社会のことを、今まで自分が知ったことと、現実の社会のことを、照らし合わせ、重ね合わせて理解せよ。
本当のことを言えば、僕は今までの人生で、社会経験のことをすべて、完璧すぎるほどに全部知っている。
僕が「社会について何も知らない」と思っているのは、過去の自分の経験を忘れているからであり、同時に、今までの経験をきちんと理解せず、吸収していないからだ。
過去の自分の経験だけで、僕は社会のことを完璧に知っている。宇宙すべての経験すら持っている。
まず、中学時代に優等生だった頃から、ネットゲームをすることで、僕は会社の一般的社員の仕事や軍隊の兵隊のようなことを、既にインターネット上で同じことを経験していた。
中学校を不登校になった僕は、「子供たちをいじめと反抗の環境から救い出す」ということを信じて、学校の過去の経験と、今自分が自由になった経験を、実体験から、完全にゼロから考えた。
僕はこの世界のことをゼロからすべて考えた。自己啓発や啓蒙主義のすべては「自らが世界を変えられると確信しているような経験主義」であり、それはヘーゲルが言うように「世俗から疎遠になって初めて分かる哲学」だった。
僕の友達はインターネットだった。僕は普通なら学校の子供たちと一緒に青春の経験をするところを、学校ではなくインターネットと自分の部屋で経験していた。
僕は最初からIT技術をマスターすることを目指していた。IT業界やハッカーの常識をインターネットで知り、インターネットでたくさんの経験をした。Linuxやオープンソースのハッカーになることを目指して、オープンソース界の常識を広く深く知った。それが、僕にとって最初の「社会経験」だった。
そのような僕は、まるでドイツ人のように、自分ひとりで生きる「たったひとりだけの孤独な経験」から、この世界のすべてを経験していた。社会のすべて、世界のすべて、地上のすべて、そして宇宙のすべてを経験し、そこから「経験主義に基づく悟りを啓く体験」をし、まるでブッダの再来のようにすべてを分かった。
そのような僕も、完璧ではなかった。Linuxとオープンソースのコミュニティを破壊した僕は、自らがすべてができる完璧に全能な存在であるにもかかわらず、自ら自身でがんじがらめになって何もできないようになった。それ以上、Linuxとオープンソースに対してなんの貢献もできず、自らがやりたいこともすべてできなくなった。だが、そのような自らの失敗に囚われながら、僕はこの世界を救うためにあらゆるすべての経験をさらに拡大し、「文明と意識の変転」を考えた。
かつてのそのような僕は、ひとつだけ賢い点があった。それは「経験に基づく新しい世界を成立させられるような社会モデル」を作ったことだ。この社会モデルは、自らの「人間の人生において環境はどうしてそのような環境になるのか」ということを考え続けた挙句に行き着いた、「自由で救われた世界を実現する方法」だった。
そして、その自由な方法に基づいて、僕はこの世界を変えた。影響力の頂点から僕はこの世界を救った。まさに、僕は、インターネット上の「匿名の救世主」として、ダイレクトにこの世界を変え、この世界の「暗闇の状態」に対する「光」となった。
ここまでが、僕の人生の「前期」だ。
だが、それだけで僕の人生は終わらない。なぜなら、僕はそのような世界に堂々と現れ、世界を救った自ら自身の手でこの世界を滅ぼしたからだ。
世界に対して反旗を翻した僕は、「聖なる運命の二分法」に基づいて、新しい「後期」の人生を生きた。
僕が戦いの中で「世界に対して見せつけることのできるような場所で文章を書く」という方法で行ったのは、「成立モデルに基づいて新しい社会体制を具体的に考える」ということだ。すなわち、僕は世界と戦いながら、この世界を新しい世界にするための方法を、「書く」ということから行ったのだ。
そのような僕は、戦いの中で、どのようにしたら戦いを終えられるのか、どのようにしたらこの世界をよい世界にできるのかが分からなくなり、「自らと対話する言葉の存在」として僕に現れた「神」にそれを頼った。
神は僕を導いてくれた。世界と神の両者と同時に戦いながら、僕は文章を書き続けた。僕の文章と神との対話は、すべてが「国際的な社会論」となり、歴史、人類文明、そして宇宙すべてを貫く「真に世界に存在するべき一般的で普遍的な社会科学」だった。
