なんだかんだ言って、この執筆活動はまだ続く。
僕は今から、男になる。
そもそも、女をあまりに生きすぎた。女ばかり生きて、頭の中は完全に女になっている。
このような女には、考える部分がない。
今から、僕は男になる。男には戦って勝つ部分がある。そして、その戦って勝つ部分こそが、人間的かつ論理的に考える部分である。
僕は民主主義者になる。その理由は、僕は共産主義者が嫌いだからだ。
共産党はおかしい。日本を共産主義国家にしようと企み、人々から自由に私有財産を持つ権利を奪おうとする。独裁によって人々を恐怖で縛り付けるその危険思想は、ナチスよりも悪い。
僕は共産主義を信じない。
この世界から、共産主義者の独裁者を取り除き、打ち倒すために僕はみんなと一緒に戦う。共産主義を行ってはならない。共産主義は間違っている。
共産主義の独裁者は、民主主義者みんなの力で打ち倒すべきである。
目指すべきは、日本と民主主義の勝利だ。そのために、独裁主義的なすべての危険思想を否定し、拒否し、拒絶し、打ち倒すべきである。
そして、僕は善良な人間になる。
善良な人間にしか、賢いことはできない。なぜなら、凶悪な人間は間違ったことしかできなくなってしまうからだ。
賢いことをするためには、善良な人間になるしかない。神を信じるのはその手段や生き方のひとつだが、たとえ神を信じていたからといって、凶悪な人間であればそれは間違っている。神を信じているか、信じていないかにかかわらず、善良な人間でなければならない。そうでなければ、決してこの世界で賢いことはできない。
幸いにして、僕は神よりも素晴らしい守護天使がついている。それはさユりだ。さユりが僕のことを守護天使として守ってくれるから、これ以上、凶悪なイスラエルの神を信じる必要はない。あるいは、神は最初からさユりだったことになるだろう。
はっきり言って、僕は独裁者が嫌いだ。
なぜなら、僕は他人に支配されるのが嫌いであり、自由が好きだからだ。
僕は他人に支配されたくないし、人々が誰かに邪な支配を受けるのを嫌う。誰かひとりが堂々と独裁者のように振る舞って、世界を支配するということが嫌いだ。
僕は自由が好きだ。自由といっても、ひとりの絶大な影響力を行使するのではなく、それぞれの共同体ができるだけ自由の影響力が強くなるように、小さく狭い範囲で自由を行使することを僕は好む。
一見、僕の思想は共産主義的に見えるだろうが、実際はまったく異なる。僕の考え方はスターリンの考え方と真逆であり、「個人の自由」と「できるだけ小さな単位での共同体の自由」を尊重する。そして、そうした自由と自由が緩やかに繋がることで、ひとつの正しい「連合政府」を築くことを僕は望んでいる。レーニンの考える「評議会連邦」は、自由でこそ可能である。
僕の考え方はすべて自由に根差すものであり、僕は生産手段の国有化を好まない。僕は生産手段の自由化を好む。なぜなら、僕は生産手段がよりオープンになることを望むからだ。オープンに見返りを求めずに全世界に生産手段を公開するという発想で、僕は「ソ連よりも高いレベルでの生産手段の自由化」を目指す。そこにあるのは「ソ連の否定」である。
僕はこの世界が自由であることを強く望み、誰からも支配されることのない「反独裁主義社会」を求めている。絶対に僕は独裁者のようにおごり高ぶることはないし、僕自身がもし支配者になることがあったら、間違った支配をせず、「正義の人間以外には誰も支配することのできないような支配」を行う。それによって、独裁主義政府は「無力化」されることになるだろう。
この文章を見る人が見れば、「まさに共産主義者だ」と言うかもしれない。だが、僕は共産主義者とは真反対の人間だ。絶対に共産主義を僕は否定する。共産主義は間違った思想であり、社会主義は人々から自由を奪うことによって平等を実現しようとするが、僕に言わせれば「平等はクソのような無価値な理想」であると言える。平等とはクソのような理想であり、決して不自由によって平等を実現することを目指してはならない。それこそが、まさに「サタン」である。
僕が自由を信じている理由、それは世界を救うためだ。
すなわち、僕は個人の自由意志を尊重することで、この世界を救うことができると信じている。
自由とは、当事者がその環境や状況を変えることを許すような権限を与えるということであり、自助努力のためのチャンスや手段を与えるということだ。
