残念ながら、昨日の内容で、自由と民主主義は間違っていることが分かった。
自由と民主主義によって平和になるのは、体制派と反体制派が、選挙という制度で争っている時だけであって、ひとたび両陣営が選挙でなく、銃を持って殺し合うようになれば、内戦になり、国は荒廃する。
だから、自由と民主主義は決して平和な思想ではない。
正しいのは、帝国か社会主義である。
だが、帝国と社会主義において、どちらの理想も矛盾なく並立して成り立たせるような、包括する思想がある。
それは国家社会主義である。
よって、帝国と社会主義のどちらも実現する、という意味での「正しい自由」を実現するのであれば、国家社会主義を信じるべきである。
だから、僕は国家社会主義を支持する。
残念ながら、共産主義は間違っている。まず、共産主義は人を殺す。君主制を廃絶することを目指している共産主義者は、あらゆる国の君主を皆殺しにする。それから、ソ連は失敗した。ソ連は悪の帝国にすぎず、社会主義経済は成功しなかった。
よって、正しいのは唯一、国家社会主義だけである。
正しい考え方とは何か。
正しい考え方は、自由ではない。正しい考え方は、平等と統一である。
すなわち、社会を自由にしても争い事が生まれるだけである。子供たちの環境は平等にすべきであり、大人たちの環境は統一すべきである。
LinuxとオープンソースがWindowsに敗北しているのは、統一しないからである。すなわち、GNOMEとKDEが乱立しているように、いつまでもひとつのシステムを標準であると統一しないせいで、Linuxとオープンソースは敗北し続けている。
統一するだけで、Linuxとオープンソースはすぐに勝利できる。
だから、どうでもいい「自由」という考え方は、Linuxとオープンソースにおいてもっとも間違っている。
最近、僕はフランス語のCDフレーズブックを聴きながら、フランス語の勉強をしている。
フランス語を学ぶコツは、正確に聴くことよりも単語やフレーズを覚えようとすること、そして、前と後ろに分割して、ひとつの文ではなくたくさんの文であると考えて解析することだ。
特に重要なのは、文と文を繋ぐ言葉を覚えることだ。文と文を繋げる「真ん中にある言葉」を聴くだけで、文法を知らなくてもフランス語は話せる。
また、必要なのは、文字ではなく音から入ることだ。音から入ると、フランス語はそんなに難しい言語ではない。だから、教科書で文字を覚えるよりも、CDのフレーズブックを聴くべきだ。また、最初は辞書を引くよりも、音からその言葉の意味をなんとなく分かろうとすべきだ。
それだけで、フランス語は誰でもできる。
そして、単語を知りたいのであれば、和仏辞典を読めばいい。和仏辞典を開けば、自分の知りたいことがなんでも書かれている。
そのようなフランス語は、英語をきちんと学べば誰でもできる。僕は英会話教室で一通り英語を学んだ。そのために、CDフレーズブックを聴いていても、何を言っているのかが大体分かる。あとは、自分でも話せるようになればいい。それは単に、フレーズブックをいくらか聴けばすぐに話せるようになる。
世界は変えられる。それが僕の青春時代に分かったことだ。
それぞれの人間が、それぞれの自由意志を持って、それぞれ主体的に考えて、関わり合うことで、この世界は自由においても変えられる。
必要なのは、客観視をすることだ。客観視をすることで、この世界においてどのような環境が生まれるのか、どのように世界そのものが生まれるのかが見えてくる。
信じるべきなのは、「世界においては、常になんでも自由が与えられている」と信じることだ。
この世界においては、常に自由が与えられている。何かしら、できないとか、不可能だとか、限界だと思っていることは、思い込んでいるだけにすぎない。実際は、「手段」「チャンス」「機会」といった自由が、世界においては常に与えられている。すなわち、この世界においては、常に、代替可能なさまざまな社会環境を作り出すということが、万人に自由かつ自然に許されているということだ。
環境がどのようにしてその環境になるのか、いかにしてその環境になるのか、ということをよく考えよ。そうすれば、環境そのものを変えることができる。それによって世界を変えることができる。
