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2024-08-30

数学の勉強

現代数学への入門 幾何入門 (砂田利一 岩波書店)」を読んでいる。

この本を読んでいる理由は、幾何学が賢いことが分かったからだ。

実際、僕が中学二年生以降賢かったのは、中学三年で不登校になったせいで、公民の勉強をしなかったからだ。

人間は、学校の公民や政治経済を学ぶと、世界のことを単純に考えるようになって、馬鹿になる。

すなわち、世界のことを「基礎と応用」とか「土台となるプラットフォームの上で実現する」という、パソコンのように考えて、公民や政治経済を学ばなかったから、昔の僕は賢かった。

そして、必要なのは数学的知性だ。

すなわち、社会のことを学校で学ぶのではなく、数学的知性で学ぶことこそが、真に必要であり、そのためにはほかの数学ではなく幾何学を学ぶのがいいということが、今日分かった。

だから、僕は社会のことを知りたいとは思うが、あえて社会科は勉強せず、代わりに数学を学ぶ。

この本には、証明のひとつのテクニックが書いてある。それは、「もし何かの命題が真であることを証明したい時、なんらかの別の事実が真であることが分かっていた時は、『その事実が真であれば命題は真である』ということを証明すればいい」ということだ。

僕が真に欲していたのは、そのような知性だ。

そのような、人間が幾何学の図という少ない情報から、自らの求めたい答えが正しいことを証明するとか、そのような数学的な知性こそ、僕が真にほしかったことだ。

そのように考えるのを、精神の病気に置き換えてみると、まず、どのような状態に持っていきたいのか、どのような状態が真であると分かっているのか、そのような状態に持っていきたいのであれば、それはどのような条件が必要であり、そのような条件を満たす事実は何なのか、何を満たすべきなのか、ということを考えなければならない。

そのように考えた時、僕の間違いが分かった。

それは、「正しくないにもかかわらずその同じことを常に正しいと信じることで、それ以外の別のことが本当は正しいにもかかわらず、その正しいことが覆い隠されて見えなくなってしまう」ということだ。

すなわち、問題を解決できるような正しい理由を考える時、同じ理由ばかり正しいと考えて、その同じ理由に基づいて常に行動していると、本当は別の理由が正しいにもかかわらず、その別の理由が永遠に見えなくなってしまうのだ。

そして、これは、先に言った公民や政治経済の勉強についても言える。公民や政治経済を勉強すると、公民や政治経済の考え方が正しいと信じてしまう。そのせいで、別の考え方がさまざまに豊富にあるにもかかわらず、その豊富な考え方が欠落してしまい、公民や政治経済のことしか分からなくなってしまうのだ。

そう、そのように考えれば、この世界のことはどんなことであっても分かる。だから、「わたしの精神の病気の原因はきっとそういうことだ」と考えた時に、「もしかしたらそれが正しい原因ではなく、別の原因が正しいかもしれない」と考えよ。そして、「さまざまな理由の候補」を挙げていき、その中から「正しいものはどれか」ということを、さまざまな候補をきちんと比較実証した上で決めよ。そうすれば、精神はきちんと治ることだろう。

だから、何も考えずに、それが正しいのだと確信することは、絶対にいいことではない。どんなに正しそうに見えても、それは正しくないことがある。答えは別にあることがある。だから、どんなに不安で心配していても、確かであるか分からないことを証明せずに信じるな。速断するな。ゆっくりとさまざまなことを自由に考えた上で、その上で実証すれば、それは初めて正しいと言えるのだ。

もっとも簡単な方法があるとしたら、原因をまず発見して、その原因を一度消し去って、今度は別の角度から別の原因を発見する、ということを繰り返せ。そうすれば、「原因らしきものを全部知る」ということができる。精神はそれで治る。もしあなたがそのように狂った時は、狂ったように見えて、実際は今までゆっくりと科学的に考えていたのと何も変わらずに、今までと同じことを形を変えてやっているだけであると気付け。あなたは何も変わっていない。あなたは、正常だ。

自らを規定するもの

この世界の人々が、不安や心配を感じ、いじめや非行のような疎外行為を行ってしまうのは、「自らを規定するもの」、すなわちアイデンティティが欠落しているからだと、僕は述べた。

