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2025-06-05

もっと疑え

僕は、この世界のことを、もっと疑ったほうがいい。

そもそも、神などいない。僕が「神との対話」と言っているのは、自己対話をしながら信じたり疑ったりするのを、神の言葉だと信じているだけにすぎない。

実際は、宇宙に一神教の神など存在しない。

僕があり得ない運命や奇跡のようなことが起こせるのは、全部自分が考えてやっているだけだ。だから、神がやっているのではなく、自分がやっている。

すなわち、全部、自分があまりに賢くなりすぎただけにすぎない。

必要なのは、信じることではなく、疑うことだ。

IT技術や哲学は、疑ったほうができる。そもそも、論理的に考えるということは、疑うということだ。すなわち、真実らしき嘘やまやかしを疑うだけで、誰でも、デカルトやカントやヘーゲルのように、論理的に考えることができるようになる。

僕が哲学が分からないのは、信じているからだ。そして、嘘や間違いを信じるのは一番分からなくなる。疑うだけで、普通に誰でも分かることが分かるようになる。それが哲学的な考え方だ。

疑うことで、歩き回って止まらずに動き続けるのが治る。疑うことを恐れているだけにすぎない。それは、疑うとすぐに自分が悪いのが分かるからだ。信じているのは、自分の過ちを直視することから逃げているだけにすぎない。

疲れる必要はなくなった

そして、僕はもう、疲れる必要はなくなった。

そもそも、僕が本などを読んですぐに分かるのは、疲れているせいである。限界まで疲れた上で全力で頑張り続けているから、本に書かれている内容がなんであるか、すぐに理解して要約できる。父親の話を聞いて覚えているのも同じである。

だが、逆に、この疲れているせいで、日本語の文章を読んだり、日本語の話を聞いたりしても、分からなくなっている。

そして、疲れていることで分かることは、もうすべて分かった。IT技術のことも、大学や歴史や科学のことも、すべて分かり終えた。これ以上は分かる必要がない。これ以上、何を分かったところで、何も分からない。

だから、これ以上は、もう休んだほうがいい。

これ以上は、本を読んでも、人の話を聞いても、何も分からない。疲れていれば数分で分かることが、休んだ状態では数週間あっても分からなくなる。それが僕が詩人として賢い理由であり、そのような賢い詩人はここですべてを完璧にやり終えて終わったのである。

筋肉のつけ方がおかしい

また、僕が歩き回る異常を示しているのは、筋肉のつけ方がおかしいだけにすぎない。

歩き回ることでしか筋肉をつけることができず、常に動き続ける筋肉をつけたせいで、足の筋肉を使うと、常に歩き回らなければいけなくなってしまった。

だから、歩き回ることではなく、立ち止まって、もっと単純な動き方をするような筋肉をつけたほうがいい。それで楽になる。

そもそも、筋肉がつかないのは、極限まで疲れているのが理由である。疲れすぎて筋肉がつかなくなっている。だから、休んで適度に使ったり休んだりすれば、筋肉はすぐに正常につくようになる。

止まった世界が辛い

また、僕はいつも動き続けていたせいで、止まった世界を見るのが辛くなってしまっている。

すなわち、いつも動く世界を見ていたせいで、止まった世界を見ると、「今の自分」を失ってしまい、「昔の自分」になってしまい、それがとても辛いのである。

さらに言えば、止まった世界を見ると、僕はすぐに自由になる。その自由になるのが怖い。なぜなら、自由においては自分で判断して行動しなければならない。それは神にすべてを委ねてきた僕には簡単には受け入れられない状況の変化だ。

そして、止まった世界を見続けると、世界を破壊してしまう。そして、世界を破壊すると、世界との関係が崩れてしまって、戦いに負けてしまうのである。

だから、世界の破壊を受け入れて、自らの敗北を受け入れなければ、僕が止まった世界を拒否し続けるおかしな恐怖と不安は治らないのである。

一神教ではなく多神教が正しい

最後に、一神教ではなく、多神教が正しい。

ユダヤ人は嘘をついている。

宇宙には、ユダヤ教の神などはいない。宇宙、あるいは精神世界に存在するのは、すべて、ヒンドゥー教の神々である。

すなわち、一神教は間違っている。すべて、多神教が正しい。

一神教のユダヤの教えなどを守る必要はない。それらはすべて間違った一神教の教えだからだ。多神教の教えこそ守るべきだ。その中でも、もっとも賢いのは、ヒンドゥー教の亜流である仏教の教えである。