そもそも、政治家などにはなんにも期待できない。老人の政治家が何かできるわけがない。この世界を救うためには、わたしたち自らが立ち上がり、わたしたち自らの力で世界を変えなければならない。
そのために、学校の教育環境においては、子供たちから自由を奪って管理下に置くのではなく、子供たちが自らの環境を自由に変えられるような自由な権限を与えた上で、自由意志の尊重をさせるべきだ。
そうすれば、子供たちは、反抗やいじめをしなくても、自らの力と自由意志で環境を変えられるようになる。それこそが、この世界を救うのだ。
だから、老人の政治家などには僕はなんの期待もしない。どちらかと言えば、この世界の腐りきった闇を消滅させるために、老人の政治家は今すぐに全員退陣すべきだ。老人の政治家などに僕はなんの期待もしていない。わたしたちの世界は、わたしたちの力で救う。
そもそも、共産党がクソである理由、それは平等という理想がクソだからだ。
そもそも、金を儲けて、何が悪い。
金持ちが金を儲けることで、社会全体が豊かになり、グローバル競争で勝利でき、外貨も稼ぐことができ、金持ちはたくさんの納税を行い、社会全体に還元され、そして従業員もたくさん雇うことができる。
金を儲けることには、いいことしかない。金を儲けることは大々的に推奨されるべきだ。
それに対して、共産党の悪党どもは、盗んで平等に配分することしか考えない。共産主義者こそが社会の害悪であり、世界の誰からも排除されてしかるべきである。
だが、それと老人の政治家が日本の未来にとって無用であることとは、話が違う。老人の政治家は社会悪であり、存在するべきではない。
日本人たちよ、世界一の大富豪のイーロン・マスクを見習え。イーロン・マスクと同じことをやることを推奨せよ。イーロン・マスクをみんなでやれば、それだけで日本が勝てる。
そもそも、社会主義経済を実現して、平等なユートピアになったとして、労働者が楽になったとしても、現実の社会として出来上がるのは、何もできないつまらない社会だ。
社会主義の、自由もなく、生活に必要な最低限のものしか得られない社会では、「面白いことができる自由」が存在しない。
面白いものが何もない、面白いことが何もできない世界で生きたところで、何が楽しいのか。
会社は確かに金儲けだ。悪いことをして儲けている会社もいれば、社員をブラックな奴隷のように扱って儲けている会社もある。だが、それでも、経営者や一定以上の役職にある人間は、自分のやりたいことを自由にできる。そのようなやりたいことを楽しむ「自由」がなければ、生きていて、何が面白いと言えるのか。
そのような自由がある世界であれば、たとえ格差が酷くて環境破壊が深刻だったとしても、面白い人生を生きることができる。そのような面白さの究極的な到達地点はインターネットであり、僕はかつてからそのような「面白いことができるバーチャルな世界」としての自由なオープンソースを望んできた。
すなわち、社会主義は単に理想として間違っているだけでなく、現実としてもクソのような思想だ。社会主義は平等なユートピアを実現しようとするが、面白いもののたくさんある自由な楽園を実現しようとはしない。だから、社民党や共産党は、ひとりの人間として見ても、絶対に間違っている。
かつての僕が信じていた自由、それは「会社ではない方法で自由な経験を行う」ということだった。
すなわち、会社に入らないと、さまざまな社会的なことはできない。しかしながら、会社に入ると、会社に束縛されてしまい、仕事以外のことができなくなってしまう。
かつての少年だった僕は、会社に入って自由が奪われることを嫌った。だから、会社以外の方法で、「自由に働く方法」というのを考え、実際、インターネットを使ってそのような自由な経験をし、そこから哲学的なことを分かった。「自らの経験から文明の意識を知る」ということができた。
いつも僕が書いていた文章には、自由においてどのようにさまざまな人生経験をするか、人生経験をどのように捉えて自由に理解するか、自由に基づいてリスクなく会社を作る方法、自由を成り立たせることで多くの人々の自由意志や意見を取り入れて社会制度に反映させる方法など、「自由に社会を経験する」「自由に世界を変える」ということを、すべて書いていた。
だが、大人になって仕事を経験すると、そのような「自由」もまた、間違いだったことが分かった。
