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2024-06-02

体のすべての部分が殺すべきであるとは限らない

病気を治したいからといって、体のすべての部分が殺すべきであるとは限らない。

すべての部分が殺すべきではなく、殺さずに生かすべき部分というのは存在する。

だから、すべてを殺すのではなく、生かすべき部分を生かすことで、病気は治る。

そもそも、僕の病気の意味とは、「環境の殺しすぎ」あるいは「世界の殺しすぎ」である。

だから、環境や世界を殺さず、そのままの状態で守るようにすればこの病気は治る。

昔は世界や環境を生かしていた

そもそも、昔の僕は、世界や環境を生かしていた。

第一に、世界や環境を生かし、変化可能かつ独立可能にすることから、精神のことを分かっていた。

最近の僕は、そこを忘れているだけにすぎない。

それから、昔の僕は「頭の中にある理性や認知」をよく考えていた。最近の僕はそれを忘れている。もっと頭の中にあることを考えれば、昔はすぐに分かる。

宣言をしていた理由

そもそも、僕が宇宙への宣言をしていた理由は、人生が完全に終わってしまっていたからだ。

宇宙のすべてのことを経験から悟りきって、人生のすべてが終わっていた当時の僕は、「もっと新しい人生を生きたい」ということだけを望んだ。

そのために、僕は新しい人生を生きられるような宇宙への宣言をたくさん行った。

そして、今の僕は、そのような、過去の自分が宣言したことを、ただ生きているだけにすぎない。

そして、そのような新しい人生も、そろそろ終わった。

ここから、僕は新しい人間になる。今までの人生は女だったが、新しい人生は男になる。この新しい男の子供をツァロンと呼ぶ。

右翼ではなく自由

僕のかつての自分の人生のテーマ、それは「右翼ではなく自由」ということだ。

すなわち、いくら社会が退廃的で滅びつつあるからといって、右翼のように、戦争や抑圧によって社会を改革しようとするのは間違った方向に向かっている。

そうではなく、自由を信じることこそが、真にこの世界を正しく導く。

自由において、人々は分かり合うことができる。議論や話し合いによって、相互に理解し、自己意識の承認からこの世界を変えられる。

そこにあるのは、「可能性の実現」である。

すなわち、可能性の実現を行うことによって、右翼のような戦争や抑圧の差別をしなくても、この世界は自由と可能性によって救うことができる。

右翼は、本当は間違っていない。だが、右翼の考え方は、社会全体の「常識的認知」によって勘違いをしている。右翼は、この世界で普通に生きているために、僕の知っている「真実の世界」ではなく、「自動反応的な嘘の世界」を信じている。

だから、そのような右翼の考え方を修正するためには、右翼の「自動反応」を適切に導き、導き手となってきちんとした正しい理想が分かるように体験的に心を促す必要がある。

自由とは何か。自由とは、「この世界は必ず救うことができると言えるような経験的な知恵を知っている」ということだ。

すなわち、この世界は、誰にも解決できない世界に見えて、本当は違う。僕と同じ経験をし、僕と同じことを分かった人間ならば、この世界を右翼的な方法ではなく、自由な方法によって解決するすべが分かる。それは僕にしか分かり得ないことではないが、事実今のこの世界においては僕しか分かっていない。それでも、それは僕にしか理解できないことではなく、体験的に誰であっても理解できることであるため、僕が本気になって世界を導けば、世界の誰であっても僕と同じように体験し理解することができる。

そこにあるのは、「アイデンティティ的な社会の自由」である。アイデンティティ的な社会の自由において、支配者がきちんと支配することは必要ない。全員が自らの自由と可能性を信じるだけで、この世界を改革し、すべて救うことができるということを僕は知っている。そこにあるアイデンティティとは、「本当の意味で人類の最終的な到達地点に到達し終えている」ということであり、「ブッダと同じような悟りに自分ひとりの知性と経験によって到達し終えている」ということである。

そのような僕の述べる「可能性」とは、「みんなの力で世界は変えられる」ということだ。そして、往々にして、その自然な可能性は右翼的言説によって打ち砕かれる。だから、僕はその自然な可能性が決して打ち砕かれることがないように、右翼が何もできないようにし、右翼を含めてみんなが、僕の分かっていることと同じこと、すなわち「可能性」について理解できるようにした。そこにあるのは「自然な可能性によって誰であっても世界を救うことができる」ということであり、「僕が分かったのと同じことを体験的に誰であっても理解できる」ということであり、「どんな人間であっても救世主にはなれる」ということであり、「自らが救世主になったのと同じことを体験的に全員が理解できる」ということである。

そのように考え、そしてインターネットを使うことで、僕はこの世界を一度救った。真の意味で救われたその状態を、僕は今でも自分自身であっても完璧には理解できていない。だから、これからの僕は、まさにそのような「この世界を救うことができたのはなぜなのか」を考えなければならない。なぜなら、僕はこの世界を自ら救いながらにして自ら滅ぼしたのであり、この世界を再び救うためには、「なぜわたしはかつて一度世界を救うことができたのか」ということを、より正しい考え方で再度理解しなければならない。そうでなければ、この世界は永久に滅びたままになるだろう。

