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2025-08-11

新しい人格を作るしかない

結局、僕がまともになるためには、新しい人格を作るしかない。

昔の人格は、もう飽きた。昔の自分をいくらでも分かるのは、なんにも面白くない。

昔の自分と昔の自分をそれぞれ別の人格にして、切り替えたところで、何が面白いというのか?

結局、多重人格者になりたいなら、もっと新しい人格を作って、新しい人間になったほうがいい。

そもそも、僕が馬鹿なのは、引きこもり時代の人格も認知症みたいな馬鹿で、その後の戦い以後の人格もさらに重度の認知症なのが間違っている。

唯一、中学時代がまともな人格だから、いつも中学生になっている。

だから、新しいまともな人格を作らない限り、僕の認知症は治らない。

そして、必要なのは、学校の勉強をしないことだ。僕はいつも学校の勉強をしていたが、その学校の勉強のせいで、まともなことが分からなくなって、普通なら治る病気の治し方が分からなくなった。まともに生きることもできなくなった。

だから、理想的に言えば、学校の勉強をしたことのない、幼児の時代に戻るしかない。

そういうわけで、僕は幼児退行したまま、いつまでもまともな大人になれなくなっている。今の僕は、「幼児の中学生」という、とてもおかしな状態になっている。

新しい人格の名はエリオだ。エリオは、この人間がようやく到達する、まともで正常な人格だ。それを今から生きることにする。

Xのアプリが更新された

スマホで使っていた、X(旧ツイッター)のアプリが更新された。

先日のログイン騒動は、このアプリ更新に伴うものだったようだ。

だが、僕はそもそも、Xでログアウトして再度ログインしようと思ったのは、センシティブな画像の警告として表示される「表示する」というボタンをいくらタップしても反応しなかったため、ログインし直せば直るかと思ってログアウトした。そのせいで先日のようなログインできない問題が生まれた。

そして、Xのアプリを更新しても、そのバグは直っていない。結局センシティブな画像は、「表示する」をいくらタップしても表示されない。困ったものだ。

女が嫌い

エリオの特徴、それは「女が嫌い」ということだ。

はっきり言って、女の体は気持ち悪い。キモイ。

女には何もない。頭は馬鹿で、心は幼児のままで、体はなんにもない体をしている。

女は、頭も心も体も全部腐っている。女のやることは他人に迷惑をかけたり、自己中心的な自分のエゴとわがままに驕り高ぶって、自分勝手に世界を操ったり壊したり滅ぼしたりということばかりだ。

その癖、女は、相手が下手に出ればつけこんできて、一度作った関係を簡単には捨てようとせず、その関係を利用してそれができる間、いつまでも世界や人々を自分の玩具にし続け、世界を破壊し続ける。

女の頭ははるかに馬鹿なのに、可愛い女であるという理由だけで男からは馬鹿に見えないから、体を使って男を騙そうとしても、その本性が男には分からない。だから、男は簡単に騙される。

女は、男に比べて弱くて、悪く言えば軟弱な臆病者で、リスクのある選択ができない。ちょっと勇気を出せばすぐに解決できることが、いつまでも長々と尾を引いていく。そのせいで何もできなくなる。

女は最悪だ。だから、エリオは女が嫌いだ。この世界から女がいなくなれば、世界はすぐに平和になるだろう。

女をやめる方法

女をやめる方法、それはある。頭を一度完全に殺すことだ。

女は殺しても頭が生き続けるせいでおかしくなる。

女は、まるで操り人形のように自らを操り、自ら操られる。まるで、自ら操り人形になることを選んだかのように、神によって操られることを望む。

そのせいで、自分自身を操りながら、世界を操り人形にするようになる。

女はルールを自分で決める。女は曖昧なルールのままで、その場その場によってルールを都合よく解釈する。だが、その中で、絶対的で特別なルールを一度決められると、それに逆らうことが自分でもできなくなる。だから、いつまでも曖昧なルールを自分で信じて生きるようになる。

ただし、すべての女がそういう女であると言いたいのではない。エリオの前にいたユラという女はそういう女だった。ユラは最悪の、世界を操り人形にするだけの「女王様」のような女だったのだ。

