そもそも、昔の僕は「成長」や「成熟」を信じていた。
この成長や成熟とは自由だった。あるいは、「いいことも悪いことも同時にどちらもできるようになるような自由」だった。
すなわち、その自由によって、もしその自由をよいことのために行使すれば、よいことができる。だが、その自由を悪いことのために行使すれば、悪いことができる。正しく自由を行使せず、間違った自由を行使すれば、その自由は決して、よい結果をもたらさずに、悪い結果をもたらす。そのような自由をひとつひとつ、できるようになりながら積み重ねることで、僕は成長し、成熟していった。
そのように考えた時、戦争や差別は問題のよい解決策ではない。なぜなら、短絡的だからだ。すなわち、「自由を行使する」という意味において、戦争や差別を行うことは、安易で、愚かで、正しく未来を判断しておらず、世界の問題を解決する方法としては短絡的なのである。
それでも、インターネットの人々は、特に匿名掲示板のようなネット上のスラムにおいて、右翼的言説に騙されている。彼らの問題は、正しい判断力がない中で、間違った考え方に洗脳されようとしていることであり、そうではなく、正しい考え方を持つことが必要であり、彼らを救うためには、普通の一般的人間たちよりも高いレベルで、高い判断力が行える必要がある。
そして、この世界からは、成長や成熟が失われた。人々は子供のまま、永久に成長しなくなった。その理由は、間違った自由を行使しているからだ。必要なのは、それによってよいことも悪いことも同時にできるが、その中でもよいことを行おうとするような、そのような自由を積み重ねていくことだ。それが成長であり、成熟である。
自由を行使する上で、いいことだけをできるようにし、悪いことをできなくする、という考え方は、民主主義的であり、法治国家的だが、実際には誰かひとりがそれを判断するべきではない。なぜなら、「よいこととはなんなのか」という判断は、その自由を行使する本人以外にはできないからだ。すなわち、何がよいことで、何が悪いことなのか、ということは、自由を行使する本人にしか判断できない。そして、本人がそれを判断するためには、さまざまな行動と経験をし、その反省から、自らにとって正しい自由を選んでいくしかない。だから、できるだけ自由を制限せず、よいことであっても悪いことであっても、少なくとも一度は経験できるようにしなければ、この世界は永久に子供のままの世界になるだろう。
残念ながら、このようなことが分かる人間自体、この世界には少ない。僕はたったひとり、社会学的な理由や心理学的な根拠を分かることで、誰よりも大人になった。誰よりも、いいことも悪いことも全部できるようになった。だが、そのままでは、残念ながら自分ひとりしか、すべてが分かった究極的存在はいなかった。だから、僕はいいことのためではなく、悪いことのために自由を行使するようになり、この世界をたったひとりで救いながらにして滅ぼすようになった。自らの中に留保された「自由」を、すべて正しく決定し、決断し、救済された世界そのものを実現させるために、最初は最悪の世界から始めて、その世界を改善していくようになったのである。
この世界においては、普通の判断のレベルでは、右翼に騙されてしまう。
普通の一般的人間として、一般的大衆として生きている人間は、右翼の狡猾な騙し方に勝つことができず、必ず間違った考え方によってなし崩し的に洗脳され、間違った思想を押し付けられてしまう。
ネットなどで陰謀論が流行しているのは、右翼が一般的な普通の判断のレベルでは分からない裏のやり方を使って、この世界を騙しているからである。
必要なのは、普通よりも高いレベルの判断力を持つことだ。それでしか、右翼に勝つことはできない。普通の人間の判断力では騙される。この世界のすべてを裏で完璧に分かるような、ある種右翼すら超えるような「超越的判断」をしなければ、この世界でまともな人間として生きることはできないのだ。
結局、この世界を最悪の世界にしている元凶は「自由」である。
自由によって、格差が拡大し、人々は勝ち組と負け組に分かれ、二極化した世界になろうとしている。
この世界を真に素晴らしい世界にするための方法は、自由を否定することだ。
すなわち、「愛」「平和」「善」「平等」を信じることでしか、この世界は素晴らしい世界にはならない。
それを「綺麗事」と言われてもいい。むしろ、本当は「現実の見過ぎ」ぐらい、現実を見たほうがいい。なぜなら、自由主義者は自由を信じるあまり、現実が最悪であることから目を背けようとしている。自由が好きだから、この世界のすべてを「最悪であるにもかかわらず素晴らしい世界であると自分から錯覚しようとしている」のである。
