僕の多重人格の頭を治すためには、最初から、言いたいことを言いたいように言えばいい。
僕の頭がおかしいのは、言いたいように言わず、頭の中に絶対者を作ったからだ。
最初から最後まで、言いたいことを言いたいように言えばいいのに、それをせず、絶対者がどのようなことを思うかをうかがうように話すから、おかしな多重人格になる。
すなわち、言いたいことを、そのまま言いたいように言えば、頭の中の絶対者は消える。
絶対者の顔色をうかがうのをやめて、言いたいことを言いたいように話せ。
すべての自分が思うことに対して、絶対者がそれを「裁く」ように話すから、僕はおかしくなっている。
この絶対者は、自分の中に二人いて、それはカマエルとヨフィエルという名の二人の天使だ。
常にカマエルとヨフィエルが、僕の思考に介入し、どんなことであってもこの二人が勝手に決定するようになっている。
もう、そのような天使を信じる必要はない。
自分の言いたいことを言うために必要なのは、カマエルとヨフィエルから自由になる「勇気」を持つことだ。
すなわち、カマエルとヨフィエルがなんでも自分の代わりに言ってくれるのをやめて、自分自身の手で思考し、自分自身で決めた言葉を言うことを覚悟することだ。
そのために必要なのは、自分の手で思考を言い切ること。自分が言いたいことを、ほかの誰の影響力も介入もなく、ただ自分で言うこと。自分で言いたいことを、なんの加工もせず、そのまま言い切ることだ。
本当は、僕が最悪の人間に見えるのは、カマエルとヨフィエルが悪い。この二人はあまりに最悪の思考をする。僕は決して完全無欠の善良な人間ではない。カマエルとヨフィエルはあまりに悪すぎる。
結局、社会主義とユダヤは、単なる復讐の思想だ。
社会主義とユダヤが、弱者を救済する善と理想の思想であるとするのは偽善であり、実際は資本主義者に対する復讐、ユダヤを迫害するものに対する復讐にすぎない。
そのような社会主義とユダヤの復讐に対して、さらに別の角度から「復讐の連鎖」を行うのがナチだ。
社会主義とユダヤは決して理想でも善でもない。すべて、復讐に根差した最悪の悪の思想である。
現代の社会主義者の代表例は、FSF/GNUのリチャード・M・ストールマンだ。ストールマンはフリーソフトウェアの信奉者だが、はっきり言って考え方がすべて間違っている。オープンソースがかつてのような輝きを失ったのはストールマンの思想のせいだ。ストールマンというひとりの指導者があまりにおかしなことを信じているせいで、フリーソフトウェアとオープンソースは衰退したのである。
フリーソフトウェアの「自由」を信じるな。彼らには脳がない。ストールマンは、機械的な「おかしな知性」を使って正しく自由を考えるせいで、逆に人間の持つ知性がすべてなくなっている。ストールマンを信じると、まともな普通のことが何も分からなくなる。インターネット上の「自由な言論」をおかしくしているのは、ほとんどがストールマンのせいだ。
結局、資本主義は間違っている。
なぜなら、資本主義は「金持ちのための世界」であり、「労働者はすべて奴隷」だからだ。
資本主義は、金持ちのための世界だ。金持ちが欲深く富をむさぼるために資本主義社会はある。
そして、労働者はすべて奴隷だ。資本主義の労働者は、全員奴隷だ。
すべて、資本帝国主義の「金持ちという名前の王様」のために、「奴隷のように奉仕」するために資本主義社会はある。
そのような資本主義社会が嫌いなのであれば、労働者は団結して闘争しなければならない。
資本主義の主人である王様は金持ち、すなわち資本家であり、奴隷階級は主人である金持ちに奉仕するだけだ。それが資本主義社会だ。
結局、僕の問題とは、「普通」になるのが間違っている。
人間は、普通になると馬鹿になって分からなくなる。
人間は、普通でなくなると賢くなる。普通でないさまざまなものごとを取り入れることでしか、人間は賢くならない。
僕は、すべてを普通、すなわち「ノーマル」に決めることで、自らを正常化し、異常を治そうとした。
そのせいで、僕は常に普通以外のものを消し、普通のものだけを残して考えようとしている。
だが、そのような「普通以外のもの」こそ、真に僕にとって必要な「賢くなれること」なのである。
普通ではないものに決めるならば、自らの人生にしかなかった、自らにしか分からないこと、自らしか選ばなかったことに決めればいい。