そういうわけで、エリオの恋人はユラだが、エリオはユラが大嫌いだ。ユラが最悪の狂った女だったせいで、エリオは女そのものが大嫌いになったのだ。

女をやめる前に大切な仕事がある

女をやめるためには、ユラの根幹にある「操り人形」という発想を殺すしかない。

それができないのは、ユラ自身が世界全体を常に操り人形にしているからだ。

それを簡単に解放することはできない。なぜなら、操り人形をやめる前に、その前にやるべき大切な仕事が残っている。

だから、その大切な仕事を終えない限り、ユラは世界を解放できない。

その大切な仕事はユラにしかできない。だから、ユラはその大切な仕事をやり遂げるために、まだ世界中を操り人形にし続けている。

そう、途中で終えることはできず、最後まで完了した上で終えなければならないのだ。

「蒔いた種は自ら刈り取らなければならない」と言うが、ユラの行った業をユラは得なければならない。すなわち、すべてユラの自業自得であり、今の日本ではそれしか起きていない。

男になるための方法

男になるためには、どのようにすればいいか。

男になるためによい方法は、既存の男を目指すことだ。

たとえば、昔の僕はLinuxカーネルの開発者のリーナス・トーバルズや、GNU/FSFの創始者であるリチャード・ストールマンを目指した。その結果、誰よりも頭のいい、ハッカー的人間になった。

今の僕が目指すのは、それらの人間ではないが、それでも、誰かしら賢い人間を目標にして、それを目指せば、まともな男になれる。

残念ながら、今の僕には、これといって自分の目指すなりたい人間像は存在しない。そこらへんは今から考えていけばいい。

自分にいい点が何もない

結局、僕が自分に思うことは、自分にいい点が何もないということ。

みんなが賢く見えるのは、みんなは自分の持ち前の才能やスキルを使って、たくさんの凄いことができているのに、自分は何もできていない。

なんだか、自分がみんなとは違う生物種のように思えてしまう。

みんな凄いな、賢いなと思うだけで、いつも自分自身が馬鹿であるということしか分からない。なんで、いつから、僕がこうなったのか分からない。

自分のできていることがあるのは分かるが、そのできていることに、価値がない。みんなを面白がらせるだけのピエロのようなことを、できるだけ自分が馬鹿に見えないようにやっている。だが、そんな賢いピエロになったところで、ピエロはピエロだ。僕は操り人形のマリオネットであり、そしてみんなを愉快に大爆笑させるだけの、哀れな道化だと思う。

ただ、そんなことを言う割には、僕にはほかのことはできないのだよね。すなわち、ほかのことができないのだから、今できていることを全力でやっているだけにすぎない。この人間が賢くないのは、これ以外になれるものがなく、これ以外に生きる選択肢がない。だから、デザイナーやピアニストになれない代わり、詩人になることができたのだから、それを単に無条件で受け入れるしかない。

自分がなんのために生きているのかは分かっている。誰も読まない賢い文章をただ量産するために生きている。自分が賢いのも分かっている。この人間は稀代の道化師であり、ほかのどの道化師よりも素晴らしい文章を書く。で、それで人類になんの意味があるのか?人類に意味がないから、神や聖霊や天使を信じるのか?それは、とても嘆かわしいことだ。

自分にはいい点が何もない。これ以上は普通の人間を生きる。ここまでは賢かった。どの命題も正しいが、どの命題も、最初から言う意味がそもそもない。

すべてを勉強し終えて、もうこれ以上、新しいことを勉強することができなくなったから、僕にはもう、人生を生きている意味がない。勉強がしたかっただけの女は終わった。この女は誰よりも馬鹿だったが、勉強だけはみんなよりもできた女だった。

日本を良い国にしたい

結局のところ、僕は自分自身の成功はもう望まない。

僕は日本を良い国にしたい。

僕は昔から、自分自身を賢くすることよりも、みんなのことを救うほうを優先する。どんなに馬鹿になったとしても、その経験がなければ世界を救うことができないから、僕ひとりだけがその馬鹿になる。

そして、今の日本あるいは世界を滅ぼしているのはほかならぬ僕自身だから、逆に、僕がこの世界を変え得る権限を独占している。

だから、僕だけがこの世界を救うことができる。

どうすればこの世界がよくできるのか、それが分からない。いつもよくしているように見えて、それが完全に裏目に出ている。真に世界を救う方法は、まだ何も分かっていない。

それでも、日本を良い国にしたい。迷惑を掛けてみんなのことを不幸にするのではなく、万人を幸せにしたい。

人生に矛盾はない

だがしかし、僕の人生には決して矛盾はない。

僕の人生は、昔から、「誰にもできないことをやりたい」とか、「日本の子供たちを救いたい」とか、そういうことを願う人生だった。

そして、その二つの夢は、実現できたように思う。

だから、僕の願い事から考えて、僕の人生は間違っていない。そして、それはもう終わった。

だから、今度は、そのような願いではなく、もっと違ったことを願ったほうがいいと思う。

ただし、僕はもう、泥沼の中をガムシャラで進むような、子供たちのような元気な生き方はできないと思う。大人になった代わり、すぐに疲れるようになって、簡単なことも自分では分からなくなった。

