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2025-08-06

みんなが賢いだけ

結局、僕が馬鹿なのは、僕が馬鹿なのではなく、みんなが賢いからだと、そのように考えが至った。

昔と比べて、飛躍的に僕は馬鹿になった。昔はきちんと分かっていたのに、最近の僕は何も分からない。

だが、本当のことを言えば、昔の僕もそれはそれでかなりの馬鹿だった。

そもそも、この世界は学歴と金儲けの世界だ。人々は、たくさんの金を得るため、あるいはいい仕事に就くために、大学の学歴を欲する。そして、年齢が若いうちに大学に入るために、学校で勉強する。

僕はそのような人生を選ばなかった。だから、そのせいで、みんなは賢いのに、僕は馬鹿になってしまったのだ。

だから、結論として、僕の人生を見て僕が馬鹿だと考えるよりも、みんなの人生を見てみんなが賢いだけだと考えたほうがいい。それが、アリストテレスの本の著者の人生を見て、よく分かった。

やることがない

実際のところ、僕の人生には、もうやることがない。

あとは、むしろ、新しいことは何もなくていい。なぜなら、新しいことがないままに時間が過ぎたほうが、昔の僕が分かっていたような「道」が分かるからだ。

やることがないから、生きている意味もない。

あるいは、僕はこれ以上、自分自身、もう生きられないということがよく分かる。普通にこのまま何かで死ぬ時に死にたい。その時まで、生きられる間は生きようと思う。

もう僕の年齢から言って、これ以上新しいことはできないかもしれない。だが、今までの僕の人生は楽しかったから、後悔は何もない。普通に、何かで死ぬ時までは生きようと思う。

みんなとは違う生き方をするのが得意

僕のことを簡単に自己紹介すると、僕はみんなとは違う人生を生きるのが得意な人間だ。

特に、この世界の現代の科学ではなく、自分独自のみんなと違う科学を作るのが得意だ。

だが、そのようなみんなと違う生き方は、もう限界になった。これ以上、みんなと違う生き方によって、賢い生き方をすることができなくなった。

だから、僕はそろそろ社会復帰をしたほうがいい。

僕の青春時代は昔のインターネットだった。そして、昔のインターネットはもうなくなった。今のインターネットは昔と違う。今のインターネットには僕はついていけない。僕は友達がいないから、友達とコミュニケーションをするサービスはどうも使いこなせない。そして僕は、(昔の)インターネットの世界しか分からないせいで、リアルな現実世界が分からなくなった。

それが僕の、大人としてまともに生きられない原因だ。

だから、もう、インターネットはやめて、現実世界のことをもっと知りたい。現実世界には金儲けが多い。だから、もっとお金のことについて詳しくなりたい。

インターネットなんかしないほうがいい。インターネットをすると、昔の僕みたいな馬鹿な人間になる。インターネットから離れて、現実世界で生きたほうがいい。そうしないと、後で必ず後悔する。

環境

なんと、僕は今、高校生だった頃の自分が分かっていたことが分かった。

その本質とは、「環境」である。

まず、学校以外の環境を体験せよ。学校という環境は特殊な環境であり、それ以外にも環境はあるということを知れ。

覚えこんで分かるのではなく、体験的に分かろうとせよ。

歴史や文明について、学校の教える文献的歴史を知るだけでなく、現実に存在する、刻々と変わる環境の歴史を、人生における文明創造の具体的な体験と意識を知ることで分かろうとせよ。

心や意識や動機付けから、環境そのものをどのように作るのかということを、社会的秩序を客観視することから分かろうとせよ。

地域の歴史を分かろうとせよ。自らの地域について、その環境が時間とともにどのように変わっていくのかを知り、地域という場所が地球のこの場所に確かに存在しているという、「存在の確かさ」から分かろうとせよ。

ダイナミックに刻々と変わっていく世界において、インターネットの環境が、それぞれの場所で独立して変化していくことから、環境の変化の可能性を知り、そこから文明の生起を知れ。

環境を想定せよ。どのような環境において、どのような客体的態度を取ることが、環境そのものをどのように変えていくかを知ろうとせよ。

世界の代替可能性を考えよ。世界そのものがどのように環境として生起するのかを考えよ。今のこの世界が必然的な世界というわけではなく、民衆が今の世界を選んだわけでもない。過去の世界が今見て間違っているように、今の世界は未来から見て間違っている。今は今にすぎない。ダイナミックな社会の変化の中で、今は今でしかないことを実感せよ。

人生において、さまざまなことを「現象」と「プロセス」から考えよ。さまざまなことは、いつでも常に起きている現象であり、同時に、ひとつのプロセスにおける結果にすぎない。その現象と結果の因果性の原因を考えよ。何がそれを決める決定的なファクターなのかを考え、そのファクターをもっとも大きな影響力で起こせるようになれ。

世界を自由かつ平等にするために、社会活動をせよ。現実の社会ではできないのであれば、インターネットの仮想世界で行えばいい。インターネットを変えるとともに、世界を救うために必要なことは、誰か特定の集団が正しく、その敵が間違っている、と考えるのではなく、全員がそれぞれ正しいが、全員が持つそれぞれの正しさはそれぞれの個人個人の定義によって異なるのだと考え、その上で真に世界を救い得る信念とはなんであるかを考えよ。

世界を愛しなさい。世界を愛するということは、環境を愛するということだ。環境を守り、子供たちを守り、国を守り、祖先の道徳と社会の倫理を守りなさい。あらゆるすべてが終わった時、あなたはそのような状態に戻るであろう。

