精神を治すために有効なのは、「一瞬だけ精神を使うのをやめる」という方法です。
すなわち、今精神を使っているのを、一瞬だけ一時的にやめ、その後に再び精神を使います。
それだけで、異常な使いすぎの精神は、すぐに治ります。
残念ながら、僕と同じことは誰にもできない。
まず、僕と同じように、不登校の引きこもりになる選択ができない。そして、その後に僕はLinuxとオープンソースの理想を信じながらインターネットの匿名掲示板で特殊な経験をした。その経験もできない。僕と同じ時代で、僕と同じようにLinuxやオープンソースを経験しなければできない。まず、Linuxやオープンソースはもう衰退している。次に、匿名掲示板もSNSなどに変わっている。そして、僕と同じ時代はもうなくなってしまった。
その上で、この世界をひとりで救うようなことができなければいけない。そのためには、僕と同じように中学校でいじめられた上で、引きこもりになった後でそのいじめの経験を振り返り、反省し、インターネットでの経験と、引きこもりになった実体験を経験しながら反省して、この世界を救う方法を考える必要がある。そのためには昔と同じすさんだ時代が必要であり、僕と同じ時代でなければ同じことは分からない。僕と同じ時代に同じタイミングで不登校になり、同時に僕と同じような経験をしなければ、この世界を救うことはできない。
そして、世界を救った後で、その世界を自ら滅ぼすような戦いをしなければならない。そして、その戦いの中で、たくさんの文章を書きながら、神と対話して神の導きに従わなければならない。そもそも、救った世界を自ら滅ぼすということを誰もしない。戦いも誰にもできない。神を信じるために、「神と対話する」という経験が必要だが、一部の宗教家を除いてそんなことは誰にもできない。
そして、その神との対話を続けながら、一度書いた文章をもう一度書き直さなければならない。それはほとんど無駄な経験だが、僕のような作家になるために必要な経験である。そして、その上で、ホームページを作って、たくさんの本を買って、それをいくらか読んで、ホームページに書く必要がある。それから、父親の話を聞いたり、ピアノや英会話教室に通ったり、デザイナーの勉強をしたりなど、さまざまな多様な勉強や人生経験をしなければならない。
そのようなことを全部やって、その上で、神を信じる力でさまざまな奇跡を起こす必要がある。つまり、神を信じる力で、歌手などとの運命的な巡り合わせを起こす必要がある。それから、神を信じて、問題を修正することを諦めず、いつまでも神の与えた新しいすべきことをやり続ける必要がある。ほかのことに興味を持たず、一心不乱に今やるべきことだけをやり続ける必要がある。
そして、何よりも、この世界のすべてのことを分かっている必要がある。哲学のことも体験的に知っておく必要があるし、世界のことを裏で支配し続ける必要もある。すべてのことが分かっていないと、作らなければならない科学や経済の理論を作ることもできないし、小説や神話も書くことができない。単に僕と同じことをやるだけではなく、自分にしか分からないユニークで独自のことをやらなければならない。
それから、何よりもまず、僕がこの世界を支配するために行った「犯行手段」を真似することができない。僕と同じ手段を使ってこの世界を支配することは絶対にできない。同時に、僕は自ら救われた世界を滅ぼしただけではなく、昔の時代そのものを消し去った。昔の時代を僕は真逆の新しい時代に変えた。そのせいで、昔の僕と同じことは決して誰にもできない。Linuxやオープンソースが衰退した以上に、この世界そのものが変わったことが一番大きい。
だから、僕と同じことをやる、ということを目指してはならない。僕と同じことをやろうとしても、今のこの世界では絶対にできない。あるいは、神のような全知全能の人間でない限り、昔の世界が与えられたとしても、僕と同じことはたぶんできない。そのわずかなチャンスを僕がすべて潰した。だから、僕と同じことをやる、ということを目指す意味はない。
失敗を経験せよ。
人生を理解するもっともよい方法、それは失敗を経験することだ。
たとえば、スラムの王のような経験をせよ。
自分自身も人生も未来も、全部駄目になって、インターネット上の仮想スラムのような場所で、その中でたくさんの経験をして、世界を救うことができる王になるような体験をせよ。
いくら成功の体験をしても、人間は何も分からなくなっていく。正しいのは成功ではない。正しいのは失敗だ。
