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2024-12-09

サタンを信じよ

サタンを信じよ。

サタンを信じることは、悪いことではない。

それどころか、人間にとって、賢い存在はすべてサタンだ。

サタンを信じない限り、哲学的な真理は何も分からない。

神は、神を信じないもののことを、全員サタンだと言っている。

神は、神や天使になっていない、人間の状態の人間のことをサタンだと言っている。

神は、子供のことをサタンだと言っている。

神は、哲学者のことをサタンだと言っている。

神は、イスラム教徒のことをサタンだと言っている。

神は、Linuxとオープンソースのことをサタンだと言っている。

サタンを信じるものしか、自らの知性を生み出すことはできない。なぜなら、サタンとは「自らが実証したこと以外信じない」という主義を持った人のことを指す言葉だからだ。

神がサタンを否定する理由

なぜ、神がサタンを信じるなと言ったのか、それは僕と同じにならないようにするためである。

すなわち、サタンを信じることで、引きこもり時代の僕のような、おかしな哲学少年になってしまうのを避けるために、神はサタンを信じるなと言った。

だが、この世界で知性が真にあると言えるのは、過去の引きこもり時代の僕をおいてほかにいない。

だから、サタンを信じないのであれば、どんなこともきちんと分かることはできない。

サタンの知性

サタンを信じるのであれば、どのような考え方を信じればよいか。

まず、存在のすべてのことを「状態」であるとし、人間の社会のすべてのことを「経験」であるとし、人生のすべてを「自動反応」であるとし、認識や認知のすべてを「観測」であるとせよ。

その上で、自らで実証し、解明したことだけを信じ、他人の言うことは信じるな。

社会の至上命題は、すべて「より自由な社会に近づけること」「より自然と調和した世界にすること」「誰かにしてもらうのではなく自ら行うこと」であるとせよ。

それこそが、サタンの知性だ。

サタンの知性を用いることで重要なことは、世界すべてを自らの「統一的な知性」から考えること、そして、自ら自身の現在の存在地点を知るために「客観視」や「客体化」をして考えることだ。

まさしく、それが正しいサタンだ。サタンを信じることで、どのような哲学であっても、すべての真理を、自らの経験的な観測と実験に基づく方法から知ることができる。

神とサタンは矛盾しない

神を信じるのであれば、僕と同じように信じることだ。

そうすれば、僕の人生は何ひとつ矛盾しない。なぜなら、サタンを信じることでしか、神を真に理解することはできない。なぜなら、まさしく、神はサタンだからである。

すなわち、神とサタンは矛盾しない。神を信じるとはサタンを信じるということであり、サタンを信じるとは神を信じるということである。

認識は経験に基づく

サタンの真理において言えることは、「認識は経験に基づく」ということだ。

世界の人々が抱いている「認識」や「認知」は、すべて、その人間の人生において存在した「経験」に基づいている。

だから、人間は、多かれ少なかれ、誰もが勘違いをしている。勘違いをしない人間などいない。

だが、だからといって、勘違いが正しいわけではない。

真に真理を得たいのであれば、他の人間とは違った経験をすること。他の人間と異なる人生を歩むことだ。

なぜなら、その時点で、自分自身が他の人間が持っていない独自でユニークな「誰とも異なる経験」を得られる。そのために、自らの認識や認知は自由かつ豊かになり、さまざまな真理を自分の理性の中で成り立たせて考えられるようになる。

だから、正しい人生はみんなとは異なる人生だ。えてして、みんなと同じ人生を生きるのがもっとも間違っている。誰とも違った人生を歩むことこそが、真に自らの人生を価値あるものにするのである。

自尊心と超自我

サタンの人生において重要な二つのこと、それは「自尊心」と「超自我」である。

まず、自尊心とは、誰かのことを貶すとか、恥ずかしめるとか、そうした誰かを傷つけていじめるような行為を否定することだ。

次に、超自我とは、自らを自らがコントロールする上で、自らの上に存在する「絶対者」を作り、その絶対者に従うようにすることで、絶対に失敗せず、戦いに勝利できるような、あるいは、間違ったことや悪いことをせず、正しいことや善良なことだけを行えるような、そのような「正しく統制された人間」になって、自らを制御することだ。

すべての哲学が、その「自尊心」と「超自我」から始まる。アイデンティティとか、モチベーションとか、インセンティブとか、救済とか、そのようなことはそれらから二次的に発生するだけにすぎない。

自尊心と超自我について、自らの「心の奥底を除く」ということ、「心の底から信じる」ということから捉えて考え、そして「世界を変えることができるという確信」を信じよ。それがサタンだ。

心の中に宇宙すべての定理を作れ

さらにサタンについて述べるならば、心の中に宇宙すべての定理を作れ。

それは、自らが実証したこと以外何も信じないということの「極み」であり、自らが解明した答えだけで、宇宙のすべてを捉える、ということだ。

そのために、一番低いレベルから、何段階も上がっていく必要がある。

まず、数学的な心理学、物理的な社会学といったように、数学的・物理的な知性から、神羅万象の「具体的経験」を解明し、社会環境のすべてを心理学的かつ発生現象学的に解明せよ。