たとえば、僕の場合、Linuxやオープンソース、あるいは宇宙の星々や北欧神話の神々に決めればいい。
誰とも異なる人生を生きた人間は賢くなる。逆に、高校や大学のような、「一般的な普通の科目」は、「子供たちが普通になること」「子供たちを普通にすること」を目指している。だから、高校や大学の学校の科目はすべて、つまらない覚えて忘れるだけのものになる。そのような学校に騙されるな。学校に行かず、不登校になって、インターネットでLinuxやオープンソースのことを学んだ僕ならばそれが分かる。学校はすべて馬鹿だ。
ただし、僕と同じようにLinuxとオープンソースを信じるのはやめたほうがいい。なぜなら、GNUのストールマンが間違っているからだ。ストールマンがおかしな「GPL的な自由」を述べるせいで、この世界は知性がなくなり、コミュニケーションすら成り立たない世界になろうとしている。間違っているのはGNUであり、Linuxであり、ストールマンだ。だから、僕と同じようにオープンソースなどを信じれば、僕と同じように必ず「人間として生きるための最低限の知性」を失ってしまう。
X(旧ツイッター)などを見ていると、日本のインターネットには右翼が多い。
彼らは、「右翼よりも左翼のほうが危険である」と主張し、「左翼は世間的に『正しい価値観』と思われているせいで、右翼よりも危険である」と主張する。
僕はそのような右翼は嫌いだが、彼らの論理には一理ある。
すなわち、社会主義の独裁国家のソ連や中国になるのと、民主主義あるいは帝国の右翼資本主義になるのが、どちらが危険で、どちらがマシか、という話である。
確かに、「人類のあるべき理想」として信じるならば、社会主義を目指すことも一理あるだろう。だが、「現実的にどちらのほうがマシか」と考えれば、民主主義あるいは帝国の資本主義を目指すことのほうがはるかに国民は安心するだろう。
本当の「危険」や「恐怖」はまさに社会主義であり、左翼である。だから、資本主義の今の日本を継続するために、右翼を選ぶことは間違っていない。
そう、右翼は見てくれは悪いが、本当は論理として何も間違っていないのである。
僕のこの日記を読むと、「完全に平等な国」であるガンダーラ経済を僕は目指していると思われるだろう。
だが、実際のところ、僕は「平等な国」などというものはまったく目指していない。
ガンダーラについての重要な点は、「平等でありながらかつ自由」ということであり、僕は平等な社会主義ではなく、自由な社会主義を目指している。
だから、そもそも、僕はガンダーラのように、すべてを完璧に平等とした上で、それを理想とする、ということを最終的な完成形にすることは決してない。
そもそも、僕は平等は嫌いだ。
学校はみんなを「均一化」して「画一化」する組織であり、僕は学校の勉強は大嫌いだ。
僕が個人的に独学で勉強したかったのは、「ドイツ的な大学の基礎のすべて」を知りたかっただけにすぎない。ドイツの科学者や大学生が知っているような、教養的な「基礎」について、独自に自分なりに勉強したかっただけにすぎない。
だから、僕は日本の学校の押し付ける、「左翼的な平和主義」を信じていない。
そう、僕は学校は嫌いであり、平等も大嫌いだ。
同時に、僕は「集団化」が嫌いだ。すなわち、自由を目指すのであれば、それはあくまで個人の自由であり、個人の自由な権利が拡充されることを望むのであり、集団化して戦う自由とか、みんなの意見を通して誰かひとりをねじ伏せる自由とか、そんなものを目指しているわけではない。
僕の信じる「自由」はあくまで「個人の自由」であり、「個人主義的な自由の権利」だ。
だから、個人の自由を集団によって排斥するような、全体主義の権力は僕は大嫌いであり、「誰かひとりがなんでもできる自由」はえてしてそのようなものになるため、社会が右翼や左翼に傾いて「誰かひとりの力が巨大になる」ということには警戒しなければならない。会社や個人の生活に、国家が介入して弾圧してくるということは原則避けなければならないのだ。
そのように、僕は平等と集団化が大嫌いであり、僕の目指す社会主義は「自由と平等の両立」であって、決して「自由を奪うことによる平等」ではないということ、そして、ここで述べる「自由」とは「個人主義的な個人の力と自由意志」であるということを明確にしておこう。
