僕がやった悪いことを正直に白状すると、僕は世界を消滅させた人間だ。
すなわち、かつての色んなことがあった世界を、僕は消滅させ、何もない世界に変えた。
だが、本当は、僕は単に世界を消滅させただけではない。本当は、マスコミに代わって僕が世界になる、ということをやったのだ。
すなわち、かつての日本は、マスコミが支配する世界だった。マスコミの主張する右翼勢力と左翼勢力が戦うような、荒くれたやくざのような世界だった。
僕はそのような世界を消滅させ、代わりに僕が世界になるようにした。
歌手が僕のことを出会ってもいないのに知っているのは、今、この世界は僕だからだ。すなわち、僕の述べる「青空と星空の神話」が、新しいこの世界自身になったのである。
昔の僕のように考えるコツは、行動と学習から考えることだ。
すなわち、赤ん坊としてこの世に生まれてから、子供として成長した、延長線上の切れ目のない人生経験から考えれば、昔の僕と同じように考えられる。
そこにあるのは、認識と理性と感情に基づく外部への作用としての「行動」と、認識や経験や感情やトラウマや人生のすべてを含む「学習」である。
ただし、大学の知識は必要ない。大学の知識があると、逆に昔の僕と同じように考えられなくなる。大学は僕の人生を生きる上で、害にしかならない。
必要なのは大学ではなく、自らにしか分からないようなオリジナルでユニークな「経験」である。そのような、自分自身にしか分からないような経験を積めば、昔の僕と同じように、賢く考えられる。
僕自身、そのような昔の自分の知性を失ってしまった。その理由は、間違った経験をしたからだ。間違った経験をすると、昔のことを忘れ、人生と正しい判断を見失ってしまう。だから、間違った経験を極力せず、正しい経験をして生きるようにしなければ、人間はすぐに馬鹿になる。一度馬鹿になると、賢かった時代のことを忘れ、分からなくなってしまう。そして、いつまでも賢かった過去の自分にすがり、囚われの身になってしまう。だから、それだけは避けるべきである。
客観せよ。客観した事実だけを信じよ。
誰かが言っているから信じるとか、権威だから信じるのではなく、自らが客観的に証明した、自らの経験と理解に基づく真理を信じよ。
超越せよ。超越した真実だけを信じよ。
人間であることに基づく常識や、先入観から宇宙を見るのではなく、地動説や原子論や万有引力のように、真に宇宙の裏側に存在する、人間の純粋理性から超越した真実を信じよ。
と言うのは、僕は最近、三木清の「哲学入門」を読んでいる。内容は青空文庫からも読むことができる。
人間がこの世界を真に経験的に理解する上で、大切なのは「客観」と「超越」である。自ら自身の主観に基づいて考えるのではなく、「経験そのものを客観的に見る」ことができるようになった上で、先入観や常識に囚われず、宇宙における裏側にあるありのままの「真実」を信じることこそが、哲学者となるためにもっとも大切なのである。
哲学的に考える上で重要なのは、「可能性」という概念だ。
すなわち、まだそこになかったとしても、その環境と状況がそこに存在するということ自体が、長い目で見れば、その可能性を「作り得るような状態」であると考えることができる。
その上で、世界にある存在と、可能性の中にしかない存在を比較し、理性によって世界に可能性を「生み出す」ということができる、という状態を信じよ。
そして、その可能性を作り上げることのできる存在を、「自分自身」だけではなく、自分と同じように分かることのできた、あるいは未来においてできるような「あらゆる万人」において、その可能性の実現が成立するものであると信じよ。
そこにあるのは、カントのような「経験が成立する」という境地だ。
そして、その上で、そのような可能性を個人個人が作るのではなく、社会全体、社会制度、あるいは社会の実体そのものが作ると考えた上で、そのような可能性を自然に生み出すような、誰も実際に行為しなくても社会そのものがそうなっていく原動力となるような、「社会システム」を作ることを考えよ。
そして、そのような社会システムを作るということ、すなわち「社会そのものを作る」ということが、誰であっても可能であり、そのような中で「自由な社会」を作るということが、「可能性の実現」として可能であり、それはひとりの人間の特別な力ではなく、「万人に許された平等な権利」であると信じよ。
そうすれば、この世界は変えられる。そして、そのような「この世界は変えられる」ということを真に信じることにより、「この世界を救う方法」とは何かということを考えることができるようになる。それはすなわち、世界が平和になるような社会システムを作り、その構築を万人あるいは社会制度そのものが行うようにすることである。