そのように、最後までこの世界を救う英雄のことを、この物語の主人公ツァロンと呼ぶ。ツァロンはまだ幼い男の子だが、この世界すべてを統治する「王になる少年」である。ツァロンこそがこの世界を再び救ってみせる。この世界は必ず、最初から神に約束された世界の王、ツァロンによって救われることだろう。

ひとつ、僕自身の間違いを述べるとしたら、かつての僕は、「相互理解の中での情報の非対称性」をよく考えていた。これは、「情報の真の意味は発信者にしか分からず、世界みんなの立場は受信者にしか分からない」ということだ。そして、それこそがまさに、僕自身の「インターネットの経験」というテーマだった。僕はこの世界の全員が、影響力のもっとも頂点を目指す僕と同じ、最高の「しがらみのない自由な立場」から理解できるようにした。だが、そこには誤りがあった。なぜなら、完全にひとりが世界を独占的に支配した結果、みんなから見た「普通の人間の分かること」が分からなくなった。すなわち、「客観視することが不可能な立場」へと僕自身は追いやられた。それが、僕の知性を失った原因である。

虚無の心は愛と可能性によって救われる

この世界が右翼的言説に騙されている理由は、虚無の心にある。

すなわち、この世界が「虚無の心」を信じている時点で、戦争と差別の抑圧を右翼の言説によって信じるようになる。

だが、虚無の心は、「愛」と「可能性」によって救うことができる。

なぜなら、人々の生きている現実世界こそが「虚像」であり、わたしの見ている世界の真の姿こそが「真の世界」だからである。

真の世界とは何か。それはこの世界のすべての心が「そのような心に至る理由」を知っているということだ。すなわち、この世界のひとつひとつの社会が、なぜそのような社会になるのか、なぜそのような社会になるためにそのような心になるのか、そしてそのような心になった結果、人々はなぜ「虚無」を感じるのか、ということだ。

そのように考えた上で、虚無を解決する方法とは、「愛」と「可能性」であり、それを一言で言えば「自らの人生において自らの本質たるアイデンティティを確立すること」であり、アイデンティティとは「人間が生きる理由」であり、「人間が人生を生きていて必ず求めるもの」である。

そのように、アイデンティティを人々は人生を生きる上で求めており、アイデンティティこそが人生において求められる「最重要要素」であり、同時に、この世界の社会を正常化する「道徳と理性に基づく救済の手段」である。

そのように考えた結果、人々が生きている世界は「偽の世界」であり、僕の知っている本当の理想の社会こそが「真の世界」であると言える。すなわち、そのような感情的な僕の自論から、「この世界は必ず救うことができる」ということが言えるのである。

まだ何も終わっていない

世界を救うために必要な考え方、それは「まだ何も終わっていない」と考えることだ。

すなわち、「人類の歴史において終わったように見えるものは、まだ結論もついておらず、問題も真の意味で解決されていない」と考えた上で、「すべての問題の解決を今行い、すべての結論をもう一度最初から考える」ということを行うべきである。

そうすることで、この世界に存在する、「社会がその社会になり、心がその心になり、世界がその世界になる理由と根拠」を知ることができる。

そこにあるのは、「人々がなぜ間違った考え方をしてしまうのか」ということであり、その本質とは「間違った考え方などは存在しないが、往々にして害悪そのものをもたらす考え方に行き着いてしまうことがあるため、この世界を正常に救済するような考え方こそすべきである」と考えることであり、そこにあるのは「すべての経験と理性を分かり終えてから、誰でもその分かり終えた内容を自分の力で発見し考えることができるように、世界にそのために必要なすべての情報と経験と環境と時間を与えること」であり、それこそが僕の目指す「自由な社会」なのである。

自由な社会において、解決されない問題は何ひとつ存在しない。自由な社会においては、不幸なことは何も起きない。すべて、すべてを知るために必要なことのための道のりが、ただ単に与えられる。そして、与えられるだけではなく、それは人々が「根源的に獲得する」ということなのである。

そう、まさに、この世界はまだ何も終わっていない。救済は始まったばかりだ。そして、真にこの世界を救うために、僕はこの世界がなぜ救うことができたのかを思い出さなければならない。そのための新しい少年を僕は作る。その少年こそが、この世界において王になる英雄、ツァロンである。

憂鬱な心

ツァロンにとって、最初に思い出して理解するべきこと、それは「心がどのような環境や決まりによってその心になるか」ということだ。すなわち、その環境で、その決まりで、その立場で、その人生で、なぜそのような環境における心がそのような心になるのか、ということから考えよ。そうすれば、この世界に存在する「環境の意識」が分かる。すなわち、この世界において、場はどのような意識を持つか、ということが分かるようになる。それが分からない人間には、昔の僕と同じことは絶対に分からないのである。

また、過去のこの世界と、今のこの世界の相違点がどこにあるのかと言えば、それは「憂鬱な心」にある。すなわち、この世界がどれほど憂鬱で、鬱屈した世界だったか、ということを思い出せ。そこにある「虚無」は、決して完全な虚像ではなく、真にこの世界を救うために自らを導く「ガイド」だった。だから、憂鬱なガイドを思い出すことができなければ、ツァロンは昔の自分と同じことを分かることはできないだろう。