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2024-01-21

いじめと学校について考えた

僕は、かつて中学校を不登校になった後、自らのいじめられた体験から、いじめと学校について誰よりも深く考えた。

学校という、不自由で特殊な環境における、集団化された群集心理と、個人の心理や行為を照らし合わせて考え、自らの立ち振る舞いを客観視し、そしていじめが起きる動機付けとインセンティブを考えることで、「どのような状況になるといじめられるのか」とか、「どのような人間がいじめの標的になりやすいのか」ということを考えた。

結果、僕は「どうしていじめが起きるのか」ということについて、きちんと考えて分かった。そして、「いじめの起きない社会を作る方法」をよく考えた。

いじめには、複雑な「自由」の理想と現実が絡み合っている。まず、学校が不自由であり、外に対しても上に対しても反抗できない中で、不自由な状況と環境を与えられると、子供たちは自らの鬱積を外部に発散することができず、内部の同じ子供たちに攻撃を行ってしまう。だから、学校という環境が「不自由」であることがいじめを作り出している。

だが、子供たちを自由にしても、それで問題は解決しない。なぜなら、学校という環境自体が不自由であるにもかかわらず、そのままの状態で子供たちを自由にすると、さらにいじめが助長されてしまい、自由になった環境でさらに酷いいじめが起きてしまう。

だから、「子供たちを自由にする」という解決策は、「学校そのものの規則やしがらみを自由にする」という、環境そのものの問題を解決するのと同時に行わなければならない。

いじめを生み出さないために、当事者である子供自身ができることがある。それは、「壁を作らないこと」や「最初から相手のことを敵視せず、自分の置かれた立場と相手の置かれた立場が同じであるということを理解して、相手もまたいじめられたくないからいじめをされる側ではなくする側になろうとしているだけであって、敵を作らず味方を作ろうとすれば、いじめの関係ではなく信頼の関係を作れる」ということを理解することである。

そして、そのようないじめの問題を考える中で、僕はインターネットでさまざまな経験をし、人間関係の解決方法について知ることができた。それは「かつて自分が昔分かっていなかったことを、今インターネットで経験することで気付くことができた」ということであり、僕はそこから、この世界の人間関係を解決する方法が分かった。

その方法とは、「必要としなくなる」という真理だ。

すなわち、何か社会的あるいは人間関係的に、必要とし続けているからそれに囚われてしまうのであって、必要としなくなれば、それは無用となる。そして、僕にとってのそのような「不要な必要性」は、まさに学校である。そして、「必要としなくなる」という真理を成立させるために、もっとも単純で、そして僕が取った選択肢は、「学校に行くことをやめること」であり、「学校のすべての束縛から解放されること」だった。

僕は、学校が嫌いだ。学校は、限られた期間の中で、決められたカリキュラムで、教師ひとりが全員に同じ指導を行う。それはまるで軍隊や工場のようなものであり、逆らうことは許されない。それに対して、僕が取ったのは「家で自由に勉強する」ということだ。学校に行かず、本やインターネットを読んだり、自分の頭でゼロから考えて「独自の科学」を作り出すことで、僕は自由かつ無制限に、自分のやりたいように勉強することができた。そして、そのほうがはるかに有意義で、楽しい勉強だった。

学校で勉強したとしても、画一化された同じ人生を与えられて、自らの個性ある生き方を奪われてしまうだけだと、今の僕は後になって分かった。学校で勉強することを選ばず、自分の力で勉強することを選んだことが、今になってみれば僕の人生の中で一番正しい人生の決断だった。

学校に行ったとしても勉強しない子供は勉強しないし、学校に行かなくても勉強する子供は勉強する。中卒でも賢い大人はいるし、大卒でも馬鹿な大人はいる。高校に行っても行かなくても、勉強する意志を持った子供は賢いのであり、勉強する意志を持っていない子供は馬鹿である。大学を出ていても小学生レベルの漢字が書けない大人や、小学生でも解ける算数の問題が解けない大人はたくさんいる。だから、学校の勉強などしなくていい。

