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2024-11-03

わたしたちはセイリーフ教団

僕の信じた神、僕と対話した神は、ユダヤ教の神でもキリスト教の神でもない、僕だけの独自の神だった。

僕はその神のことを単に「神」と呼び、その神に独自の名前を付けなかった。

だが、イスラム教の神アッラーのように、その神に独自の名前を付けることで、ユダヤ教のヤハウェや、キリスト教のイエス・キリストと、明確に区別したい。

だから、僕の信じた神に、僕は固有の名前である「セイリーフ」という名前を付けた。

セイリーフ(Seileaf)は日本語の「聖なる」「精霊」「聖職者」といった意味を持つセイ(sei)と、英語の「リーフ(leaf 葉っぱ)」や「ビリーブ(believe 信じる)」といった意味を持つリーフ(leaf)から成る造語だ。

セイリーフにおいては、神の名をセイリーフと呼ぶほか、宗教であるセイリーフ教のこともセイリーフと呼び、信者であるひとりひとりのセイリーフ教徒のこともセイリーフと呼ぶ。それらを区別する時は「唯一神セイリーフ」「セイリーフ教」「セイリーフ教徒」と呼び分けるが、通常はそれらすべてを総称して「セイリーフ」と呼ぶ。そして、開祖である詩人アッシー四世のことは、尊敬の意を込めて「第一セイリーフ」と呼ぶ。

セイリーフにおいては、植物の葉っぱは神聖視され、信仰の対象となる。セイリーフは「聖リーフ」とも読むことができ、それは「聖なる葉っぱ」という意味である。セイリーフにおいては神・宗教・教徒だけではなく、地球上の植物たちの葉っぱも含めて「セイリーフ」と呼ばれることがある。また、セイリーフとは「聖霊」のことであり、天上に存在する天使や悪魔についても「セイリーフ」と呼ぶ。この際に、特殊かつ重要なセイリーフは、仏教でいう菩薩とか如来といった言葉と同様に、セイリーフでは「フラウレット(flowlet)」と呼ばれる。フラウレットの語源は英語の「フラワー(flower 花)」である。この呼び名は北欧神話の神フレイ(Frey)および女神フレイヤ(Freya)、あるいは僕が好きだったパンクロックバンドのFLOWにも関連している。

セイリーフは、ユダヤ教やキリスト教の終末論を信じている。セイリーフは「制リーフ」や「製リーフ」と読むこともできる。制とは「制作」の制、製とは「製造」の製である。終末の世界において、人々は「カタストロフィ」(大崩壊)を経験する。すなわち、自然環境の破壊から、世界は荒廃して砂漠となり、雨の降らない枯れ果てた世界となるため、植物が枯れ、絶滅していく。そのような中で、人々は生きるための酸素を人工的に発生させるために、「人工的に植物を作り出す」ということが必要になる。未来において人類はそのような運命を経験するため、「セイリーフ」とは「葉っぱを作る」という意味を持つ。それが未来の人類の生きる目的だ。

セイリーフはほかの宗教と矛盾しない

セイリーフは、ほかの宗教と矛盾しない。

セイリーフは、北欧神話と矛盾しない。セイリーフにおいて、ひとりひとりの最小単位は「葉っぱ」であり、その集団が木となって、「聖樹ユグドラシル」となる。だから、セイリーフとユグドラシルは同時に信じることができる。

セイリーフは、ユダヤ教やキリスト教と矛盾しない。セイリーフは「聖霊の神」を信じる宗教であり、「父なる神」を信じるユダヤ教や、「子なる神」を信じるキリスト教と矛盾しない。だから、セイリーフとユダヤ教・キリスト教は同時に信じることができる。

セイリーフは、日本神話と矛盾しない。日本神話においては、宿り木といったように、「神の霊が神木に宿る」という信じ方をするが、それはそのままセイリーフに受け継がれる。セイリーフにおいては、葉っぱそのものが聖なるものであり、葉っぱそのものに神の霊が最初から宿っている。