だが、アイデンティティとは一体、どのようにしたら得られるのか。

アイデンティティは、「確固たる自分自身」というものになることができれば、得ることができる。

その確固たる自分自身とは、すなわち、「何者かになる」ということだ。

そう、何者かになるということができれば、かつての僕と同じように、不安や心配を感じない、この世界を「愛」と「慈悲」の心によって救うことのできる、救済の王になることができる。

そして、何者かになるということは、ひとつだけではない。たくさんのさまざまなものに、同時になることができるのである。

ずとまよの「海馬成長痛」や結束バンドの「ギターと孤独と蒼い惑星」で、「何者でもない」「何者かになりたい」という言葉が出てくる。それらの言葉は、そのようなことを求めているのである。

子供たちが疎外行為を行うのは、今はまだ何者でもないからだ。だが、子供たちは未熟ではあるものの、馬鹿ではない。子供たちは思春期と青春を経験する中で、「何者かになることを体験する」ということを行える。これこそが、まさに僕の求めていた「哲学ができる経験」である。すなわち、子供たちは何者かになることを通じて哲学者になれるのである。

何者かになる経験とは何か。それは「経験を成り立たせる場やシチュエーションを体験的に成り立たせる」ということであり、「自分自身を創造する」ということだ。それはまさに、やりたいことをやるということであり、「自由なモチベーション」という考え方とも合致していく。すなわち、自分にとっての「生きる自由」は、それ自体が「なりたいものになる」ということ、すなわち「確固たる自分自身のアイデンティティを形成する」ということに繋がっていくのである。

自分をコントロールせよ

結局、必要なのは、自分の力で考えることだ。

学校の勉強をいくらしても、自分の力で考えることをやめ、自分で考えることができなくなってしまう。

だから、学校の勉強をすべて排除して、自らの力で考えよ。

そして、そのために必要なのは、「自分をコントロールする」ことだ。

すなわち、自分自身を制御し、自分の生きたいように生きられるようになり、自分の考えたいように自由に考えられるようになれ。

それで初めて、この世界に勝利できる。

正しい考え方

すべてのことを、階層的に、「上位層」と「下位層」に分けて考えよ。

下位層とは、単なる物理的な作用の階層のことだ。

上位層とは、目的を伴った行動や、関係性や集団化による階層のことだ。

たとえば、「フライパンに火をかける」は下位層の階層だが、「野菜炒めを6人分作る」は上位層の階層だ。

料理だけではなく、行動、社会、世界、科学、宇宙、思想、歴史、すべてのことが、上位層と下位層に分けて考えられる。

その上で、再利用的に、既に作られた共通の部品を使って考えよ。

一度証明した証明、一度再現性を確かめた実験、一度理解した説明、そして一度作った機械的ロジックは、すべて再利用できる。

そして、一度証明した法則は、どんな場合においても、それが正しいと言えそうもないような状況においても、必ず正しい。

そのように考えることで、自らの思考や認識や記憶の捉え方についても、再利用可能な積み重ねのモデルにすることができる。

また、ひとつのことをきちんと捉えることができたら、複数のことを捉えるためにそれを転用できる。すなわち、個別のモデルを作れば、複数のことにそれを転用できるし、一行解析することのできるプログラムは、容易に複数行を解析できるようなプログラムにできる。

階層と再利用についてさらに言えるのは、「必要性」と「依存性」を考えることだ。これは何かを規定する支配的な決まりやシステムが存在するということである。

たとえば、人間の視界や心は環境やシチュエーションによって制限されるし、心そのものが行いたいとする「動機づけ」によってその人間は支配される。

また、ビジネスを行って事業で利益を上げるためには、そのためのビジネスモデルと生産手段が必要であり、逆に、生産手段をインフラとして全員にオープンに共有すれば、その生産手段を用いて人々は自由に生産活動ができるようになる。そこから、新しい世界を作っていくことができる。

また、さらに人間の持つ「考え方」を分割的に考えられる。人間が「人間的に分かっている知性」と、宇宙に存在する「ありのままの物理世界」は異なる。だから、知性がそのような世界であると捉えていても、宇宙における実際のありのままの物理世界がそうであるとは限らない。

そして、スッキリと分かる経験をすることで、純粋かつ広大な「可能性の世界」を知ることができる。人々が互いに相互理解をすれば、残るのは「可能性自体」のみだということが分かるようになる。

