この世界で生きるために必要なのは、数学を学ぶことだ。
IT技術やインターネットが普及したことで、分かりづらくはなってしまっているが、この世界にあるもののほとんどは数学だ。
たとえば、土木や建築やインフラは数学だ。トンネルや建築物を作るためには、円や球の形を活用しながら、測量して作らなければならない。
あるいは、ものや機械は数学だ。特に、ものの量や大きさ、あるいは容器に入る容積を求めるために、数学的な計算を行う。
あるいは、政治や経済は数学だ。金がどれくらい儲かるのか、どれだけ購入してどれだけ貯金すれば生きられるのか、そのようなことを数学で考える。会社の利益や、政治家が選挙で当選するために必要な票の数などは数学だ。
だから、生きていく上で、数学は必要だ。
それ以外にあるとすれば、それは生物学だ。たとえば、料理、農業、医学や病気、あるいは自然環境などには生物学が多い。だから、人間が生きるために出くわすとしたら、それはほとんどが数学であり、一部が生物学だ。
そして、そのような数学は、高校や大学の高等数学ではなく、小学校の算数や中学の初等数学のほうが必要だ。
小学校の算数を学ぶことで、四則演算ができるようになり、四角形や三角形や円などの幾何学的な法則や、面積や計量の計算ができるようになる。
また、中学で幾何学などの証明ができるようになり、問題を方程式で解けるようになることで、論理的に考える力、何が正しくて何が間違っているのかを自分で考える力が養われる。
これに対して、高校以上の関数や公式による数学は、数学者や科学者になるために、大学の現代数学の世界を知るためには必要だが、実際に生きていくためには必要ない。逆に、小学校算数や中学数学の知識が上書きされてしまい、そこまでで分かっていたことが分からなくなってしまう。
そのように、生きていくために、数学は学ぶ必要がある。
そのようなことが、昔の人間ならば誰でも分かる。その理由は、昔はインターネットがなかったからだ。
IT技術やインターネットは、計算機だから数学と密接に結びついているように見えるが、実際はそれらはバーチャルな仮想空間で成り立っており、現実世界のフィジカルな物質世界の法則を数学で考える、ということとは異なる。
だから、IT技術やインターネットをやればやるほど、現実世界は数学で成り立っている、ということが分からなくなる。
すなわち、インターネットは仮想世界におけるバーチャルな数学であり、旧来の数学・物理学のように、物質的な現実世界を計算する数学とはまったく異なるのである。
だから、実際、数学でこの世界を捉える方法が分からないのであれば、真っ先にパソコンを排除するべきだ。IT技術やインターネットを否定し、生活から排除することで、はじめて本来の正しい数学的知性を得ることができる。
だから、数学を理解するためにこそ、パソコンを排除するべきなのである。
この世界で生きていくために必要な数学は、本当はそんなに多くない。まず、足し算、引き算、掛け算、割り算を知っておくこと。次に、小数点や分数のような有理数の計算ができること。そして、三角形や円のような幾何学の法則を知っておくこと。そして、問題を解くための論理的な力として、方程式と証明の方法を知っておくことだ。
本当は、この世界ではそれくらいできちんとまともに生きられるようになる。だが、高校数学はむしろ学ばないほうがいい。高校数学を学ぶと、関数や次数に基づくサイン・コサインや微分・積分やベクトル・行列こそが真の数学だということになってしまう。だが、それらが成り立つのは現代数学の比較的最近の時代であり、古代の数学者はそんなものは知らなかった。古代の偉大な数学者であるピタゴラスであっても、無理数の存在は受け入れられない。だから、高校数学など学ばないほうがいい。数学というものが機械的なプラクティスにしか思えなくなってしまうからだ。
今まで、僕は散々、「自由」という言葉を振りかざして、世界に対して反抗的な言説を繰り返してきた。
だが、実際のところ、今の日本では、自民党に従うべきである。