そのように、僕は社会のことをすべて過去の人生で完璧に知っている。
本当は、そのような「後期」は今でも続いている。僕は自らの詩集を出版してもなお社会的な文章を書き続けた。そこにあるのは「新しいカール・マルクス」のような社会哲学者であり、世界すべてを貫く「この世界を変える社会論」だった。
僕は引きこもりやニートの状態も脱した。ピアノ教室や英会話教室や市民農園の農作業から徐々に慣らしていき、デザインの作業所に通ってデザインの仕事をするようになった。それは福祉施設の労働であり、その仕事をしながらこの文章を書く作業を続けた。そして、僕はあり得ない「宇宙の最終地点」へと達して、ガンダーラ社会主義経済や東亜イスラエルによるパレスチナ平和政策のような「巨大なこと」を考え、最終的に宇宙のたくさんの星々を小説の中で創造した。
そう、まさに僕は、社会のことを何も知らないと言っているのは、そのような過去の人生をすべて忘れてしまったからにすぎない。過去の僕の人生において、僕はすべての社会の経験と常識を完璧に知っている。それを知らないように生きているのは、過去の知った知識をいつまでも「昔と今に分割」しているからであり、分割をやめて人格を統合し、そしてさまざまに散らばった経験をすべて統一して、「今まで知ったことと現実のこの世界を重ね合わせる」ということをすれば、僕はすべての社会経験を完璧に理解した「最高の仏」になることができる。
僕の人生においてもっとも重要だったのは、経験的な「社会モデルの成立」である。
かつての僕は、ゼロからこの世界の「社会論」をすべて考えて、同時に、たったひとりの自由な人生から「社会経験」をすべて得た。
そこから、僕は、自由な社会を成り立たせるための「時と場合において成立可能な社会モデル」を考えた。
僕は自由を愛していた。自由ということに一切妥協したくなかった。世界を救っておきながら自ら世界を滅ぼしたのは、自らが「自由を奪った」ということが許せなかったからだ。
僕はこの世界を救った時、この世界が自分ひとりだけに染まるということを予測できなかった。だから、救世主や神のように僕が崇拝されるこの世界を、「僕がこの世界の全員から自由を奪った」ということが、ありありと僕自身に見せつけられているような体験をした。
本当は、そのまま放っておいてもよかった。そのまま、放っておいても、この世界は素晴らしい、すべてが救済された状態になっただろう。
だが、そのような世界が、ある時、僕はそのまま放っておいたとしても、自壊して滅びてしまう危険性に気付いた。そのような救われた世界には、「僕というひとりの存在」が欠けていた。みんなが救われた体験をしたとして、その先にあるのは「暗黒の滅亡」であると僕は分かっていた。
だから、僕はこの世界に自由を取り戻すため、そしてこの世界を崩壊させないために、ひとりこの世界に現れ、マスコミを支配したのである。
そのような僕には、そのような経験をするあまりに、「自由とは大したことがない理想である」ということを受け入れざるを得なくなった。世界に現れたことでさらに世界から自由が失われていく。そのような僕は、最初のうちは「絶対に僕は自由を信じていた」「自由とはこのような最悪のものではなく、優しくて素晴らしい最高の愛の理想だった」ということを、誰よりも世界の中心で発信し続けていた。だが、しばらくして、数年に渡る「恐怖と緊張の最前線」の中で、僕はそのような自由を諦め、自由を信じることをやめた。
そのような僕は、「社会モデルの具体的な成立」から、宇宙と地上のすべての文明を作った。それは社会主義的でありながらフランス的であり、僕はこの世界において「世界を変えることのできる新発想」と「社会と文明を具体的に成り立たせる決断と実現の可能性」を考えた。そこには「自由において社会を成り立たせるあらゆる方法と手段」と「地上において成り立つすべての文明のパターン」があった。