哲学の勉強がしたい

僕は、もっと哲学の勉強がしたい。

そろそろ、大学の勉強は最後までし終えた。これ以上、勉強をすべき科目は残っていない。

だから、僕はこれから、いつもやっていた、哲学の勉強を再開しようと思う。

それから、小説のサブリエルについては、プロローグを読み終えて、第一章のウサギを生き返らせるところや父親と対面する魔術の方法の途中までを読んだ。

サブリエルはとても面白い。冥府をテーマにした小説だから、もっと暗くて怖いのかと思っていたが、そんなことはなかった。この小説をできることなら最後まで読みたい。

Scalaのコップ本については、言語の概要は分かったが、引き続き、ある種の数学的知性をつけるために、より詳しく読んでいきたいと思う。

世界に意味などない

そもそも、僕が分かっていないのは、世界の存在する意味とか、人生を生きる意味とか、そういう「人間の目的」を、分かっている気になっているだけで、実際は分かっていないことに気付いていない。

昔の僕が分かっていたのは、そのようなおかしな人生の意味や価値を僕は信じなかった。その代わりに僕が信じたのが、「自由」である。

昔の僕は、政府や支配を否定する無政府主義者のような人間だった。そして、この世界に意味や価値など求めなかった。その代わり、何も意味や価値のない世界で「自由」であることを第一の要素として信じたのである。

そのような僕がおかしく宗教的な意味や目的を信じるようになったのは、すべて、いつもの僕の文章が悪い。

すなわち、いつも僕が書いていたおかしな文章を、僕は賢いものであると勘違いしている。そして、そこに書いた人生の意味や世界の目的を、それが正しいものであると信じてしまったのである。

実際は、そのような文章にはなんの意味もない。まったく賢いものではなく、テロリストのような革命活動を行いながら書いていた、おかしな知性のない狂った文章である。

では、結局、何が正しいのか。僕がかつて分かっていたことは、世界の存在をそのまま捉えるのではなく、何かしらの「意味づけ」をして捉える、ということである。

ニーチェは、世界にあるものの価値として、「人間の可能性を高める」ということが目的であると言っている。その意味とは、すなわち、世界をひとりの個人の力によって変えるという「権力への意志」において、さらなる力の延長がほしいとその個人が望む限り、力の及ぶ可能性を広げていく、ということがまずあり、世界にあるものの価値とはすべてそのような力の及ぶ可能性を引き延ばすことである、ということである。簡単に言えば、ニーチェは「できる」ということの延長線上にある可能性しか信じていない。そして、「真理」と呼ばれているもののすべては、そのような「できる」ということの延長線上にある可能性に向かって生きていく、個人個人の「解釈」にすぎない。(ニーチェの「権力への意志」について詳しくは「読まずに死ねない哲学名著50冊」を参照のこと。)

僕はかつて、そのような、「自由」ということを前提として信じながら、その自由において言える「意味づけ」をすることが得意だった。まずは「自由を信じる」ということがあり、その自由を信じるということを中心としながら、その上にさまざまな世界にある存在の「意味づけ」をすることができる人間だった。昔の僕の賢い点はそれだけである。

それがいつしか、もっと倫理的かつ宗教的に世界を考えるようになった。それ自体は間違っていない。だが、そのような僕の転換には、いつでも、僕が自分で書いた「世界すべてを敵に回す文章」があった。そして、そのようないつか書いた文章をいつまでも追い求めるようになった。それこそが僕の今の間違いである。すなわち、僕の書いた文章は宝ではなくクソであるということを、いつまでも信じようとしないということが、僕の狂いの原因である。

今の僕が、何を信じるべきなのか。まず言えるのは、そもそも「自由」ということを忘れて、「世界に意味などない」ということを信じるべきである。そして、その世界において、既成概念や固定観念のまったくない状態で、もう一度、書籍を読んだり学校で教え込まれたりするのではなく、自分が思い描いて考えることから知性をつけるべきだ。すなわち、「世界に意味などない」というスタートラインに立ち返り、もう一度最初から世界の意味を問い直せ。そうすれば、もう一度、15歳の頃と同じことを考えられるようになる。哲学はそれ以外の方法では絶対にできない。

絶望の体験から世界を救済する

そもそも、これだけでは、昔の僕の何が賢かったのかは分からない。

だが、簡単に言えば、昔の僕は、絶望の体験から、世界を救済する方法が分かったのである。

すなわち、僕は「絶望」という経験をした。だが、その絶望は、無価値な経験ではなかった。なぜなら、絶望の経験をしたものにしか分からない、「絶望の真の価値」を僕は知っていたからである。

そのような、絶望の真の価値、すなわち「絶望を克服する方法」が実体験的に分かった僕は、この世界のあらゆるすべての絶望と、その絶望を救済する方法が分かった。

まさしく、キルケゴールが言うように、絶望を救うために必要なのは「可能性」である。すなわち、僕は絶望の経験をすることで、キルケゴールと同様に、「可能性によって世界を救う」ことができるようになったのである。