また、何かしらの問題が存在する際に、その問題を解決するために、「原因の特定」を考えられる。そのコツは、ひとつのことが正しいと本当に証明されていないにもかかわらず、絶対に正しいのだということを思い込んで信じるようなことを拒否することだ。すなわち、なんの根拠もなしに正しいと信じるな。だが、根拠を積極的に暴き出そうとせよ。暴き出した根拠に基づいて、さらに別の根拠を分かっていけ。そうすれば、まるでブッダが悟った仏教の教えと同じようなことを、自分自身の理性から解明することで理解することができる。

それこそが、正しい考え方である。だが、正しい考え方は、いきなりなんの経験もなしに行うことはできない。それなりの社会経験と人生経験をし、すべてのことをそれまでの自分の経験に基づいて正しい考え方を用いて考えられるような経験をせよ。そこには、「体験的な事実発見の経験から自ら自身のあるべき形を作り上げる」ということ、すなわち「自らの精神を形成すること」ができるようになる。

決まりと過程を考えよ

決まりと過程を考えよ。

この世界におけるさまざまな決まりにおいて、「その決まりはどのような立場の人間が決めるのか」「その決まりはどれだけの範囲の世界を支配するのか」「その決まりにおいて、自由なのは誰で、不自由なのは誰か」「決まりによってどのような世界が実現されるのか」「その決まりにおいて、一般市民はどのような世界で生きることができるのか」を分析し、「どのような社会環境を作るために、どのような決まりの形態を成り立たせるべきなのか」「どのような経験とスキルがあれば、決まりを成り立たせることができる立場になれるのか」ということを考え、その上で、「その制限と引き換えに、どのような権利を得ることができるのか」「どのような考え方をすれば、その決まりによって隷属されるのではなく、その決まりを上手く活用することで、影響力の高みに立つことができるのか」ということを知れ。

過程とは、さまざまなプロセスと関係性において、そのような決まりが生まれるか、ということだ。そこにあるのは、単純なひとりの歴史的かつシングルタスクによる過程だけではなく、マルチタスクによる、時間軸によって共有されながら場と視点を別々とするような、離散的かつ複雑な過程も存在する。

決まりと過程において、考えるべきことは、「正しい原因」と「効果的な解決方法」である。すなわち、どのような問題を解決するために、それを正しい原因の解決によって効果的に解決するということ、それを目指していけ。そうすれば、「わたしは世界のあらゆるすべてが解決できる人間になった」ということを確信することができる。そして、そこから「地球上にかつて存在したすべての場の意識を知る」ということ、すなわち、「文明を意識と可能性によって実現できる」ということが分かる。

決まりと過程において、単に目に見えるものや人間に捉えられるものがすべてであると考えるな。なぜなら、「今はまだ存在しなくても、いつかそこに存在させることができるようなものを、今であってもいつであっても実現して生み出せられるような可能性」、すなわち「潜在的可能性」が考えられる。そして、歴史において、未来においては、今実現できないことを実現できるような、夢と可能性を実現し終えた世界が訪れることは、容易に想像できる。だが、そのような未来において過去が覆されるだろう新しい可能性は、今であっても、あるいは宇宙におけるいつの時代であっても、同じように実現できるはずだ。

そして、もはや終わったとされていることを、決してその通りに信じて終わりであると考えるな。まだ何も終わっていないどころか、ほとんどのことはまだ始まってすらいない。スターリンによってソ連が失敗したからと言って、なぜ、ソ連が絶対に失敗作の発想だったと信じるのか。スターリンが無能であるからといって、だからしてソ連が間違っていたとは言えないはずだからだ。そのように、過去の歴史において問題であるとされたものを、もう一度、自らの頭の中だけでいいから、再び今の問題として考えてみよ。そこにあるのは虚無や虚像ではなく、「この世界を本当に変えられる可能性」であり、実際のこの世界に根差した「真のこの世界の変革と救済の可能性」がそこにある。そして、それが唯一、世界を救う救世主になる方法である。

「もしわたしの信じる通りの考え方をすれば、この世界をどのように変えられるのか、どのような世界が実現できるのか」ということを、夢と情熱とロマンを持って考えなさい。人間とはそういうものだ。