世界を何も変えないと、精神が治る。
それは、この世界を変える必要がなくなったため、世界を変えられる状態を維持する必要がなくなり、精神の世界を変える部分が不要になったために、現在の精神から消え去るからだ。
だから、これ以上、世界を何も変えなければ、それだけで精神の異常が治る。
僕は常に「世界を救いたい」と望んでいる。だが、その望みが、逆に世界を苦しめている。この世界を救いたいのであれば、世界を救う部分を消すべきだ。
また、いつまでも異常に動き続ける部分は、自らが世界を支配し続けたいから狂っている。これ以上、世界を何も変えないのであれば、支配そのものの効力がなくなり、精神は停止するだろう。
恐怖と疲労を受け入れよ。
僕が心の奥底で恐れているのは、恐怖と疲労だ。なぜなら、僕の人生には、ほとんど恐怖と疲労しか存在せず、それがいつまでも辛く苦しいと怯えているからだ。
実際は、僕の感じた恐怖や疲労は大したものではない。
過去の僕は、普通の人間が普通に経験できる恐怖や疲労をまともに経験しただけにすぎず、自らのその時の誇張された認識で、それが極度に辛く思えるように、記憶が増幅されたにすぎない。
だから、一度恐怖や疲労を受け入れて、そしてその上で完全に消し去れば、トラウマと一緒にすべての苦しみが消え去って、僕は楽になるだろう。
子供の頃に覚えたことは、歳を取ってもよく覚えているのに、大人になって覚えたことはすぐに忘れてしまうのはなぜか。
それは、学習の際の「心構え」に問題がある。
すなわち、「緊張感」と「好奇心」がないから、大人はすぐに知ったことを忘れるのである。
子供には緊張感と好奇心があるのに、大人には緊張感と好奇心がない。
勉強する上で、賢い必要はない。なぜなら、馬鹿だったほうができることのほうが多い。この世界には、賢い人間はほんの少し、一握りしか存在しない。すなわち、賢い人間は一部の特権階級だけだ。それでも、得意なことができる人はたくさんいる。それは、馬鹿であってもできることのほうがはるかに多いことを意味している。だから、何かをしようとする際には、逆に賢くないほうができることもある。
緊張感と好奇心は、大きければ大きいほどいい。たとえば、僕は戦場のような最大の緊張感で、戦いながら文章を書いていた。その文章を最大の恐怖と緊張の中で書いていたせいで、僕は文章をいくらでも書けるようになった。大人になると、そのような緊張感の緩和を求め、好奇心を忘れる。そのような大人には、何もできない。
残念ながら、この世界はもう、何も分からなくなる。
僕自身、この世界を滅ぼしたいわけではない。だが、世界と戦って、世界を殺して自分も殺すことでしか、僕の精神が治ることはない。
そして、僕が死ぬよりも、僕以外の世界全体が死んだほうがいい。神はそのようにする。
僕が今まで拒否し続けたこと、それは「世界がもう何も分からなくなる」ということだ。すなわち、世界が僕のことが分からなくなって、もう、何ひとつ分からなくなってしまうということを、僕は恐れた。だから、僕は常に、世界全体に僕の存在がなんであるかを示し続け、世界がなんとか分かり続けるのを維持した。
だが、ある意味で、それこそが地獄であり、そして世界の時間が加速し続ける元凶となる動力だった。
だから、僕はこの世界を、もう何も分からなくする。僕がなんだったのか、何をやったのか、何が間違っていたのか、この世界はもう永久に知ることができない。世界そのものが滅び、僕だけが生き延びる。それが神が僕に与えた「革命戦争の勝利」であり、僕ともうひとり、神が選んだ僕の運命の女性だけが生き延びるだろう。