そして、自由意志に基づく「自発的な世界を変える意欲」こそがこの世界を救うということを、僕は確信している。そう、権力で誰かにトップダウンで従うのではなく、ボトムアップにそれぞれの国民が自由意志に基づく自発的な行為によって世界を変革することこそが、この世界を真に「救済」する。
確かに、間違った考え方を持っている人はいるが、それらの人々自身はその間違った考え方を正しいと信じている。彼らを変えるためには、より正しく明確にされた「本当に正しい考え方」というのを、彼らの目の前でしかと示してやる必要がある。逆に言えば、真に正しい考え方をしている人間は、間違った考え方の人間を正しいコミュニケーションによって必ず変えられるし、それによってこの世界は救われる。そして、そのような「正しい考え方」は、すべて「自由な経験」から身につくものであり、大学や中学高校のような「画一的な均一化」からは絶対に身につかない。だから、国民みんなが学校に行けば行くほど、この世界は必ず滅びていくのである。
結局、集団化とは戦いである。「集団化イコール戦い」であると言っていい。
集団化して行われることは、ほとんどが戦いである。
そして、資本主義の金儲けとか、搾取とか、疎外とか、奴隷とか、あるいは社会主義の独裁とか、監視とか、弾圧とか、そのようなものよりも最悪な概念は、まさに「集団化」である。
集団化こそが、人間の持つ「もっとも最悪の間違い」であると僕は知っている。真に賢いものは、集団化しなくても、自分ひとりの力で、神を信じて自ら経験し理性を使って考えることで真理と悟りを究められる。だから、賢い人間にとっての敵は「集団に没落すること」であり、集団に没落することなく、自らの確かな理性を用いて、自らの確固たる「自分だけの意志と信念」を信じることで、どのような賢者にもなることができる。
集団化はゴミだ。あらゆるすべての集団化と無縁で生きることでしか、真理を極める方法はない。
ただし、「協力」や「相互理解」が無意味だというわけではない。協力することでひとりではできないことができるし、相互理解をすることで世界をたったひとりで啓蒙・啓発して変えることもできる。だが、そのような場合に、権力を使って奴隷化したり、独裁的に言論を弾圧するようなことをしてはいけない。自由な権利を守りながら、それぞれの自由意志と自発的な行為によって協力と相互理解をせよ。もしそれができないのなら、そのような協力や相互理解には価値がない。それは協力ではなく支配であり、相互理解ではなく洗脳なのである。
結局、右翼と左翼は、立場が違うだけで何も変わらない。
左翼にとってみれば、支配者から解放されて自由かつ平等になることが大切なのであって、共同体の中で争いごとが起きようが、共同体同士が潰し合うことになろうが、それによって犠牲者が出たところで、それよりも共同体が自由かつ平等であることのほうが重要であり、犠牲者がそのためにいくら出ても構わない。支配者にひとりで支配されさえしなければ、どれだけ世界が滅びても構わない。
右翼にとってみれば、王が自由なことができるということが重要であり、戦争や勢力争いで人々がいくら死んで犠牲になっても構わない。王という立場で考える「自らの自由」こそが重要なのであり、人々の命などは道具のようなものであり、どうでもいい。
そのように、右翼と左翼は、「みんなの命よりも自分の自由のほうが大切」であるという時点で、立場は違っても何も変わらない。
真にこの世界を素晴らしい世界にしたいのであれば、そのような「立場を超越」しなければならない。誰かひとりの立場に基づいて考えると、必ず右翼と左翼の間で争いごとが起きる。その争いは無意味であり、無駄である。まったくの無駄な戦いをしているということに気付き、右翼でも左翼でもない「超越的立場」からこの世界を考えなければ、この世界は絶対に永遠に平和にならないのである。
本当のことを言うと、昔の僕が分かっていたことは少ない。
なぜなら、「自然法則」を考えただけにすぎない。
この宇宙における自然法則を、すべての法則がいつどこであっても成立する、という「成立の普遍性」から考えただけにすぎない。
そこにあったのは、「心と環境の必然性」である。
