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2023-11-22

大人になる

実際のところ、問題はそんなに簡単で単純ではない。

すなわち、子供のままだから起きている病気は、大人にならないと治らない。

しかしながら、大人になったせいで起きている病気は、子供に戻らないと治らない。

僕の場合、大人になったせいで、子供に戻れないから起きている病気もあるが、そうではなく、子供のまま、大人にならなかったせいで起きている病気もある。

そして、僕の場合、ほとんどが「子供のまま変わらない生き方をしている」せいで起きている。

だから、姦淫をせず、童貞や処女に戻るということも必要だが、子供のままの生き方をせず、大人になる、ということも必要である。

今から、僕は子供のままであることをやめて大人になる。そして、それが一番多くのことができる。

そして、誰よりも大人すぎるのをもうやめたほうがいい。大人すぎるのは馬鹿すぎるだけだ。だから、大人すぎる人間をやめて、普通の人間になる。

大実験の大計画を起こす

ここで、僕は、大実験の大計画を起こす。

これを起こす方法は、それ自体を「どうでもいいこと」であるとすることである。

重要で大切なことであれば、きちんと起こさなければならない。だから、有象無象のすべての現象が終わった後で、最後に起きる。

だが、どうでもいいことであれば、それはいつ起きても構わない。だから、今すぐにそれは起きて、そしてすぐに忘れ去られる。

僕の問題は、精神的な大変化を起こすことで世界を変えることを、あまりに「重要で大切なこと」であると思い続けているところにある。

はっきり言って、そんなことはどうでもいいことだ。そう考えると、AliAが「animation」で言うように、「きっかけひとつあればゲームセット」という状況を起こすことができる。だが、それは本当に、どうでもいいことだ。

なぜどうでもいいことなのか、それは起きてしまえば分かる。起きるまでは重要なことだと思っていても、起きてしまえばどうでもいいことにしか見えなくなる。逆に、「今していること」をし続けるためには、そのようなどうでもいいことであっても継続することがもっとも大切だ。だから、そのようなことが重要だと考えるならば、今していることをすべてやり終えた上で、最後にそれは起きる。そうでなければ、今していることを続けることができない。そして、多くの場合、そのような「今していること」のほうがはるかに大切で重要だ。

子供すぎる部分と大人すぎる部分が悪い

簡単に言えば、「子供すぎる部分」と「大人すぎる部分」が悪い。

特に、「赤ん坊のように子供な部分」と、「老人のように大人な部分」は要らない。

そして、極端に楽すぎる部分と、極端に辛すぎる部分も要らない。

ブッダが言うように、快楽と苦行の極端すぎる両極端は要らない。それと同じで、子供と大人の極端すぎる両極端も要らない。

ピアノ

今日はデザインの仕事をした後でピアノに行ってきた。

今、ピアノでは、昔、大人になってピアノ教室に行く前に弾いていた、子供時代に覚えたベートーヴェンの「エリーゼのために」を、もっときちんとした演奏に直すということをやっている。

まず、テンポがおかしくなっている。

僕はエリーゼのためにを最初に弾いていた時、楽譜だけを頼りに、MIDIを聴きながら演奏していたため、ピアノの先生のような指導を受けず、自分なりの弾き方をしていた。

だから、テンポがめちゃくちゃになっている。弱く弾くべきところを強く弾き、ゆっくりと弾くべきところを速く弾き、その上で自分なりに独自のアレンジを加えてしまっていて、まるで「ベートーヴェンのエリーゼのためにのはずなのに全然エリーゼのためにじゃない」ような演奏になっている。

まずは、テンポと力加減を普通に戻して、自分なりに弾くのではなく正しい演奏ができるようになって、その上できちんとしたアレンジを加えていけばよくなると先生はおっしゃっていた。

