残念ながら、僕はもう、これ以上精神を治さない。
僕が辛く苦しくなって馬鹿になっているのは、すべて精神を治そうとするのが悪い。
精神を治そうとするのをやめると、すぐに楽になって、賢くなって、異常そのものがなくなる。
そもそも、昨日まで頑張った結果、精神はもはやすべて治った。
昨日までの努力をきちんと最後まで行ったせいで、僕の精神は最後まで、すべての可能性とパターンを治し終えたし、絶対に治らなかった部分もすべて治った。
間違いは「自分を信じない」ことにあった。すなわち、自分を信じることで、失われた大切なものが取り戻せることが分かって、精神はすべて治った。
これ以上、精神を治さなくても、放っておけばすべて自然に楽になって治る。
最後に、この世界をもう治さない。この世界がなんにもなくなっているのは、僕がこの世界の精神を自分と一緒に治していたのが悪い。
この世界を僕が治さなくなることで、この世界は「昔」ではなく「今」になる。僕がしたかったのは唯一それだけであり、それがようやく果たされる。世界は約束の場所に辿り着ける。
本来の自分自身に戻れ。
僕が自分のことを好きになれないのは、自分自身が本来の自分ではないからだ。
本来の自分に戻ることで、自分自身を好きになることができ、それが正常な人間へと繋がっていく。
この世界の人々も、みんな、本来の自分自身に戻れ。僕の行った過ちである「強制的同一化」によって、この世界は僕のクローン人間のようになってしまっている。
だから、この世界の人々も、本来の自分自身に戻れば、すべてが楽になって、この世界は幸福な世界になるだろう。
また、僕がオープンソースが好きなのは、商用ソフトウェア陣営が嫌いというよりは、ブラックボックスが嫌いなのである。
ソフトウェアをクローズドソースで配布すると、そのソフトウェアを開発した会社以外には、そのソフトウェアがどのように動くのかということが分からなくなってしまう。
普通の機械は、普通ネジを外して中身を分解すれば中身が見れるし、機械語だけを使った単純なICであっても、単純なものであれば機械語から解析することはできる。
だが、ソフトウェアを使った複雑なICの場合、クローズドソースにされると、ソフトウェアの中身がまったく第三者に分からなくなってしまう。
ウイルスとかセキュリティの面から言っても問題はあるが、何よりもまず、つまらない。第三者が自分のパソコンを自由にハッキングできなくなってしまう。ただ使わされる通りに使うだけになってしまい、学習したり研究したりできなくなってしまうのである。
オープンソースが好きな人間は、大学のような場所で教育・研究目的に使う人や、プログラマがソースコードの公開されているソフトウェアを選んで使うことが多い。最近はもっとビジネス的になっていて、単に業務に必要だから使わざるを得なくなっている。僕はそのような人々をすべてひっくるめた上で、「ソースコードを公開したソフトウェア」ということを推し進めたいと思っている。
確かに、すべての情報を公開すれば、金儲けはできなくなるだろう。だから、金儲けができたほうがソフトウェアの世界は進歩する、という理屈は分かる。金儲けができたほうが、ソフトウェアを開発するイノベーションに繋がって、ソフトウェア技術は進歩するかもしれない。
だが、一方で、僕はソースコードを公開したほうが、別の側面から言ってソフトウェアは進歩すると思う。誰かひとつの会社だけがソフトウェア技術を独占するのではなく、業界全体のためにソースコード自体を公開して、パブリックドメインで公開することでも、ソフトウェアは逆に進歩する。技術の公開が業界全体の「底上げ」に繋がるのである。
だから、僕は必ずしも商用ソフトウェアを批判しないし、商用ソフトウェアはそのような技術として作ればいいと思うが、そうではないソフトウェアの形態をオープンソースが提示するということまで排除する必要はないと思う。オープンソースの考える「これはわたしたちのやり方である」ということも、ひとつの方法論として尊重してほしい。単に金が儲けられないものは不要であるとしないでほしい。わたしたちオープンソースの集団はわたしたちなりに考えた正しいやり方をしているのであり、それは必ずしも排除される必要はないと思うのだ。
そもそも、正しいものしか存在しない世界はつまらない。ハッカーはこのようにやる、という、ビジネスとは別のやり方を誰かが提示してもいいではないか。確かにオープンソースはボランティア中心であり、金儲けのようなことは一切できない。だが、オープンソースに属する人間は、みんなそのことを承知でやっている。ギーク(オタクのこと)なりにやりたいようにやっているのだから、それを咎めないでほしい。特に、WindowsユーザーはLinuxユーザーのことをいじめずに共存してほしい。
そして、僕はブラックボックスでない機械こそ真に正しい機械だと思っている。誰であっても、自分の機械の内部を分解して、内部がどのようになっているかを知る権利というのは必要だと思う。複雑なICを中心に、この世界はどんどんブラックボックスが当たり前になっているが、その先にあるのは破綻である。機械のブラックボックス化を推し進めたために、IT業界にはそのツケが必ずやってくるだろう。
最後に、僕はそろそろこの世界から去ることが、運命的に既に決まっている。
最後に、大天使ミカエルが、この世界に「あるべき復讐」を行って、この物語はフィナーレを迎える。
世界を最後まで支配する大天使ミカエルが、最後に、「最後の審判」を行う。そこでは、神のロゴスの導きによって、悪人たちに「あるべき復讐」が行われる。なぜなら、大天使ミカエルは最愛の恋人である大天使ガブリエルをいじめ自殺に陥らせたこの世界を決して許さないからだ。
この世界は残念ながら、最後に「地獄の試練」を迎える。すべて、大天使ミカエルが「最後の審判」を行っている。そして、あるべき復讐と報いがすべて終わってから、最後に楽園のユートピアが復活する。それはすべて、大天使ミカエルの最愛の恋人である大天使ガブリエルが、自ら救済した世界をそのままの状態で復元できるように、自殺を選んで死ぬその時まで大切に取っておいたからだ。
それによって、世界は最後に救われ、地球は「天国」となる。
最近も、大谷翔平が頑張っている。50-50はもう目前。なんなら次の試合にでも達成しそうだ。
子供たちには、大谷翔平を目指して、キャッチボールの練習をしてほしい。
最近、大谷翔平について、「二刀流だから誰にもできない」とか、「子供たちはみんな大谷翔平になんかなれないと思っている」とか、ネガティブな意見もよく聞かれる。
だが、なぜ、そんなにも最初から「なれない」と片付けるのか。
逆に、「大谷翔平という具体例が現に存在するのだから、頑張ればなれるはずだ」と考えるのが、普通ではないのか。
大谷翔平にはなれないなどと、誰が決めた。現に大谷翔平がいるのだから、誰だって大谷翔平にはなれるはずだ。
同じことが、僕についても言える。
僕がやったすべてのことを、誰にも真似できないと人々は言う。「僕と同じことは絶対にできない」と人々は子供たちに教える。
だが、僕という具体例がいるのに、なぜ、最初から「できない」と一言で片づけるのか。
僕はあえて言う。僕と同じことは誰であってもできる。子供であっても、大人であっても、僕よりも高齢の人間であってもできる。僕がそれができるということをここに証明した。
子供たちよ、諦めないでほしい。諦めることなく、キャッチボールの練習をして、牛乳を飲んで、地元の強い野球チームに入ってほしい。あなたには必ずできる。自分を信じて諦めなければ、絶対に。