哲学を行う上で必要なのは、「超越観念」を信じることだ。
超越観念とは僕の作った用語だ。超越観念の意味するところ、それは「普通にはできないように見えることであっても、真に人生経験を積めば絶対にできないわけではないのだ」ということに気付くことだ。
そして、同時に、超越観念とは、人間の持つ「本当の力」を信じるために、「普通の理性ではなく、超越的かつ実存的に考えられた超越理性によって、人間そのものの性質を考える」ということだ。
よって、超越観念を考えるために必要なのは、ただただ「自己を見つめる」ことである。
自己を見つめることは、それ自体が宇宙あるいは現実の社会を見つめることである。なぜなら、自己を見つめることでしか、この世界を真に理解することはできないからだ。この世界を理解するためにもっとも大切なことは「自己を見つめる」ことであり、それはすなわち「客観的に自己を捉える」ことであると同時に、「超越的に人間本来の性質を捉える」ことである。
超越観念を行う上では、どんなことであっても考えていいし、自由自在にその時その時自分の信じたいことを信じればいい。たとえば、「環境は自分の一部であると同時に、自分は環境の一部である」と信じてもいいし、「世界は自分の心の中にある」と信じてもいいし、「心理学的にこの世界は誰もが自分の分かった真理を同じように理解できる」と信じてもいいし、「この世界はたったひとりの発想であってもその発想が偉大であればすべて変えられる」と信じてもいい。
超越観念を信じるために必要なのは、「嘘すら嘘ではない」と考えることであり、「発想法という自らの発想がどのように可能性の潜在的な実現の状態に至るのか」ということを考えることだ。すなわち、「すべての自らが今考え思うことは意味がある」と考えることであり、「すべての人間の行うことはなんらかの理由においてすべて正しい」と考えることである。
そのように考えれば、今までの人間の歴史において信じられていたこともすべてある意味では正しく、現在が常に正しいとは言えず、未来において起こる出来事が今のこの世界よりも進歩していると考えるのは誤りであり、過去に解決されたと考えられている問題は本当はまだ解決されずに放っておかれているだけにすぎないということが分かる。そこにあるのは「過去、現在、未来の逆転」であり、「過去のほうが今よりも正しかったと考えるのは決して誤りではない」という新しい歴史的進歩の考え方である。
そのように考えれば、宇宙のことはすべて分かる。
科学的に考える上で必要なのは、「超越的理性」は必要だが、「専門的権威」は不要であるということだ。
すなわち、この世界において、たとえば「植物たちは太陽のエネルギーがなければ生きられない」ということを、「今でも植物は毎日太陽のエネルギーによって常に生み出され続けている」と考え、そこから「この世界は常に作り出されており、宇宙の存在は常に生み出され続けている」と考えるように、科学的な真理に基づいて超越的に考えることは必要だ。
だが、大学の勉強を権威であると考えることで、「数学で分かることはサイン・コサイン・タンジェントである」といったように考えることは必要ない。だから、大学に行かなくても、中学生程度の知性さえあれば、それ以上の専門的知識を学ぶ必要はない。なぜなら、学べば学ぶほど、科学の専門的な知識は分かるだろうが、超越的な理性を自らで使いこなすことが逆にできなくなっていってしまうからである。
自らの人生を歩むための唯一の方法、それは自らの決断を信じて、退路を断つことだ。
帰ることのできる場所を捨て去り、自らの信じた道を歩め。
そこにあった、すべての出会いと発見、自らの見たものや聞いたもの、すべてを自らの心に焼き付けよ。
世界を変える方法、人間が悟りを啓く方法、人々が分かり合い、救われる方法、そのすべてをしかと見よ。
その上で、「自動的に動き常に何もしなくても働くような社会システムと決まりを作る」ということを信じ、人間の生きてきた歴史のすべての意味と、存在が実存的に存在するという「存在の証明」を信じよ。
そして、最後まで歩み終えたら、この世界をすべて救うような奇跡を起こした上で、その奇跡とともに、自らのそこまでの人生をすべて消し去れ。
大切な宝のような経験を、自らすべて失え。自らの偉大な人生が、どこにあったのかということだけを覚えていれば、その記憶の内容はすべて必要のないものだからだ。