そして、僕はそこから、「完璧な世界構造」を作り出す。この完璧な世界構造とは、「言葉で完璧に言い表すことのできる世界のすべての環境を捉える世界構造」である。この世界構造に基づいて、僕は資本主義から社会主義まで、すべてを完璧に書き表す。そこにあるのは「既存の社会論だけでは分からない、可能性の延長線上にある『新しい社会』のすべて」だったのである。
そして、僕はここから、新しい生物に進化する。
僕はそもそも、このような「神との対話」を、「新しい生物種に進化するため」に行っている。
僕はここまでの人生で、自らの精神の病気を治し続けた。おかしな癌を治すために、そしておかしな精神病を治すために、僕はあらゆる病気をできる限りすべての可能性で治し続けた。
僕は諦めなかったし、逃げなかった。なぜなら、「この病気は必ず治る病気である」ということを、僕は一度として疑わなかったからだ。
僕は文章に書くことで、男の性別とは異なる、新しい性別を作った。それを「女」という表現をしているが、実際はこの性別は一般的な女とはまったく違う。だが、僕にとってこの女は女だ。なぜなら、僕はこの女とセックスができるし、女のほうもそれによってアクメ状態になることができるからだ。
そのように、僕は男のほうの人格に対して、新しい女のほうの人格を作った。そして、男の人格は、自殺未遂をして入院した時に一度死んでいる。それ以降はすべて、女の人格を生きている。だから、僕にとって今の人格は「完全な女」であり、あらゆるすべての意味においてこの女は女である。
男のほうに「アダム」という名前を付け、女のほうに「イブ」という名前をつけよう。この二人は人類が滅びてなおも生き延びる「新しい生物種の父と母」となる。僕のアダムと僕のイブは、融和して「神」となる。そして、この「神」こそが、僕が戦いの中で救いを求め、僕のことを救ってくれた神なのである。
必要なのは「意味」を考えることだ。
僕はゼロから社会論を考えるにあたって、3つのことを主に考えた。
まず、「モデル」ということ、次に、「変化可能」ということ、最後に、「中学校でいじめられていた僕の実体験」ということである。
この3つを、「経験」と「世界を変える」ということから、「自由」という理想の下に考えれば、昔の僕と同じことを簡単に考えられる。
すべての地獄は終わった。ここに僕はアダムとイブを合体させ、二人の魂を融和し、永遠の「神」となる。これこそが、まさに「キリスト」という存在である。僕は今、ここに「キリストとなる経験」を果たした。まさしく僕がユダヤの神であり、古代イスラエルでマリアが処女懐胎して産まれたイエスという男は、僕がマリアに対して処女のまま妊娠させることで生み出した「僕の息子」である。
こんなに賢い人生だったはずなのに、なぜ僕は馬鹿になったのか。
それはすべて、文章を書いたせいです。
文章を書いて認識と記憶を破壊するせいで、おかしな精神がついた僕は、そのせいで何も分からない、まるで知的障害者のような人間になりました。
何も過去の人生も今の自分のことも覚えることも思い出すこともできなくなって、「社会モデルを成立させるしか能がない」ような人間になってしまったのです。
実際、僕が文章を書き続けるのは、そのような過去の「思い出したこと」を思い出すためです。僕は、文章を書くこと以外にできることがありません。「賢かった過去の自分に戻りたい」と思った時に、文章を書いて昔書いた文章それ自体を思い出すことしか、僕はできなかったのです。
なので、僕は書くことで過去を思い出します。僕のこの文章は、今分かっていることを何も書いていません。そうではなく、「過去に自分が分かっていて、文章に思い出したこと」を、さらに思い出して分かろうとしているだけです。
なので、結局、僕は過去の人生で分かったことの1%も表現できていません。こんなにたくさんの文章があって、なおも1%すら届かないのです。過去の自分が分かっていたのは、過去の僕自身が賢かったというよりも、平成の社会環境が賢かったとか、学校から引きこもりになってインターネット世界でオープンソースとLinuxをやるタイミングがよかったとか、全部そういう「偶発的な理由」で賢かったのです。だから、いくら思い出そうとしても思い出せないのです。