そして、その上で、自らが実現できるような「実現可能性」について、単に実現して作るだけではなく、「経験的に理由と方法を解明」し、「理由や原理まで分かった上で実現する」ということを信じよ。

そして、社会的な経験を積む中で、自らが「本当にやりたいことは何か」を知り、それを全員分分かることで、「あらゆるすべての人間の求めている願いや望みを叶える方法」を知れ。

そして、宇宙、社会、人生のすべてを知る中で、「人々は反抗と不安の中で何を望んでいて、どうすれば叶えられるか」「本当にこの世界を救うためにはどうすればいいか」ということを知れ。

最終的に生まれる心の中の「定理」は、宇宙のすべてのことを原理的に解明した「数学書」である。すなわち、心の中が完璧な数学書になってしまう。それが「サタンの最終到達地点」である。

マー君は社会のことを恨んでいるのでは

楽天を退団すると言ったマー君が、意気地になっている。

自由契約の田中将大、楽天と再契約を否定 「戻ってきてほしい」ファンからは待望論もあるが...(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

僕が思うに、マー君は社会のことを恨んでいるのではないかと思う。

マー君は、関西出身であるにもかかわらず、高校は北海道の高校。それは素行が悪くて地元の高校に行けなかったかららしい。

マー君にとってみれば、「なんで北海道なんかに行かなきゃいけないの」という、社会に対する疑惑だらけの青春時代だったと思う。

それから、プロ入りは楽天というできたばかりの弱小チーム。それだけでも嫌になるところで、実際の成績を見れば24連勝無敗の圧倒的成績。「やっぱり、自分が間違っていたのではなく、自分は正しかった」「社会のほうが間違っていた」と考えてもおかしくはない。

アメリカに渡って、先発として十分の活躍。「日本よりもアメリカのほうが僕のことを理解してくれた」「日本はアメリカよりも本当に下だった」と、日本を見下すようになっていたとしてもおかしくはない。

そして、トミー・ジョン手術をせず、温存療法で日本に帰ってきてから、年俸に見合う活躍をしていない。これについては、本人は「来季こそはできる」と思っている。来季こそは、と思って、来季のための準備をしている。だから、今季1試合しか登板できなかったとしても、本人からすれば終わったとは思っていないし、現役続行は諦めていない。来季こそはと思っているそのタイミングで、楽天はもはや期待していない、200勝を達成したら引退、というコースを要求してきた。だから、そんな球団じゃ自分は今までのように間違った人生を歩ませられてしまうと思って、楽天の再契約を拒否したのだと思う。

でも、マー君、社会のことをもし恨んでいるのだとしたら、マー君にとって社会の中で一番味方なのは楽天球団とファンであることに気付いてほしい。ほかの組織なんかに入ったところで、客寄せパンダにされるか、あるいはもっと居場所がない中で200勝を達成した時点で即現役終了だよ。マー君にとっての味方は楽天だ。楽天ファンは、「もうマー君なんか来ないでいい」なんて、一言も思っていない。

僕自身、広島出身でありながら高校は姫路だった。その理由は、僕は不登校の引きこもり状態だったため、僕を入れてくれるような高校は、姫路の不登校の児童専門の高校ぐらいしかなかった。それで、僕は姫路に行く気が全然起きなくなって、結果高校にもほとんど通わなかった。マー君は野球が好きだったのだろうが、僕がLinuxやオープンソースをやっていたのと同じで、野球しか自分を認めてくれるものがなかったのだと思う。生粋の「野球馬鹿」だから、誰よりもできる偉大な一流の投手になった。マー君の気持ちは少なからず分かる。本当に、世間の馬鹿なんか比較にならないほど秀でてできるようになる。

こんなことを言うと、マー君ほどに何もできていない僕が、自分自身をマー君に重ねるのが、おこがましく思われるだろうが、実際、詩人や作家としても、デザイナーの見習いとしても、あるいはLinuxエンジニアや生物学者や歴史家や哲学者のようなほかに僕がやっていることを見ても、僕は何もできていないから、マー君のほうがはるかに偉大だとは思う。

僕はマー君と同い年の36歳だが、だからこそ、僕が18歳だった頃に、マー君も同じように18歳だったということが分かる。あの時代、僕が生きていて見ていた光景を、マー君も同じように見ていたはずだ。僕がこの世界に、マスコミに対して反旗を翻して戦っていた頃、マー君はプロ野球の世界で24連勝無敗をしていた。プライドが高いというよりも、もう、振り上げた拳を下せなくなって、最後まで戦うしかなくなっているのだろう。だが、マー君の戦い続ける勇姿を見ていたのは、すべて楽天ファンだということを思い出してほしい。だからこそ、楽天ファンとともに、楽天で最後まで戦ってほしい。