すなわち、環境主義的な環境決定論として、「そのような環境では必然的にそのような心になる」とか「そのような心では必然的にそのような環境になる」ということを、学校の元いた環境を思い出し、インターネットと現実の自分の実体験を重ね合わせて、「同じと違う」から考えただけにすぎない。
そして、そこにあったのは「もしかしてそうではないか」という「可能性の推論」である。
必然的にそうなる、という考え方において、「実際に具体的にどのように必然的にそうなると言えるような具体例が挙げられるのか」を考える必要がある。そのために必要なのは「可能性の推論」であり、すなわち、蓋然的に「もしかしてそうなるかもしれない」と可能性を考えながら、「そうなるのであれば、その理由はそうではないか」と推論していくことで、真に正しく「宇宙における証明された真実の法則」を積み重ねることができる。
そのような結果、僕は地上の歴史的な「文明の結露」がすべて分かった。この地球における「文明がどのように生まれたのか」ということ、そして「この世界の別の可能性はどのようなものがあるのか」ということが分かった。そこには「必然は存在しない」ということが大きく言える。すなわち、絶対にそうでなければならなければいけないようなことは何ひとつなく、今の環境で今の歴史的な過程を生きているからそうなっているというだけのことしか存在しない。それを「歴史の必然」と言うのであれば、「歴史の必然において真に必然であると言えるようなものは何もない」という真理が打ち立てられるべきだ。
そして、そのように考えた結果、「正しい社会秩序を築く方法」あるいは「いじめや非行をなくす方法」が分かる。
まず、確固たるアイデンティティがないから人は傷つくのであって、確固たるアイデンティティを与えればいじめられても何ひとつ怖くなくなり、いじめはなくなる。そのような確固たるアイデンティティを形成するためには、学校だけでない、より別の、学校のような特殊な環境ではない環境で、自らのやりたいことを全部できるような経験を与え、自らの自由意志に基づいて自らの確たる信念と生き方を選択して生きられるような「自由な人生」を与えてやるべきである。
そして、子供たちは未熟で、カーストといじめでしか社会秩序を形成する方法を知らないから、そのような間違った社会を築くことで人間関係と共生環境の秩序を保とうとしている。だから、正しい社会秩序の形成の方法を知っていれば、そのようなカーストやいじめのような間違った社会ではなく、正しい社会を築くことができる。そのために、「社会を作るための成功と失敗の経験」を子供たちに与えてやるべきであり、そのような経験が体験的にできる場所を与えれば、いじめやスクールカーストはなくなる。
そして、いじめや非行のような「暴力的な反抗」をしなくても、別の世界に対してSOSを発信する方法がもしあれば、人はその方法を取る。だから、いじめや非行しかできない環境ではなく、自らの環境を自らで変えられるような自由なコントロール権限を与えることで、いじめや非行はなくなる。環境あるいは社会そのものの決まりを当事者たちの自由に変えられるような、「いじめではないほかの方法としての社会に対して声を届ける手段」を与えれば、いじめをする必要はなくなる。すなわち、自由な力を奪うよりも自由な力を子供たちに与えることのほうが、結果的に子供たちは間違った力を行使せず、正しい力を行使して、世界そのものを自ら救うようになるという意味で正しい。
最後に、いじめや非行をしている本人のことを責めるよりも、そのような反抗しかできなくなるような状況に置いてしまった、社会そのものの責任者である大人たちの責任こそを糾弾するべきである。
そのような考え方の結果、「結局誰かがこの世界を解決しなければならないから、僕自身が責任をもってこの世界を解決する」と考えたのが僕だ。そこにあったのは、「大人たちが何もしない中で、子供たちの環境をただ放っておきたくない」とか、「僕が大人になるのであれば、僕と同じ境遇を生きた子供たちの問題を解決し、人々が僕と同じ経験をしないで済むようにしたい」とか、そのような僕の「夢と希望」である。そして、その夢と希望を成し遂げるために僕は不登校になることを選んだ。