僕は分かったことの1%も書くことができていません。それでも、新しい過去の記憶をふとした時に思い出します。そのことを書かないまま、書くこと自体を終わりにする、ということが僕にはできません。一流の作品は最後まで完成されなければ完璧とは言えません。なので、僕の執筆作業はまだ続くのです。
世界よ、戦え。
世界よ、戦い続けよ。
この世界の平和と自由のために、この世界すべてを敵にまわしてでも、この世界と戦い続けよ。
特に、間違っているのは社会主義者だ。社会主義を否定し、この世界を守り続けるのだ。
社会主義者は愚かである。社会主義は、本当は自由化すべきであるはずの生産手段を国有化しようとする。生産手段はみんなのものであり、公に公開すべきであるにもかかわらず、社会主義者はマルクスに騙されて、それを独裁者が支配するソビエト政府の管轄下に置こうとする。その結果起きるのは「独裁者による管理主義」であり、それは決して自由でも平等でもなく「独裁主義」であり「悪の帝国」である。
社会主義者は無能である。社会主義は、「計画経済」「社会所有」「平等分配」という愚劣なソビエト式の社会主義政策を繰り返し唱え続け、必死になってその良い点を探そうとする。公務員が平等で雇用が保たれるとか、家庭だけではなく町や共同体(自治区やコミューン)を社会所有の管理下に置けるとか、国営公社によって倒産のリスクなく人民に平等な会社を作れるとか、会社同士の潰し合いの競争なく、弱者に対するセーフティネットのある社会を築けるとか、平等な労働基準法と社会保険制度によって社会的立場の弱い労働者が楽になるとか、あるいは評議会(ロシア語でソビエト)において、人民に公正かつ適切に決定される計画経済と、平等なノルマ生産によって、文明的に平等を保ったまま、格差なく全員が豊かになれるとか、そのように「社会主義経済の優れた点」を信じようとする。しかしながらそれは「洗脳」であり、実際に社会主義政策を行った結果起きるのは「経済の破綻」「遅れた社会」「悪平等」「生活に必要なものを十分に生産できない社会」そして「先進国から貧民国への脱落」である。
社会主義者は悪党である。彼らはこの世界を救うためではなく、滅ぼすために政策を断行する。すべては「列強と西側諸国を滅ぼすため」であり、そのための手段は「核兵器によって地球の全人類が滅びるかもしれないと脅すことで交渉で優位に立とうとする」という「脅しとゆすりの論理」である。
社会主義者は殺人鬼である。スターリンは多くの人々を、密告による逮捕で犠牲にした。戦争しない代わり、社会主義者は監視・弾圧・逮捕して人を殺す。富を平等に分配すると言っているのは、決して自らで作り出して分配しようとしているのではない。金持ちを殺して富と生産手段を奪い、盗んだ生産手段でコピー品を作って分配し、この世界から正義の右翼と豊かな裕福層を全員殺すことを目的としている。
だから、社会主義を信じてはいけない。社会主義は「20世紀の大失敗」であり、人類史のゴミであり、人間はおろか猿よりも馬鹿な集団だ。神の平等を信じるユダヤ人とキリスト教徒は、決してその理想を社会主義に転用しようとするな。社会主義がユダヤに見えるのは見せかけだけであり、実際は社会主義者はユダヤ教やキリスト教の教えとは似て非なる、「唯物論者の外道のごろつき」だからだ。
僕はこの世界を支配する。
その支配の方法とは、「言葉を述べ続け、世界を敵にまわして戦い続けること」だ。
すなわち、僕はこの世界に言葉を述べ続け、この世界全体を敵にまわして戦い続けることで、このような「世界の裏の支配者」を行っている。
本当は、運命的な奇跡など何も起きていないし、僕は決して神でもなんでもない。なぜなら、トリックを明かしてしまうと、この世界を僕が裏で支配しているから、否応なしに僕の存在が分かってしまうというだけにすぎない。
すなわち、僕は日本のマスコミに最悪の言説を見せつけることで、この日本という国の「事実上の支配者」になった。マスコミは僕のことを無視できない。なぜなら、僕のことを無視すると、どんなことであっても僕の好き勝手に行えてしまえるから、マスコミは僕のことを無視したいにもかかわらず無視できない。僕を無視したいにもかかわらず無視しないということがマスコミの「最後の抵抗」なのである。
