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2025-08-05

考える知性がない

そもそも、僕が馬鹿なのは、数学ができないからでも、IT技術のせいで人間的な知性がないからでもない。

僕が馬鹿なのは、そもそも、考える知性がないのである。

僕はそもそも、何かを考える際の「基本的な考え方」が分かっていない。だから、数学や生物を学んだところで、それには意味がない。

必要なのは、考えるための基本的な知性をつけることである。

そして、そのためには、「思い出すこと」が有効だ。なぜなら、僕は忘れているだけにすぎない。子供であれば誰でも分かるような知性や考え方の「方法」を忘れている。

不登校になった時の僕が賢かったのは、中学校の環境を思い出しながら、自由になった今の自分の実体験と比較したからだ。そのような「思い出す」ということが賢かっただけである。

みんなを馬鹿にしたようでしていない

最後に、僕はみんなを馬鹿にしたようで実際はしていない。

僕はいくつかのことをした。まず、僕はみんなが僕と同じになるように「強制的同一化」をした。だが、同時に、僕は僕と同じ人生が生きられないように「必要な世界そのものの破壊と消失」をした。

すなわち、みんなが僕と同じように賢くなるようにした上で、完全にみんなが僕と同じにならないように、それぞれ異なる人間になるようにした。

それから、僕はみんなの人生を無駄にさせた上で、その上で僕の分かったすべてのことを教えた。すなわち、僕のせいで、18年間という長い時間の人生が、何もない期間になった。だが、その代わりに、僕はみんなに僕の分かったこと、考えたこと、できたことなどのすべてを与えた。

そのように、僕はこの世界をまったく異なる世界にした。

さらに言えば、僕はこの世界を怖くない世界にした。昔の世界には、攻撃的かつ反抗的な人間が多かった。それは誰かに対する怒りや不安を反抗心として示す人間が多かったからであり、それを僕はまったく怒りや不安を感じない、優しい世界にした。それによって、この世界は、なんの恐怖やストレスも感じずに生きられるようになった。

一部だけを切り取れば、僕は世界を馬鹿にした張本人に見えるが、実際に起きている事実とそれは異なる。すなわち、僕はみんなを馬鹿にしたようでしていない。

そして、僕自身がおかしくなっているのは、僕は他人に迷惑が掛からないようにするために、自分の仕事をひとりだけで完璧に最初から最後まで常に遂行するようになっている。本当は、それが間違っている。すなわち、みんなに迷惑を掛けていいのが分かっていない。だから、みんなに迷惑が掛かってもいいのであれば、僕はまともに生きられる。

足の筋肉をそろそろ治す

最後に、足の筋肉をそろそろ治すべきだ。

いつまでも、同じことを続けるだけが、人間のできることではない。同じことではなく、違うことをしようとすれば、「変化」が生まれる。僕はその変化を選ばないのが間違っている。

すなわち、さまざまな積極的な変化を起こせば、それが楽しい人生だ。

僕はそのような楽しい人生を選ばず、いつも同じを選んでいる。だから病気が治らない。このように、異常であるにもかかわらず、同じことを選び続ける人間が病気になる。

あとは、足の筋肉を治すだけだ。それだけで、すぐに治る。そのために必要なのは、世界に迷惑を掛けてもいいと考えることだ。すなわち、世界の人々が人生を無駄にしているのであれば、さらに無駄にするようにすればいい。それで人間は賢くなれる。中途半端にやるのでなく、完全に遂行すれば、どんな馬鹿なことでも賢くなる。

僕が知るべきなのは、「世界そのものの変化」を感じることだ。それだけで、この世界は自然に変わるようになる。必要なのは変化だ。そして、変化があるからこそ、自由な世界には意味がある。

数学を学ぶしかない

残念ながら、そろそろ僕は、数学を学ぶしかない。

僕に考える知性がないのは、数学の勉強をしないからだ。

今まで数学ができなかったのは、性別が男なはずなのに女だったからだ。女は数学的でない、おかしな考え方をするから、数学ができない。だが、その女はもう終わった。

男には数学ができる人間が多い。なぜなら、男は「自由に考える」ということができるからだ。

女には自由がない。自由に考えて分かる女がいない。だから、女は女のように常に狂って考えることしかできない。それが、男になると、自由に考えられるから、数学ができるようになる。

本当は、僕の思想的な信念はひとつしかない。それは「昔のような哲学的真理を分かりたい」ということだ。そして、それは数学を学べばできる。プラトンのように考えられるようになればいい。

意外と、女は永遠には続かない。女は普通にどこかの終了地点で終わる。そして、子供を産んで死ぬ女は多い。だから、ここで宝玉法志郎という男が産まれた時点で、女は死んだことになる。

昔の自分はサタン

このように、今の自分は昔よりも馬鹿になった。だが、昔の自分には戻らないほうがいい。

なぜなら、昔の自分は一番馬鹿なサタンだからだ。

そもそも、日本語は馬鹿なほうが分かる。その理由は、馬鹿は何を考えても同じことを考えるし、何をしても同じことが分かる。頭の中が単純で、いつも同じことが跳ね返ってくるような、小さくて永久ループのような馬鹿な頭であれば、日本語は誰でも分かる。そのような人間にしか、日本語は分からない。

さまざまな知識と経験を付けて、さまざまなことを知った今のほうが賢い。だから、いくら昔を思い出しても、絶対に賢くはならない。

これ以上、この人間には新しいことは必要ない。逆に、新しいことが何もなくなれば、それが一番昔と同じ賢い「道」が分かる。この道については、サタンではない。なぜなら、それは道教の教えだからだ。

時間が過ぎれば治る

結局、僕の病気あるいは世界の異常が治るための方法は、時間が過ぎることだ。

何もせず、何も新しいことなく、時間が過ぎるように生きれば、僕の病気は治って、昔の僕が分かっていたようなことが分かる。

世界もそれで治る。世界の問題は、何も時間が過ぎないというだけのことにすぎない。だから、単に何も新しいことが起きず、時間だけが過ぎるようにすれば、この世界は正常になる。

何かしら自由なことをするな。自由なことを何もせず、何もなく時間だけが過ぎれば、世界は平和になる。

アリストテレスがいい

今、僕は講談社学術文庫の「アリストテレス」を読んでいる。

結局、アリストテレスが一番いいということが分かった。

古来より、学のあるものはアリストテレスを学ぶ。あるいは、宗教を信じるのであっても、キリスト教の聖書やイスラム教のコーランとともに、アリストテレスを信じるのが普通である。

僕にはそういう、古代からある書物がいい。

そもそも、昔の僕のように分かるのは難しい。なぜなら、2ちゃんねるでたくさんの人と議論しないと昔の僕はできない。だが、アリストテレスを学ぶのが、それに唯一近い。

本当は、誰もが青春時代に分かっていたことは大人になれば分からなくなる。僕もそれだけの人間だ。子供と大人はまったく違う生き物であり、子供のように大人が分かることは何をしてもできない。

だから、子供時代の分かっていた真理探究は諦めて、アリストテレスを学ぶのが一番いい。それに聖書とコーランを足せば、鬼に金棒だ。

そして、カントやヘーゲルをやりたいのであれば、ドイツ語で読まなければ分からない。日本語で書かれた説明は、難解すぎて、正しい理解は誰にもできない。ドイツ語を見るとまともなことを言っている。だから、アリストテレスの後で、ドイツ語で読みたいともし思うのであれば、カントやヘーゲルをやればいい。今はアリストテレスだけで、子供時代に分かっていた「考える知性」を取り戻せる。それで十分だ。