失敗を経験することで、この世界を変えるための「主体的な行為」を行うことができる。すなわち、たくさんの失敗を経験することで、それ以上下に落ちることがなくなり、同時にこの世界を変えるための「勇気」を得ることができる。だから、失敗を経験すればするほど、「この世界は自分であっても変えられる」という変革の希望と情熱を持つことができるようになるのだ。
そろそろ、僕は勉強が終わった。
今まで、「勉強をする期間」を生きてきたが、それが最後まで完了し、勉強をこれ以上しなくてもよくなった。
だから、ここからは、昔の自分のように、自由に哲学をするようになる。
哲学をするポイントは3つ。第一に「疑うこと」。第二に「想像力を使うこと」。そして第三に「自我を考えること」だ。
疑い、想像力を使い、自我を考える。この3つの柱を使うことで、神によって支配された不自由な自分が解放され、自由になる。
これ以上は、神を信じ続けるのではなく、逆に自分を信じることだ。そして、神を疑い、あるいは科学や人生や宇宙そのものも疑う。もっとも重要なのは「自我を疑うこと」だ。自我を疑うことで、経験的な宇宙と人生の成り立ちが見えてくる。習慣や自動反応では分からない「真理」が見えてくるだろう。
疑う上で必要なこと、それは「この世界には自分だけではなくみんなの自我がある」ということだ。
すなわち、自我は自分だけにあるものではなく、みんなにもそれぞれひとつあるものである。
そう考えた時に、では、そのようなみんなの自我の共存するこの世界の中で、自分は何を考えるのか、何を疑うのか、そして何を信じるのか、ということを考える必要がある。
それぞれが違う、というだけでは、考えたことにならない。たとえば、それぞれの中に異なる世界があったとして、それぞれが互いに関わり合った時どうなるか。それは「世界と世界が関係する」ということを意味している。すなわち、それぞれの自我の中に世界があって、自我と自我の関係性は、そのまま世界と世界の関係性であると言える。ハイデガー的に言えば、「現存在と現存在の関心(ゾルゲ)のやり取り」であると言える。
そして、そのまま、自我の発達について考える。すなわち、「わたしは誰かに認められたいのだ」ということを感情が欲しているとしたら、それがみんなの自我との関わり合いの中で争いとなる。ヘーゲル的に言えば「対象化」という考え方が生まれる。そして、それぞれが戦う中で、「個人的な善とはなんであるか」ということが、さらに「社会的な善とはなんであるか」に発達し、それがそのまま「善を実現できるような社会とは何か」ということになる。そして、さらに、「社会的に実現されるような善とはどのようなことに立脚するのか」ということに繋がっていき、それが僕のいう「アイデンティティ」、あるいはヘーゲルの言葉なら「人倫の世界」へと繋がっていくのである。
そうした自我の発達は、「善とは何か」「正義とは何か」ということと切り離せない。さらに言えば、「実現され得る善や正義とは何か」という問題になってくる。そして、それ以上を考えると、「善」という言葉はそのまま「理性」という言葉に変わっていく。すなわち、ただ「感情的に善である」というだけではなく、「理性的にどのような原理原則を貫けば善と合致する結果になるか」ということを社会的に考えるようになる。
そして、そのような「理性」という言葉は、さらに社会において、「現実」と「理想」という言葉になっていく。そこにあるのは「理想をどのように現実に落とし込むか」ということだが、逆に「現実のさまざまな現象を観察・分析して、経験的にどのような理想が現実から見出せるか」ということが分かっていく。その段階に至ると、逆に「理性的に考えればこの世界は個人であっても変えられる」となる。だが、個人だけでは効果は大きくない。効果を大きくするために、「自分のやることをみんなも同じようにやる」ということを目指す。そこにある「個人」は、既に単なる個人ではなく「集団の中での個人」であり、そして集団もまた単なる集団ではなく「個人の集まった形態としての集団」である。そのように考えることで、主観と客観についても同じことが見えてくる。すなわち、「主観の集団としての自由な社会」ということ、「客観の集団をひとりが観測する意味での自由な個人」ということが見えてくるのである。そして、ヘーゲルが言うように、それらがそれぞれ一致するところで、「悟り」を啓くことができる。