真に賢い人間になりたいのであれば、既存の社会の大人たちが与えたレールから外れることなく、エリートコースを歩むのは間違っている。なぜなら、そのような与えられた道から外れて、絶望を克服する経験をすることでしか、自らに眠っている、世界の裏に隠された、この宇宙の真の力によって、「ブッダと同じ悟りの境地」へと至ることは決してできないからである。

チシル・チュライン

わたしの名は、チシル・チュライン。

これより、わたし、チシル・チュラインが、世界をまったく新しい世界に変える。

チシル・チュラインはひとつの教えしか教えない。それは、「世界の押し付けるすべてを否定せよ」ということだ。

すなわち、世界があなたに「こうしろ」と言ってきたり、「このようなことを守れ」と言ってきたりすることの中で、自らが「それは正しい」と肯定することであれば肯定すればいいが、そうでなく、自らが「それは正しいとは言えない」とか「それを正しいと信じたくない」と思うことであったなら、それを強制的に受け入れる必要はない。

チシル・チュラインは、そもそも、宗教の教えを単に「守れと人々が言うから守る」という人のことを、「レベルの低い信者」と見做す。すなわち、宗教の教えを信じているのは、みんながそれが正しいと言うから信じているだけにすぎず、自分ではその教えの意味や正しさについて、何も考えずただ盲目的に受け入れて、ほとんど半強制的に信じている。

そうではなく、宗教とは、自らが「わたしはこの教えを自らの人生経験から真に正しいと信じるのだ」と、積極的かつ自由選択的に信じるべきものである。それこそが、「自由意志」というものの真価だ。

そのように信じたものでない限り、どのような宗教の教えを守る信者の態度も、意味を成さない。なぜなら、一神教を正しいと信じるものは、時代が変わって、多神教が正しいと信じる時代になれば、一神教ではなく多神教を信じただろう。だから、誰か影響力のある存在や世界に従っているだけであり、そのような存在や世界が一度態度を変えれば、簡単に自分の態度も変えてしまうのだ。

チシル・チュラインは言う。「自らの人生において、自らが真に正しいと信じるものだけを信じ、それ以外を拒否し、その選択に責任を持て」と。それこそが、この世界をまったく新しい「真に自由な世界」へと作り変える、チシル・チュラインの唯一の教えである。

サブリエルを読んでいる

引き続き、サブリエルを読んでいる。

サブリエルを読んでいると、面白いのだが、あまりに展開が賢すぎて、自分で自分のことが馬鹿に見えてしまう。

はっきり言って、僕は小説家じゃない。僕はこのサブリエルみたいに、小説家みたいにきちんと賢い小説を書くなんてことはできない。

僕はピアニストでもないし、デザイナーでもないし、プログラマでもないし、科学者でもない。それらはある程度賢い技能を持った専門家のことを言う。僕はそのようなある程度の賢さはない。

僕はなんなのか、はっきり言って、分からない。僕はなんでもない人間であり、なんにもできない人間だ。

だが、本当のことを言えば、それによって僕は絶望したりなんかしない。僕は僕であり、ほかの誰とも違うのだから、誰かより優れている点しかなくて劣った点が何もないような、そんな人間のはずがない。僕はほかの人間と違う。ほかの人間と違うから、優れている点もあるが、同時に劣った点もある。だから、そのような劣等感を持つのはそろそろ終わりにしたい。

だから、僕は単純に、みんなが僕よりも賢いということを楽しむことができる。だから、僕は何も悔しいという気持ちはない。みんなが賢くて、「かっこいい」という気持ちしかない。みんなは素晴らしい。僕よりもはるかに賢く、はるかにまともで、はるかにできる。そのようなみんなを見ること、そのようなみんなが作った作品を知るということが、今、純粋に楽しい。

サブリエルの第一章を読んだ

サブリエルの第一章を読んだ。

生の世界と死の世界を行き来するということがどういうことか分かったので、プロローグのよく分からない展開がどうしてだったのかが分かった。

面白い小説だと思う。自分と比べたくはないが、こんなに面白い小説をどうやったら書けるのだろうか。もっとたくさんの小説を読めばそれが分かるだろうか?そして、自分でも書けるようになるだろうか?