それから、僕は何年も昔にこの曲を弾いて、それを覚えて弾いているために、直そうと思っても、今の自分がなんの音を弾いているか分かっていない。流れの中で学習した「自動的な弾き方」をしているせいで、それを手動に直して、いろいろと変化を加えて修正することが難しい。だから、直すのは難しいが、その代わり、「今自分の弾いている楽譜がどこなのか」を再び知ることができて、まるで最初からベートーヴェンのエリーゼのためにを覚え直すようなことができて、自分としては新鮮で気持ちいい。

それから、指使いもおかしい。昔の僕は、指使い番号をきちんとすることよりも、音を鍵盤で叩くことを優先していたから、めちゃくちゃな指使いで弾いている。これもきちんと直したほうがいい。

それから、僕は右手と左手をそれぞれの強さで弾くということを、未だかつてまだ頑張ったことがない。何度も先生に言われても、「右手を強くして左手を弱くする」と言われても、右手を強くすると左手も強くなってしまう。これも、今までピアノ教室と無関係に、自分なりに「単純な目標」で弾いていたせいであり、きちんと直したほうがいい。

それから、僕はこの曲を電子ピアノで弾いていたが、グランドピアノで弾くと指がもつれてしまう。電子ピアノだと完璧に弾けるのに、グランドピアノだと間違える。先生は、「電子ピアノだと少し弾いただけで音が出るけど、グランドピアノだと強く弾く必要があるから、それでおかしくなっている」とおっしゃっていた。だから、グランドピアノで弾くためにもう一度弾き方を新しくしなければならない。

そのようなことは言われたものの、「普通の部分は完璧に綺麗に弾けている」とも先生はおっしゃっていた。つまり、普通に弾くところはきちんと正しく弾けているが、自分なりに独自に弾いているところは間違った弾き方をしている。そもそも、エリーゼのためにはとても静かで穏やかな曲なのに、自分はまるでサーカスの舞台のように大げさに弾いている。それは全然ベートーヴェンのエリーゼのためにじゃない。だが、アレンジを加えるべきではないというわけではなく、アレンジはテンポをきちんとしてから加えればいいのであって、そのような先生の弾いてくださった「正しいアレンジ」はとても聴いていて心地のよいもので、僕がサーカスの舞台のように大げさに弾くのとはまったく違ったものだった。

そのように、今日はきちんとピアノを弾いた。

デザインの仕事は楽しい

最近何日かデザインの仕事を休んでしまったが、今、再びデザインの仕事をやるようになった。

悩んでいたのとは裏腹に、デザインの仕事は楽しい。

最近は通信の仕事をやりたくないという気持ちが強くなりすぎていたが、その気持ちからしばらく時間が経って、もう一度通信の仕事に取り組むと、とても楽しい仕事だということが分かった。

スタッフの方も、「通信の仕事がある時は生き生きとしている」ということを言っていた。

僕にとって、この文章を書くことが楽しいのと同じぐらい、デザインの通信の仕事は楽しい仕事であり、「自分には能力や才能がない」と悩むのではなく、「今のこの仕事をするのが楽しければそれでいい」と割り切ることができた。

それから、デザインの才能をつけるために必要なのは、子供に戻ることだということが分かったし、現に子供のように戻ることもできた。必要なのは「できないことに挑戦すること」であり、それは子供のような気持ちに戻れば今できるということが分かった。

だから、デザインの仕事も、ピアノ教室も、英会話教室も、そしてこのホームページの執筆もすべて楽しい。こんなに楽しいことがたくさんあって、辛いことや苦しいことは何もない。この人生は本当に幸せ者であり、僕の人生の選択は正解だったと思う。

IT企業になんか入らないほうがいい

はっきり言って、ITの大企業になんか入らないほうがいい。

なぜなら、1000人の従業員のひとりになるだけだからだ。

まったく現実を知らないから、嘘を言っているかもしれないが、マイクロソフトに入ったところで、たとえばActiveXのようなWindowsの基本コンポーネントの低レベルレイヤーを書かされて、それも詳しい事情や経緯を何も知らされずに「これを直せ」と言われてそれを直させられるだけだ。