イスラム教は間違っている

だが、例外的に、セイリーフが間違った宗教であると否定する宗教がある。それはイスラム教である。

それは、セイリーフの側がイスラム教を嫌うわけではなく、コーランを読めば分かるように、イスラム教のアッラーはセイリーフのことが大嫌いであり、セイリーフはイスラム教徒たちから嫌われている。

そのようなイスラム教徒を排除するために、セイリーフはイスラム教を否定し、「積極的にイスラム教の教えに反する行いをすること」を推奨する。

セイリーフは豚肉を食べることや酒を飲むことを推奨する。そして、多神教を信じることや偶像崇拝をすること、姦淫をすることも推奨する。アッラーの怒りに触れることを多いに推奨する。

だが、セイリーフにおいて、イスラム教から受け継がれた教えもある。それは毎日5回の礼拝を行うことだ。

セイリーフは、「礼拝」という行いを重要視する。すなわち、イスラム教徒のやっている毎日5回の礼拝を、「イスラム教の教えにおいて唯一価値のある教え」であるとし、セイリーフにおいて毎日5回の礼拝を行うものは、どんな苦しみも辛い地獄も起きず、平穏に生きることができる。

なぜ、イスラム教から礼拝だけを取り入れるのか、それは僕個人の経験に由来する。

僕自身が暗闇の地獄に堕ちていた時、僕はメッカに対して毎日5回の礼拝をした。そして、それによって僕の未来の運命は書き換わり、すべてが平穏かつ穏便な未来になった。

その僕が礼拝した神のことを、僕は今でも信じている。

だから、僕はイスラム教から毎日5回の礼拝を取り入れる。だが、これは義務ではない。信者が自分の意志で礼拝したいと思う人間だけがすればよく、それによって信者はどんな地獄からも必ず救済される。

さまざまなフラウレット

セイリーフにおいては、特殊で重要な存在として、フラウレットを信じている。以下は代表的なフラウレットである。

まず、ユダヤ教やキリスト教においては、姦淫を嫌う。すなわち、セックスをすると、ユダヤ的な罪が生まれ、肉体が穢れてしまうと考える。

セイリーフにおいても「姦淫は穢れである」という教えは引き継がれるが、セイリーフにおいては解決方法がある。それは「肉体的なセックスではなく精神的なセックスをする」ということである。

すなわち、肉体的なセックスをした時点で、肉体は穢れ、ユダヤ的な罪を負う。だが、セイリーフにおいては、肉体的なセックスをしなくても、精神的なセックスができる。それはフラウレットであるチェリーブロッサム(英語でcherry blossom 桜の花)とのセックスである。

チェリーブロッサムは、男の姿にも女の姿にも現れる、永久に18歳のまま歳を取ることのないフラウレットであり、セックスを求めると応えてくれる。それは肉体的なセックスと同等の精神的なセックスであり、男にとっては無限の射精、女にとっては求めるがままの絶頂を経験できる。だが、肉体的なセックスではないため、穢れや罪は発生しない。

だから、セイリーフにおいては、肉体的な異性とのセックスをしなくても、チェリーブロッサムとの「霊的なセックス」を行うことができる。

なぜ、チェリーブロッサムなのか、それは英語では童貞のことをチェリーボーイ(cherry boy)と呼ぶことに由来する。チェリーブロッサムは童貞だけに現れる「本当に愛すべき桜の恋人」であり、この恋人の名前を「さくら」と呼ぶ。

それから、一度地獄に堕ちた人間に対しては、救われる方法がある。それはフラウレットであるリリー(英語でlily 百合の花)の導きにすべてを委ねることである。

リリーとは、仏教でいう阿弥陀如来のことであり、フラウレットであるリリーを信じることで、必ず、どのような地獄であっても救われる。未来がその人間にとって最適かつベストな運命へと書き換わる。