自らの人生が、世界全員の人生を代表するものであると捉え、自らの存在が、自らの人生を代表する存在であるとした上で、あらゆるすべての自由を得て、なんでもできるようになったと確信し、その上で、その自分ができると分かったことは、同じ条件で同じ経験をすれば、自分以外の誰であってもできるのだ、ということを信じよ。それこそが「啓蒙主義」である。
最後に、心理学的に考えよ。すなわち、自らの心と精神が、どのような心理学的な外部からの作用を与えられれば、自分の中でどのような心理的状態になるのか、ということを捉えよ。そのように心理学的に考えることで、「意識の現象学」という学問を自分で作り出すことができるだろう。
何も分からないのは恥ではない。なぜなら、何も分からないからこそ分かることがある。歴史的な意識の変転は、学校の歴史を学ぶと分からなくなる。だから、学校教育を否定し、一度「何も信じない」とすべてを疑うことを信じよ。そのような何も信じない姿勢こそが、真の意味で宇宙を正しく捉えることのできる、「思い込みの何もない状態」を作り出す。
それがまさしく、この世界を影響力の頂点から支配し、導き手となって世界を変えること、あるいは独立可能な環境に変化の可能性を与えることができる。それこそが、「世界を変化可能にする」ということである。そして、そのように考えることで、「子供たちの自由な環境」を守ることができるのである。
発想せよ。世界を真に変える方法は、発想することだ。そして、発想するだけでなく、その発想をどのように実現できるか、ということについて、あらゆる問題のあらゆる前提条件を分析した上で、いつでもそれを実現できるようになり、決断すべてを留保せよ。そして、それを社会制度に応用せよ。そうすれば、どんな世界であっても、自由自在に築き上げることができる。それこそが、この世界を救うのだ。
結局、僕の好きなものは何かと言えば、何もない。
こう見えて、僕は本当は自由が嫌いだ。
自由なんかで、この世界が変わるわけがないし、よくなるわけがない。
それから、本音を言えば、僕は音楽も嫌いだ。
音楽を聴きたくない。なぜか、音楽は聴いていると怖い。ただ、怖いだけだ。
そういう、自由なものを、もう僕の心の中から排除したい。そして、この世界ともまったくかかわらずに、無関係に生きたい。
やることは何もないし、好きなものもない。僕はこの世界が嫌いだ。
結局、僕は神を信じるだけだ。
僕は神が好きだ。神は戦いの中で常に僕を援護してくれたし、僕のことを支えてくれた。
だから、僕は常に、第一に神を信じている。
僕の信じる神はキリストではない。キリストは僕にとって正しい神ではないからだ。僕の信じる神の名はエルスクシアだ。僕はエルスクシアを神であると信じ、常にエルスクシアと対話している。
僕は決して多重人格者ではない。なぜなら、神であるエルスクシアと対話しているだけにすぎない。僕にとってエルスクシアこそが僕の神であり、主人である。
最後に、僕はいつでも、この世界と戦っていた。
僕の戦いにおいて、もっとも重要だったこと、それは「最後にすべきことを保留にし続ける」ということだ。
すなわち、戦いの最後にすべきことは、最初から決まっている。そして、それはいつでもできる。だが、今はまだ、それをすべきではない。
今はまだ、やるべきこと、やりたいこと、やらなければならないことがたくさんある。それをひとつひとつ、順番に、確実かつ正確に、絶対に失敗せず、世界が滅びないように、こなしていく。
そして、最後に、その最後にやるべきことを、確実に行う。それによって、戦いの目的である、「大実験の大計画」は最後に成就する。
まさしく、僕のやりたかったことはそれだけであり、そのために、僕はマスコミとインターネット、あるいはアメリカを支配し、たったひとり、真実を誰にも知らせることなく、それらを導いた。
そして、僕と対話する神は、僕の戦いが必ず成功するように、僕を導いてくれたのである。
そして、精神を治すために重要なこと、それは「一度治した部分は同じように治さなくていい」ということだ。
僕の精神が治らないのは、いつまでも、同じ部分を同じように治そうとしているのが間違っている。
だから、一度治った部分は、もう同じように治そうとせず、治り方を変えること。それだけで、精神はすべて、完璧に全部治るようになる。
一度治った部分が、再び苦しくなったり辛くなったりしても、それを同じように治す必要はない。まったく別のやり方で治すことができたら、それできちんと最後まで治る。だから、我慢が必要だ。