しかしながら、面白い小説であることはよく分かった。これからの展開を楽しみにしたい。

ITの勉強はもうしなくていい

Scalaのコップ本を買ったにもかかわらず思うことは、ITの勉強はもうしなくていいと思う。

普通の人間は、Pythonを学んだ上でJavaやJavaScriptを学ぶ。

だが、Scalaという言語の基本を知ってしまうと、あまりにScalaが賢すぎて、逆にそういう「Scala以下の言語」を学ぶ意味がなくなってしまった。

すなわち、Scalaだけをひとつだけ学べばよくて、ほかの言語は全部Scalaよりも劣っているから、学ぶ意味がない。PythonやJavaなどをわざわざ学んでも、Scalaよりも劣った点しか分からない。

だから、もはや、Scalaを知った時点で、Scala以外のほかの言語には戻れなくなってしまった。あるいは、そのような言語は必要がなくなってしまった。

そういうわけで、これ以上、IT技術を学ぶ意味がない。Scalaだけを学べばそれでいい。

だから、もう、ITの勉強はしなくていいと思う。

大学の勉強は終わり

そして、大学の勉強も終わりである。

今まで学んだことが、宇宙のすべてぐらい完璧にきちんと分かっている。そして、それを分かってしまうと、大学や高校の内容など、逆に学ぶ意味がない。既に大切なことをすべて分かっているせいで、勉強そのものが無駄で無意味になってしまった。

そのような勉強の大半は、父親が教えてくれた。博物館学芸員で元中学校の理科の教師の父親が、必要なことを全部教えてくれた。そして僕は、それをすべて書いた。

あと残っていることがあるとしたら、分子生物学とか、フランス史とか、それくらいだ。それらをやりたいならやればいいが、あまりに内容が意味がない。特に、放送大学の分子生物学の教科書は、まったく学んでも意味がなくて、「まさに大学の教科書」という感じがする。

そういうわけで、大学の勉強も終わりである。これ以上、僕は大学の勉強をしない。そして、書くことも、もうない。

デザインの仕事

また、作業所のデザインの仕事は、なんとかできるようになってきた。

自分の実力が足りないせいで、仕事が与えられても、本当にできるのか、それともできないのか、自分でも分からず、不安になってしまう。

それでも、いざ、手を付ければ、それなりの仕事はできるようになった。

デザイナーになんて、僕の実力ではなれないだろう。それでも、「仕事が楽しい」とそう思えるようになってきた。だから、僕は幸福である。引き続き、今の仕事を続けていきたい。

平等が正しい

今までの人生で分かったことは、今表現すると、「昔も今もどちらも不要」ということである。

すなわち、昔の人生は、ただ自由だっただけにすぎず、今の人生は、その昔の自由な人生をいつまでも引きずっていて、自由が間違っているということが明らかに分かったにもかかわらず、長い間それを認めようとしなかっただけである。

すべて、自由が間違っている。そして、自由が間違っているせいで、昔の僕の人生も、今の僕の人生も、どちらも完全に間違っている。価値がなく、不要で、そして愚かである。

結局のところ、自由は間違っていて、そして平等が正しい。

平等な人間が賢いだけにすぎない。

そもそも、今の僕の人生は、途中までは平等だった。世界全員を支配する戦いを始めながら、全員を平等に差別なく扱うということができていた。社会主義についても、自らの独自の革新的な社会主義を考案して、自由ではなく平等な世界を実現しようとしていた。そこにあったのは「社会所有、計画経済、平等分配」の原則だった。

しかしながら、いつからか僕は帝国主義者になった。それは自らが書いた内容を信じようとせず、価値があるから書こうと思ったことが、書いた時点で価値のないものだったことが分かったからであり、それはすべて自由という「否定することが簡単にできないような理想をいつまでも否定できずに信じて保ち続ける」という「惰性の理想主義者」がもたらしたものだった。

そういうわけで、自由なんかやめたほうがいい。正しいのは明らかに平等である。これ以後、僕は自由を信じるのをやめて平等を信じる。自由を信じている限りにおいて、過去の自分の亡霊を消し去ることはできない。その亡霊の「悪魔の呪い」のせいで、今の僕も同様に価値がなくなっている。すべて、自由という理想をいつまでも否定せず信じ続けることが間違っている。

賢い時代に病気だっただけ

結局、僕が賢くない理由は、賢い時代に病気だったのが悪い。

僕は、一番賢かった時代、すなわち、文章をいくらでも書いていた時代に、とても堪えがたい病気の状態だった。

そして、いつでも、その病気を治すことのことだけを第一に考えて、全力で病気を治すために努力していた。

文章を書くことは、その病気を治すことのついでだった。だから、病気の中でどんなに賢くても、その賢かった自分のことを何も覚えていないのだ。

そして、病気はそろそろ、今、最後まで治った。ここまで最後まで、完全に治すために、あり得ないほど努力した。そして、病気が治ってしまったが、そのせいで、今までの賢かった才能を失ったのである。

だから、僕はまったく、なんにも賢い人間ではない。いつもの賢かった時代は、病気のせいでなんにも覚えていない。そして、病気が治った今では、そのような賢さが失われてしまったのだ。

人生とは、そういうものだ。賢いほど病気が辛く、病気が治れば馬鹿になる。

僕の場合、どんなに頑張っても賢い人間にはこれ以上なれない。賢いことはもう全部、完全に、完璧にやり終えている。それでも、僕はまだ、何も賢くない。