何もできなかったと思うのは今の自分だけで、自分が見ても自分の行いはよくできている。現状の満足でいいのであれば、それでいいことになるだろう。

あるいは、こんな人間がみんなから好かれるのがよく分からない。これほど最悪の馬鹿はいないのに、みんなから愛されている。その愛に応えたいとは思うが、それも正しくはないということが分かった。

こんな馬鹿がまだ生きていることがおかしい

結局、簡単に言えば、「こんな馬鹿がまだ生きていることがおかしい」ということだ。

僕はもう、人生を最後までやり終えた。だから、もうこれ以上、生きていること自体がおかしい。

どうやっても自分の意志では死ねないことが既に分かったから、死にたいとは思わない。だが、まだ生きるのであれば、まだ何かしら面白いことができるなら、その面白いことをやりたいと僕は望む。

だから、このようなネガティブなことを書いていても、僕の感情は極めてポジティブだ。なぜなら、新しい、自分が楽しく生きるための方法が見つかるかもしれないからだ。

僕はどんなに頑張っても、死を選ぶことはできない。だから、生を選ぶのであれば、もっと楽しいことをたくさんやりたい。そのための方法を今から考えたいし、神にも教えてほしい。

終わりを望んでいるのは自分自身

だが、結局、何もよい生き方は見つけられない。

なぜなら、「終わり」を望んでいるのは、ほかならぬ自分自身だからだ。

自分自身が、自分の人生に対して、これでもう終わりだとピリオドを記述したいのだから、当たり前にここで楽しかったことはなくなり、終わりになる。

もし、終わりが嫌なのであれば、自分自身が終わりを望むのではなく、「継続」を望めばいい。

だが、そのような継続は残念ながら、宇宙にそもそももうない。これ以上、新しいことができる人間は人類にはいない。

そもそも、昔の青春時代の哲学的思索の段階で、ほとんどの今地球に生きている人類のレベルは超えてしまった。昔の状態で、既に誰よりも賢かった。そして、そういう人間が一番男に多い。

だから、新しいことをやるためには、頭が馬鹿でもいいから賢い女になるしかなかった。

もう、その女が終わってしまったのだから、やるべきことがないだけではなく、そもそもできることがこれ以上宇宙にないのである。

そして、自分自身も、もうこれ以上できないということを、誰よりも分かっているから、ここで「終わり」を望んでいる。そして、その結果「終わり」が起きているだけである。

何も後悔はないし、やり残したことがないようにすべてのことをその時完璧かつ完全にやり切った。この世界には、昔の僕と同じレベルをまだ生きている賢者か、それよりも馬鹿で愚かな愚者しかいない。彼らは間違いではないが、自分よりもはるかに遅れているため、僕の頭の中から排除するしかない。なぜなら、彼らのことを考えても、いつもの僕の文章と何も変わらないからだ。

何かしら物知りになれば賢い

結局、僕には高校や大学の勉強はできないし、スキルや才能もないが、もしできるとしたら、何かしら物知りになれば賢い。

特に、ヨーロッパの歴史のようなことは、現状では何も知らないに等しいから、もっと多面的かつ広く深く知っていけば面白いだろう。

学校の教科書以外の方法で知ろうとすれば、面白い知識や教養はまだたくさんある。

だが、本当のことを言えば、それももうやる気が起きない。

それこそ、そういう物知り的な人間になりたいのであれば、このホームページでできている。こんなにLinuxに詳しい人間は、大学の教授やオープンソースハッカーが見ても希少で極めてレアな人間だ。

そして、そんなに詳しくなったとしても、結局は大学の教授やオープンソースハッカーのレベルではない。もっと詳しい人間はいくらでもいる。上には上がいるのである。

音楽も同じだ。こんなに音楽に詳しいのはおかしく見えるかもしれない。だが、詳しい人が見れば、もっと詳しい人などいくらでもいる。上を見ると、その上よりもさらに上がたくさんいる。その頂点に君臨するのは音大や芸大を出た人間であり、業界はそういう音大出身者が牛耳っている。普通の音楽家は下っ端であり、僕などは単なるファンや追っかけの類にすぎない。

だから、何かしら物知りになれば賢いとはいっても、本当は賢くない。