自由

さらに言えば、僕は「自由」ということを分かっていた。

自由とは何か。自由とは、許されている自由に気付くということであり、集団化を否定することだ。

集団化においては、個性は没してしまう。みんなの意見を通すために、ひとりひとりの感情が犠牲になる。そのような集団化を否定し、個人の自由を選べ。

自由とは価値観の尊重と、多様性である。それぞれの自由意志を尊重するということであり、誰かがその自由を制限するのではなく、自由にした上で、自らの実体験から学び、成功と失敗を経験して、自らの自由な未来を開拓すること、道を作っていくことである。

自由において、なぜいじめのような問題が起きるのか、それは「正しい自由の行使の方法」を知らないからだ。そして、そのような方法は、経験から学ばなければ知ることができない。正しい自由の行使を知らないから、間違ったいじめのような社会を作ってしまう。だが、経験から十分に成熟すれば、正しい自由の行使の方法を知ることができる。

人間は本能的に自由を望む。あるいは、自ら自身が望んだ自分自身であることを望む。だが、現実はそうではない。すなわち、常に自分自身が自らの望んだ自分自身でないことが通常である。だが、その自分自身を受け入れた上で、積極的に行動し、能動的に世界を変えようとすれば、自らの望む自分自身に近づくことができる。

そのために必要なことは、心を開く経験をすることだ。インターネットのような場所でもいいから、自らがいじめられるような原因がなんであったのかを自ら気付くことができるような経験をし、かつての敵を許して自分自身も同時に許した上で、自由を尊重しながら、心を開く経験をせよ。

自由は拡大していく。チャンスと手段によって世界は変えられる。個人を変える自由が、人間関係を反省する自由となり、正しい人間関係を作ることができた上で、地域そのものを変えられるようになり、地域の環境を自由に変えることで、「善」を為し遂げることを目指す。それが倫理的な社会の「自由な社会」を成立させ、会社のような世界の組織に「参加」し、「経験を成り立たせる」ということを知る。そして、その上で、世界すべてを変えられるようになり、世界そのものを変えることも自由であると気付く。そして、啓蒙主義的な自己啓発を知り、最終的に、歴史や文明、あるいは地球という星すら、自由に変えられるのだという結論に至る。

そのような中で、愛を忘れるな。そして、自由な社会において、どのような自由な社会が正しい人倫の国になるかを知れ。そこにあるのは、「すべてができるようになってなお、何もしないことも何かをすることも同じであり、自らの自力ではなく、世界の人々の他力によって世界は変わる」と信じることだ。すなわち、自らがするのと他人がするのは同じであり、ひとりで行うのではなく、みんながそれぞれが能動的に行うように、環境の変化の自由を促して、導くこと、受動感情に外部から働きかけることこそが、世界をもっとも変え得るのだと知れ。

そして最後に、可能性を制限せず、自由な想像力によって、環境そのものがどうなっていくか、どのような環境からどのような環境が生まれるのかを知れ。それを決してひとりの支配者が制限せず、教師や指導者は人々を支配するのではなく、制限のない可能性でそれぞれが自由に世界を変えることを促し、可能性を与えるように世界を導くべきであると知れ。

世界を知りつくせ

世界を知りつくせ。視野を広げて、時間の流れと経過を知れ。

それが絶対に正しいものだと信じるな。正しさとはある程度正しいだけにすぎない。速断するな。間違った可能性を常に信じ続けよ。

しかしながら、疑い続けることはよい結果をもたらさない。すべてを疑う人間は、正しいことが正しいことを見落としてしまう。

必要なことは何か。必要なことは、すべてを経験し終えた上で、繰り返し学習と開拓を続けた中で、その後に残った結果だけを信じることである。

環境の変化の可能性を知る上で、信じる気持ちを忘れるな。心を信じよ。可能性を信じよ。自由を信じよ。差別のない平等と、集団化のない個性を信じよ。

そのように、すべてを経験する上で必要なのは「信じる」という感情だ。信じるという感情は、同時に、「先入観をなくす」とか、「思い込みをなくす」ということを意味する。だが、科学を信じすぎるな。今現在の人間の持つ科学は、最近の何世紀かに作り上げられたものにすぎない。その前にはなかったし、その後には変わってしまう。だから、そのような科学的知識ではなく、自らが思弁的理性を使って理解したことを信じよ。そして、知識に基づいて信じるのではなく、行動に基づいて信じるようにせよ。

何が何を与え、それがさらに何を与えるのか、あるいは、何が何から与えられ、それがさらに何から与えられるのかを考える上で、本質的な因果関係にあるもの、すなわち原理や法則が何かを考えよ。それこそが、神の与える真理であり、すなわち「現象学」だからである。

必要なのは、現象を信じるよりも、その裏側にある「論理」を信じることだ。論理とは、何かが何かをもたらすことを証明することだ。その環境がその環境を生み出すことを証明せよ。それこそが、この世界のあらゆるすべての環境が、どのような根源となる「メタ世界」から生まれるのかということであり、そこにある「メタ世界モデル」がなんであるか、ということである。

最後に、すべてを分かり終えた人間は、発想法と世界モデルに基づいて、さまざまな世界を作りなさい。そこにあるのは「構造の構築」である。あらゆるすべてを言葉を使って作り出し、書きなさい。それこそが、僕の成し遂げた「自由な世界の創造」である。

そして、本当の最後に、実証と説明を繰り返しなさい。あらゆる実証から、あらゆるすべてを説明しなさい。そうすれば、あなたは宇宙そのものをまるごと理解できる。認識と対象が一致し、認識によって対象を吸収できるようになる。それこそが「宇宙の意識と合一になる」という体験であり、それがあったから、僕は「神との対話」を行うことができたのである。