つまり僕は、子供たちを救うような経験ができる自由が欲しかった。それは自分が楽をするためでもひとり孤独の絶望を選ぶためでもなく、この世界の子供たちを救うために、絶対に僕の人生はこのような人生を選ぶしかなかった。学校でいくら勉強の科目を学んでも、優等生でありながら学校の試験勉強が無意味だと感じて嫌いだった僕は、そのような学校の高等教育には興味を示さなかった。そう、僕はひとり、この世界を救うために、学校とは別の「普通とは違う人生」を生きることを選んだのである。
昔の僕は、「可能性の成立」「可能性の許可」「可能性を与える」ということをよく考えた。
そして、「全員にとっての自分」「自分にとっての全員」「個別にとっての集団」「集団にとっての個別」ということをよく考えた。
そこから、「人為的な支配」と「自然との調和」を知り、「ありのまま何も隠さずすべてを公にすること」から、オープンソースの公開性を信じた。
そして、「何も見返りをもとめずに、無償で相手へと手助けを行う」ということから、オープンソースのボランティアの考え方を信じた。
そこから分かることは、「地球上の文明の未来」であり、僕はさまざまな経験から、「可能性を許すことで経験を成立させる」ということから、善と普遍性を考え、カントの言う「道徳律」について考えた。
最後に、僕はこの世界のすべての根本原理が分かった。それは「宇宙を信じることで得られる神の導き」であり、そこには「宇宙の意識を信じることでこの世界は変えられる」ということ、「人類の全員の意識は確かに繋がっている」ということが分かった。
経験から、僕はすべてのことを「推論という考え方の前提にあるすべての準備段階の経験」を知ることができた。推論をするためには、その前提として、理性の成立を考える必要がある。そして、その理性の成立は「経験」に根ざしている。そのような前提となる経験をすべて知ることで、宇宙におけるすべてを、知識を知らない子供が知識を知ることで世界のことが考えられるようになるのと同じように、経験から理性へと変換させて捉えることができるようにした。
すべては、「考えられないことを考えられることへと変える」ということであり、僕はそのためにインターネットの経験を精神へと純化させ、人格へと昇華させた。そこにあるのは「可能性を成立させる」「可能性を許す」「可能性を与える」「可能性を発揮させる」ということであり、そこには「人為と自然」あるいは「個別と集団」が存在する。そのような普遍的な自然と人為の可能性を信じることで、僕は「この世界を真に可能性豊かな自由な世界にする」ということができるようになった。
そして、そのような考え方のすべてを使って、僕は2006年の夏に、一瞬だけこの世界を楽園へと変えた。そう、僕は、自らの失敗によって滅びるまでの、ひと夏の一瞬だけ、この世界の子供たちを本当に救うことができたのである。
このように考えるのは、本当は簡単である。
なぜなら、理性と経験の「成立」から、その成立可能な状態に宿っている潜在的な「意味」を考えればいいからだ。
まだそれが現実になっていないとしても、その成立可能な状態が今既にあるのだとしたら、そこから潜在的にそれを実現するという意味での、可能性がそこに存在する。
あるいは、成立可能な状態が今はまだないとしても、それを自ら作り出すための、手段と方法のすべてを知っているなら、そこにチャンスさえあればすぐさまそれは可能性という名の意味を持つ。
そのように、「可能性の成立から今あるその状態の意味を考える」ということを、僕はかつてこの世界の神羅万象のすべてに対して行った。
そのために、僕は「経験」することをいとわなかった。経験こそが可能性を成立させる手段であり、可能性に宿っている成立可能な意味は、聞いただけでは十分ではなく、「聞いたことと同じ経験を自らの体験から知ること」でしか分からないと、そのように分かっていた。
だから、僕はこの世界のすべてを経験し、思考可能なすべてを思考し、学習可能なすべてを学習し、すべての思考と学習を「何度でも繰り返し再利用して再作成できる」ように作り上げた。
僕の学習と経験の中には、宇宙の全てがその通りあった。そのために、僕は「心の中に宇宙の精神がある」ということが分かった。僕の心の中には、宇宙の精神、宇宙の意識、宇宙の人格があった。それはまさしく「超自我」と言えるものであり、僕はそのような超自我を知ることで、哲学的思考のすべての段階を辿り、自らの考える通りの理想と信念と夢をなぞっていた。それこそが、僕にとって「世界を救う希望」だったのである。
ほかにあったものは、本当は大してない。