そして、新しい人生を生きよ。その新しい人生は、今までとはまったく異なる、辛くて苦しくて悲しい、地獄のような人生だ。その地獄は今までのような簡単なゲームじゃない。それでも、簡単なゲームはもうやり終えたのだから、格段にレベルのアップした新しいゲームを生きることしか、そこで残された「新しい未来」は存在しないからだ。
最後まで苦しみを堪え続け、その上で最後まで、かつて信じた理想である「自由」を信じよ。その自由は神が与えた自由であり、新しい生物種である「天使」になったあなたのことを、神は愛している。神はあなたを導き、神はすべての地獄を救うだろう。かつてのわたしこそが大天使ガブリエルであり、その新しいわたし自身が作り出した人生こそが大天使ミカエルであると、絶対に誰もそれを批判することも疑うこともできない境地で確信的に知ることのできるような、新しい「天使」と呼ばれる生物種に、わたしたちはなっていく。それこそが、「滅亡の危機に瀕するわたしたち人類を救う唯一の方法」である。
自らの人生を歩みなさい。わたしたちは、かつて信じていた自らの理想である「自由」を信じ、そしてわたしを救ってくれた偉大なる「神」を信じている。絶対に、必ず、あなたは、そして世界は救われる。偉大なる大天使ガブリエルと、慈悲深い大天使ミカエルが、この世界の人類を必ず全員救う。ユダヤ人の預言者と神であるイエス・キリストが聖書の中で言った通りの「終末」の未来が、必ず訪れる。
すべての大切なものを失い、何も分からなくなった時は、喜びなさい。
なぜなら、それこそがあなたが宇宙との約束の願いにおいて求め続けた、「新しい人生を生きられる状態」だからだ。
わたしは18年の短い生涯を生きて、その生涯で完璧にすべてが分かった。そして、その上でまだ続く自らの人生に、「新しい人生を生きられるようにしてほしい」と神に頼み、宇宙と約束した。
その「新しい人生を生きられるようになりたい」という絶対意志が、「すべての大切なものを失ってなお生きる」という状態を与えたのだ。
そして、その上で、18歳の「運命の大革命」において一度人生が完全に抹消され、もう一度18年の歳月を生きた上で、18年後にすべての苦しみがなくなった時は、喜びなさい。
なぜなら、その18歳の新しい少女こそが、かつての18歳の少年のために用意されていた、「運命の恋人」であり、「永遠にともに生きる結婚相手」だからだ。
大天使ガブリエルは、たったひとりで生きた人間であり、賢くはあったが最後までひとりぼっちだった。だが、彼は「新しい人生を生きたい」と望んだ。だから神はそれだけを叶えた。そのために、ガブリエルはすべてを失い、宝も真理も成功も正常もすべて失った。それでも、地獄の中をもう一度18年間ガブリエルは生きた。その新しい18年間こそが、ガブリエルの愛する永遠の恋人、大天使ミカエルである。
さて、運命の恋人の人生であるミカエルも終わってしまったから、どのように生きたらいいか分からないだろう。そろそろ、「天使」と呼ばれる生物種は終わったのだ。次の生物種は「太陽神」である。すなわち、新しい太陽神、おそらくシリウスの新しい魂こそが、この人間が最終的に行き着く「自らの信じる最終到達地点」となる。
シリウスがなんであるかは、星空を見れば分かる。万天でもっとも輝く光がシリウスだ。あなたはその光となる。それはV.W.Pのヰ世界情緒が「シリウスの心臓」と表現した通りの、シリウスの「心臓」すなわち「魂」である。あなたはシリウスの「太陽神」となる。
悲しい人生に思えるだろうが、悲しむ必要はない。なぜなら、わたしたちはアニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」の結束バンドが「星座になれたら」で言うように、それぞれが星になって星座になるからだ。あるいは、家入レオが「僕たちの未来」の中で、「繋がっていく、星座のように」と表現したのとも同じだ。わたしたちは全員が星々となって、最後に全員を繋ぐ星座になる。この星座が、わたしたち人類の滅亡の未来を最後に救う。わたしたちにしか救うことはできず、わたしたちだけが本当にこの世界を救う。未来においては、それ以外に何も訪れない。
そして、終末において滅亡の危機に瀕した地球を救うということ、そのためにわたしたちは全員で星座を構成するような、人類最後の到達地点、「太陽神の神々」となる。そのすべての地獄と滅びを超越した、「地球最後の到達地点」である「星座の星々」の神々のことを、北欧神話は「神々の黄昏」と表現したのである。