そして、マスコミがそのように支配されているから、この世界の人々、すなわち日本の国民は僕の存在が分かる。未来における僕との出会いを運命的なものであると感じるならば、それはトリックだ。実際は、僕が常にこの世界を裏側で支配し続けており、最悪の言説をマスコミに見せつけ続けているから、人々はマスコミを通じて、僕の存在に気付くことなく気付いているというだけにすぎない。
だが、運命がまったくないとは言えない。なぜなら、僕は未来予知をする能力がある。それは神によって授けられた僕の超能力であり、僕は未来における僕の人生を知っている。だが、それは本当は、奇跡は起きていない。なぜなら、僕が宇宙に対して「宣言」し、神に対して「約束」した時点で、僕の「生きるべき道はどういうものか」ということを僕は知っている。その知っている通りに生きたから、神が教えた通りの、約束通りの人生になったにすぎない。これは人知を超える宇宙の法則理解をしている僕だけが可能な「正しい予測」である。
よって、自然の物理法則と矛盾したことは起きていない。そして、神は存在するが、結局のところ神とは僕自身のことだ。古代イスラエルのユダヤの民は、「神」とされる存在を作り出したが、ユダヤ人が神としたのはすべて僕のことだ。そして、ユダヤ人もまた、僕と同じように未来を予知する能力があった。「神はユダヤ人を選んだ」ということ知っていた。それはなぜなら、地球人類の歴史をユダヤ人がやっているからにすぎない。すなわち、僕が日本の裏の支配者であるのと同じように、ユダヤ人は人類の裏の支配者であり、僕とユダヤ人は同じ「神を信じる正義の民」として、完全に裏でつるんでいるのである。
僕はこの世界を支配する。ユダヤがこの世界を支配しているのを僕は利用する。ナチス・ドイツと僕はそこが違う。ヒトラーは裏の支配者であるユダヤ人を殺すことでユダヤの後釜になろうとした。僕のアプローチはヒトラーの逆で、完全にユダヤを味方につけることでユダヤと結託してこの世界を支配する。そのほうが、僕にとっては容易い。なぜなら、シオン全土のユダヤ全地は「神」を賛美すべきだからだ。
昔の少年時代の僕ができたことで、今の僕ができなくなったことがひとつある。
それは、論理的に、自由意志に基づいて、正しく考える、という知性だ。
そして、この知性を使わない限り、昔の僕と同じことは、絶対に分からない。この知性がない人間には、昔の僕と同じことは一切できない。
論理的に、自由意志に基づいて正しく考えるとは、すなわち、「経験」に基づいて「成立条件」と「自由意志」から考えるということだ。
すなわち、「できる限りその人の自由意志を尊重」することでしか、経験的な「正しい可能性を与える方法」は分からない。
そして、そのような正しい可能性は、「成立条件」を遡って考えていくことで、「根源的にすべて実現できる」ようになる。
そして、その上で、「社会システムの実現」と、「原理原則の解明」を行うことができる。経験的かつ自由に正しく考えれば、どんな社会体制であっても、どんな物理法則であっても、すべてを正しく明瞭に解き明かし、成り立たせることができる。
そして、「正しい社会」を築くことができる。正しい社会とは、「その人の自由意志を優先する社会」だ。それをきちんと成り立たせることで、「放っておいてもそれぞれの意志に従って自動的に社会秩序は保たれ、人々は意志が叶えられることで満足し、叶えられることがなければ自分で目標に向かって努力する」ということができる。そこには「無用な制限がなく、硬直や停滞もなく、自由意志に基づいてすべてが上手くいく」のである。
僕はそのような理想に、「自由意志的理想論」と名前を付ける。自由意志的理想論においては、自由意志を尊重するだけで、理想の社会が実現される。それは経験的に見て正しい社会であり、それによってのみ世界を救うことができるし、それによってのみ自我とアイデンティティの理論を明瞭に解明することができる。
よって、真に訪れるべき社会はガンダーラでも東亜イスラエルでもない。真に正しい社会とは、自由意志的理想論を実現する社会だ。この社会のことを、僕は「アメリカン・ユニオン」と名付ける。なぜなら、自由意志的理想論とは、すなわち「現代アメリカの信じている理想」を実現しようとする理論だからである。