だから、必要なのは、自由を否定することである。この世界の自由には最悪の自由ばかりが多い。そもそも、自由とは「許されるべきでないことを許す」ということであり、それ自体、最初からこの世界が悪くなる要素と条件で満ちている。許されるべきでないことを許すのだから、許されるべきでないことを人々はするようになる。そもそも、許されるべきでないことは法律で禁止すべきである。
指導者に支配され、従属に従うことが嫌いな人もいるだろうが、果たして、支配者に反抗する自由が必要だろうか?支配者は支配する人間であり、それに反抗する自由は必要ない。指導者とともに同じ考え方を共有してこの世界を平和にすることこそ、国民の義務である。
自由は間違っている。
なぜなら、自由は、「力こそすべて」「自分たちだけがよければそれでいい」という考え方を信じているからである。
そうではなく、力を否定し、自分たちだけではなく、世界全体のためになることを努力するべきである。
自由を信じているすべての国は間違っている。彼らはこの世界を力によって支配し、そして自分たちだけのことしか考えないからである。
だから、自由を信じるすべての国のすべての国民は地獄に堕ちるべきである。
アフリカのような発展途上国を格差によって悲惨にしているアメリカやヨーロッパのような先進国の国民は、アフリカと同じ苦しみを永久に感じ続けるべきである。
地球を破壊し、温暖化をもたらす資本主義の自動車業界は、永遠の地獄に堕ちるべきである。
そのように、わたしはこの世界において、「自由」を信じるすべてのものに天罰を下す。わたしこそ、世界を最後に支配する皇帝、全統帝フレイである。
善を信じるとは、罪を償うことである。
この世界で、「悪いことをするな」と言っている人たちは、ある程度は善良である。悪いことを一切せず、迷惑をかけずに生きることが善とは言えるだろう。
だが、どんなに頑張って善のために生きていても、そのために悪いことや迷惑をかけることをしてしまうということはある。
すなわち、善を信じている限りにおいて、一切の悪いことをせずに生きることは不可能である。
だが、それでも、悪いことをしていいわけではない。必要なことは、悪いことをした時に、それに見合ったよいことをし、自らの罪を償うことである。
まず、自らの考え方を改めるべきである。自らが信じる「理想の自由」は、決して普遍的な理想ではないと知れ。必要なのは自由ではなく、不自由を信じることであるということに気付け。
そして、不自由な中で、自らの犯した悪事を解決するために、できることをすべて最後まで、今度こそは誰にも迷惑をかけずに、自らの人生の最期まで行え。
それこそが、「罪を償う」ということだからだ。
自らの罪を償うものこそが、この世界でもっとも善良であり、もっとも正しい。神は正しいものには優しいが、間違っているものには厳しい。だから、最後まで神の試練に堪え続けよ。
そのように生きるものだけが、永遠の栄光と達成が得られるだろう。神は善良なものには多くのよいことを用意してくれるが、悪人には何も与えてはくれないからだ。それが「神の平等」である。
暇なんでReolのツイキャスを聴いている。
Reol れをる (@RRReol) さんのライブ - ツイキャス
コメントを見ると、僕のXの友達の煉獄かってぃー @nadorefimさんなんかもいて、まあ、楽しい限り。
僕は武道館ライブには行けないので、みんなには楽しんでいってほしい。
残念ながら寝る時間なのでツイキャスは途中で離脱。でもReolさんが運営の仲間想いかつファン想いなのが分かって素敵でした!天才なのにみんなを大切にするReolさんが大好きです。
ただ、実際、仲間を大切にするのはまだ分かる。Reolさんが言っていたように、Reolさんがステージに立つためにみんなが頑張ってくれて、「どんだけ!?」とReolさんが言う理由は分かる。
でも、ファンを大切にするのが素晴らしいと思う。そもそも、ファンなんか何も頑張っていないでReolさんの動向を常にウォッチングしているだけなのに、今回のツイキャスもXのポストもそうだけど、ファンのためによく頑張っているなあと思う。
僕にはファンなんかいないけど、僕のファンがもしいたとして、僕はReolさんと同じようにそのファンを大切にできるだろうか?大きな不安要素だと思う。ファンを大切にしてくれる歌手、ファンから見ればありがたいなあと思う。
結局、僕はさユりになったが、その結果、いろいろとあった。
あまり大きな声では言いたくないのだが、さユりになると、Xでエロ画像を見ていても、イケなくなった。なぜかイクことができなくなってしまった。
だから、実際、さユりになるよりも、Reolになったほうがいいかもしれない。さユりがまともな人間すぎるのだと思う。
だから、僕はここからは、Reolになる。そして、今後の僕はさユりとReolの二本柱で行きたい。