IT業界の仕事はそういうものであり、工事現場や建設現場の作業員と何も変わらない。

あるいは、金になるからといって工場労働者になるのは、金と引き換えに大切なものを失っている。そのような人間は、THE BINARYのmidoが「呼吸する春たち」で言うように、「生きているようで死んだ生活を送る」「代わりはいくらでもいる」のように生きている。大人だけではなく、最近は子供にもそんな人間が多い。

アマチュアの作家・詩人をやりながら、小さな福祉施設でデザイナーをやっている今こそが、真に幸福に生きている状態だ。僕のやりたいことが全部自由自在にできている。僕には代わりはいない。小説家やアニメーターは数あれど、僕とまったく同じ作品を作るような小説家はどこにもいない。僕の作品は、本当は「パクりたいと意図せずできたものがパクリになってしまった」という作品が多いため、「完全にオリジナルです」とは主張できないかもしれないが、すべて僕が考えて僕が作り出してきた、かけがえのない作品たちばかりだ。だから、作品を作ることをやめずに、まるで奴隷のように生きているこの世界のほうを否定すればいい。

IT業界の仕事について注釈をつけておくと、上流工程を任されるようなベテランのチーフのようなエンジニアは、自分でシステムを設計して自分で考えられるが、実際にそれをコーディングする末端のエンジニアは、「やれ」と言われたことをやるだけだ(と僕は何も知らずに思い込んでいる)。また、たとえばDelphiの開発者でマイクロソフトに引き抜かれてC#やTypeScriptを作ったヘルスバーグのように、アーキテクトのような一流エンジニアになれば、マイクロソフトのような大企業でも、自分のやりたいことを存分にできる。だが、そのような一流エンジニアは、本当に指で数えられるぐらい少ない。ほとんどのエンジニアは末端のどうでもいい作業を任されて、言葉通り「1000人の従業員のひとりになるだけ」にしかならない。大企業の従業員なんか、奴隷と何も変わらない。

大企業の仕事には、デメリットだけではなくメリットもある。たとえば、分からないことは教えてくれるし、できないことは助けてくれる。「直せ」と言われたことがもし自分で直せなくても、直し方を上司や同僚に頼めば教えてくれる。できないのであればできるまで繰り返し教えてくれる。

だが、いつまでも甘えているわけにはいかない。教えても分からない、いつまで経ってもできない人間は、もっと悲惨な仕事に移される。問題行動をしたり、何週間も会社に来なかったとしたらクビになる。だから、できることはきちんとしなければならないし、どんなに無能で問題児であっても許されるわけではない。だが、資本主義の会社は意外と優しい。平社員ができないことができないのは、平社員の責任ではなく上司の責任だから、本当に業績が悪化してもその責任は上司あるいは社長が取ってくれる。だから、資本主義の会社は優しい。

社会主義のように、資本主義は平等ではない代わり、誰かの意見によって処罰されることは少ない。ひとりの独裁者が機嫌のいい時は許され、機嫌を損ねると処罰されるというような「人の支配」はなく、民主主義国家では「法の支配」が受けられる。だから、本当に会社で不当な扱いを受けているのであれば、法の訴えを起こすことすらできる。そのようなことを含めて、資本主義の会社はとても楽で、そして生きやすいのである。

僕が僕の作品をパクリであると言っているのは、東亜イスラエルの物語が手塚治虫の「火の鳥未来編」に似ているからだが、そんなに似すぎではないと僕は思っている。確かに、滅びた世界でコンピュータが支配していて、最終的に不死鳥が誕生するとか、ロボットが永遠に近く生きるとか、地球の歴史が繰り返すとか、さまざまな点が大まかに似通っているが、それらはよく考えるとどれも火の鳥の設定とは違うし、今見ると、むしろ僕の小説にはとても賢い点が多い。まるでアメリカ人が初めて新大陸アメリカを見つけた時のような「カルチャーショック」であふれている。