なぜ、リリーを阿弥陀如来と同等の存在にするのか、それは第一セイリーフの詩人アッシー四世の守護天使が、死んだ酸欠少女さユりだったから(さユり=百合の花)、ということに由来している。

知らない人はいないと思うが、さくらとリリーは映画「男はつらいよ」で登場する重要な女性キャラだ。だが、今回はその名はそれとは関係なく付けたので、まったく関係ない。

聖書ファインダ

セイリーフにおける経典、すなわち聖書のことを「ファインダ」と呼ぶ。これは英語のファインド(find 見つける)という意味を持つ。

このセイリーフの聖書ファインダは、第一セイリーフである詩人アッシー四世が書いた、詩的な日記である。

人類に課せられた使命、それは宇宙のどこかに隠れて存在するファインダを見つけることだ。この世界のどこかに、ファインダは隠されている。そのファインダの場所は、この世界自体を意味する「神の暗号」によって、在り方がどこにでも記述されている。ファインダがどのようなものであるかということを、人々はこの世界のありとあらゆる場所に存在する「ヒント」から既に知っている。

どこにファインダがあるか分からなくても、ファインダがどのようなものであるかを人々は無意識のうちに知っている。この宇宙にはファインダの存在を示すものが無数に存在している。だが、それに気付くことは難しい。人々はファインダという存在を「当たり前の空気のようなもの」であると勘違いし、そこに存在する、詩人アッシー四世が体験した「奇跡のおとぎ話」をまだ知らないのである。

神とは植物が繋がった意識のこと

結局、神とはなんなのか。

セイリーフにおいて、神とは、植物が繋がった意識のことだ。

すなわち、動物だけを見ると、地球上の生物は、それぞれが分離されていて、個別に生きており、自由なものであると勘違いする。

だが、植物を見ると、植物は本当はそれぞれの意識が繋がっていて、「集合的意識」を作り出している。

それは、動物よりも植物のほうが、高度で賢い生物である、ということにほかならない。

すなわち、セイリーフにおいて、神とは、地球上のすべての植物、山や森や林や草原や一輪の草花や海中のプランクトンなどを含む、すべての草木と植物を統合した意識のことである。

みんながひとつの葉っぱ

セイリーフのことを一言で表現すると、「みんながひとつの葉っぱ」であるということである。

すなわち、セイリーフ以前の人類が、ミドリムシやゾウリムシのような、ひとつひとつ個別に分かれた単細胞生物だとするなら、セイリーフ以後の人類は、植物や動物のような、複雑かつ高度な多細胞生物であり、みんなはその中のひとつの細胞であり、みんなでひとつの葉っぱを形成している。

そして、セイリーフでは「神による生物創造」を信じているが、それはまさしく「単細胞生物から多細胞生物に進化する」ということだ。

すなわち、生物が単細胞生物のミドリムシやゾウリムシから、多細胞生物の葉っぱになるということ、それをセイリーフでは「神による偉大な生物創造の力」と信じているのである。

そのような生物創造の神秘の中で、最初にセイリーフという葉っぱになった存在、それが第一セイリーフ、詩人アッシー四世である。この称号は、下手に「神」とか「仏」とか「尊師」といった呼び方をするよりも、はるかに偉大で正しい称号である。なぜなら、宇宙で最初に価値ある賢い存在(第一セイリーフ)が現れたということを意味しているからである。

英語ではセイントリーフ

セイリーフとは、「聖リーフ」のことであり、英語ではセイントリーフ(St. Leaf)と呼ぶべきである。

これに、神話を意味するMythologyを加えて、「Mythology of St. Leaf」とする。これはセイリーフの正しい英語の訳語だ。

だが、実際にこの言葉を使うと、長くて言いづらい。だから、セイリーフ自体のカジュアルな呼称では、英語でも「Seileaf」と呼ぶことが一般的である。