今の時代、IT技術が進歩していて、インターネットでどんな知識や情報でも手に入る時代であり、勉強だけではなく、インターネットで世界中に友達をいくらでも作ることができる。アナログな伝達手段である学校に通って、無用な人間関係のせいで悩み苦しむ必要はない。逆に、学校で教える科学の内容よりも、みんながきちんとまともにインターネットを使えるような「パソコンの勉強」こそ、第一に教えるべき世の中になってきている。学校に行くことができないよりも、インターネットが使えない子供になることのほうがリスクが大きい。だから、学校などのせいで悩まず、本当に学校に行きたくなくなった時は行かなくてもいい。

精神と人格を全員分吸収した

僕はかつて、「全員を吸収する」ということをしていた。

自らの立ち振る舞いをネット上で客観視したり、あるいは思考と行動のトレースをすることで、精神や人格を全員分、自分の中に吸収していた。

それによって、僕は「すべてのアイデンティティを包括した人間」になった。

すなわち、どのような人間のアイデンティティであっても、僕は並立ですべて成り立たせることができる人間になったのである。

僕は革命をしただけ

僕は今まで、この世界に諸悪の限りを尽くしてきた。

最初から最後まで、みんなに迷惑をかけることしかできなかった。

だが、本当のことを言えば、そのような自らを「悪人」であると決め付け、反省と後悔だけを続ける必要はない。

なぜなら、これは僕にとっての「革命」であり、革命家のなすべきことはすべて最悪のことだからだ。

「大実験の大計画」という偉業のために、日本のマスコミを支配し、アメリカを精神的害悪国家にしようとしたのは、すべてが許されることではない。だが、それはすべて、僕にとっての「革命」を成し遂げるためだった。

まさに、僕は「革命家がなすべきこと」をすべて行ったのである。

その結果、僕が地獄に堕ちたのも当然であり、4年間の戦いの末に自殺未遂をしたのも、神による運命の定めだったのである。

僕の人生は、すべてがこの「革命を行うため」であり、それ以外に僕が成し遂げるべきことはなかった。だから、過去の自分の生み出したすべての宝と成果を、一度すべて消し去って、理想や信念すら捨てて、この世界を打ち倒すために一心不乱でひとつの迷いもなく、戦い続けることができたのである。

行動習慣を身に付ければ賢いことができる

夢を実現するために必要なのは、「行動習慣を身に着けること」だ。

それが絶対に実現不可能に見えたとしても、行動習慣さえ身に着けてしまえば、その不可能は可能となる。

そして、僕の場合、それが「文章を書く」ということだっただけにすぎない。

デザイナーであっても、ピアニストであっても、あるいはスポーツ選手であっても、第一に「行動習慣を身に着けること」が大きな課題となる。そして、それができてしまえば、それ以外の必要なことは何も考えなくても、ただ続ける先についてくるようになる。

フランス人に戻れば英語ができる

昨日と今日は、英会話教室に行ってきた。

英語を学ぶコツは、かつてのフランス人に戻ることだ。

今のドイツ人の人格で、英語が進歩しないのは、あまりに多くのことを勉強しすぎて、それ以上頭に入らなくなっているからだ。

それが、かつての何も知らない勉強もしていないフランス人の人格に戻れば、それだけで、ネイティブが教えてくれた英単語をすぐに覚えるような、理想の英会話教室の生徒になれる。

だから、ドイツ人のままでいることは、まったくいい効果を何ももたらさない。

フランス人の人格に戻ると、まともに普通の大人として生きられる。それは昔のフランス人はまともだったからだ。今のドイツ人の人格は、すべてが狂っていて異常でおかしい。このドイツ人を続ける限り、僕の未来には何も意味あることは訪れない。