自民党は、日本の国民のために、よく頑張っている。自由と民主主義を守りながら、日本という社会が滅びないように、また貧乏国にならないようによく頑張っている。
自民党は自由と民主主義の象徴であり、自民党に従うことが正義であり、自民党の定める法律を守ることが善である。
左翼民主主義者や極左社会主義者などが政権を取ったところで、何ひとつ実際にはできない。旧民主党がそうだったように、左翼が政権を取っても、自民党よりも優れたベターなことはできない。もちろんベストなこともできない。
だから、僕は自民党に従う。
そもそも、支配者に対して反抗する自由などは必要ない。日本国民である以上、日本の法律を守らなければならないのであり、それと同じように、日本の支配者には従わなければならない。自民党を批判する自由などは必要ない。
賢明な大人は自民党に従う。自民党以外の野党には期待できない。彼らには何もできない。
人種差別は、しないほうがいい。
なぜなら、人種差別には、自分の望む人生を生きる自由がないからだ。
人間には、自らの人生を自らの自由な意志で決める自由がある。自らの望む夢に向かって、誰よりも優れた人間になるために努力し、自らの夢を叶え、なりたい自分になれるような「自由」が、人間には生まれ持った権利として存在する。
だが、人種差別主義者は、そのような「自由」を否定する。人間が最初から遺伝子的に優れているとか劣っていると考えて、優れた人間を作り出そうとし、劣った人間は不要だから殺す、といったように、劣悪な人種を抹殺して優れた人種を生かそうとする。
僕が思うに、そのような人種差別は、すべて自由の敵である。
自由を信じる人間は、人種差別をしてはならない。人種だけではなく、身分や性別による差別もしてはならない。真にその人間が努力すれば、その人間は誰よりも優れた能力を持つことができる。その能力こそを評価するべきであり、人種や身分や性別を評価の軸にしては決していけない。
だから、人種差別は間違っている。
中国や朝鮮など、日本の敵対国家を貶すようなこと、特に彼らを人種差別のようにヘイトスピーチの「劣った人種」であると批判することは絶対にしてはならないことだ。敵対国家を最初から「敵の人種」であると見なした時点で、人種差別主義者と同じ発想に陥ってしまう。僕は決して中国人や朝鮮人を差別することはない。彼らは決して、生まれてきて最初から日本人の敵の人種だったわけではない。間違っているのは中国や朝鮮の側だけではなく、日本の側にも責任がある。だから、「日本人は人間で、中国人や朝鮮人は人間以下である」などという表現は決してしてはいけない。そのようなことを言う人間はまさに「自由の敵」である。
自由を信じるものは、人種差別をしてはならない。ヘイトスピーチをする人間は、自らも世界全員から批判され、糾弾されるべきである。中国や朝鮮を差別して批判する人間は、その人間が批判するのと同じような批判を甘んじて受け入れるべきである。それを受け入れるならば、その人間にもある程度の正義は存在すると言えるが、受け入れられないのであれば、そのような人間は無価値な「自由の敵」であると評価されるべきである。
このように、人種差別的なヘイトスピーチを否定する一方で、僕は、国家や民族の文化に「お国柄」があるという考え方は許されるものであると考える。
すなわち、ドイツにはドイツのお国柄があり、イギリスにはイギリスのお国柄があり、フランスにはフランスのお国柄がある。
ヒトラーがやったように、「アーリア人が優れており、ユダヤ人やスラブ人は劣っている、だからアーリア人を生かし、ユダヤ人やスラブ人を殺すべきである」という考え方は間違っているが、「ドイツにはドイツ文化のよさ、イギリスにはイギリス文化のよさ、フランスにはフランス文化のよさがある」と考えることは間違っていない。