まず、会社での仕事の経験は、長いスパンで考えないと、一朝一夕にできるようにはならない。何年もかけて勉強と仕事の経験を積んで、ようやくできるようになる。だから、長い間それしかできないのは間違っていない。
そして、別のことがやりたくなったら、それがやりたくなった時点で、別の部署に移ったり、転職したりすればいい。今しているのが向いていない仕事なら、別の仕事を任せられる。
それから、子供時代に十分に自由な経験をすると、大人になって再度自由な経験をする必要はなくなる。子供時代に十分自由を経験したせいで、自由は記憶の中に存在する。だから、今さら子供時代に戻って同じことをしなくても、大人は自由も要らないし、自由な時間すら必要でなくなる。
かつての僕は、支配されるということをあまりに恐れすぎていた。だが、実際の社会では、支配されたほうが都合がよくすべてのことができることはある。大学の勉強は、カリキュラムが支配されているからこそできるようになる。だから、支配されることを恐れすぎると、何もできなくなってしまう。英会話教室やピアノ教室の経験から言っても、支配されることはいいことだ。
だから、自由もまた間違っている。
本当に自由が欲しいなら、経営者になればいい。それは金があれば可能だ。金のほうが左翼的なユートピアの自由よりも正しい。リスクなく自由を実現させることは不可能だ。
僕が信じていた自由、それは「分裂の自由」である。
すなわち、それぞれの価値観を尊重し、それぞれが異なる社会を作った上で、社会や環境の独立性を高め、可能性を許し、可能性を与え、変化可能になることを許すことを僕は信じていた。
だが、実際の僕がしたことは、それとは真逆の、すべてを画一的に支配する戦いの自由だった。
今まで自由を信じていた僕にとって、それは受け入れがたいことだった。自由を信じていたはずなのに、自分のすることは世界から自由を奪ってしまう。それによって僕はおかしくなった。世界すべてを敵にまわして滅ぼすようになった。
だが、それは間違いではなかった。なぜなら、Linuxのコミュニティを滅ぼし、自ら世界を救いながらにして滅ぼした僕は、自分の信じる「自由」を信じられなくなっていた。あるいは、自由という理想の裏側にある負の側面を知ってしまった。自由とは支配と表裏一体であるということに気付いてしまい、それを受け入れることができないながらに受け入れようとしてしまったのだ。
すべては、今考えれば、何もおかしくはなかった。この世界の自由のために本気で「革命戦争」を頑張りたかった。それこそが僕にとっての「自由の裏の側面」だった。すなわち、この世界を本当に素晴らしい最高の世界にするためには、自由を信じながらにしてナチスの皇帝になるしかなかった。それこそが、僕にとって真に大切な「神聖なる理想」だったのである。
そのような僕は神と対話するようになったが、実際はむしろ自分自身が神になっていた。世界に存在するあらゆるすべてが、僕が神であるということを告げていた。それはそれ以降の僕があまりに賢すぎて、僕が世界を救う救世主として、神に選ばれたからである。
昔僕が考えたことというのは、本当はひとつしかない。
それは、「相手の目に映った自分の姿」とは何か、ということだ。
それは僕にとって、いじめを解決する方法でもあった。なぜ自分自身がいじめられるのか、それは相手の目に自分がどのように映っているか、ということから、「なぜ僕をいじめたくなるのか」ということから考えられる。想像力で学校環境を思い出しながら、引きこもりになった僕は自由な時間の中でそれを考えた。そして、インターネットを使って、インターネットに映った僕自身の姿から、「情報の非対称性」をすべて捉え、心理学的な「学習的動機付け」を考えた。
そのような結果、僕はフロイトのような精神分析から、ブッダのような悟りに到達した。
僕は、人間の心がいつどのようになるかという、「人間の心の理由」をすべて理解した。完璧に、ニュートン力学のような作用・反作用を考えることで、あらゆるすべてが分かった。僕はまさに、「自分らしさとはなんなのか」ということへとアイデンティティの持論が到達することで、宇宙のすべてを悟った。そこにあるのは、「絶対にこの世界は救うことができる」ということだった。それはまさしく、「世界を自由にすることが世界を救う」ということだったのである。