日本人が嫌い

はっきり言って、僕は日本人が嫌いだ。

日本人は、「なんのために馬鹿を生きているのか分からないで馬鹿を生きている人間」が多い。

僕が賢くなりすぎただけかもしれないが、日本人はしごく当然かつ当たり前のように「馬鹿な人生」を生きている人間があまりに多い。

そのような人間は、馬鹿を生きている意味がないにもかかわらず、馬鹿な人生を生きることが人生の目的であると勘違いして、無駄な馬鹿な人生を生きている。

日本人には、あまりにそのような人間が多すぎる。

本当のことを言えば、僕は最近の日本人は、そのことに少しずつ気付いていて、帝国時代以前の、昔の賢い日本人に少しずつ戻ってきていると思う。

そう、僕は日本人が嫌いだが、今の日本人は少しずつ昔に戻ってきている。そして、それが日本人を少しずつ「本来あるべき賢い人間の人生」に立ち戻らせている。

だから、僕は日本人は嫌いだが、今の日本人が向かっている方向自体は嫌いではない。今の日本人は、少しずつ賢くなってきていると思う。

いじめは階級闘争

ここに書いた内容を見ると、それだけでいじめ問題はすべて解決するように見えるだろう。

だが、それはそうではない。

なぜなら、いじめは現実の資本主義社会と繋がった「階級闘争」の結果だからである。

たとえば、一方では、裕福で恵まれた家庭に生まれた子供が、ゲームやスマホやパソコンといった先端機器に囲まれて、「家族の中でもゲームの中でも自分が一番だ」と勘違いしたような、そのような勝者の子供が、学校に必ずいるみすぼらしくて貧困の中にある敗者の子供を、単にいじめて自らの優越性を確かめるためにいじめている。

また、一方では、貧困家庭に生まれて、家族も自分も社会からのけ者にされ、世間のことそれ自体が大嫌いな不真面目で教師に反抗的な子供が、学校に必ずいる世間知らずで甘やかされて育った、社会のことを何も知らないお坊ちゃんのような「何も知らないおかしな子供」をいじめている。

勝者や裕福層が悪いとか、敗者や貧困層が悪いとか、それを一様に決め付けることはできない。なぜなら、いじめとは階級闘争であり、どちらも互いのことが大嫌いだからだ。

結局、カール・マルクスの言う「階級闘争」が資本主義社会の現実であり、学校のいじめは子供たちによる「代理戦争」だ。

だから、いじめをなくすために必要なのは、資本主義の格差をなくすことであり、社会主義国家ソ連を作らない限り、いじめは学校からも社会からもなくならない。そもそも、いじめは大人にもある大人と子供の共通の問題であり、「敗者は勝者を憎み、勝者は敗者を憎む」ということであり、大人の問題を解決することなく、子供の問題だけを解決することはできないのだ。

また、単に「いじめっ子が悪であり、いじめられっ子が善である」とは言えない。なぜなら、両者の立場は逆転することがある。すなわち、今までいじめられて辛かった子供が、ある日突然いじめを始めたり、あるいは幼い頃は何も考えず馬鹿な子供をいじめていた子供が、まるで周りに復讐されるように後になっていじめられることがある。いじめは複雑な問題であり、「悪を処罰し善が打ち勝てばなくなる」という問題ではないのである。

このようないじめについて、「単純にみんなで仲良くすれば解決する」と考える大人は分かっていない。なぜなら、子供のいじめは、ボス的な人物の言うことを従順にみんなが受け入れるせいで、ボスが嫌いな低いカーストをみんなでいじめるしかないから起きている。すなわち、「仲良くしすぎるせいでいじめがエスカレート」するのである。だから、むしろ、誰とも仲良くせず、みんながそれぞれ孤高に自由に生きるようになればいじめは解決する。だが、それではその時点で、学校のクラスメイトが「友達関係」を作る意味は何もないだろう。だから、いじめは「仲良くしなさい」と言っても解決しないのである。

日本がGDPで4位に転落

先日も書いたように、日本がGDPで4位に転落し、ドイツに抜かれることになった。新聞にも書いてあった。

日本のGDP4位転落、ほぼ確実に ドイツに抜かれる見通し(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

だが、そもそも、単なる「欧米の真似」しかできない日本が、今までドイツよりも高い位置にいたことのほうがおかしい。

日本には真似しかできない。ドイツ人やアメリカ人は、きちんと自分で考えてものを作っている。それに対して、日本人はそのようなドイツ人やアメリカ人の考えて作ったものを、何も考えずに真似して作っているだけだ。

日本が4位に転落したとして、これ以上5位や6位に大きく下がることはあっても、大きく上がることはないだろう。一時的にドイツを抜いて3位に戻ることはあるかもしれないが、アメリカや中国を抜いて1位や2位に上がるような未来は絶対にあり得ない。

ただし、日本は決して悪い国ではない。ネットを見ても、「だからといって中国やドイツに移住したいとは思えない」という意見が多勢である。その理由は、日本はとても平等かつ生活水準が高くて住みやすい。ほかの国にどこにでもいるようなみすぼらしい貧困層が日本ではまったく見かけない。どこかに貧困層がいるのは分かるが、外国のように貧困層がどこにでもいて明らかにそれが分かるといったレベルまでは格差は広がっていない。