そのような結果、人間はこの世界を救うために、世界を変えようとする。さまざまな環境的な「決定論」を考えると同時に、決定論の中にある「自由に変えられる範囲と範疇」があることが分かる。すなわち、この世界において、それが何かを決定する部分では、それを変えることは簡単ではないが、それが何かが自由である部分にはそれを変えることは容易である。そのように考える時、「決定するもの」と「決定されるもの」、そして「決定するものによって決定されることなく自由が委ねられているもの」があることが分かる。そして、決定するものを変えてしまえば、決定されるものはどうにでも変えられるということが分かる。これこそが「可能性」である。可能性は無限のチャンスであり、人為的に制限されない範囲において、さまざまな代替可能性をいくらでも自由に実現できる。
そして、可能性を信じた上で、先の「自我」ということに話を戻す。すなわち、自我とは可能性の中にあるものである。よって、可能性を変えることで自我を変えることができる。そこにあるのは「知性に基づく経験論」である。すなわち、人間の「知性」ということに基づいて、「経験」ということをさまざまに多角的に捉え直し、場合によっては世界全体や社会環境と照らし合わせて、「経験の成立」ということを考えられる。その経験の成立とは、自分だけにあるものではなく、世界に存在するすべての自我にあるものだ。そして、そのような自我は「決定するもの」と「決定されるもの」の関係によって作り出される。あるいは、常にこの世界ではいつでも全員がそのように作り出されている。そのような作り出される中で、「どのような経験がどのような自我を作るのか」ということを考えるということこそ、「人間がどのようにこの世界で生きられるのか」ということを考えることである、という結論に達するのである。
最後に、そのような人生において、何を目的にして生きるべきだろうか。僕の答えは、「自らの望んだアイデンティティを自らの心の中に形成し、そのアイデンティティを存分に発揮しながら生きること」であり、それはすなわち、「人為的な支配や制限から解き放たれ、ありのままの自由な姿で生きること」である。それが僕にとっての、昔に考えた「僕の独自の思想」である。
このような僕の思想の中で、信じるべきことはいくつかある。
まず、「創造性」である。すなわち、この世界において、クリエイティブな活動をし、オリジナルの作品を作るということ。あるいは、自分自身が理想の自分になるために、自分自身を創造すること。無条件に、疑うことなく、それを信じるべきだ。なぜなら、それを信じることによって、「経験的に何が正しいのか」ということが判断できる。すなわち、創造性は哲学をやる上で、ヒュームが言うような「習慣的なガイド」になってくれるのである。
次に、知識と情報における非対称性と、その中にある「真実は誰にとっても不変である」ということだ。すなわち、知識は相対的なものであり、言ってしまえば無限に作り出せる。そして、情報は与える側と受ける側があり、与えた通りに受けることはできない。だが、それでも、その中には「真実」あるいは「真理」というものがあり、それは宇宙の原理原則であり、誰にとっても不変である。すなわち、知識や情報は嘘と騙し合いの中にあるが、その中には真実と真理があり、それはどのような受け手であっても変わらず不変的に存在している。その真理を発見することで、新しい自分になれる。真理を知ることで、新しい一段階上の自分に昇華できる。そのためには自己批判と経験的な反省、あるいはより正しく言えば「ものごとの見方や世界の見え方を変えること」が必要である。
そして、最後に「存在」である。この世界に存在するものは確かに存在する。それは人間の見ている姿とは違う。人間の見ている姿や像は、人間が人間であるために歪曲されてしまう。姿や像だけではなく、考えたもの、生み出したもの、社会的な常識となっていること、すべてがフィクションである。それでも、そのフィクションの中に、「確かな存在」が隠れている。僕は唯心論を信じない。宇宙にはそのような「確かな存在」が、宇宙にとって正しく普遍的な形で、きちんと存在していると僕は信じている。それは「魂」とでも呼べる存在だが、魂は決して物理学とは矛盾しない。物理学を推し進めた先にこそ、普遍的な宇宙の実体は存在し、それを宗教家が「魂」という名前で呼んだ、あるいは呼ぶしかなかった、というだけのことにすぎないのである。
僕の思想の特徴、それは「すべてのことはいつでもできる」とか、「すべての人間にできることは自分であってもできる」と信じることである。