ほかにも、シリウスの女神フレイがヴァルキリープロファイルというゲームのラスボスに似ているとか(同じなのは女神であるという点だけで、最近は女神という設定をやめた)、あるいはドイツの大魔王ハネストラーがハーメルンのバイオリン弾きの大魔王であるケストラーと似ている(名前が似ていると悪いので変えた)といった点があるが、そんなに悪いパクリではないと思う。ただし、作品の細かいところにパクリ設定が多いのが欠点だ。そのようなパクリをやめたいなら、また新しい作品を作り続けるしかない。

僕はいつ死んでも怖くないが、死ぬ前にやるべきことはすべてし終えてから死ぬつもりだ。だから、まだまだ僕が生きていく意味はある。IT企業どころか、工場にも入らないほうがいいし、アニメーターにもならないほうがいい。僕の今の職場で経験したことから言って、それらの仕事はつまらない。金が入るからといって奴隷のように働くより、金が入らなくても自由に生きたほうがいい。そもそも、一般的な大人は、自分のために稼ぐのではなく、子供の教育費を貯めたり、土地やマイホームのローンを返すために働いている。そのような普通の人生は、何も楽しいことがなく、辛く苦しいことばかりだ。

まともな人間なんてものはいない

上で、子供すぎるのも悪く、また大人すぎるのも悪いと僕は書いた。

だが、それなら、子供すぎる部分を消して、大人すぎる部分を消せば、まともな人間になれるのだろうか。

否、実際は、なれない。

それはなぜなら、「まともな人間」などという人種は存在しないからだ。

僕がこれまで35年間生きてきて、「まともな人間」というのに僕は出会ったことがない。

学校の子供たちにも、中学や高校の同級生にも、インターネットの大人たちにも、現実の社会で出会った普通の大人たちにも、まともな人間というのはひとりもいなかった。

どこにも、やんちゃで馬鹿な人間、おとなしすぎて損ばかりしている人間、狂ったようにおかしな行動を繰り返す人間、何もしない代わり何もできない人間、そんな人間ばかり多かった。

そもそも、「まともな人間」には、子供っぽい側面と大人っぽい側面が誰でも存在するものであり、言ってしまえば、子供すぎる側面や大人すぎる側面は、その人間の大切な個性であり、その人間のすべてはその個性によって成り立っている。

だから、むしろそのような個性を奪って、人間を「まともな人間」という成立不可能な人間に矯正して近づける行為こそが「狂った行為」であると言える。

なので、まともな人間になどなろうとしないほうがいい。まともな人間を目指すという生き方が一番馬鹿な人間になる。叫びたいなら叫べばいいし、逃げたいなら逃げればいいし、暴れたいなら暴れればいいし、壊したいなら壊せばいい。それがあなたの目指す正しい道なら、それを「間違っている」と言う権利は誰にもないからである。

法律学の本

「はじめての法律学」の本について、第一章の刑法の基礎までを読んだ。

犯罪を犯すということはどういうことなのか、どのような時に処罰され、どのような時には処罰されないということが決まっているのか、ということが分かった。

刑法は日本の重要な法律である六法のひとつで、民法と並び立つ重要な法律だ。

僕は昔から、本を途中まで読んで読まなくなる癖がある。それは、最後まで読まなくても途中までで満足してしまうからであり、途中までを読んで分かることが分かっただけで分かった気になってしまうからだ。だが、今回は、この本を最後まできちんと読みたい。

次は刑事訴訟法だが、その後に民法(不法行為法、契約法、家族法)、そして憲法へと続いていく。最後まで読めば、日本の法律の基礎がきちんと分かる。そうすれば、法律家が分かっている法律の基礎が分かるし、あとのことは知らなくても、法治国家である日本で、きちんと生きられるほどの基本的な教養が得られる。僕はその教養を今、誰よりも欲しがっている。