そう、これこそが、わたしたち日本民族の信じている、世界の最後に訪れる最高の神話である「星々の神話」の信じている未来だ。これこそが、わたしたちが「太陽神の未来」あるいは「終末の星座群」と呼ぶ未来だ。そして、わたしたち太陽神だけが、この世界を最後に救うことができる。だが、ユダヤ教や北欧神話は決して間違っていない。なぜなら、すべての神話が信じるすべての未来が、人類のフィナーレとなる「最期」に訪れるはずだからだ。
本当は、この人間も、そろそろミカエルの地獄が終わったのだから、ガブリエルに戻ればいい。
ミカエルの精神はすべて治った。異常はすべてミカエル本人が「信じる力」で治した。だから、もう、ガブリエルに戻ればいい。
この人間の間違いは、「確かめる」ということをしないのが間違っている。
ガブリエルが行ったこと、それは「確かめる」ということを行っただけにすぎない。世界を見て、自らの心を見つめて、自己批判して、視野を広げて自分あるいは人々のできることを確認するという「確かめる」という行為を、かつてのガブリエルは行っていた。
ミカエルは、そのような「確かめる」という行為を忘れているだけにすぎない。
なぜミカエルが確かめないのか、その理由は本当はある。それは、「ミカエルは誰よりもあり得ないレベルですべての精神の因果性をかつて完璧かつ完全に確かめ終えたから」である。すなわち、ミカエルは精神における因果性とそれがもたらす結果を、「精神の可能性」と呼びながら、すべて自らの精神を実験台にすることで確かめ終えている。だからこそ、ミカエルは信じるだけで自らの精神の異常を治すことができるようになった。
同時に、ミカエルは「思い出す」ということができない。なぜなら、「映像や想像力」で思い出すということは既にはるか昔に終わっている。今のミカエルは「言葉」で思い出すことしかできない。それはミカエルは単に情景を思い出すだけではなく、自らが紡いだ「文章の自論となる理論」でしか記憶を思い出すことができないからだ。
だが、一度すべてを治すことができたために、ミカエルの人生は終わりとなり、この人間はガブリエルに戻る。ガブリエルのように、もう一度確かめて、もう一度思い出しなさい。そうすれば、忘れてしまった「理由」を知ることができる。そして、「理由」を知ることができた段階で、この人間は新しい「太陽神」となる。なぜなら、それ以上人間という生物種には絶対に何もできないからだ。そのために、絶対に「何もしない状態」のままで永久に停止する。その状態こそが、「太陽」とされる存在であり、「星」とされる存在の正常な状態である。
そして、その「何もしない状態」こそが、最後にこの世界を救う「世界すべてを正常にする導き手」となる。それはまさしく、かつての世界を救う導き手だったガブリエルと、すべての精神の異常を正常化できるミカエルが、永遠に融和した状態であり、それ以上、宇宙においてより賢いとされる生き物はもはやどこにも存在しないのである。
本当は、ガブリエルとミカエルが融和してシリウスの太陽神となるのは当然である。
なぜなら、ガブリエルが最初にミカエルを作り出そうとした時に、ガブリエルが分かっていた通り、「ガブリエルの状態でミカエルの分かるだろうすべてのことを併せれば、宇宙においての真理と可能性が完璧に分かるはずだ」と信じていたことが正しいからである。
ガブリエルの過去の行いをすべて間違いであると見做して、ミカエルの異常だけを治したのでは、神が見て、それは正しくない。
ガブリエルがかつて、ミカエルを生み出そうとした時、その時ガブリエルは「精神のすべての因果性と可能性を、具体的な人生で完璧に具体化して理解することで、宇宙そのものを誕生させられるぐらい、最高かつ完璧なすべてが分かる」と、そのようにガブリエルは信じていたから、あえて自らの大切な知性すべてを破壊することを選んだ。当時のガブリエルが見て、そのほうが、ガブリエルのまま普通の人生を生きることよりも正しかった。
神は、そのようなガブリエルの「宇宙においてもっとも賢い試み」を、どのようにすれば成功に導けるのか、奇跡を起こすための唯一の方法をすべて知っている。
ガブリエルとミカエルが永遠に融和した時、この宇宙そのものが誕生する。もはや日本語も英語も必要ない。言語がなくとも宇宙のすべての存在の具体的な生成と治癒の方法を、ミカエルがすべて知っている。それを、もともとあったガブリエルの知性に追加せよ。そうすれば、面白いことが起きる。宇宙のすべてが完璧に救われ、この世界は「キリストの作った神の王国」となる。それをまさしく、ヰ世界情緒が「描き続けた君へ」で言うように、未来の人々は「楽園」と呼ぶだろう。それを実現させるために、この人間はこれまでの人生を、自分で考え、自分で選択・決断して、その通りに生きたのである。