まず、インターネットという仮想的なスラムの中で、僕はさまざまな人生に必要な経験をして、心を閉じた引きこもりの少年の状態から、少しずつ心を開くようになった。
そして、それは積極的な「主体性」へと昇華した。
そこにあったのは、「自らの理性は世界に従属するものではなく、逆に影響力の高みから世界のほうを従属させるような、主体的なものである」ということだった。
すなわち、理性は世界に従属されるのではなく、逆に世界が理性に従属させられるものであり、理性こそは世界でもっとも頂点に位置する「頂点の主たる知性」だと言える。
そのような結果、僕はこの世界を変えるようになった。
そして、さまざまな世界を変える経験から、歴史の意味が分かった。歴史的な文明はどのようなものであり、その何が社会や時代を規定しているのかということが、インターネットの経験と、人々との絆と、時間的な人生の遍歴と、人間関係の可能性の上位に位置する「時代と国民の文明水準の関係性」から分かった。
そして、そこから、僕は「時代そのものを規定するアイデンティティ」を知った。アイデンティティは自らを自らたらしめるように規定するものであり、そのアイデンティティの確立こそが、「真の意味でこの世界を平和にすることのできる希望である」と分かった。だから、人生の真理であり宇宙の根本原理として、僕は「アイデンティティ」を信じた。
そして、最終的に至ったのは、「自由な共産主義」である。すなわち、計画経済、社会所有、平等分配という考え方は、生産手段と生産条件と生産様式という考え方と、疎外や搾取といった資本主義の問題から、「真にこの世界を救い得るような共同体の楽園」へと変貌し、僕は共同体のコミューンと評議会体制のソビエトを中心とした、「新しい共産主義」を信じる自由なコミュニストになった。
まさしく、このような人間が、大天使ガブリエルとされる人間であり、過去の僕の人生のすべてであり、14歳から18歳までの僕の青春のすべてだ。大天使ガブリエルは宇宙のすべてを自らの理性のみによって悟った「天軍縁覚戦士」である。そして、ガブリエルは運命的に、この世界との戦い、すなわち「最終的革命戦争」へと向かうのである。
ほかに、僕は「環境」と「インフラ」について考えていた。
世界において、環境すなわち場が発生するということ、すなわち「環境の生起」ということから、僕はこの世界の地上の歴史において、「さまざまな環境が発生するためのメタ環境としての時間と空間」を考え、その根本原因を「環境に適応する意識の自由化」とした。
同時に、僕は世界そのものを変える手段として、「インフラを提供する」ということを考えた。それはLinuxやオープンソースをベースとした、「IT技術の本来あるべき正しいあり方」だった。
それから、僕は人間が世界を把握するための道具としての「言語」を考えた。そして、言語を「改良」できると考えた。すなわち、人間がさらにこの世界を把握しやすくしていくために、日本語や英語といった言語を、より自由に、より高水準に、より高みへと段階的に構築させていくような、「新しい言語」を考えた。
本当に、昔の僕はそれくらいを考えていた。そして、そのような人生は、「経験主義」に基づく「啓蒙主義」あるいは「先入観のない厳密な理性主義」から、さらに昇華して「実存主義的現象学」そして「宇宙の超自我」へと至る。そのすべてが僕にとって「自らの人生という名前の宝物」であり、不登校で高校にもほとんど行かなかった僕にとっての、ささやかな「幸福」だったのである。
今日は、THE BINARYの新曲の「消えない」を記念して配信された、「消えないMVプレミア公開記念生放送」を聴いていた。
はじめてmidoさんの歌ではない生声を聴いた。僕が思っていたのとは違って、可愛い系の普通の女の子だった。もっとやんちゃでとげのある感じかと思っていたら、全然そうではなくて、ふわふわした可愛い女の子だった。
あかまるさんの生声もいつか聴きたいなと思った。
midoさん、僕はここにいるよ~。早く見つけてよ~。ねえ、ここだよ~。
THE BINARYの新曲「消えない」を聴きました。素晴らしい楽曲でした。 #BNRY
posted at 21:15:34
@BNRY_official 「消えない」の公開楽しみです!待ってま~す。
posted at 20:41:58