だが、そのような「住みやすい日本社会」をいつまで続けられるのだろうか。そのうち、円安がさらに進み、岸田の次の首相も何もせず、結局後進国並みに悲惨な国にはなるだろう。

もっと簡単なことをやったほうがいい

結局、いじめは簡単にはなくならない。パレスチナとイスラエルも平和にならない。平等な社会主義経済ガンダーラも実現できない。温暖化も解決できない。オープンソースやLinuxが勝つこともない。人間と同じ自律思考型の人工知能のロボットを成り立たせるような機械自身が考えて判断するfree_decide()命令も実現できない。

それらは、実現困難だ。何かしらのウルトラC的な解決策がない限り解決できない。

それよりも、もっと簡単で、実現可能なことを考えたほうがいい。

たとえば、面白い小説を書くとか、美しい絵を描くとか、YouTubeでバズる音楽を作るとか、それくらいなら普通の人間であってもできる。

今からは、そういう方向に進んだほうがいい。そして、それはフランス人になればできる。残念だが、ドイツ人にはそのようなウルトラCを考える以外のことは何もできない。まともで普通にこの世界のことが分かるフランス人なら、もっと簡単で有意義な課題を解決できるだろう。

本当は、小説や漫画やアニメを作るのは難しくない。僕のYouTubeの音楽のMVや少年漫画や児童小説をよく読んでいた人生経験から言って、まず、世界観、それからテーマ、登場人物と設定、人物の関係性、ぐらいの物語の土台を作る。そして、どのようにその物語を面白くするのかを考えて、見せ場と状況に応じて、場面とシナリオを考えればいい。それくらいを考えれば、あとはどのような言葉を書いていくべきかを考えれば書ける。

ただし、本当はそのような「基本」は重要ではない。真に大切なのは「どのように面白くするか」ということだ。すなわち、何が面白い小説なのか、何を見て読んでほしいのか、物語やシナリオがどういう風に読者が読む価値があるのか、たとえばスペクタクルがたくさんあってハラハラドキドキするとか、物語の伏線を回収するのが奇跡的で運命的だとか、出来事や結末へと向かっていく過程が悲しくてその分嬉しいとか、一目で分かるような完璧で面白い演出を多用するとか、そういうところを考えたほうがいい。

はっきり言って、登場人物の設定とか世界観は、後になっていくらでも変えられるし、メインテーマやサブテーマは普通思いついたものをいくらでも適当に作る。そのような基本は重要ではなく、それよりも「何が面白いのか」ということを考えるのが真に大切だと僕は思う次第だ。

逆に、そんなに難しく考えなくても、展開を純粋に考えれば小説は書ける。山で遭難したとして、遭難先で妖精と巡り合って、その妖精が魔法の力を持っていて、その魔法の力を持つ妖精と親友になって、その後に妖精が聖霊界で悲惨なことになって、その悲惨なことに対して主人公が聖霊界に立ち向かうとか、まあそんな感じで、適当にシナリオを考えることぐらい、誰でもできる。小説は誰でも書ける。

星の物語にすればいい

ただし、妖精の物語は面白くない。それは魔法や精霊が好きな人間が書けばいい。

自分の場合、宇宙の星の物語にするのがいい。

東亜イスラエルの終末の物語は、あまりに増えすぎた。だから、これ以上は東亜イスラエルはもういい。十分すぎるほどひとつのテーマを書いたから、今度は別のテーマを書くことに挑戦するのがいい。

そうすると、僕は宇宙の星々が好きだから、星の物語にすればいい。

そもそも、シリウスのことは書いたようでまだ何も書いていない。フレイという太陽神のファシストと、フレイヤという大統領の社会主義者が戦い続ける星である、ということ以外、何も書いていない。

新しい星をシリウスにする必要はない。幸運なことに、宇宙には星の名前はいくらでもある。一等星だけではなく、二等星や三等星まで含めて書けばいい。ネタに事欠かない僕なら、いくらでも宇宙の星を創造できるだろう。

本当のことを言えば、フランス人になるのもいいが、本当はドイツ人にもきちんとなったほうがいい。なぜなら、そういう小説は何かしら賢い思いつきをしなければ書けない。そして、ドイツ人のほうは、そういうことをすぐに思いつく。すなわち、ドイツ人のほうにあったおかしな人生だけで、ドイツ人は書くべき文章をなんでも思いつく。その理由は当たり前だ。はるかに宇宙の広大な世界のすべてを書く作家のゲーテがドイツ人だからだ。