だから、人種や民族を絶対に差別してはならない、という考え方も、そう正しいとは言えない。中国には中国のスタイル、朝鮮には朝鮮のスタイルがある。彼らと日本のスタイルは異なるのであって、彼らが「日本は醜い文化だ」と言うのであれば、それは言わせておけばいい。日本の文化の素晴らしさが分からない時点で、彼らは日本人から見て、友人になる価値も親密になる意味もないのだ、と割り切って考えればいい。それを、ヘイトスピーチの応酬のように互いを貶し合う必要はない。
このようなことを言うと、「あなたは人種差別主義者なのか」と批判されるかもしれない。
だが、日本人の多くは、たとえば日本人のスポーツ選手を応援する。
日本人のスポーツ選手がスポーツの試合に勝てば、日本人の多くの国民は自分のことのように喜ぶ。
そのようなナショナリズム的なある種の人種差別を、すべて禁止し、すべて平等にしようとすると、そもそもスポーツだろうがどのようなゲームだろうが、その勝敗を楽しめなくなってしまう。
大谷翔平が日本人だから、日本人が大谷翔平の応援をするのは、果たして人種差別だろうか。本当は、それは一種の人種差別だ。だが、そこにあるのは「日本の野球選手を応援する気持ち」であり、「アメリカや中南米の野球選手を劣った人種であると貶す気持ち」では決してない。
だから、僕は人種差別主義者は「自由の敵」であると思っているが、人種差別のすべてを完全に禁止しようとは思わない。日本人が日本が好きなのは正常だし、朝鮮人が日本が嫌いなのもまた正常の範囲内であると考える。
本当のことを言えば、僕はそもそも平等が嫌いだ。
優れた人間には価値があり、劣った人間には価値がない。それの何が間違っていると言うのか?どう見ても、優れた人間はそれ相応の能力を持っていて、劣った人間は持っていない。それならば、能力を持っている人間のほうを優遇し、価値ある人間を特別に処遇する、ということは間違っていない。
そして、残念ながら、最初から優れた能力を持っている人はいるし、努力ではどうしようもできない、その人だけが持っていてその人だけが分かっているような能力も存在する。その人と同じ人生を生きられない人間には、絶対に勝つことができないような、その人生でしか得られない天才的な才能というのは確かに存在する。
だが、だからといって、社会主義者の平等や、神の平等が間違っているわけではない。それらは「弱者を救済する」という意味で、素晴らしいことを行っているのであり、価値あることを行っている。だから、彼らの慈善的な行為すら間違っていると速断するのは間違っている。
大谷翔平が優れているのが、もしかしたら、誰が努力しても得られない、「大谷翔平の人生を生きなければ得ることのできないような天才的能力」に由来する可能性はある。だが、その何がいけないことであると言うのか?そして、そのような優れた人間を特別に処遇するのは、決して間違ったことではない。
だから、僕はそもそも平等が嫌いだ。この世界のすべてが、歴史の向かっていく共通の到達地点として「平等」に向かっていくと考えるのは愚かな考え方だ。実際は平等などは絵に描いた餅そのものであり、この世界が完全に平等になる日など、永久に訪れないだろう。
このような僕だが、ナチは大嫌いだ。
なぜなら、ナチはどう見ても、真実を隠して嘘をついている馬鹿な独裁者とその仲間の勢力が、愚かなことをしてみんなを騙しているだけだからだ。
そのように、「言葉巧みにみんなのことを騙す」ということを、なぜ行う必要があるのか。みんなを騙し、愚かな虐殺行為をして、果たして何が面白いのか。それによって、何に勝利したつもりなのか。それによって、どのような醜く腐った行為を「わたしは特別に許された」と勘違いしたいのか。
そのような醜く腐ったナチの独裁者のヒトラーと同じことを、僕は決してしたいとは思わない。彼らはドイツならびにほかのすべての国を騙し、天下を取ったつもりになって、自らの最悪の行いをさも特別に許されたことであると信じている。彼らは愚か者であり、絶対に天国に入場することのできない、終末において地獄に堕ちるべきサタンであると言える。
常に正しい行為を行うからこそ、正義は正義なのであり、決してナチの独裁者勢力は正義であるとは言えない。真の正義は日本であり、真の理想や真の善もまた日本なのである。