の喜びである。僕はひねりのきいたミステリー小説のようなものは書けない。代わりに、自分の人生を神々や宇宙の星々に転用して、宇宙や神々の聖なる「神話の世界」が書ける。その神話の登場人物はすべて僕の人生を別のパターンから模倣したものであり、僕の人生にあったあらゆるすべてのものを使って、僕は神話の神々と星空の一等星の物語を書くのである。

星ではなくウガリット神話の神々になる

僕はこれより、一等星のような星であることをやめ、ウガリット神話の神々になる。

ウガリット神話はセム系地域の神話であり、旧約聖書の神々の登場人物の古代バージョンのようなところがある。

僕の中にある二人の神は、イルとバアルである。

イルはウガリット神話の最高神で、ガブリエルやミカエルなどの「エル」はイルを由来としている。そのため、自らを二つあるいは三つに分ける部分、あるいは「その二人を分けて以後の人生」と「その二人を分けたことによって生まれた文章」はすべてイルの人生とイルの文章である。

これに対して、バアルはウガリット神話の主神であり、僕自身のことを表す。バアルは戦士の神であり、いつでも僕がこの世界と戦い続けた「戦う英雄」はすべてバアルである。

イルとバアルは、決して昔の僕と今の僕が分かれた形式ではない。実際のところ、「現実世界で戦っている自分」のことをバアルとし、「文章の世界で自らの作品を作り出している部分」のことをイルと呼ぶ。また、「自分の中に作り上げられた仮想人格」は、ガブリエルからミカエル、ラファエルまですべてイルである。そして、その後ろにいる「今生きている僕自身」のことをバアルと呼ぶ。

実際のところ、イルは「フィクションの作り上げられたもの」であり、バアルは「現実に存在するこの世界」である。なので、小説からプログラミング言語まで、すべてのフィクションはイルであり、物理的に存在する歴史や、この世界で迷いながらも生きているみんなの人生はすべてバアルである。

イルとバアルにより、「旧約聖書がどのように成立したのか」ということが分かる。ユダヤの旧約聖書はもっとも古い神話ではない。一神教の考え方を取り入れる以前に存在した、セム系の古代の神話はたくさんある。そのひとつが一神教のゾロアスター教であるとしたら、一神教ではなく多神教のセム系の神話としてウガリット神話のようなものがある。僕は今から、そのような「旧約聖書よりも古い古代世界」へと戻る。