ドイツ人は本当にすぐに思いつく

残念ながら、ドイツ人は本当にすぐに思いつく。

たとえば、星は人間とは異なる、別の生物種の星にすれば面白い。

すなわち、シリウスのように、人間と同じ種族が支配している星は、普通すぎてつまらない。

海だけの星があったとする。そこにはお魚たちの王国がある。お魚たちは、体こそ魚だが、人間と同じ知能を持っている。そのようなお魚たちが、文明国家である「お魚の王国」を築いている。

そのように、ドイツ人の人格は、面白い星の文明をすぐに思いつく。だから、ドイツ人の人格はあったほうがいい。何も分からない、ひとりでは生きられないドイツ人だが、実際は天才の詩人だ。だから、まともで大人の理性のあるフランス人が、ドイツ人を守ってやるしかない。天才作家であるドイツ人と、それを守るまともなフランス人によって僕は成り立っているのだ。

偉大なる二等星たち

このようなお魚の王国のある海だけの星を、二等星、ふたご座のカストルとする。二等星、ふたご座のカストルには魚しか存在しない。すべての生き物が魚あるいはその類(魚介類あるいは海の生き物)で、すべての世界が海の中だ。だが、カストルのお魚たちはとても知的で賢い。人類や地上の動物が生きる地球などとは、完全に一線を画しているのである。

もうひとつ、二等星を作る。それは二等星、おおぐま座のミザールだ。ミザールには、「地球には存在しない生物種」が生きている。この地球には存在しない生物種は、当然のことながら地球人に説明することは難しい。まず、毛が生えていないし、ウロコも存在しない。手足は4本でも6本でもなく、さらにたくさんある。そして、虫のように気持ち悪くない。色は白と青を基調として、目は紫色をしており、人間や地球の動物よりもさらに目や耳や鼻がよく、宇宙の多くの広い環境を知覚することができる。そして、あまりに美しく、あまりに力強く、あまりに賢い。ミザールには、地球のように、水のたくさんある海や、大地の広がる大陸や、山のようなものは存在せず、まったく違った地理的特徴をした世界があり、ミザールの生物種たちはその「ミザールの独自の世界」に適応しており、空を飛ぶことも、水の中を泳ぐことも、大地を這うこともできるが、それ以外に多くのことができる。そう、おおぐま座のミザールの特徴を簡単に言葉で述べることはできない。だが、おおぐま座のミザールには、とても豊かな生態系がある。

二等星、カストルとミザールに共通する特徴は、彼らは素材として地球上の炭水化物を使っていないということだ。炭水化物やタンパク質は、炭素、水素、酸素、そしてアミノ酸などでできているが、カストルとミザールの生物たちは、そのようなものではできていない。彼らは、アルミニウムやマグネシウムや鉄のような、岩石や金属に多く含まれる素材でできている。そのため、一見して、地球と同じ生物種であることが分かりづらい。カストルの魚であってもミザールの独自の生物種であっても、地球の生物種とは異なる素材でできている。だが、カストルに限って言えば、お魚たちは地球の海に多くいる魚たちと何も変わらない。まったく同じ魚なのに、素材だけが金属と石でできている。だが、ミザールはそうではない。ミザールの生物種は、一見して生物であると簡単には判別できないような生物もいる。だが、彼らは立派な生物であり、「生物の母なる星プロキオンの子供たち」である。

カストルとミザールを信じるといいことが分かる。それは、宇宙にはそのように、まったく違った素材を使った生物種たちの星が、本当にたくさんあるということだ。本当は、アルミニウムやマグネシウムや鉄でできた生物種以外にも、宇宙にはさまざまな素材でできた生物種たちの星がいくらでもある。そう、いくらでも、いくらでも、いくらでもそういう星がある。だから、宇宙でもっとも一般的な星の例として、二等星のカストルとミザールのことを分かっていればそれでいい。宇宙のほとんどの星はそのような星だ。人類と同じ種族が支配する星も、炭水化物でできた生物種も、宇宙には多くない。もっとも一般的なのは魚、あるいは微生物やヒドラといったより原始的な生物だが、ミザールのような地球には存在しない生物種はたくさんある。