すべてのことはいつでもできるとは、いつでもすべてのことが自由に許されているということである。
たとえば、中世において神を信じていたからといって、今とは異なる宇宙に生きていたわけではない。人々は今と同じ宇宙の中で生きていて、単にその「生き方」が変わっていただけにすぎない。
だから、今の技術で動く機械を中世に持っていったとしても、その動かすための条件がすべて満たされた場合、今と同じようにその機械は動くはずである。
同じことが、現代においても言える。未来において可能であることは、未来で可能だから今の世界では不可能だとするのは間違っている。未来において可能であることは、今の世界においても可能であるはずだ。すなわち、「人類に発見されていないだけ」にすぎない。そして、人類に発見されていないとしても、それは決して不可能ではない。なぜなら、自分がそれを発見すればいいからである。
そして、すべての人間にできることは自分であってもできるとは、たとえばダヴィンチやバッハのような偉人ができたことは、その偉人が天才だからできたのだと僕は信じない。偉人にはたくさんの努力や閃きはあっただろうが、それだけで「自分には絶対にできない」と信じるには値しない。ダヴィンチやバッハと同じことは自分であっても可能だ。なぜなら、同じ人間は絶対に同じことができるからだ。
そのように考えたことを、比喩として表現すると、BUMP OF CHICKENの「虹を待つ人」が言うことが正しい。すなわち、「そのドアに鍵はない、開けられるということを知らなかっただけ」である。だからこそ、科学は面白い。未来においてできるようになることは今であっても同じようにできる。どのような天才的偉人であったとしても、それが神のような大天才だったとしても、同じことは自分であっても、そしてあなたであっても必ずできる。それが僕の思想における、「すべてのことはいつでもできる」という真理だ。
文明を考える方法、それは「精神」と「物理」の両面から考えることであり、「自然」と「人為」の両面から考えることだ。
まず、文明を、物理的に考えよ。物理的に、その文明がどのような物質的要素から成り立つかを考えよ。
そして、文明を、精神的に考えよ。精神的に、その文明がどのような「意識」から成り立つかを考えよ。
そして、そこにあるのが、文明の「実体」である。
さらに、文明を、自然から考えよ。すなわち、自然にさまざまな多数の作用が集まって、その作用が制限されることなく、そして自然と調和される形で集積することを考えよ。
最後に、文明を、人為的な側面から考えよ。すなわち、誰かひとりが支配したり、社会システムがそのような「取り決め」が行われている、ということから、文明を考えよ。
そこまで考えると、「文明が至る最後の世界」と、そこまでにある「歴史の必然」が見えてくる。最後の世界でどのように人間が生きているかということが分かり、そこまでに至るあらゆるすべての必然的なプロセスと運命が分かる。
まさしく、そのように理解することで、すべての宗教を総合的に統合したかのような思想を作り出せる。それが僕の「オリジナルの宗教」であり「独自の正しい神の教え」である。この思想を信じるものは、神を信じて天国に逝けるのと同時に、仏の悟りすら得ることができる。それは僕がブッダと同じ「仏」であり、僕の子供がイエス・キリストというユダヤ人だからである。
最後に言うべきこと、それは「革命」についてだ。
革命とは、「平等に全員が自由になるような権利を与える」ということであり、同時に「知識と真理を全員に啓蒙する」ということだ。
それはすなわち、「誰かひとりが正義を押し付けるのではなく、全員が支配されず、制限されず、立場やしがらみに囚われないような、超越的な自由な立場を与える」ということだ。
そして、革命とは、すなわち「戦い」である。
この世界を支配し、ひとりの絶対的指導者として導け。この世界を自らがすべて執り行うような、絶対的な力によって支配し、その支配を盤石なものとするために戦え。
戦いの大義名分は、「大実験の大計画」だ。すなわち、この世界をひとり、完全に自らが計画した、大計画の下に支配し、その計画を成し遂げるために、自由と平等の実現のための大実験を行うのだ。
神はそのような、たったひとりで世界と戦う自分の援護をしてくれる。そして、それが奇跡を起こす。この世界は最高の素晴らしい世界になる。わたしがこの戦いに勝利すれば、革命は必ず、絶対に成就する。