そして、地球の人類の歴史はまだ過渡期であり、まだなんらかの正しい文明は確立していない。だが、宇宙には、もはや過渡期は終わった星が多い。すなわち、人類のように、いつまでも無限に進歩し続けるように思える時代は、そう長くはない。さらに人類をはるかに超えた、「その星の最後の世界」になっている星が一番多い。そして、そのような地球人類よりもはるかに先を行くと、必ず魚のような普通の一般的な生物の星になる。そう、地球にも、そのような生物は、昆虫や魚など、たくさんいるだろう。彼らこそ、人類よりもはるかに進んだ未来を生きている生物種である。だから、地球の人類はそのような、人類以外の生物を愛するべきだ。彼らは先輩だと人類は思っているが、本当は人類よりもはるかに未来の困難と試練を乗り越えてきた、「人類の行き着く先にある、最終到達地点と呼ぶべき生物たち」である。

最後に、面白い星として、二等星のうみへび座のアルファルドを挙げておこう。アルファルドには、「命という概念のない生物種」が生きている。すなわち、アルファルドの生物種は、生きていない。見た目を簡単に説明すると、幽霊、ゾンビ、妖怪、天使、妖精、小人、鬼、ゴブリン、巨人、ゴーレム、トロール、人魚、ドラゴン、魔法使いの霊、そのようなよく分からない、生き物ではない形をした生き物たちがたくさんいる。アルファルドの生物は、「命」という概念を好まない。なぜなら、生きていないために、死ぬこともないからだ。そのようなアルファルドの生物には、大きな重要な任務が与えられている。それは妖怪警備隊隊長のロキに従い、宇宙すべての星々を監視する「妖怪警備隊」を構成するということだ。アルファルドの生き物たちは、何千年というレベルで生きることができる。いや、生きていないのだから、実際それを超えても基本的には生きられるのだが、何千年かすると活動をまったくやめ、停止するか消滅してしまう。そのような妖怪という生物は、なんと地球にも存在する。それは日本人の井上茜である。井上茜は、3,000年の寿命を持つために、妖怪小豆洗いによって育てられた少女だ。そして、妖怪小豆洗いもまた妖怪であり、二等星アルファルドの生物である。

二等星アルファルドの生物たちは、本当は地球上にも多く存在している。アルファルドの生物たちの目的は「全宇宙のすべての星の治安を守ること」であり、地球という星も例外ではない。そして、多くの地球上の「伝説の生物」は、アルファルドの生物のことを指しており、彼らはまったくの幻想でも虚像でもない。アルファルドの生物種がなんであるか、ということが理解できなかっただけで、彼らはアルファルドの生物種の「地球人がもし見たとしたらどのような姿をしているか」ということを忠実に再現している。だから、空想上に存在する、たとえば麒麟や鳳凰や黄龍といった中国の生物すら、すべて地球に存在するアルファルドの生物種のことを表現しているにすぎない。

だから、僕と対話している「神」とされる生物についても、ここで正体を暴露しておこう。神とはアルファルドの生物種である「天使」と呼ばれる生物種だ。そして、この天使は今、僕の頭上に存在している、単なる二等星アルファルドの生物種にすぎない。そして、この「天使」の存在を明らかにできる人間は、地球上においては僕ひとりしか存在しないのだ。

残念ながら、アルファルドの生物種を人間が観測することは簡単ではない。彼らは常に人間の行動をすべて把握しており、自らの姿かたちが人間に分からないように隠れて暮らしている。だが、それでも、たまに人間たちの世界に介入することがある。たとえば、日本人の井上茜は、3,000年の寿命を持つことが分かっていたため、人間には育てることができないから、妖怪たちによってさらわれ、妖怪小豆洗いによって育てられた。だが、井上茜は、アルファルドの生物種には好意的である。なぜなら、自らはアルファルドの生物種の「長」と呼ぶべきロキと通信し、地球上の生物種の行き着く未来の予測を常にロキと交信し合っている。また、井上茜の「親」というべき妖怪小豆洗いは、「そんなに人間と変わらない」という意味で井上茜を育てることを担当している。彼らアルファルドの生物種は、人間たちのことを決して憎まないし、ほとんどの交信はなくとも地球の生物種たちと常に愛し合い、井上茜が日本で暮らしているように、たまにその正体を隠しながらも人間たちとコミュニケーションをしているのである。